5. さらば地球よ
「ありっ? なにコレ触れちゃいけねー話題?」
酸素がガリガリに固まってる。ほんのわずか身動きしただけで、シャンパングラスよりもろく砕け散りそうなくらいに。
温められている料理のクツクツいう音だけが存在を許されてるかのよう。
飽和した緊張がドアや窓の隙間から漏れ出して行くのを、息を潜めて待っていた。
「……そうなの。いつ、どこで?」
いつもの柔和な口調だったけれど。リッキーさんの細い喉はこくりと鳴った。ついでにうっかり飲み干しちゃったみたいに、笑顔が見当たらない。
「失踪したとか騒ぎになる一週間くらい前じゃねーの? チャリ盗……借りようとしてっとこパトに見つかってよ、公園の茂みに隠れてたわけよ。したら前のベンチに座ったのが神宮寺の姉貴と知らねえ男でさ。隠れてる俺に気づかなかったんだろ、そっち系の話になって」
警察の取調室よりよほど落ち着かなさげに、アクセがいじり回されてた。
「付き合いを親父が許すわけない、バレたら意地でも仮釈放を取消しにされてムショ逆戻り、引き離されるに決まってる。それならいっそ、とかそんな感じ」
「相手は仮釈放中の男だったというわけだね」
やんわりと律詩さんの確認が入る。頷く六郎太さんを包む眼差しは、ありがとう、よく協力してくれてるねと大絶賛。まるで天然素材の自白剤、喜び勇んで自供しちゃいそうです。
「仮釈放処分取消しの可能性というと……」
知性の光る律詩さんの茶色い瞳が上向いて、脳内に検索かけてる。
「刑法二十九条、仮釈放中か仮釈放前に犯した罪で罰金以上の刑に処せられた場合。つまりその男は発覚していない罪を隠していた。父が律ちゃんとの接触を妨害しようとするなら格好の材料になりうる。……確実に、あの父が許すわけがないからね」
それで二人の将来を悲観して、共に樹海を目指してしまわれたと。ずっと謎だった律音さん失踪の理由は心中だったのですね。おいたわしい……。
「ありがとう。君の貴重な証言は、律ちゃんへと近づく確かな一歩になるはずだ」
君は地球のヒーローだ。そんな熱意で肩を叩かれて、六郎太さんはくすぐったそうに顔を赤らめてる。おお、不良少年もまた更生へと確かな一歩を踏み出してますよー。
「交際相手とは初耳だったからね。一人を除いては――なあ、大牙?」
反射的に額へ手をやったのは、サングラスを求めてのこと? 当初は前髪か鼻骨の上に常駐してたサングラス、そういえば最近はご無沙汰気味です。大牙さんの手は悔しげに前髪をつかむだけに終わった。
「恋人の話が出た瞬間、おまえだけは驚いていなかった。代わりに、しまったという顔をしたね」
北風と太陽の話を思い出す。指摘より確認、責めるでなく励まし。律詩さんに問われてノーと拒絶できる人には、血も骨も通ってないに違いありません。
「……ったく。ダテに警官やってねえな、律兄」
太陽は沈黙のコートを脱がすことに成功したもよう。青あざつきの顎の上を、はあ、と降参のため息が通過していった。ソファの袖に、デンとお行儀悪く腰を落とす大牙さん。
「俺も聞いたんだよ。律姉がいなくなる前の日、リッキーんちに遊びに行ったろ? 途中でトイレに立って廊下歩いてたら、律姉がブツブツ呟いてんの聞こえてきて」
駆け落ちよりも自殺に見せかけた方が、追っ手の目をくらまし逃げ切れる可能性が高くなる。だから置き手紙は単身自殺をにおわす内容にする。
その時は小説か架空の話でもしているのかと思って聞き流したが、失踪後の置き手紙を見て思い当たる。恋人と二人で逃避行を計画し、捜査を欺くつもりでいたことを。
つまりそもそも律音さんは心中するどころか、樹海にさえ行かれていなかったのですね? そう見せかけて、どこか全く違う方向へ駆け落ちなさったのですね?
大牙さんの苦々しいお顔は、歯がこぞって正露丸になったかのよう。
「言い出せなくなった。リッキーは律姉の『探さないで』を真に受けて、泣きながら置き手紙隠したろ。なのに律姉は……リッキーを裏切ってた。自殺で楽になるより、駆け落ちで家族を捨てる方が俺には、ずっとひどい裏切りに思えた」
当時、リッキーさんも大牙さんもまだ初等部生。恋愛も、人の真意も、家族のあり方も、小さな肩には慣れないうえに重すぎたことでしょう。
ううん、初等部生でなくても。律音さんにしても。
その時々の精一杯をかけての答えを、誰がなじることができるでしょう?
リッキーさんは律音さんのためと思って置き手紙を隠した。大牙さんはリッキーさんのためと思って事実を隠した。ただお互いが一生懸命にやろうとした、結果的に方向性が違ってしまった、それは誰にもどうしようもない。だから哀しくなる。
大牙さんの瞳に溜まった暗い色が、サングラスの必要性を訴えてた。きっと、本当に太陽がまぶしかったんじゃないんだ。本当に寒がりなんじゃないんだ。恋人に大きな隠し事をしてるせいで、心が暗くて寒い場所にいたから。
――闇に慣れた眼に、光を当ててはならない。その者を永遠の闇に葬り去る。彼はまだ、夜の中にいるんだよ……。
いつかの黒住先輩のご託宣が頭蓋骨に蘇る。
闇に慣れた眼は光を失うのを恐れながら、どうにか蒼い瞳を見返した。
「リッキー……黙ってて悪かった。おまえとしては律姉がどっかで幸せになってるかも、って思える方が良かったかもしれないのにな」
「ううん、いいの」
指関節がメキリと音を立てそうなくらい握り締められてた拳を、すんなり女性的な手が包み込んだ。指を一本一本開かせて、手首持ってブラブラ揺らして。まるで痛みを離そうとしない拳から、きれいさっぱり振り落とそうとしてるみたいに。
「捜査の手も僕たちの手も及ばない方が、姉さんのためだとも思ったんでしょ?」
「……許そうってのか、俺を」
「ふふ」
固まってた酸素がリッキーさんの微笑みに呪縛を解かれ、踊りだす。砂漠も永久凍土も一瞬にして緑化する、愛の女神の息吹。
つぼみが最初の花弁を緩ませるために、ヒナが最初の穴を殻に開けるために、その背を押す必要不可欠な神の手があるのだとしたら。リッキーさんはその手を持って生まれていらしたのでしょう。
「許すも許さないも、大牙は罪も過ちも犯してないんだから」
まぶしい! あまりにまぶしい微笑みに、小鳥笑顔に慣れた眼さえ潰れそうです。永遠の闇へブローアウトされそうです!
「大牙一人に背負わせちゃってごめんね。それに、ありがとね」
「怒ってないのか? 騙してたんだぜ」
疑心暗鬼な大牙さんへ、駄目押しのフローラルスマイルが降り注いだ。
「だって今日は、サプライズパーティなんでしょ?」
愛の玉音放送は、莉子に降伏を促しているかのよう……。
だってだって、大牙さんってば。将軍さまの細首にガシーッと腕を回して愛情を確かめ合ったりしちゃってっ。
「けど僕は姉さんを探すよ。会いたいもん」
「んあ」
晴れやかな勅語に、近衛隊長は絶対服従をお誓いになり。愛の特攻隊員、無駄死にの様相を呈して参りました。
ええい戦う操縦士、ここで戦死するわけにはっ……そうだ、まだ最終兵器が残ってた!
「あのう……リッキーさんのお誕生日と勘違いして、プレゼントを用意しちゃったんですけど……」
「えっ、そうなの?」
切り出してはみたものの、長ーいまつげをぱちぱちされたら、急に恥ずかしくなってきました。
「でもでも、変ですよね。お誕生日でもないのに差し上げるなんて」
「ううん」
濡れた鼻先くっつけようとする子犬みたいに、極上の笑顔がじゃれついてきた。うおお、将軍必殺技・上目遣いのおねだりモード発動です。
「プレゼントに動機はあっても、機会はいらないと思うの。あの高級バナナを買ってあげるのに、大牙の誕生日を待ったりしなかったでしょ?」
「げほ、ぐほッ!」
バナナ贈呈先がドリンクにむせてる気配。これは千載一遇、脊椎おさすりのチャーンス!
「ごほげほ、ごはっ」
「待て待てLittle Girl、モノは相談よ」
手錠の手にブロックされる。いたんでしたね、六郎太さん。絶好の機会を阻むにっくき敵は、紫の棘皮を振り振り能天気です。
「なら俺にもくれりゃいいじゃん、プレゼント。機会はいらないんだからさー」
動機がありません。
「で、何やんのよ? こっそり教えろよー、なあなあ、なあってば」
「馬鹿ごほっ、言うゲホーッ」
むせてる方がおっしゃる通り教えて差し上げる義理はないのですが、ここは早く通過したいところ。仕方なく六郎太さんへ耳打ちした。
タマ袋です、と。
「長さが微妙に違うんですけどおそろいで、二つ一組なんです。自分で言うのも何ですが、手触り最高なんですよ。いつまでも掌で転がしてたくなっちゃうくらい……あのー聞いてますか?」
六郎太さんってば、雌雄同体の人間を目撃したみたいな衝撃と珍妙の目線で莉子に穴を開けようとしないで下さい。そんなにおかしなプレゼントですか?
「マジかよ……そりゃ胸もLittleだと思っちゃいたけどよ……」
あっ、ひどーい。大牙さんのプチトマトと同類の発言ですね。変なプレゼントをする莉子の脳みそが、そして胸までもLittleだと言いたいのですね?
タマ袋は頭の悪いプレゼントと言いたいのですねーっ?
「もう性別なんて信じらんねー、バッカヤロー……あ、神宮寺のアニキ、あとで出頭しますんで。幸せになれよLittle Girl……いやBoyだったわ……」
なぜか死にかけのウニみたいにしおれて謎の言葉を残し、六郎太さんはスゴスゴ海へ帰って行かれました。
「結果オーライだな」
咳から自力で回復しちゃった大牙さんだけが状況把握なさっているようです。でもまだ少しガラガラ声。
「喉、大丈夫ですか?」
心配してるのになぜ、ウニよりトゲトゲしい視線?
「安心しろ、顎なら無事だ」
意地悪魔王が大復活を遂げられた。好きなのは顎だけじゃないって言ったのにい。
こうなったらもう一刻も早く最終兵器を大放出、タマ袋発射準備完了です! 息を整え、タマ袋を捧げ持った両手をグッと突き出し、いざファイヤーっ!
「リッキーさん、これどうぞ! そして大牙さんにも」
「待て、袋の名前は言……は? 俺にも?」
「はい、おそろいで。リッキーさんにはおみくじ用。大牙さんには学ラン内ポケ携帯バナナ用の、タマ袋です!」
えっへーん!
「わーい、ありがと莉子ちゃん! ほんとだ、手触りふよふよしてて気持ちいいねっ。大牙のは長めなんだね、学ランがバナナくさくならないように? そうだよね、バナナってたまに汁が漏れたりするもんね。でももう安心、このタ」
「おい」
「マ袋があれば僕も大牙もスッキリ爽快。じゃあ早速使わせてもらっちゃお、このタ」
「おい律ちゃん、連呼すんな!」
タマ袋、大牙さんの拳でぐちょー。
わーん。ナイスアイディアのタマ袋なのにー。せっかくバナナ用タマ袋をペアでさしあげたのにー。感心してもらえません。第十一ラウンドの秘策がーっ。
詰め寄られたリッキーさん、勢いに押されて上体を反らしながらも頬を染めてにこにこ。
「大牙ってば、そんなに握り締めたら使い物にならなくなっちゃうよ、大事なタ」
「わざとだな。おまえわざとやってんだな」
「えー。だって単なる同音異義語だもん」
開花したての花の香りがしそうな微笑と、睨まれた蛙を砂に変えそうな殺気がせめぎあう。どなたの何が原因の衝突か見当もつきませんが、両者一歩も引きません!
「……せめてミケ袋」
ややあって、睨みつけたままぽつりと大牙さん。譲歩のよう。
「個性は伸ばしてあげようよ、大牙」
「伸びていいもんと悪いもんがある! しつけとけ!」
決裂したようです。
それまで律詩さんは黙って、というかなぜか唖然として立ち尽くしてらしたのですが、張り子の犬のように何度も頷き始めました。
「なるほどそういう経緯か……そうそう高居さん。俺の母が京都の出でね、聞いたことがあるんだ。ポチ袋のポチは」
いたずらの自覚がないいたずらっ子を諭すような口調です。警察官っぽーい。
「もともと関西の言葉で、小さいとか少ないって意味だそうだ」
ふむふむ、だから小さい犬はポチと名づけられるようになったと。
「ほら、芸者さんや仲居さんにご祝儀や心づけを渡す時に使うだろう? 小さいのし袋」
分かったよね? と訴える、いえ懇願してくるような茶色の瞳に覗き込まれました。
「はい、それでポチは犬を経てポチ袋の名前にも使われるようになったんですね!」
「……大牙、おまえがアンカーだ」
「なんでだよ!」
バトンタッチ。そんな趣で律詩さんの手に肩を叩かれ、吠える大牙さん。
「年頃の大切なお嬢さんを預かってるんだ。大牙の責任だろう」
「預かってんじゃない、雇ってんだ! しかも雇ってんのは律ちゃんだ!」
いつの間にかリッキーと律ちゃんの呼び分けがなくなり平常運行。大牙さんはうめきながら、豪奢なソファにヤケ気味なキックを叩き込んでます。ひとしきり悩ましげにブツブツ呟いたのち、ヨシときっぱり向けてきたお顔が怖い。
「最初からはっきり言っときゃ良かったんだよな、そうだよな、聞きとがめたのが俺の痛恨のミスだったんだ。いいか教えてやるが一度しか言わないぞ。おまえが連呼してるタマ袋ってのはな」
「はい」
第十一ラウンドの最終兵器、莉子の感性をアピールする核爆弾。そのタマ袋について重大発表があるらしく、大牙さんは逆三白眼でズイと胸を張りました。
「一番大事なのに骨が通っていない所のことだ!」
「……どこですか、それ」
「忘れたのかーっ? おまえが言ったんだろ、いや忘れたとしてもだ、言ったら分かるだろ普通!」
だ、だって一番大事な下顎骨は骨そのものだし。そもそも下顎骨愛を忘れるわけがないのに、大牙さんが何をおっしゃってるのか理解できませーん!
「やってられっかボケ! プチトマト星雲に帰れ、今すぐ帰れ、バス代は出してやる」
「宇宙にバスは無理ですよ。銀河鉄道999か、宇宙戦艦トマトに……ああっタマ袋ー!」
無体ですー、捨てていくなんてー!
機械化されて来い! という投げやりな台詞を残し、大牙さんは去って行かれました。
うっうっ……愛の特攻隊員、最終兵器も通用せず、母星に強制送還されました。