4. 「帰ってもすることねぇし…どっか行こうか?」
「ふふっ、みっけ。お邪魔していい?」
若葉が香り風が薫る。この季節を全身で感じるために渡ってくるんじゃないでしょうか、つばめさんは。礼拝堂の十字架を背に、青い空をすうと横切るのを眺めていたら。地上に降り立った小鳥さんが、さらんと黒髪をなびかせて話しかけてきた。
もちろんリッキーさんです。
「どうぞこちらへ、リッキー先輩!」
「いいえこちらへ、リッキー先輩!」
色めきたったクラスメイトが争奪戦に入ってる。
初めてリッキーさんが、礼拝堂前の芝生でのランチタイムに突然参加なさってからというもの。いつもお昼を一緒してるクラスメイトのお弁当が豪華になった。特に卵焼きは高級料亭のものを取り寄せたり、ピクニックシートがビニールからキルトになったり。
あっという間にクラスメイトの輪に取り込まれてしまったリッキーさんには、怒涛のおかずプレゼント攻撃が行われているもよう。
「あの、大牙さん。ここへどうぞ」
ずっとリッキーさんの一歩後ろにいたのに、クラスメイトの視野から除外されてるっぽい大牙さん。空いてるスペースにご案内しようとしたけど、ここでいいって芝生に腰を下ろされちゃった。
長い指がお弁当の包みをほどいてる。えへへ、今日はプチトマト入れちゃったもんね。大牙さん、トマトにはリコピンって栄養素が含まれてるんですよ。莉子ピンですよ莉子ピン。
大牙さんのお箸がプチトマトを捉えるのを、今か今かとドキドキしながら待ち構えてたら。
「衛藤せんぱーい! ここにいらしたんですん?」
……みちるさんがご登場。
大牙さんと同じ色の髪をなびかせ、制服の裾をはためかせ、芝生の向こうから駆けてくる。その腕はお弁当を二つ抱えていて。大牙さんにたどりついて座り込むと、二つのうち大きい方を差し出しました。青い鳥が無数に飛んでる布で包んであります。
「せんぱいのお弁当もあるんですん! 食べてください!」
「へー……サンキュ」
がーん。
た、大牙さんのお弁当を作るのは莉子の役目なのに! リッキーさんだって大牙さんにお弁当作ったことなんてないはずなのに! 大牙さんってば受け取ってます。ふええええん。
涙で学ランがにじみます。つばめさんみたいな色した学ランは、リッキーさんから渡り渡ってみちるさんのところへ飛んでいくんですか? 不倫です不倫!
大牙さんなんてどっかの馬の、馬の……えーん馬の骨なんて言えません、あの下顎骨は神さまの芸術品です!
「わー、こんなデザートまで持ってきてんの? 豪華だねー」
背後から、のんきなリッキーさんの声。鳴いて愛しちゃうリッキーさんの青い鳥が、今ここで餌付けされちゃいそうになってるのにー!
「だけどな、食い切れない」
学ランを着た青い鳥のお箸の先は、その時不意にプチトマトをついばみました。
「こっちが先」
しょっぱい涙が海の色してるんだとしたら。
さっきまでは北極海の底のダークブルーで、今は珊瑚礁のアクアマリン。
リッキーさんみたいに洗練された恋の格言を説いてくださるわけじゃないけど、大牙さんの何気ない一言だって、莉子の海を塗り変える威力があるんです。
みちるさんは金銀の瞳を不満そうな色でいっぱいにした。
「えー、衛藤せんぱいにするって決めたんですから、食べてください!」
伏兵、粘り強い。
おもむろに、大牙さんはあぐらの膝の上で頬杖をついた。
「あのな。決めた、って何なんだよ」
呆れたみたいにひとつ嘆息して。
「おい律ちゃん、得意のでどうにかしてくれ。説明できる自信ない」
それまでと声のトーンは変わらなかった。リッキーさんの方へ顔を向けたわけでもなかった。だけどリッキーさんは、はーいと耳ざとく反応して寄ってらした。
もしかして、こっちの会話も聞いてたんですか? クラスメイトとわいわい楽しげにしてたのに? 聖徳太子ですかリッキーさん!
「どういうことですん?」
「途中から飛び入りごめんね、みちるさん」
きょとんとしてるみちるさんの前で、聖徳リッキーはちょこんと正座の膝をそろえた。
「大牙が困ってるのは、こういうことだと思うの。フランスの小説家、アンドレ・モーロワの言葉を借りれば――『恋愛の誕生は、あらゆる誕生と同じく自然の作品である。愛の技術が介入するのはその後のことである』」
わあ、今回は魔法の化粧水大サービスみたいです。
「大牙にする、大牙に決める、それって自然の作品かな? 恋すると決めた相手としてじゃなくて、恋が生まれた相手として大牙を見てくれるなら、僕は何も言わない」
これでいい? そんなお伺いを立てるみたいに、天使の翼を持った小鳥さんは首を傾ける。応じて大牙さんの口元がようやく緩みました。
「自然の、作品」
みちるさん、ほけっとしてオウムみたいに繰り返してる。
まだ終わってないって、先輩方が愛で見つけてあげたかったのって、このことだったんだ。恋すると決めた相手の色に髪を染めるみちるさん。自分の原石の色を知ろうとしなければ、綺麗に磨きあがらないのでしょう。
「おまえ、青い鳥の童話を気に入ってるらしいな」
プチトマトが刺さったままのお箸の先が、お弁当の包みに舞い飛ぶ青い鳥を突付いた。
「童話じゃ帰ってみたら青い鳥が家にいた、幸せは身近にございましたチャンチャンってなところで終わってるが、原作の戯曲はそうじゃない。家にいた青い鳥も結局逃げていくんだ」
そんなあ。
「チルチルとミチルにとって、青い鳥を追っかけてる時のほうが幸せだったのかもしれないな。おまえは追っかける前に、青い鳥って何なのか考えろ。チルチルミチルを通さずに、自分の裸眼で見極めろ」
プチトマトは、今度はみちるさんの顔の前を行き来してる。催眠術をかけられようとしてるみたいに、金銀の目がお箸の先を追って――あ。大牙さんは、みちるさんのコンタクトレンズ、チルチルとミチルを重ねておっしゃってるんだ。
「大体なんで青くて鳥なんだ、三毛猫だっていいだろ。青くて鳥だと思い込むからそれしか追わなくなるんだろ」
て、哲学的です大牙さんが。
「あれはおとぎ話なんかじゃねんだよ。そういう形を取った社会風刺の――」
「大牙、莉子ちゃんもみちるさんも口が開きっ放しみたいだけど」
やんわりとリッキーさんが割って入るに至って、大牙さんの演説がストップ。
よかった。頭蓋骨の中に青い鳥を追いかける三毛猫が走り回って、収拾つかなくなってました。
「おっとしゃべってる場合じゃなかったな。さ、メシメシ」
さ、と言って食事にかける気合を入れ直すみたいに、大牙さんはお箸を持った手の肩関節をぐいとひと回しした。
「あ」
勢いで、お箸を離れて青い空に放物線を描くプチトマト。ぽすっと軽快な音を最後に、はるか遠くの芝生に埋没。
莉子ピーーーーーーーーーーーーン!
「トマト落っことしたくらいで、いつまでも泣くなよ。悪かったって言ってんだろ」
「だって!」
いいように扱われた挙句に放り出されて墜落なんて、莉子の恋の未来を暗示してるみたいであまりに不吉じゃありませんかー。
翌朝、まだ冷蔵庫に在庫が残ってたプチトマトをお弁当箱に入れてたら。ショックがよみがえってしまってめそめそしながらの登校。
結局、大牙さんに不倫する気なんてなかったみたい。だけど莉子の立場は相変わらず振り回せば飛ぶような、プチトマト程度のものだって思い知らされてしまったのです。
「俺の体を経由したってダイレクトだって、いつか土に還るんだからいいだろ」
「よくありません! 土に還る前に恋くらいさせてください!」
「おまえの星雲ではプチトマトが恋をすんのか?」
聖ウェズリー学院の銀杏並木を校舎へと向かう生徒たちの流れに、大牙さんはずるぺたと。リッキーさんはすっすっすと合流した。後ろをとぼとぼついて行く。
「リッキーせんぱーい!」
突如として、朝の空気を突き抜けるような元気な声がどこからか。お二人の肘と肘に切り取られた狭い空間の奥から、学院生の中を逆流して走って来るブレザー姿の女の子が。
お二人の前でぴたっと足を止め、満面の笑顔です。聖ウェズリーでは希少価値であるストレートの黒髪が清楚な、学年章からするに一年生。髪に負けない漆黒の、くりっとした瞳がリッキーさんを見上げた。
「おはようございますーん」
その、ンフーと鼻に抜ける語尾は!
「おはよ、みちるさん」
みちるさんです! 大牙さん色だった髪がナチュラルな黒髪になってます! しかもオッドアイじゃありません。
「地毛に近い色に戻したんですん。チルチルミチルともお別れしましたん!」
「ん、綺麗だと思うな。ね、大牙」
「んあ」
お二人とも驚いてません。リッキーさんは波動で、大牙さんはゴスロリ茶々さんも判別した目で即座にみちるさんと見抜いたんでしょうか。わたしは髪やチルチルミチルに気を取られてて、みちるさんの顔立ちを把握してなかったみたいです。
でも亜麻色ヘアにオッドアイより、綺麗だと思います。お人形さんが女の子になりました。
磨きがかかったのかもしれません、みちるさんっていう原石に。
「それでそれで、リッキーせんぱい。せんぱいは今日の放課後、あたしと一緒に相性占いに行くんですん!」
えーっ!
ちょっとお待ちください。みちるさんは昨日まで、大牙さんにべったりだったのに?
「僕が?」
これにはさすがのリッキーさんも驚いたようで、豆鉄砲食らった小鳩さんになってます。
「はい。恋を語るリッキーせんぱい、すっごく素敵でしたん……」
頬を赤らめて指先をもじもじもじ、とすり合わせてるみちるさん。どうやら、リッキーさん相手に恋愛が自然発生しちゃったみたいです。
恋の自然発生は、それを諭した先輩方としては喜ばしいことです。でもお相手がリッキーさんとなると話がややこしく。
「ごめんね。今日はお客さんが来る予定なの」
そういえば、依頼人さんがいらっしゃるはずなんでした。
「じゃあじゃあリッキーせんぱい、明日は」
「……バカバカしい、俺は帰る」
がちり、と大牙さんの下顎骨が鳴る音がした。骨の主はくるりと百八十度ターンを決めて、スタスタと急行下校態勢。
夫婦げんかです! ようやく不倫の危機を乗り越えたところだというのに。
「大牙さん、待ってください! リッキーさん、早く早く」
どんどん距離が開いてしまう二人の中間地点をキープしてオロオロする、デジャヴな展開。
「ごめんみちるさん、またね。大牙ー、僕も帰る」
カモシカリッキーさん、軽やかに追いついてきました。
「お昼から前に見逃しちゃった、『その時カメラは捉えた! 樹海の奥の恐怖を今夜あなたも目撃する、第二夜』の再放送があんの。録画予約すんの忘れてたから、ふふ」
「昼か、それまで暇だな。どうするかな」
恋の課外授業ですか先輩方。
プチトマトのお告げが現実に。振り回されて放り出されて芝生に転落して。うえーん、ありんことかハエとか悪い虫がついちゃっても知らないからー!
第七ラウンド、伏兵なんだか戦友なんだかもうわからない新入生が乱入した結果、莉子は目の前で恋の更新をされて終了ゴングが……。
「おい、こっちのボケ」
「はいっ?」
あ、これが刷り込みというものでしょうか。つい返事してしまいました、ボケと呼ばれて。
顔を上げれば大牙さん、急行を一時停止して振り返ってる。
「帰ってもすることねぇし……どっか行こうか?」
ぽかん。
「あのー、リッキーさんはそちらですが」
ご提案の対象人物をお間違えでは?
「だから両方に言ってんだろ」
両方って。もしかしてその片方は莉子?
「おまえな、俺は歯医者じゃない。そんなに口開けなくていい」
サボるなんていけないこと。用事があるならまだしも、帰ってもすることないのにサボるなんて怠惰なことだと思うけど。
することないしって消極的な前置きが、理由じゃなくて言い訳に聞こえちゃうのは片思いのなせる業?
大牙さんが下顎骨のラインをきらめかせて笑ってる。
「いいか、欠席の理由は食中毒だ。プチトマトにあたったって言えよ」
莉子ピーン……。