2. 俺が売約済み
出発してから二時間弱。富士山がどーんと間近。高速道路を下りたら国道を少し走って、千歳さんは樹海に隣接した公園の駐車場へ車を停めました。
「えーっと遊歩道はどっちかな」
プリントアウトしたっぽい地図と現在地の照合をなさってるようです。手元を覗くと、樹海の一部の拡大地図が。
「ひろさんがどの辺りにいらっしゃるか、見当がついてるんですか?」
「トナー切れたって言って俺のパソコンからプリントアウトしてたからね、履歴探して同じ地図持ってきた」
わー、なんだか探偵さんみたいですー。
「おい、遊歩道ならこっちだ」
呼ばれて顔を上げれば、迷いなくスタスタ歩き出してる大牙さんの背中。リッキーさんも追随しながらすでに愛のアンテナ合わせてるのか、無言のまま原生林の方へ意識を飛ばしてる。
「あの二人、樹海が地元……なわけないよね?」
慣れた様子の先輩方に、千歳さんは戸惑い顔。
たぶん、何度も来てるんだ。律音さんが消息を絶った初等部時代だけじゃなくて、その後もお姉さんの足跡を探して何度も何度も。
遊歩道の入り口が近付いてくる。視界いっぱいに迫る樹海を覗いてみました。
ごつごつした岩へと露出した根に苔を従え、うっそうと密生する木々。抜けてきた風は湿り気を帯びてひんやり、葉っぱや土の匂いがしてる。木漏れ日なんて望めない暗がりはよそ者の侵入を拒んでいるのか――それとも招いているのか。
ふええええん、不気味です不気味ー。幹の間に人の顔が浮かんでそうで、直視できません。思わず大牙さんにすり寄り。
「何か買えるとこないかな。ひろさん、お腹空かしてると思うんだよね」
千歳さんがきょろきょろすると、大牙さんのファービュラスな下顎骨がぐい、と道路のカーブの先を指し示す。
「ちょっと行けばシケた売店があって、牛乳とバナナくらいなら売ってる。……八年前からばーさんだったばーさんがポックリ逝ってなけりゃな」
「そっか、悪いけどここで待ってて。健在だったら買ってくる」
走っていく千歳さんの背中をぼんやり眺めていました。
だって、牛乳とバナナって。先輩方の下でバイトすることになった時、それぞれにこれだけは忘れないでと念を押された食材じゃありませんか。
律音さん失踪当時、まだ初等部生だったリッキーさんと大牙さん。樹海へ分け入る前にシケた……小ぢんまりした売店で、牛乳とバナナを買ったのかもしれません。そして遭難してしまい、恐怖と心細さに身体を寄せ合いながらその二つを大事に分け合ったのかもしれません。
だからお二人はお守りみたいに、牛乳とバナナを常に切らしたくないのかもしれません。
遊歩道は森の匂いがして涼しくて、森林浴しながらの散歩にはうってつけ――のはずなんだけれど、なにしろここは樹海。命は大切にしましょう、なんて立看板がさりげなく設置されてる樹海。幽霊話を聞いてしまったばかりで樹海。
梢から鳥が飛び立つ羽音にさえびっくりしちゃって、その度に大牙さんのシャツの裾をぎゅうぎゅう。
「ったく、じたばたすんな」
ついに子猫づかみされました。ずるずる連行される莉子の図を千歳さんが興味深そうに見てるけど、いいんです安心ですから。愛のカタチには色々あるんです、そういうことにしといて下さい。
「千歳さん。遊歩道を外れて、中に入りましょう」
ずっと、右側からの風を嗅ぐように神経を澄ませながら先頭を歩いてたリッキーさん。きっぱりと歩みを止め、さらりと黒髪をなびかせて振り向いた。
ひろさんの確実な波動を手にしたんだと思います。
こういう時のリッキーさんは毅然としてる。原生林は両側からのしかかってくるような重みがあるのに、リッキーさんの存在感はそれとなじみつつも圧倒しちゃう。超自然的なパワー、樹海の一夜で引き出されたリッキーさんの千里眼は、運命さえ見通して味方につけてしまうかのよう。
「ひろさん、いそう?」
不安げに問う千歳さんに、リッキーさんは聖母の微笑を返す。
「います」
わー、断言です自信ありありです神のお告げです!
「大牙は車で待ってて」
ええっ? 突然の指令の意図が分からずにいると、ご説明が。
「もし方位磁針も携帯も役に立たない状況になったとしても、大牙の波動を頼りにすれば引き返せる自信があんの」
「んあ。分かった」
すんなり言うことをきく大牙さん。子猫づかみ解除した手を千歳さんへと差し伸べて、車の鍵を受け取りました。
愛ですか。愛ですか先輩方。君さえいればどんな過酷な状況だって切り抜けちゃうよ宣言ですか。君のところへ僕は必ず帰るよラブコールですか。信じて待つぜの誓いですか。
男は船、女は港のはずなのに。港は男性の大牙さんなんですか。莉子は、女の子の莉子は一体? 船底にへばりついてるお邪魔な貝かなんかですかー!
莉子が唖然としているあいだに港さんはくるりとキレよくターンし、駐車場に向けスタスタ去ってしまいました。あの、せめて不安解消子猫づかみ用に右手を置いてってもらえませんかー。
「さあ参りましょうか、千歳さん。ひろさんの居所この僕が、愛で見つけてみせましょう!」
そう言い切ってリュックを背負いなおし、船さんはサクサクと樹の海へ漕ぎ出してく。
「……俺と莉子ちゃん、片思いの苦労について話が合いそうだなー。足元気をつけて」
片思いの苦労と申しますか……両思いの方々にあてられる苦労、かと。しくしく。
ハードでした。
とにかく足場が悪いのです。溶岩流の固まった地形イコール岩。アップダウンが激しい上に、でこぼこをさらに強調する木の根。太陽は重なる枝に遮られ、薄暗がりの中でつまずくし滑るし。
前のリッキーさんと後ろの千歳さんに交互に手を取ってもらい、受け止めていただき、引っぱってもらったり押し上げてもらったり。
「あっ、あそこ見て下さい。木にテープ巻いてありますよ、きっとこの辺りはまだ人が通るような場所なんですね!」
ずいぶん進んだと思っていたのに、赤いテープを巻かれた幹が。人の残した証にほっとしてテープに寄っていこうとしたら、リッキーさんが軽く肩をつかんできて首を振りました。
「莉子ちゃん。申し訳ないけどあれは、県警がつけた遺体発見現場の印なの」
い……いた……遺体っ? ひいい。人の証は人の証でも、死人の証は遠慮します!
「ふええええん」
「ごめんね、よしよし。聖ウェズリーのご加護のあらんことを」
なぜ莉子が、このいつも足手まといにしかならない存在意義の不明な助手・莉子が、こうまで心身ともにハードな探索に参加しているのでしょう……。バナナ猿・大牙さんなら軽々スキップで通過できそうなのに。
「君たち聖ウェズリー生なんだ。あそこの制服いいよなー。そういえば莉子ちゃん、友紀って知らない? あいつにはやられたな……ひとつ俺の悲劇を聞いて。それはマヨネーズと共にやってきた」
それからというもの千歳さん、しゃべりまくり。
とっても話し上手だから、道程のつらさも樹海の恐怖も薄れていきました。数あるひろさんの武勇伝の中には変態盗撮屋なんて、最近どこかで聞いたような人まで登場。
けれど闇の貸し金庫業者の話の途中で、千歳さんはふっと静かになった。憂いが似合うのは美形の特権。
「樹海に来る直前のけんかの原因はね……罪滅ぼし」
苔むした岩を乗り越えて。
「俺はひろさんに、帰る場所はないんだって思わせちゃったことがあって。そのせいでひろさんは大怪我した。血まみれで返事もできなかったひろさん思い出すと今でも寒気がする。好きな時に鳥肌立てられるって、役者なら便利な技……ホラー限定か、それもやだな」
通せんぼする倒木をくぐった。
「だから俺はひろさんに……一人じゃないって実感してて欲しい。そういう贖罪意識っていうのかな。責任も感じてることバレちゃって、そんなのから来る好意は必要ないって怒られた。それ以前に好きになったのに分かってんのかな、あの致命的鈍感は。帰ったらよく刷り込まなきゃ」
地中へとぽっかり開いた小さな洞穴を迂回する。
「律季くんが大牙くんを残してくの、なんか良かったよね。待ってる人がいるって思える心強さっての? 俺もひろさんにあげたいなー。誰もが誰かとそう思い合えたら、ここは自殺の名所になったりしないだろうに」
間接的にあてられ、直接的にのろけられてませんかこれ。
「そうですね。でも千歳さん、僕は大牙に頼ってるだけなんです。大牙は僕の罪滅ぼしに何年も何年も付き合ってくれてるんです」
あれっ。リッキーさんがご自分のこと話すのって珍しくないですか?
「ふうん。じゃあ律季くんは何年もかけて贖罪しようとしてるんだ」
ショクザイ。なんか聞いた覚えのある単語。
「僕は置き手紙を隠してしまったことがあるんです。『探さないで下さい』というのを幼かった僕は文面どおりに受け取ってしまい、探さないのが置き手紙を書いた人の願いだと誤解したんです。……すぐ追いかければ、追いついたかもしれませんでした」
――どうしてそこまで、依頼人さんにしてあげるんですか。愛のためって言ったって、大牙さんたちがこんなに犠牲を払うことありません!
――俺もそう思ってないわけじゃないぜ。贖罪に人生を捧げるならそれはむしろ、生に対する侮辱だ。
――えー。コックさんに失礼ですよー。
――……馬鹿野郎、食材じゃないっ。
蘇る大牙さんとの会話。きゃー、あの時のショクザイってこっちの贖罪だったんだ!
「だけど僕は、『探さないで下さい』という文を『いられる場所を下さい』と読むことができるようになりました。追いつくために、僕はこの仕事をしてるんです」
リッキーさんがおっしゃってるのは、律音さんの置き手紙のこと。まだ子供だったリッキーさんは『探さないで』というお姉さんの言葉を純粋に守ろうとして、結果、おそらく初動捜査が遅れてしまった。
探さなきゃいけないんだ、って気付いて後悔に思いつめて、大牙さんと樹海を探し回ったけれどやっぱり見つからなくて。
以来リッキーさんが抱えてる罪悪感に、たぶん大牙さんはやりきれない思いをしてる。だけどリッキーさんの気持ちも分かってしまうから、ずっとそばにいて手伝ってあげてるんだ。
「律季くんは悪くないなんて言わないでおく。そういうの、余計に罪悪感をつつくんだよねー。けどさ、ひろさんを保護できたら。少し自分を許してあげられる?」
「そうですね……はい、きっとほんの少しは」
「オッケー。約束ね」
ぽんぽん、って千歳さんの腕がリッキーさんの華奢な肩を叩く。今日はずっと緊張気味だったリッキーさん、ふへっと照れたみたいな笑みを覗かせました。貴重なショット! 見届けた千歳さんもゆったり優しい顔をなさる。
うあー、かっこいいです素敵です男同士、先輩後輩、ダブル目の保養って感じ! いえ骨格は大牙さんが一番ですよ?
「んー、素直な高校生っていいなー。やべっ、ひろさん惚れっぽいんだった。律季くん、ひろさんには売約済みだって言って。でもってひろさんには俺が売約済みの札を貼ってるからね、接着剤が固まるのハラハラ待ってるとこ」
「ふふっ、了解致しました」
莉子の助手としての存在意義は不明ですが、少なくとも。あてられ、のろけられにはるばる樹海まで来たわけでは……。