1. 貴様の薄情さはいっそ爽快だよ
信じられぬものを見たとき、人はその対象でなくまず自分を疑う。
そんな真理を悟らせてくれたのは、大牙さんだった――ブレザー姿の。
だって、大牙さんといえば学ラン。下顎骨に恋焦がれるあまりにブレザーの別人を頚椎から上だけ、脳内で大牙さんに置換してしまっているのでしょうか。
置換後の人との恋なら、やっかいな恋敵――美少女な美少年――がいなくて楽かもしれない。分別忘れてこそ恋だそうだし、あのワンダフル・ビューティフル・スプレンディッドな下顎骨さえあれば。
「何をじろじろ見てんだよ。帰るぞ」
ガッ、と冷たーいお手手による豪快な子猫づかみで、放課後の教室から引きずり出される。これぞ恋する大牙さんの証。こんな手荒い扱いは他の誰にも、それこそ親にもされたことありません。
恋の相手にされる扱いがすべて親にされたことのあるものだったら、それはそれで問題ですが。
そうだ、大牙さんの学ランは蛍光塗料で使い物にならなくなっちゃったんだっけ。わたしをかばってくれたから。それで代わりにブレザーなんだ、と納得。
弁償させてくださいってお願いしても、俺が勝手にやったことなんだからほっとけ、なんて取り付く島もなくて。
大牙さんっていい骨格なだけじゃなくて、いい人だと思う。リッキーさんのためなら空腹でも三角跳びをする、寒くても学ランを惜しまず盾にしちゃう。なぜってそれはその……その……同性同棲の仲だから。
一方わたしは現在のところ、子猫どころかカイロくらいにしか思われていないようなのです。カイロじゃ脊椎動物でさえないではありませんか。
「まあ! あのお方はリッキー様の初等部からのご学友、衛藤さんですわよ」
「高居さんたらリッキー様という本丸だけでなく、外堀も埋めておいでですのね」
「お顔に似合わず、戦略的な奸計をめぐらしてくださるではないの……ちょこざいな」
気づけば、渦巻いているのは誤解に満ちた噂と、かまいたちばりに切れ味抜群の目線。早く学院から脱出しなければ、視線でみじん切りにされそう。
「律ちゃんが、バイトの話をきちんとしたいってさ。引っ立てるのが律ちゃんだと軍団を刺激すんだろ、仕方ないから俺が来てやった」
大牙さんでもじゅうぶん、いえむしろひき肉にされそうに刺激を与えちゃってるんですけど、お気づきでないようです。
わたしを軍団の魔手から守るために来てくれたみたいに聞こえるものの、浮かれてはいけない。何しろ、勘違いするな律ちゃんのためだ、と五寸サイズの釘を刺されたばかり。
「リッキーさんのために仕方ないから、なんですね……」
「ああ、悪い。聞こえなかったか? そうだ、仕・方・な・い・か・ら、だ」
とても良く聞こえてます、大牙さん。打ち込まれすぎて五寸釘の頭がボディにめりこんでます。
大牙さん争奪杯・ラウンドツーも、いきなりであんまりな打撃から始まったもよう。
目指すはリッキーさんと大牙さん、愛のお部屋。聖ウェズリー学院から徒歩十分程度の道すがら、大牙さんはあっちにふらふら、こっちにふらふら落ち着きがない。ついには車道のど真ん中を闊歩なさって、当然ながらクラクションをお見舞いされてる。
危ないですよって注意してあげたのに、くしゃっとした前髪の下、薄いブルーのサングラスのふちからギロリと不機嫌な三白眼がお出迎え。
「そっちは寒い。あーもう、うるせえ車だな。向こう通れよ」
どうやら、ひなたを求めて徘徊してらっしゃる様子。しかも、ひなたはぜんぶ自分の歩道だと思ってらっしゃる様子。日光浴する爬虫類みたい。
そこへちょうど薄雲が晴れ、四月にまだ居残っている肌寒さをもう一段押しのけてくれたのに。
「あーくそ、まぶしいぜ」
ご注文が多いようです。この方、お猿さんじゃなくて爬虫類じゃなくて吸血鬼さんなのでは。黒いマントって、吸血鬼と学ランの共通アイテムだし。ほんと、大牙さんの生態って謎。
太陽のせいで雰囲気は険悪。求む、大牙さんとフレンドリーになれる会話!
「えっと……大牙さんって学ラン似合いますよねー」
「そんなにブレザーが似合わないと指摘したいのか」
「えーっ、違いますよ。似合いませんけど」
きゃあ。揺さぶらないでください、頚椎がずれます、頚椎が。
エレベーターって話し声以上に、沈黙が反響する箱。大牙さんはガラスを透かして入ってくる小さな面積の陽光をとらえようと、フロアにしゃがんでる。縁側の猫みたい。
せっかく二人きりなんだから、今度こそ何かフレンドリーな会話、降りてこい、えい!
「えっと、えっと……そうだ、大牙さんにぴったりな尊称を思いつきました」
「お、なんだ?」
わーい好感触! 口元が面白そうに笑ってくれてる。
「夜行性の変温動物!」
「……尊称の意味間違ってる」
ああっ、ぷいなんて顔を背けられてしまった。
「じゃあ、詐称?」
「おまえ古文漢文現国、全滅だろ」
ふふん、なんて今度は鼻で笑われてしまった。
「失礼な! 評価はおおむね五です!」
「聖ウェズリーの成績評価は十段階だぜ?」
同じ学校なんでした。学院外の友達には、これでごまかしてこれたのに。
二分靱帯の踵舟部関節面、なんて骨格系単語ならすぐに覚えられるのにな。特に下顎骨近辺なんて翼突筋粗面、顎舌骨筋線、二腹筋窩、下顎枝頬筋稜、ほーらいくらでも。
大牙さんの今日もシャープな下顎骨が、はーっと物憂げなため息を吐き出した。
「あいつにシゴかれても知らないからな」
「あいつって……? あ、お邪魔しまー、ひゃっ」
ドアを開けると麗人がいた。
宝塚の男役の人、きっとそう。
大胆に流した茶金髪の下には、きりりと流星のごとき眉、くっきり力強い瞳、迷いなく伸びやかな背筋、そして何より周囲の空気を圧するほど華のある雰囲気。
骨までとろかすような、爽やかにして余韻のある香りまでする。
きれいに襟の立ったレディースのドレスシャツって、意外と少ないもの。かっちり決まったラインにゆるりと結ばれたネクタイ。それが首筋に腕を回してしなだれかかる優雅な女性の腕に見えてくる、妖艶なオーラ。このお方、まさしく。
王子サマッ……!
並んでるリッキーさんと麗人さん、まるっきり性別逆転。バスケ少年なリッキー軍団団長さんといい、近頃、性別判断の基準に自信が持てなくなってきました。
「おかえりー。莉子ちゃん、こちら安香さん。僕たちの……」
「あの、あのっ! 女優さんですよねっ!」
興奮して詰め寄った。しーん、と場の雰囲気が痛かった。
もしかして男優さん、と言わなければならなかったとか?
「そうだな……」
ふ、という軽い皮肉めいた笑みで沈黙を吹き飛ばしてくれたのは、当の麗人さん。
「人生という舞台で猿芝居を打つのが人間なら、そうだとも言えるな」
うーん、その理屈だと大牙さんこそ女優ってことに?
わたしの疑惑をよそに、麗人さんは顎を上げ、しゃきっと腰に手を当てた。そしてハリウッドスターを思わせる、きっぱりとゴージャスな微笑を咲かせる。
歌いだしそう!
「私は安香茶々、大家だ」
期待いっぱいで見つめていたけど、普通の自己紹介だった。ああ、せめて歌いながら言って欲しかった。
「おまえが高居莉子か……フッ、今までのできそこないのジャガイモや、しなびた玉ねぎとは大違いだ。素足で土を踏んだことのない子うさぎのようだよ」
大家さんイコール所有者。こんな若い女性が高級マンションの持ち主だとは。セレブさんご登場。
「貴様らもようやく、美の基準でメイドを選ぶ気になったらしいな。おや大牙、何だその顔は。生来の可愛げのなさを割り引いても、たんまりと不満そうじゃないか」
「だから俺は反対だって言っただろ、こんなボケラっとしたのは。あんたの屁理屈で俺たちの家政婦を決めないでくれよ」
そういえば今までの家政婦さんは、どなたかにすぐ首にされたみたいにおっしゃってた、かすかーな記憶が。もしかしてこの大家さんが審判者?
「同じ仕事をするにも、美しいメイドが好ましい。同じ味なら美しいバナナがうまい、と言えば分かるのか? 大牙」
「あんたの美学は分からないって、何回言わせるんだ」
大牙さんはうんざり風味な苦い顔で、がしゃがしゃと頭をかき回した。大目に見てぎりっぎり無造作ヘアだったのが、もうぐちゃぐちゃ。
「あのなあ茶々、取立てに来たんだろ? 悪いがまだ金がそろわない。そんな状況で使えないメイドが来たらどうなる。ますます支払いが滞って、困るのはあんただぜ」
取立てって、家賃ですよね。壷代の上納じゃありませんよね?
家賃ってことにして、滞納してらっしゃると。仕送りじゃないんだ。そりゃこんな一等地の物件なら、高校生二人が捻出するのは大変な金額なんだろう。
それでも同棲したいんだ、先輩方は。
この熱愛ぶり、じわじわ効いてくるボディブロー。鈍い痛みに耐えるわたしの目の前で、リッキーさんが腕を伸ばした。指揮者が演奏の最初にタクトを振り上げるような、優雅にして洗練された動きで大牙さんの乱れた髪をそっとなでつけ。
「ごめんね、大牙。僕、もっと探し物するから」
「だから律ちゃん、メイド雇う必要なんかないだろ。俺が何とかするから」
ダブルブロー! フラついて壁にもたれかかった。まだ第二ラウンド開始直後なのに、早くもロープダウン。
何ですかその、薪はなくとも愛の炎だけは燃え盛ってる、貧しい新婚夫婦みたいな会話は! ああっ、まぶしくて直視できません!
「取引をしようか、大牙」
大家・茶々さん、お二人の燃えっぷりにも涼やかさを失わない。さすが、セレブは違います。平然と火柱の中に踏み込みました。
「莉子を雇うなら、毎月の家賃を十万まけてやってもいい。どうする」
「雇う」
即決ですか、大牙さん! さっきまでさんざん渋ってたのに、莉子を十万で売るんですかー!
「ははっ、貴様の薄情さはいっそ爽快だよ」
茶々さんがなんか、舌なめずりしているように見えるのは気のせいですよね……? 気のせいと思わせてください、アーメン。
「ところであのう……わたしの都合なんですが」
「論外」
大牙さーん!
「イノクニヤのほうのバイトもありまして」
「それよりいいお給料あげるから、諦めちゃってね。ふふふっ」
リッキーさーん!
「よ、夜は家の近くのバスが早くになくなってしまうので」
「私の部屋に泊まりに来るがいい、最上階一番奥だ。永遠にさめないバラ色の夢へといざなってやろう……マイ・スウィーティー」
茶々さーん! ……どんな夢? わくわく。
「では満場一致で円満解決だな」
どこがどう満場で円満なのか、教えてください。国語関係の成績が十段階中の五近辺でも、現在の状況にその単語が当てはまらないことくらいは理解できます。
「ところでハニー。四字熟語をひとつ挙げてごらん」
ハニーと呼ばれているのは誰だろう。見回すと、発言の主・茶々さんの熱視線とばっちり目が合った。
「は、はいっ? わたしですか?」
「四字熟語というのは便利でね、端的に状態と性格を言い表す。さあ深く考えず、心に思い浮かんだものを言ってみるんだ」
三人の目線が集中。あせる。あせる。じっ押し黙って待ち構えられては、ただでさえ回らない頭で熟語を考えるなど不可能。
「四文字四文字……えっとー、四字熟語」
この沈黙はダメ出しでしょうか。
「霊感商法。これも熟語じゃありませんか……下顎切痕」
「私の子うさぎは国語が苦手か」
落ち着いて考えれば出てくるはずなんです! 沈黙がいけないのです!
「フッ、手取り足取り指導する甲斐がありそうだ」
国語って手取り足取り教えていただくような教科でしたっけ?
茶々さんのきっぱり形のいい唇が笑っている――狩猟の本能に。怖いので、こそこそと大牙さんの背に隠れてみたり。
あ、いつもより頚椎が多めにご開帳。ブレザー万歳。
「律季、おまえは?」
「ふふっ……相即不離かな」
「切り離せないほど深い関係にあることだな」
のろけ、と判断。大牙さん争奪杯タイトル保持者、軽いジャブ。茶々さんのご指名を免れてほっと油断していたところだけに、効くーう。
「大牙、おまえは」
催促された大牙さんは、だらんと首を傾けて、わたしを見つめてくださった。ぴょこんと心臓が飛び上がり、胸腔内を跳ね回る。
「竹頭木屑」
わーい――意味不明。
でも感じたことを熟語にしてくれるなんて、言葉のプレゼントみたいで、無条件に嬉しい。どきどき待っていると、悠然と腕を組んだ茶々さんが解説してくれた。
「何らかの役に立つ場合もあるということだな――竹の切れ端や木屑のようにつまらぬ、些細に思えるものでも」
「まあ、家賃十万円分くらいにはな」
しみじみと頷いてもらえて、これが格闘ゲームならHP完全回復!
「わあ、嬉しいです、莉子は大牙さんのお役に立てたんですね。わかりました、メイドやります!」
「役立つ、以外丸っきり無視か……めでたい才能だな」
ピンポンピンポーン、とインターフォンが来客を告げて歌った。