4. 口封じは唇で
「あら高居さん、遅かったわね。それにひきかえ衛藤くんの筋肉系って超人的よ、解剖してみたいわ」
教祖拉致犯はソファでのんびり煙草をくゆらせておいででした。
「帰れ、白衣の魔女」
「ま。そんな悪態つくと、麻酔かけてあげないわよ。やだ、楽しそう……うふ、うふふふふ」
待ち遠しくて仕方ないって感じで肩を揺らす先生の頭蓋骨内ではいま、どんな光景が繰り広げられているのでしょう。きっと知らない方が幸せ。
バスルームからかすかな水音、リッキーさんはシャワーを浴びてらっしゃるようです。泥んこだったもんね。
「車、茶々ちゃんのスペースに停めさせてもらったわよ。留守だしいいわよね」
「俺は女難の星の下に生まれついてるんだな……」
「占ってあげましょうか、ミッチーで。当たるのよ」
「やめろ。占いの結果を腕ずくで真実にしていそうで恐ろしい」
莉子は占って欲しいですー。あの水晶の下顎骨で、ザ・ワールドベスト下顎骨さんとの恋の行く先を。
「お待たせしました」
着替えてきたリッキーさん、濡れ髪のまま。シャンプーとせっけんの清潔な香りがします。おかえりなさいと言って、ひわ先生はマリリンぼくろのある口角を優しく持ち上げた。
「風邪を引いたら相談してちょうだい、薬を調合してあげるから。成分? とかげの黒焼きが効くのかどうか、あなたも試してみたいはずよ」
「か・え・れ」
ひい、大牙さんが怖い。ドスとにらみをきかす大牙さんの頭を、困った笑顔のリッキーさんがよしよしってなだめてる。元凶のひわ先生はどこ吹く風で、煙草を押し潰した――大牙さんのキープしてた熟成バナナへ。
「バスルームお借りするわね」
立てばバラ、座ればバラ、歩く姿はバラ・バラ・バラ。豊かな花弁の濃密エキスを振りまきながら、ひわ先生は軽やかにバスルームへと消えた。
「くそーっ九蓮宝燈の都市伝説め、何をモタモタしてんだっ」
無残な焦げ跡のついてしまったバナナを前に、大牙さんは悔しがってる。ひわ先生、反抗的な生徒にさりげなく……いえさりげなくなく罰を下されたようです。その時、小さな音が。
きゅるきゅるきゅる。
「大牙さん、お腹鳴ってますよ。あ、もうすぐお夕飯ですね、支度しなくちゃ」
「おい……いくらバナナが好物でも、バナナを前に腹を鳴らすなんて猿じゃないんだぞ」
違うんですか? と思ったのが顔に出てたらしく、焦げ跡のついた熟成バナナで眉間を打たれました。
「ひどい、何てことするんですかー」
「猿扱いするおまえがいけないんだろ!」
「そうじゃなくて。食べ物を粗末に扱っちゃいけないって教わりませんでしたか」
「これはすでに食いモンじゃない。魔女に汚染されちまった……」
動物的にうめいて、お猿さんはソファに埋没してしまいました。対照的に、バラの精のように華やかで軽やかなひわ先生がバスルームからお戻りになる。
「明日、朝の礼拝が終わったら科学準備室に来てね。謝礼を渡すわ。ではごきげんよう」
「よろしくお願いいたします。お帰りはお気をつけて……ほら大牙、すねてないで挨拶しようね」
「せんせーさようなら、二度と来ないでくださーい」
ソファから大きな手がブラブラ振られる。先生のきれいな弧を描く眉がぴくんと反応した。
「衛藤くんって、しっかりしたカラダしてるわよね。健全な筋肉は健全な骨格に宿るのよ」
はっ。まさかひわ先生、あなたは、あなたは。
「衛藤くんの筋肉系統をリサーチし終えたらウェズリーの骨格標本とすげ替えちゃおうかしら、これぞ正真正銘のナチュラルキャストね。うふふ」
先生あなたは、骨フェチでいらっしゃいますかー!
「先生、ひわ先生ってすばらしいですうー!」
「あん。可愛い子ね、高居さん……」
「おまえら二人とも帰れー!」
翌朝の高等部生全員が集まった礼拝堂。荘厳なステンドグラスが柔らかく朝陽を丸め、パイプオルガンは天上の音楽のように魂へ響きます。制服も髪の色も多様な聖ウェズリー生ですが、この時ばかりは一様に静か。
でも莉子としましてはリッキー教に入信してからというもの、神父さまのお話が色あせてきたように感じるのです。集中できずにキヨイ先輩の姿を探す。女生徒の中では頭ひとつぶん飛び出してるから、容易に発見可能。
ところが今朝に限って見当たりません。
注意深く観察すれば、リッキー軍団関連の知った顔が少ない。みちるさんもいない、まさかリッキー軍団による制裁真っ最中だったりして? 主よ救いたまえ、アーメン。
小さく十字を切ってたら、周囲のお友達が身を寄せてきた。
「聞いた? キヨイ先輩、熱を出して倒れたんだって」
「莉子、休みなのはリッキー軍団ばかりなの? 軍団の中でたちの悪い風邪がはやってるのかもね。あるいは集団食中毒」
礼拝終了後。タイムカプセル探しの謝礼を頂くため科学準備室へ急ぎつつ、携帯からキヨイ先輩へお見舞いメールを打った。すぐに返信が。
『発熱と鼻血による貧血ですわ。皆勤賞が……でも本望なのですの』
ああおいたわしい、凶悪な風邪を召されてしまったようです。
言われた通りに出向いたのに、科学準備室にひわ先生のお姿はなかった。代わりにミッチーが――下顎骨着脱可能な水晶ドクロが――封筒をくわえて、実験台の上にでーんと鎮座ましましていた。
『素直に受け取りなさい。でないとミッチーが神宮寺君を食べちゃうそうよ』
封筒の表に書かれた呪文……いえ、伝言をリッキーさんが読み上げた。中には取り決めより遥かに多額の紙幣がびっしり。
大牙さんが一歩後退。
「よせ律ちゃん、受け取るな。罠だ、これは絶対に罠だ。あの魔女が好意で増額なんかしてくれるわけねーだろ」
「でも受け取らないと、ミッチーに食べられちゃうよ? ふふ」
それも悪くないけどーみたいな顔しないで下さい、リッキーさん。
「土木作業員しそこねちゃって家賃足りないんだから、ここはありがたく頂いておかない? これだけあればお釣りがくるよ。火の車な台所も延焼しないで済みそう」
昨日は帰されてしまったのでどうなったのか心配してましたが、結局お二人は家賃に足るお金を工面できずにいたようです。
「莉子ちゃん、帰りに買い物頼みたいの」
何かある、絶対何か裏がある、と呟き続ける大牙さんに隠れて、リッキーさんはわたしの手に紙幣を滑り込ませました。
「バスローブ、なぜかなくなっちゃったの。バスルームの窓が開いてたからそこから風にさらわれてっちゃったのかもしんない」
きゅるきゅるきゅる。
小さな音が耳小骨に再生される。あの時鳴ったのはバナナを前にした大牙さんのお腹だと思ってたけど……。
「おい、予鈴鳴ったぞ」
一刻も早く科学準備室から離れたくて落ち着かないって口調で我に返った。
「あっ……どうぞ行って下さい。莉子はあのその、もうちょっとミッチーと一緒にいたいので」
うさんくさげな大牙さんの目線を浴びて、背中にツーッと汗が走る。
「ほんとですよーあははーパイレーツ万歳」
ミッチーのつるんとした頭頂部をナデナデしてみせると、大牙さんの険しい目が一層細くなった。
「オーパーツだ。食われても知らねーからな」
科学準備室にひとりきり。いえ、ミッチーと二人きり。
なんて精巧なんでしょう。なんて美しいのでしょう。頭蓋骨という何万年もかけて人間が改良を重ねてきた機能美、それを水晶が際立たせてます。
しかも下顎骨取り外し可能ですよ!
動かしてみてもいいんでしょうか。手が震えます。食われても知らねーぞって大牙さんの言葉が気になる。えーい落ち着け莉子、ミッチーはそんな骨じゃない! さあ顎関節を――開いた、ミッチーが笑ったー!
「ぱくっ」
「きゃああーミッチーごめんなさい! ……あっ、ひわ先生」
うふふふ、と楽しげな声に振り返ったら白衣の魔女さんがドアに寄りかかって笑ってた。モンローウォークとモンロースマイル、本日もむっちり妖艶。
「ミッチーと仲良くしてくれたら嬉しいわ。この子、なかなか友達できなくて」
えへへ、こちらこそ喜んで。
「それで、ご用は? 謝礼を拒否して、聖なる科学の名のもとに神宮寺くんを生贄に差し出してくれちゃうのかしら」
「いえっ! あの、お約束よりたくさん、ありがとうございました。ですが、なんだか引っかかるものが」
「なあに?」
リッキーさん大牙さん宅で先生がバスルームを使っていた時、きゅるきゅると鳴ったのは大牙さんのお腹じゃなくて。バスルームの押し出し窓のレバーだったのでは。
ひわ先生は、お留守の茶々さんの駐車スペースへアルファロメオを停めてた。そこはバスルームの窓から見える場所。タオルやバスローブを投げたら届くような場所。
一夜のあいだに集団で凶悪な発熱と貧血に取りつかれた、だけど本望らしいリッキー軍団。
そして約束よりはるかに多額の謝礼金……。
「だから?」
「だからその、見えないところでなにかが起こったような感じがするんですけど……」
「うふふん」
ポスター撮りでもしてるみたいな極上の微笑を浮かべるけれど、ひわ先生はお答えにならない。
「事情をご存知だったりするのでは……」
艶笑する唇の前に、しいって人差し指が立てられた。じー、って音がしそうな熱心さで覗き込まれる。
「お金を生み出す魔術の、最後の仕上げ。あなたに口封じを施しちゃうわ」
そうささやいたひわ先生のバービーちゃんみたいに大きな瞳が、焦点が合わせられないほど近付いて――ぷちゅう。
お母さん。教えて下さい。
莉子にいま、何が起きたんでしょう……? あのしっとりと温かで柔らかい、いい匂いのする、唇に押し当てられたものの正体は何なのでしょう……?
「高居さん、恋は眼鏡みたいなものよ。のぼせてると曇って何も見えなくなる。だけどその盲目でしか見えない幸せもあるの」
ぼんやりかすむ視界の中を、魔性のバラの精は呪文を残し、オレンジブラウンの髪をなびかせて去っていきました。
部屋続きになった隣の化学室で、授業を控えて入ってきた生徒たちががやがやしてる気配がする。試験管かフラスコか、ガラス製品が触れ合う澄んだ音もする。
あっちの部屋が現実で、こっちの部屋は幻ですよね? 魔界ですよね?
「ん? 莉子ちゃん、まだいたの」
バラの魔女がいらした場所へ入れ替わりに、黒髪のボディダウジングさまが登場なさった。
「一限目の授業、化学だったから戻ってきちゃった……莉子ちゃん?」
眼前をすっすっす、ってすらりときれいな人差し指が行き来したあと、不意に顎へ触れてきた。
「この色、ひわ先生の……そっか莉子ちゃん、キスを拝領したんだ」
きっきききききき。
「うあーやっぱりそうだったんですか、どうしましょうリッキーさん、ファーストキスが、お、女の人だなんて知れたらお嫁さんもらえません、お婿さんになれませーん!」
白いシャツとタイのお胸に思わずすがりつき。
「そお? 僕はぜーんぜん構わないと思うの。イタリアの作家、ディエゴ・ファブリも『愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ』って言ってるし」
あ、リッキーさんってばもしかして、たっ大牙さんがふぁっファーストキスだったんでしょうか、同性同士でも構わないなんて明るくおっしゃったりしてっ。そりゃ愛があれば性の差なんて、でもひわ先生のは明らかに愛じゃないもん口封じって言われたもーん!
「結婚しなくても、このまま僕と大牙と三人で暮らせばいいじゃない」
何百ラウンドまで戦わせる気なんですかー!
第九ラウンド、経済面で貢献して大牙さんに桃太郎認定してもらう頭脳作戦は瓦解。それどころか、女性教師からキスを賜るという秘密を作ってしまいました。それをよりにもよって、チャンピオン・教祖・リッキー師に知られてしまうとは!
「うっうっ……ほんとにお世話になるかもしれません……」
「ん。仲良く暮らそうねー」
リッキーさんてば、愛に迷う子羊を分け隔てなく受け入れる神父さまのよう。こうしてすがりついてると安心。落ち着いてきて、すうはあと息を整える。
その時、へたへたと頼りない足音が。
「ひわせんせー、わたくし熱でぼーっとしますので、早退を……」
化学室からよろめき入ってきた女生徒さんと目が合った。あ、知ってる。リッキーさんとクラスメイトってことで、リッキー軍団諜報部にいらっしゃる方だ。
諜報員さんの熱ではれぼったく染まった頬やまぶたから、ザーッと血の気が脱走した。くるみ割り人形もびっくりな顎関節の開き具合で指差される。
はっ! もしかしてこの体勢、リッキーさんに抱きついてるように誤解されるのでは!
「ちっ違っちがちがちがーっ」
「血が足りないの? 顔色良くないね、車まで送るよ」
軍団の存在をご存知ない崇拝対象がのんびりと申し出ると同時に――諜報員さんの瞳が天へと回った。
「わわ、しっかり。大牙ー、担架」
失神してしまった諜報員さんが床に崩れる直前に、リッキーさんが間一髪で抱きとめる。そして廊下に向けて大牙さんをお呼びになりましたが、大牙さんはご自分の教室で授業を……
「んあ? そのドア外して担架にすりゃいいだろ。その方が早い」
地獄耳ーっ!
主の一声ではせ参じた大牙さん、すぐさま状況を把握。そのドアと言って化学室と準備室を隔てる引き戸をグイと示した顎でしたが、唐突に固まりました。
ヒヨヒヨ茶色の前髪のあいだから莉子を睨んでらっしゃる! 無愛想で力強い野生動物の瞳が怒ってる! 確かに諜報員さんの気絶の原因は莉子にあります。
「すみません、でも誤解です、誤解なんで……むぷ」
いきなり大牙さんは腕まくりするみたいに学ランの袖を抜いて、下に着てた長袖シャツの袖口を出した。そこを莉子の顎に押し付けてきました、ぐいぐいぐいーって乱暴に!
「にゃ、にゃにするんでふかー」
生地に唇がこすれて痛かったじゃないですかーっ!
なのに莉子の抗議を一切無視。面白くなさそうに袖口を眺めやってから、大牙さんは改めて引き戸の方へ行っちゃった。いとも簡単に戸を外すと担架代わりにして、リッキーさんと一緒に失神諜報員さんを搬出。
なななななんだったんですか、莉子、口に歯磨き粉でもくっつけてましたか? ひゃあ、恥ずかしい。
「あら、この騒ぎはなあに? ……ふうん、話を聞く限りじゃ血管迷走神経反射性失神ね、休めば心配ないわ。さ、席について。美しき規律の世界、化学のお時間よ」
その日を境に聖ウェズリーでは、科学準備室の水晶ドクロが笑うのを見た者には災難が降りかかる……という怪談が定着した。
かわいそうなミッチー。
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