4. 憤りはナフトールレッド
近代美術館と名のつく場所は、莉子にとってどうにも居心地がよくありません。きれいすぎて、生きてる人間の匂いを感じにくいからじゃないかな。
石膏像みたいにつかみ所のない無表情の美少年・ニコラさんがとっつきにくいみたいに。
雑草なんて芽を出し次第摘まれていそうな芝生。その緑をつっきって本館へと続くコンクリートの道から、一歩踏み込んだだけで警備員さんに注意されてしまいそう。
鉄パイプがうねうねしてるような野外作品、あれより内耳の骨迷路の方がずっと神秘で芸術的なのになー。
目に痛いくらい白い本館は、空間を断ち切ることばかり考えてるみたいな強い直線で出来てる。大きな自動ドアを抜けたら、美術館特有の空調に満たされた高い吹き抜けのフロア。チケット売り場へ向かう方たちがみんな、教養あるハイソに見えてきます。
わたしが場違い感にもじもじしてる間に、リッキーさんはすっすっすっと。大牙さんはずるぺたと。ニコラさんはフーッと空中移動する幽霊みたいな静けさで受付へ向かいます。
リッキーさんは絵画をうっとり鑑賞してるそのお姿こそ絵になるような方だし、大牙さんはたとえ周囲が火の海でもあくびしてそうな方だし、ニコラさんは美術に縁の深い環境で育ってるし、異なる理由で場違いを感じてなさそう。
受付のお姉さんに案内して頂き、館長室へ。外観や壁と統一された白くて素っ気無いドアの前には警備員さんが待ち構え、学生証を確認される厳重警戒っぷり。
予定外の来訪だったニコラさんへ、警備員さんは見定めるような視線を向けてる。すかさずリッキーさんが和やかに頼みいれる。
「聖ウェズリー学院の安香常務理事がおいでだと思います。安香理事に入室許可を仰ぎたいとお伝え頂けませんか」
館長室には怪盗贋作家の被害に遭い、リッキー探偵の愛判定を待つ真作贋作合わせて四組八枚の絵画が運び込まれているはず。警備員さんの警戒もごもっとも。
そこへ犯人であるニコラさんを引き入れようというのですから、思えばリッキーさんも度胸のある方。驚愕の事実を感じさせないリッキーさんの堂々とした、かつ丁寧な依頼を引き受けた警備員さんがドアの向こうへと消えます。
「ショーの幕が上がる」
ぽつんと呟いたのはニコラさん。
「下りるんだよ。怪盗贋作家の芝居はお開きだぜ」
すぐに、フンと鼻で息を吐いたのは大牙さん。
「コインの裏表を当てるのと変わらないんじゃないの。あてずっぽうでも当たる確率は絵一組目で二分の一。運良く一組目が当たったとして、二組目も正解する確率は……」
「黙れよ、もやし」
あっ大牙さんってば、わたしに対してニコラさんでもやしを連想するのは失敬だとか言ったくせにー。
「これは確率じゃない。律ちゃんが投げるコインは常に真実の面を出す」
チェックのシャツの下、ニコラさんの細い肩がわずかにすくめられたようだった。
「……そっちの二年生も、神宮寺君ならできるに決まってるってわめいてた。変な人たち」
ふふ、リッキー党の結束と信頼の固さを見ましたかニコラさん!
いばって胸を反らしてたら、大牙さんの唇が「うげ」の形に曲がった。
「このボケとまとめんな。こいつはお気楽な方向に思い込みが激しいだけなんだ」
結束の……固さ……。
警備員さんに内容を聞きとがめられないよう館長室から離れ、ニコラさん同伴の経緯を茶々さんにも先輩方にも詳しく話す。言葉少なに頷く茶々さんの表情は厳しくて、理事さんとしての立場を莉子に思い出させました。
もしニコラさんが自供しなければ。
怪盗贋作家事件は迷宮入り、四つの近代美術館から真贋不明な四つの絵画が永久に葬られることになる。聖ウェズリーには最重要容疑者が在籍、茶々さんは牧場主として監視を絶やさないに違いありません。
ニコラさんが自供したら。
聖ウェズリー常務理事として茶々さんは対応に追われることになる。未成年でニコラさんの名前が公表されなくてもマスコミに漏れるかもしれないし、警察の捜査だって入るでしょう。
「事情は分かった。謹んで招待しよう」
ニコラさんの入室許可が下りました。
応接セットも壁も床も真っ白、窓がなく落ち着かない館長室。正面にどーんと大きな絵が飾ってあり、その前に集まってた背広のおじさんたちが一斉に振り返った。
茶々さんがきびきび紹介してくださる。いらっしゃるのは被害に遭った四つの近代美術館の館長さん方だそう。リッキーさんと挨拶を交わしながらも明らかに戸惑ってらっしゃる。
「高校生ですか。はあ、こんなお若い方とは知らず……」
「絵に残された何でしたか、気のようなもので判別するとうかがったが……」
「わしはどうもそういうのは懐疑的で。安香さんの強いご推薦がなければ……」
疑心暗鬼な館長さんたちにわたしはついムーッとしちゃったけど、リッキーさんは一礼してさっさと判定に移った。
パーティションで仕切られた奥の壁には、ずらりと絵が並んでる。全く同じとしか思えない絵が二枚ずつ四組八枚。
靴の先が壁に着きそうなくらいの至近距離でリッキーさんは絵と向かい合った。絵を見るというより肌を沿わせてる感じ。
「触らないでくれたまえよ」
「本物が分かるのと触られんのとどっちが大事なんだよ。心配すんな、律ちゃんは触らねーよ」
手袋を手にそわそわと注意した館長さんの一人は、大牙さんにガツンと言われちゃってます。
場は急にしんと静まり、全員の視線がリッキーさんに集中。一挙手一投足を固唾を飲んで見守る、ぴりぴりそわそわとした雰囲気に塗り変わりました。
「近代画家と言っても制作から数年以上経って、描くことでこめられた画家本人の波動は飛んじゃってますね。模作者の波動の有無で見分けるしかなさそうです」
ニコラさんの描いた絵にはニコラさんの波動がこめられているから、それで判別するのですね。
一組目、莉子には絵の具のついた刷毛を振り回しただけとしか思えない抽象画。
リッキーさんは左側の絵の前には、三十秒と留まっていなかった。右側の絵の前へ移動して、そこにはしばらくたたずんでた。数歩下がってテンと首を傾ける。迷ってるというより考えてるみたいです。
「どうだね」
「分かるかね」
「……大牙、莉子ちゃん」
期待と意地悪な興味の入り混じった館長さんたちの問いかけには答えず、リッキーさんはくるんとこちらを振り返った。
緊張に張り詰めた場から浮いてるほどの柔和さをたたえてる。特別展示室の最奥で微笑む中世の聖母画みたいに、ぽっかりとそこだけ切り離された異空間。時間も場所もなくなり、慈愛の表情だけに浸る鑑賞者の気持ちになります。
東洋のまっすぐな黒髪、青みを帯びた黒い瞳、白シャツにチノというお姿でも、聖母画と共通するものははっきり感じ取れました。
ずばり教祖オーラ……!
「僕は、大牙と莉子ちゃんがいなかったら右側を模作って決めたと思うの」
長いこと眺めてた方の絵が示される。
「だけど、大牙のバナナタルトと莉子ちゃんの性善説を信じれば正解が見えたの。この右側の絵こそが真作。二組目の真作はこっち。三組目の真作はこっち」
真作に大きな赤丸でも付けられてて、それが千里眼・リッキーの目にだけは映ってるみたいだった。淀みなくこっちこっちと指し示すお姿に四人の館長さんたちは唖然として声もありません。
「そして四組目」
輪郭のこってりした油彩の夜景。のどかなのに漂う陰影は宮沢賢治の童話に合いそうです。
「タイトル『古寺月夜』――残念ながら、こちらは二枚とも模作です」
「馬鹿な!」
怒鳴ったのは、きっとこの絵を所蔵してた美術館の館長さん。初老で恰幅のいい上品なお顔が真っ赤になってます。
「二枚ともだと? ありえんだろう! なら真作はどこにあると言うのかね。真作を盗んで二枚もの贋作を送り返してくる理由をどう説明するのかね」
声を荒げた館長さんがリッキーさんに詰め寄ったその時、ぱん、ぱん、ぱんと乾いた拍手が館長室に響き渡った。
一同全員の視線が音源を探し、やがてニコラさんへと収束する。
「おめでとう、全問正解」
「勘で三組目まで当てるかもしれないとは思ったけど、『古寺月夜』が両方ニセモノだと見破られたんじゃ降参。約束だから自供する、ぼくが贋作を描いた」
「君は……君は何を言ってるのかね」
四人の館長さんたちにとって、ニコラさんは真贋判定に飛び入り参加した高校生にすぎません。リッキーさんの謎な判定理由、そして想定外の五枚目の贋作、ニコラさんの自白に頭が混乱なさってるみたいです。
「虚言だろう」
「警察を呼びたまえ」
「いやしかし鑑定が先じゃ」
草原で首をひくひくめぐらせる小動物風な動きでせわしなく視線を泳がす館長さんたちへ、ニコラさんは冷ややかに告げる。
「贋作は画布の余白のどっかに砂糖水を塗ってあるから、それで鑑定すれば」
疑ってたのに、一転して弾かれたように館長さんたちは絵へと走ります。
「どこだ。むっ、ごく薄い小さな染みが……いかん、舐めちゃいかん毒だったらどうする」
「あの少年の言うことを信じるのかね」
「そうおっしゃるあなただって、染みのにおいを嗅いでたじゃないか」
「あんたたちって」
大人気なく口角泡を飛ばして騒いでらした館長さんたちは、ニコラさんの呟きにぴたりと黙った。
「絵どころか砂糖も鑑定できないんだ。そのくせ一人の画家の人生も、家族まで滅茶苦茶にして芸術をご存知の館長面するなんて恥知らずだ。それこそ芸術に対する犯罪だよ」
石膏像のように動かぬ中で、茶色の目だけが怒りに燃えだしていました。
「ぼくは美術界を笑いものにしてやりたかった。人より感性が優れていると、自分なら真の芸術が分かると思い上がった美術家たちの鼻を明かし、やつらの非情さを暴いてやりたかった。そのためにぼくは自分の存在もオリジナリティもずっと殺してきたんだ」
元贋作家のお父さんに目的を伏せて贋作制作技術を学ぶ、その過程でニコラさんは笑顔も失ってしまったんでしょうか。
「美術界が右往左往してんのはスカッとした、という点でぼくは愉快犯だったのかもね。怪盗だろうが贋作家だろうが好きに呼べば。あんたらの無能さは存分に世界に知れ渡っただろうし。盗んだ絵の画家には悪いと思ったけど――」
「君は便乗犯だな? 君の若さであんな完璧な贋作を描けるわけがないだろう。ふざけるのもいい加減にして出て行きなさい」
館長さんの一人に遮られて、ニコラさんの目にある炎が一段とどす黒くなる。
「どこまで頭が悪いんだ? せっかく人が、美術館になら置いてあるであろう薬品で確かめられる砂糖を選んでやったのに」
「おい警備員! こいつを」
「待ちたまえ、追い出すのは確かめてからにすべきだろう。美術館の薬品でと言ったな。あなたたち誰か分からんのか。そうだ、蟻が寄れば砂糖だ」
「蟻に絵を鑑定させるつもりかね!」
わたわたする館長さんたち、まるっきりニコラさんの手玉に取られてる感じです。
そういえばお砂糖って、鼻折れ校医や摩擦ルミネセンスなどなんだか近頃やけにおなじみの……そうだ!
バッグから携帯を引っぱり出して電話。かけた相手は「はあーい」とやけに鼻にかかった声でお答えになった。
「お休みの日にすみません、ひわ先生」
「げっ、魔女に聞くかよりによって」
隣で大牙さんが明らかに電話の向こうに聞かそうとする発声で嘆いてる。
「突然の質問で申し訳ないんですが、美術館にある薬品で砂糖を検出することってでき……も、モーリッシュ反応って? エタノール?」
砂糖を見つけた蟻さんの勢いで館長さんたちが群がってきた。目が必死で怖いよう。
「エタノールなら洗浄で使う、もちろんある。内線だ、修復室に持ってこさせろ!」
「はいっ? な……ナフトール? の結晶を、エタノールに溶かすんですか?」
「ナフトールはマゼンタ系顔料の原料だ。それもある!」
館長室はにわかに動きだしました。絵の前へテーブルが運ばれ、美術館のスタッフとおぼしき方々が試験管や薬品を抱えて走ってきます。
「硫酸も? 硫酸ありますかー?」
「ある! 先週のイベントで、ガラス工芸家のワークショップで使ったのを見たぞ」
リッキーさんが模作と判定した五枚の絵画、そのキャンバス余白にはどこかに必ず薄い小さい染みがありました。染みの表面を慎重に削り落として水溶液にした五本の試験管が並べられます。
『硫酸で糖からフルフラノール誘導体ができるわ。それがナフトールと反応して赤紫になるのがモーリッシュの呈色反応。キレイな色なのよ、毒薬イメージの……うふふ。ナフトール系の顔料はこの色よ』
手順を説明するひわ先生はご機嫌のようです。
『糖の水溶液にナフトール溶液を加えたわね? そうしたら硫酸をそっと流し込んでみて、そうっとよ。硫酸は沈殿して水が上へ押し上げられる。その境目が染まれば糖の存在が証明されるっていう目にも鮮やかな化学反応よ』
ひわ先生のおっしゃる通りにすると。
試験管の底、無色透明の層に上下をサンドイッチされて、細い赤紫の層がほわんと出現! 覗きこんでた館長さんたち、茶々さん、サイケメタリック探偵社員、全員がおおっと声をそろえました。
「反応したっ」
「色がついたぞ」
「ナフトールレッドだ!」
「せ、先生出ました、呈色反応ってアートですー!」
思わず興奮して携帯へ叫ぶ。
『あん高居さん、あなたは理系に天職が――』
ガッ。
おっと激しい子猫づかみ。黙れという無言の圧力がヒシヒシ伝わってきます。頚椎を持った手がグイーッと莉子の向きを変えさせました。
パンして開けた視界では、ニコラさんが怖い顔した館長さんたちに取り囲まれていました。