2. 道しるべを探してるんだよ
本日のリッキー教セミナー参加者……じゃない、探し物のご依頼人は、地味色スーツを着込んだいかにも真面目そうな男性。
茶々さんが、来たなと薄く笑った。
「困っているようだったからな、話を聞いたら貴様らの客だと思ったのさ。私の職場の同僚だ、頼むぞ」
「ど、同僚だなんて滅相もありません、安香様」
男性は四角い銀ぶちのめがねを神経質に直してる。
「顔つなぎは済んだ、私は戻る。後はまかせるぞ、律季、大牙――マイ・スウィート」
最後尾はやっぱり、莉子のことでしょうか? マイ、って。マイって……きゃああ、去り際に投げキッスされてしまった。
依頼人さんはぺこぺこ頭を下げながらソファに腰を下ろす。腰椎を軟着陸させるような座り方。立ちっぱなしのお仕事か何かで腰痛なのでしょうか、かわいそうな椎間板さん。
メイドとしてはお茶の一杯でも、と思ったものの。
「大牙さん、大牙さん。キッチンに牛乳とバナナしかないんですがっ」
「あるだろ、冷蔵庫とかレンジとか」
話になりません。せめてお水を、と思ったものの。
「グラスが見当たらないのですがっ」
「あるだろ、洗ってないのが。そういや腹減った」
と、依頼人さんの前でバナナをむきだす大牙さん。珍妙な目で見られてるけど、どこ吹く風で平然と食べ続けてる。強い。
あ、四字熟語思いついた……傍若無人。
三十代半ばくらいの男性は、ソファの中でもぞもぞと身体の角度を変えた。大牙さんの動物的行動を視界に入れるまいとしてるみたい。しっかりリッキーさんの方を向いて。
「紛失しましたのは、その、婚約指輪でして」
切羽詰った話が始まった。
この依頼人さん、堅い性格のせいか女性とはあまりご縁がなく、今まで独身で過ごしてきたとか。ところが半年前に紹介された女性と真剣交際が始まり、結婚を考え始めたそう。そして大枚はたいて婚約指輪をお買い上げ。
しかし悲劇が起きたのは、プロポーズの機会を待っていた一週間前。なんと彼女が若い男性の手を引いて部屋に連れ込むのを大目撃。衝撃と怒りに突き動かされて、依頼人さんは指輪を湘南の海へ投げてしまいました。
わー、青春! やっぱりその時は、バッキャローあばよーとか叫んでみちゃったりしたんですか!
と思わず乗り出そうとしたところ、膝にバナナの皮が飛んできた。大牙さんがにらんでる。はい、黙ればよろしいのですね。
「が、すぐにその若い男が、上京してきた彼女の弟と判明しまして」
「アホか……」
と吐き捨てる、冷たいお猿さん一匹。
依頼人さんはガバッと頭を下げて、必死な様相でリッキーさんへにじり寄った。
「お願いします、指輪を探してください。あさってが彼女の誕生日なんです。誕生日にプロポーズしたいんです、お願いします」
「あさって? ちっ、俺たちにも学校とか都合あるんだぜ。知ってんだろ」
変わらず冷たいお猿さん。
「す、すみません……」
しゅんとうなだれた依頼人さん、続いて肺を空っぽにするつもりみたいな深い深いため息をついた。
「情けないです。こんなんじゃ、彼女を幸せにできませんね。こんな嫉妬深くて、浅はかな男じゃ。振られて当たり前ですよ」
ほらー、大牙さんがイジめるからー。依頼人さんは眉間を押さえて苦悩しだした。
「だけど、彼女を幸せにするのは私でありたいんです。指輪が見つからないのは天のお告げなんでしょうか、私じゃいけないんでしょうか」
「そういうことは、その女に聞けよ」
どこまでも冷たいお猿さん。依頼を受けて稼がなきゃいけないのにこの人、家賃滞納してる自覚あるんでしょうか。
リッキーさんが、しょんぼりしおれてしまった依頼人さんの肩を叩いてなだめてる。
「今から探しに行きます。指輪を投げてしまった、およその場所を教えてください。ね?」
「……はい!」
迷える子羊に向けられたリッキーさんの目は、慈愛と温情に満ちあふれていた。後光が輝いてるかのよう。優しいまなざしで頷かれて、依頼人さんはもう、リッキーさんの手に接吻しそうな勢い。
そんなことしたら、大牙さんに蹴り殺されるだろうけど。
約二十度ほど首を傾け、大天使リッキーはにっこりと無邪気な笑みを見せた。
「大丈夫。この僕が、愛で見つけてみせましょう!」
「……はい?」
だから、アヤしいんですってばー。
夏は海水浴客で大賑わいなこの海岸も、春先の日暮れとなれば、ワンちゃんを散歩させてる地元民くらいしか見当たらない。砂浜を抜ける風は冷たくて、大牙さんは一分おきに寒いを繰り返してる。
一方のリッキーさんは髪が風になぶられるのも気に留めてないような熱心さで、波打ち際に沿って歩き続けていた。時折、目をすがめて沖のほうを眺めやったりして。波動を受ける感覚を研ぎ澄ませてるのかな。
その度に大牙さんが足を止め、じっとリッキーさんの次の動作を待ち受けてるのが……なんかどうしようもなく、愛。ぶつくさ言いながらも、しっかりついてきて見守ってるんだもん。
自分が、海辺をそぞろ歩く恋人同士の邪魔をしてるようにしか思えません。めそ。
「指輪なんて買い直せば済む話だろうが。他人使って探そうだなんて、みみっちいんだよ」
寒そうに肩を揺すりながら、大牙さんは砂を蹴る。
「買い直すって言っても、お給料三か月分ですよ」
「相手の一生を買う仮契約書なんだ、たとえ三年分だろうが安いもんだろうが」
なるほど、そんな気もしてきました。
「……ねえ、大牙」
それまで無口だったリッキーさん。沈みかけた太陽を背負ってゆるりと微笑んでいるさまは、何だかはかなげでハッとした。逆光に融けて、そのまま消えてしまいそうに見えたから。
「あの人が探してるのは指輪じゃないの。真実の愛なの」
「…………」
「どんな風に愛すればいいだろうって、その道しるべを探してるんだよ。彼はきっと、指輪と一緒にその道しるべを見失っちゃったの。だから必死に指輪を探してんの」
愛、だなんて。気恥ずかしくてちょっと言えないような言葉を、リッキーさんは照れることなく口にする。それが浮かずに心へすとんと落ちてくるのは、リッキーさんがまっすぐに思ってることを、まっすぐに伝えようとするからなのでしょう。
それが分かっているから大牙さんは、静かにかすかに頷くのでしょう……万感の想いを込めたような、切なげな瞳で。
うわあ、その瞳を向けていただけるなら、莉子はバイト代三年分を大牙さんに捧げますのに!
「ふふっ、見つけてあげる気になってくれた?」
「んあ」
一銭も払わずともチャンピオン・リッキー、切なげ視線独り占め。対します挑戦者莉子……きれいさっぱり一瞥もくれてもらえず。
信じたくありませんが、先輩方の世界から存在を弾き出されてるっぽい。
背伸びして、お二人の視線のあいだに割り込んでみようかしらん。でもそんなことしたら、大牙さんのにらみで一瞬にして遺灰にされそう。
「じゃ、行くよ」
突然リッキーさんが靴を脱ぎ捨てた。くるりと背を向け、ざぶざぶ海へ。
「きゃーっ、リッキーさん?」
続いてドサ、と重い音。振り返ると、スポーツバッグが砂浜に。その上へ、さっきまでそれを担いでいた大牙さんの靴とジャケットがぽいぽい放られて。
「わーっ、大牙さん!」
リッキーさんを追って、大牙さんまで海に分け入ってしまいました。海水浴にはまだ早すぎる四月、それも風の強い夕方、歩いてるだけでもひやりとするのに。
先輩方の足取りは迷いやしない。
「あーくそっ」
腿まで波に浸かって大牙さんは天へ吠えたけど、それだけ。さっきまで繰り返してた、寒いって単語は出てこない。波間に腕も勢い良く突っ込んで、足元を探りだす。
「ふふっ、ダイヤの潮干狩りだね」
「味噌汁にしても食えないけどな」
のんきにそんな会話してるけど、すでに大臼歯あたりがカチカチ鳴ってるの聞こえてる。
「リッキーさん、大牙さん! ドライスーツとか借りましょうよ、風邪ひきます!」
「そのあいだに指輪、波で沖に持ってかれちゃったら困るでしょ……ぎゃふ」
どっぱーん、と大きな波に背後から襲われて、並んですっ転ぶお二人。すぐに立ち上がったけど、もう全身びしょぬれ。大牙さんは開き直っちゃったらしく、豪快に潜って探し始めた。
ああもう視界は水の中。見てるだけなんてできない、えーいこうなったら莉子もー!
「だーめ、莉子ちゃんは着替え持ってきてないでしょ」
靴下脱ぎかけたところで目ざとく見つかり、止められてしまいました。どうやら大牙さんが持ってたスポーツバッグ、中身は着替えみたい。もじもじと靴をはき直し、応援に徹することに。
刻一刻と暗くなっていく。一番星がきらきら。夕陽はもう隠れてしまって、名残の空のオレンジ色も藍に追いやられそう。
「うえーん、早く見つかってくださいー」
泣きべそしながら祈った。そんなことしかできない自分がすごく、すごくもどかしかった。大海の前に、人はなんて無力なんだろう。砂一粒みたいに翻弄されるだけ。
お父さん。お父さんはきっと、仕事がつらいんじゃなかったんですね。
当然ながら、お二人は仲良くそろって風邪を召されました。
あれからほどなくして、大牙さんが指輪を無事救出。砂浜で着替えて、あったかいもの飲んで、帰ってすぐにお風呂に入って。だけど季節外れの寒中水泳は、栄養かたよりがちらしいお二人を直撃。
リッキーさんなんか、お風呂の途中からくらくらし始めちゃったみたい。大牙さんに寄り添われるようにして出てきた。
質問です。ここは男子寮ですか? 確かにお風呂は広いけど! 莉子の前で、一緒にお風呂に入らなくってもいいんじゃないですか?
体調不良でも第二ラウンド、お二人のタッグはがっちり健在。血を吐きそうな強烈アッパーをくらってしまいました。
だけどこれはさすがにドクターストップもの。リッキーさんははだけそうなバスローブ一枚のお姿で、ソファに埋もれちゃってる。ドライヤーかけてあげたら、ふとした時に触れる額はやけに熱く。
その隣で体温計くわえてた大牙さんも、検温終了を知らせる電子音が鳴ったのにぼんやりしたまま。首を伸ばして液晶画面を覗き込んだら、三十八度を軽くクリア。
さすが変温動物、制御がきいていない!
「きゃーっ! すぐにおかゆ作りますから、お薬お薬」
「僕も、熱あるのかも」
けだるそうに目をつぶったままリッキーさんが呟く。熱なんて思いっきりあるに決まってます、あんなに額が……。
「計るか?」
びひょおおおおおお。瞬間、莉子の周囲にだけ吹雪が駆け抜けた。
大牙さんがさっきまでくわえてた体温計が、無造作にリッキーさんの唇の間に突っ込まれ。それがまた、抵抗もなく受け入れられちゃってるではありませんか。こ、これは。
間接キス! ううん、間接ディープキス!
見てはいけないものを見てしまいました。見てるこっちが身の置き場なしです。
礼儀として防衛本能として、視線を外すなりなんなりしようと頭のどこかは思う。けれど神経からしてぱっきんぱっきんに石と化してしまったようで、目が逸らせない。
この攻撃、メデューサと名づけてくれようぞ。
なのにまるで何事もなかったように、大牙さんはドライヤーし始める。ああそうなんですか日常茶飯事なんですか、こんな仕草は!
すみません、莉子も激しくめまいがしてきたので、第二ラウンドはダブルノックアウトでドローにしてください……。
塩を盛られたナメクジの気分を味わいながらも、おかゆ製作の至上課題を思い起こして気を奮う。お母さんに風邪に効きそうなレシピを聞こうと、バッグから携帯を引っ張り出した。
ぽとん。
視界の隅で何かが落っこちた。体温計。くわえてたはずのリッキーさんは、ソファに埋もれたままこっちを見上げてた。熱で頬は紅く染まり、とろり潤んだ瞳が揺れてる。
体温計を離してしまった唇が、力なくゆっくり動いた。
「姉さん……?」
『律ちゃんはな……こいつに生き別れた姉貴を見出してるんだ』
『本当なんですか? リッキーさんのお姉さんが、わたしに似てるって』
『馬鹿、そんなわけあるか』
あれは全部、大牙さんの嘘なんだと思ってた。だけど、『そんなわけない』のは生き別れたってことで、お姉さんがいて、わたしが似てるのは本当だったのかも。
熱がリッキーさんの目を曇らせて、わたしをお姉さんに見せちゃってるんだ。重症です!
「おかゆじゃなくて、バナナでもいいですか? 一秒でも早くお薬をー!」
「おいこら。バナナでもとは何だ、でもとは。バナナは優秀なエネルギー源なんだぜ」
でも呼ばわりに憤慨してるけど、投薬の必要性では同意してくれたらしい。大牙さんはキッチンからバナナを持ってくると、慣れた手つきで皮をむく。それを体温計よろしく、リッキーさんの口元に持ってって。
「食えよ」
だけどリッキーさんは食欲がないのか、小さくいやいや。
「食わなきゃ良くならないぜ」
「……大牙の大事なものだもん」
「欲しけりゃ、いくらでもくれてやるよ」
こて、と頷いて、リッキーさんは素直にもぐもぐし始めました。大牙さんは、よしと満足げに微笑みます。麗しき介護愛に、わたしは出る幕なし。再び石。
後から知ったところによると、タイトルマッチでのドローはチャンピオンの防衛ってことになるらしい。そうでありましょう、バナナ一本で完全にお二人の世界に入ってらっしゃいました。がくり。
だからって落ち込んでる場合でなく。氷や薬や食材を買いに走り、おかゆを作って。氷水でしぼったタオルを取り替えに、二部屋とキッチンを往復するのは忙しい作業で。
ちょっと仮眠と思って寝転んだソファで、朝を迎えてしまいました。