5. 汝にバナナタルトあれ
「逃げるつもりないんだからさ、寄らないでもらいたいな」
モーリッシュ反応は糖の存在を、怪盗贋作家しか知らないはずの染みの成分を、そして怪盗贋作家の正体も同時に証明したのです。
取り囲んでるけど、館長さんたちの怖い顔には同時に戸惑いの色も濃厚。チェックのシャツにホワイトジーンズ、ふわりとした茶髪に線の細い色白ハーフの高校生、ニコラさん。モーリッシュ反応があってもあの大胆不敵な怪盗贋作家だとは信じがたいんじゃないかな。
莉子はあのネガにされたダリを見てるから信じちゃうけど。
まごついている館長さんたちに、ニコラさんも同じことを考えたみたい。
「ぼくの部屋には真作から外した額縁がある、それも証拠。警察呼んだら? それにしても神宮寺君の波動とかいうの、嘘じゃなかったね。オーラを描く画家は多いけど効果の一つであって、実際に存在するとは考えたことなかった」
犯人に催促されて通報する館長さんの額には、屈辱か衝撃か汗がにじんでる。もうすぐ逮捕されちゃうというのにニコラさんは冷静で、これじゃどっちが犯人だか。
「あの絵にはね、片方だけ一切の愛がなかったの。もう片方にはニコラくんの愛着が感じられた。そっちが真作だと思ったの」
真作をケースにしまったり警備員を増やしたり、険悪に淀んだまま館長室が急にばたばた動き出す。その中でやんわり話すリッキーさんの口調はまるで戦場の神父さまみたい。
でもリッキーさん、描いてから時間が経って波動が飛んじゃってる方、一切の愛がない方の絵こそ本物なはずじゃないんですか? ニコラさんの愛着がある方が、ニコラさんが描いた贋作なんじゃないんですか?
尋ねたら、ふふっとソフトスマイルが返ってきました。ルネッサンス期の絵画にありそうな、春の野に遊ぶ乙女のごとき清純さと華やかさ。微笑む唇から花びらがこぼれてきそうです。
「十九世紀のフランス画家、ミレーの言葉を引くね。『他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。そうでなければ――』」
「『――そうでなければ、いかに巧みな作品でも決して生命ではない』」
リッキーさんが挙げた格言の後半を引き継いだのは、ニコラさんだった。
「もしぼくが美術関係者を引っかきまわして遊びたいだけの愉快犯だったら、精巧な贋作ともてはやされたいうぬぼれ屋だったら、欲を叶えるアイテムとしての贋作に愛着もあったろうね。けどぼくの動機は復讐だ。愛着も生命も湧きようがない。本物の芸術は尊敬してるけどさ」
だからニコラさんの贋作には一切の愛がなかったんですね。リッキー総統……すごい鑑定眼です!
「そこに至るまでに俺のバナナタルトとこいつの性善説がどう関係してんだ」
そうそう、それも聞きたかったんです。
「だって大牙、文句つけてたでしょ? 安易にレシピ通り作ってんじゃねーぞ、バナナに失礼だろって。バナナに愛のないパティシェが作ると、レシピは同じでも出来上がりの味は違ってくる。贋作も同じことかなって」
忘れてました。聖ウェズリーの生活指導室で、バナナタルトの味が何か違うと苦情の電話までしてましたっけ。
「莉子ちゃんが張り切って仕入れてきてくれた話では、ニコラくんは悪い人じゃないって。お父さんの……」
リッキーさんはほとんど聞こえないくらいに声を潜めました。
「先生の盗作を否定したり体調を心配したりしてたし、愉快犯や模倣犯のイメージじゃないって」
聖ウェズリーでは公然の秘密である、元贋作家の画家がニコラさんのお父さんだってこと。小声になったのは館長さんたちや警備員さんたちに漏れないようにとの配慮みたいです。
「だからね、僕は真作と模作を言い分けることが出来たの。僕一人だったら逆の答えを出しちゃってた。ありがとう、大牙、莉子ちゃん。三位一体だねっ」
「リッキー党の勝利ですねっ」
お言葉が嬉しくて、総統と手を取り合っちゃいました。
「ほらっ大牙さんも!」
リッキー党の結束をより固めるため、大牙さんを円陣に引っ張り込もうとした時。
かすかに聞こえてきたのはパトカーのサイレン。
「おまえはまだ聖ウェズリーの生徒だ。だから私の指示には従ってもらおう」
成り行きをずっと黙って見守っていた茶々さんが進み出る。きっぱりと見下ろされたニコラさんは承知のように頷いた。
「逮捕の前に自主退学しろってことなら、今この場で――」
「おまえの生徒資料は警察に提出を求められるだろう。だがその前に自宅以外の連絡先欄は削除する。今回の事件とは無関係な人間に累を及ぼす必要はなかろう」
茶々さんの金茶色の前髪、その下のくっきり涼しげな瞳は有無を言わせぬ迫力で満ちてた。
「え?」
ニコラさんが怪訝そうに聞き返してくれます、よかった、わたしも茶々さんの発言の意図が分かりません。
「もしその無関係な人間から問い合わせがあれば、おまえは絵画の才能を見込まれてフランス留学したと答えておこう。おまえの母親ともそう打ち合わせておく」
「……あ……」
「おまえの『先生』とやらに酒を飲ませる要因を増やしたら、私の可愛い子うさぎが悲しむのでね」
うつむいた石膏像の頬に涙が流れました。
怒りと無しか見せなかった茶色の瞳。そこから溢れる雫が石膏を洗い流すように、ニコラさんは少年に――前科持ちであることで遠慮して暮らす離れた父親を想い、先生と慕う高校三年生に。
ホワイトアスパラガスがグリーンアスパラガスに……は、ならないけど。
「ありがとうございます……」
盗作の冤罪で生活に困り、贋作に手を染めて服役し、アルコール依存症となって特発性大腿骨頭壊死症の疑いありなニコラさんのお父さん。
ニコラさんの目的――お父さんの人生を狂わせニコラさんとお父さんを引き離した美術界に復讐すること――を知らなかったとはいえ、美術の『先生』として贋作制作技術も教えたのであろうおじさん。
ニコラさんの犯罪の責任を自らに突きつけたおじさんが、さらにお酒に走っちゃったりしないように、茶々さんは嘘をつこうとしてあげてるんだ。
「引き返せない『留学』について私がしてやれることはない。おまえの選択した『フランス』でゆっくり頭を冷やし、学んでくるがいい。『留学』中の健康を祈っている」
「はい」
「代わりと言っては何だが一つだけ答えてもらおう。ノンかウィの一言でいい」
急いた複数の足音が廊下をやって来て、警察だと名乗るのが聞こえました。茶々さんは密やかなトーンで口調を速めます。
「おまえには共犯がいたはずだ。怪盗贋作家が美術館へ侵入したのはプロの手口だそうだが、まさかそんな技術まで『先生』が知っていたとは思えないからな。ところが聖ウェズリーには盗撮を趣味兼実益とする黒羊がいる。私の調査では、そいつは裏世界に精通した鍵屋とつるんでいる。おまえと盗撮屋の接点は不明だが、ここは牧場主の勘だ」
はっ、そういえば。リッキー党員に気をつけろ、とニコラさんに忠告した方がいるはずなんでした。
「そして二枚とも贋作の『古寺月夜』。恐らくおまえは美術館侵入と絵画窃盗の報酬として『古寺月夜』の真作をその鍵屋へ流した。二枚の贋作を描くことで真作の行方を隠蔽しようとした。鍵屋には共犯について自供しないと口止めされている、どうだ」
暗色の背広をまとった警察の方々がどやどやと踏み込んできました。だけどニコラさんはそんなの全く聞こえてないみたいに、目を丸くして茶々さんを見上げていました。
「ウィ、です」
答えてからニコラさんは呆れ顔で茶々さんと、リッキー党三名を眺め回し。
「変人だらけの聖ウェズリーには慣れてると思ってた。あんたたちまともに見えて一番おかしいかも」
「はい、先輩方はそういう人です!」
なんかとってもほめ言葉に聞こえたから、胸張ってそういばったんだけど。
「おまえ・さりげなく自分を・除外すんな」
妙なとこ結束を固められてしまいました。
「本当のこと言うと」
「ニコラっていうのは君かな? 署までご同行願おう」
話と視界に割って入った警察手帳なんて、ニコラさんは見ようともしなかった。リッキーさんと結んだ視線は緩んでる。
「誰かに止めて欲しかったんだ。芸術を冒涜し続けるのは嫌になってた。愉快犯なんて言われたけど、ぼくはちっとも楽しくなかったんだ」
「でもやっぱり、ちょっぴりさびしい話でしたね」
怪盗贋作家事件と直接関わってはいないということで、身元確認と後日の事情聴取の約束で解放してもらえました。マスコミと野次馬と警官たちでごった返す美術館を脱出、リッキー党員三人で駅に向けて歩きだします。
陽はずいぶん傾いていて、下から照らされる雲のはじっこがピンクに染まってる。
「おじさんはニコラさんに迷惑がかかるからって離れて暮らしてたのに、ニコラさんはおじさんを想うあまりの復讐で逮捕されちゃうなんて。みんなが幸せになれる道ってなかったんでしょうか? ニコラさんがあそこまで復讐心をむきだしにするの、怖かったというより悲しかったです」
「言ったろ、期待を裏切られて傷つくのは信じた方だって」
ずるぺたしながら大牙さんは素っ気無い。
「だから一人で出かけんなっての」
「すみません……」
しょぼん。
聞き込み刑事さんになったつもりで情報収集を頑張ったのに。少しだけリッキーさんのお役には立てたみたいだけど、大牙さんには怒られちゃいました。
――律ちゃんが投げるコインは常に真実の面を出す。
莉子が投げるコインは常に裏目に出るんでしょうか……。
「大牙、そんな風に言わないの」
アスファルトへこつんこつん。ぶつけるみたいに鳴らすサンダルの先をぼんやり見送っていたら、リッキーさんが慰めてくださった。なでなで、って後頭部に優しい感触つきで。
だけど一歩間違えば、事件をめちゃめちゃにしちゃってたかもしれません。慰めて頂けるのはありがたーく嬉しいことだけど、反省もしなくちゃ。
「いえいいんです、大牙さんのおっしゃる通……」
しっかりしなくちゃ! ぱきっと顔を上げたら、リッキーさんは前方の押しボタン式横断歩道のボタンを「マルシェ、トゥシュ!」ってフェンシングの優雅な動きで押してらした。
あれっ、その位置から莉子をなでなでするには遠隔操作な手首が必要では……。
「そだ。優しい大牙にごほうびあげちゃお」
わたしのリモート手首君疑惑をよそに、リッキーさんはチノのポケットから紙片を取り出すとそれを伸ばした指先に挟む。
「ボンナヴァン!」
ってこれまた白鳥のような典雅さで跳んで、大牙さんに差し出した。受け取って広げる大牙さんの手元を覗きこむとアルファベットと日本語の住所。アルファベットの方はぜーんぜん読めない、フランス語かな。
「大牙お気に入りのバナナタルト名人が師事したパティシェのいるカフェ。メニューにばっちりあるって、バナナタルト。つまりバナナタルト名人はそのカフェでバナナタルトを習得したんじゃない?」
「なにっ! よくやった律ちゃん!」
ガシーって大牙さんの腕がリッキーさんの首を抱え込む。もう片方の手でぐしゃぐしゃぐしゃとキューティクルリッキーヘアを攪拌。
うわあスキンシップを目の前でー!
「ここから遠くないな、急げば閉店に間に合う。おまえら先に帰っとけー」
台詞の後半はすでに猛ダッシュに入ったため切れ切れでした。
大牙さん……じゃれあいを見せ逃げですか。
無言の愛情表現の方が効くと思ってましたが、あのぶっきらぼう大牙さんがストレートにラブをバクハツさせてるのをモクゲキするのもインパクトです。
「ほんっとバナナには熱心だよねー」
可愛いんだから大牙ってば、って心の中で付け足しましたね?
ああそうでした大牙さんにはバナナなんでした、以前もこのパターンでノックダウンされたのにうっかりしてました、恐れいりましたリッキー総統、基本戦術をお忘れにならない。
総帥はさらに携帯を構えると。
「もしもし、バナナタルトの取り置きをお願いした神宮寺と申します。のちほど走って伺います、茶髪で目と肝の据わった高校生、衛藤という者が受け取りに――」
手回し良すぎ、どこまで戦略家なんですかーっ!
このラウンドも降伏です、ジークハイル、ハイルリッキー……。
総統は愛の交歓で乱れた御髪を手で梳いて整えてらっしゃいます。その手をじっと観察。リモート手首君と腕との境目を、腕時計で隠してらっしゃるなんてことは……。
「なあに?」
「いえ、あのーリッキーさん、さっき頭撫でてくれましたよね?」
きょとんとした総統さまは次に、絵の中でなくとも時計までとろかしそうな笑みを咲かせた。
「ノンヴァラブル」
うーむ、フランス語を話すのはニコラさんだけだと思っていたのに。
「大牙はまた無効面突いちゃったみたいだね。ふふっ」
可愛いんだから大牙ってば、って心の中で付け足しましたね?
「……捕まりたいって願うのは破滅欲求じゃなくて」
ふとリッキーさんは遠くの空に視線を投じた。視力十.〇でも認知できない遠く遠くの誰かを探すみたいな瞳。
「幸せになりたいのに、どうにもならない気がしちゃったのかもしんない。けど……愛がある限りバナナタルトは、思いも寄らない場所で来訪を待ってるかもしんない」
「……はい!」
総統閣下のお言葉に指をそろえて敬礼。閣下もにっこり返礼、てんと首を傾けて……可愛いんだからリッキーさんってば!
愛で見つけてみせるのはリッキーさんだけじゃない。
それはきっと愛を信じるすべての人に、等しく備わっている力なのです。
盗撮屋はラウンド6 健闘 in 拳闘 ・・・幻のお砂糖でこそっと出ていたアツです。彼と鍵屋は『守護霊見習い』見習い三号 ―絹―の登場人物なので、興味が湧いた方はドゾー