3. 分別を忘れないような恋は
聖ウェズリー学院には下足箱というものがない。欧米風に、教室まで土足で入る。
よくある、下足箱を開けたらラブレターが入っていた――なんて胸躍る話は残念ながらないわけだけど、ちゃんと代わりに機能しているものがある。廊下に壮観に並ぶロッカー。その扉に通気用の切込みが入ってて、ラブレターはそこからポストみたいに投函されるのです。
リッキーさんが頼まれて探すことになった女性が、学院生なら。差出人名のないラブレターは、ロッカーにそっと差し込まれたのかもしれません。
『愛で見つけてみせましょう! ……ただし』
昨日そう断言したリッキーさんは、一つだけ依頼人に注文をつけた。
『ただし、決してその恋を貶めないと約束していただけるなら』
おばさんは何度もうなずいて約束して、ご連絡をお待ちしますと言って帰っていった。
『……もう分かってんのか、律ちゃん』
ご参考にとおばさんが預けていったラブレターの封筒を開けもせず、ただじっと眺めているリッキーさん。その横顔に話しかけた大牙さんの口調に含まれてるのは、質問じゃなくて確認の響きに聞こえた。
口で言わずとも通じてる感じ。
『うん。この波動には覚えがあんの。時々お昼に話しかけてもらってる』
『ウェズリーのやつだな』
『……あのー、先輩方……』
説明を欲して恐る恐る挙手。お二人の目線をようやくゲット。蒼を果てしなく濃くしたら行き着くのであろう、つやりとしたリッキーさんの瞳が微笑んでくれた。
『ああ、あのね……僕は落し物に残った、生命の波動を読めんの。落し物と同じ波動の人がいれば、その人が持ち主ってこと。逆に探し物なら、依頼主と同じ波動をたどれば見つけられんの』
さらりとおっしゃったけど、それってエスパーです!
『知ってます、それ! えっと、えっと……サイケ・メタリック!』
痛いっ。痛い視線を感じたと思ったら、オリーブ色のレンズの向こう側で大牙さんがすごい目をしてた。にらんでるというより……呆れてた?
『どんな色だよ、それは……サイコ・メトリックだろ、おまえが言いたいのは』
そう、でしたでしょうか。
『あれはモノに残った記憶や思念を読み取る力だろ。律ちゃんのは違う。ま、生命波動というか思い入れだな』
『そうそう、愛』
愛という単語をこうも臆面なく口にする同世代の人に、初めて会った気がする。
『莉子ちゃん探し当てたのもね、おみくじに込めといた僕自身の波動を追ったの。放課後にあのお店の近所を探そうと思ったら、学院内でキャッチしたから驚いちゃった』
あのおみくじは計画的犯行だったのですね、リッキーさん……。はい、綱つけられたとも知らず、しっかりお財布に入れて持ち歩いていました。
『ってことで、メイドの莉子ちゃんにはそっちも手伝ってもらうんだー』
『ええっ?』
ってことでとおっしゃいましても、その接続詞は不適切です。前後の脈絡が飛びすぎてます。そもそもメイドって何ですか?
『明日の昼休み、教室まで迎えに行くね。そのあと、尋ね人とごたいめーん』
まったくもってわけが分からないのですが、つまりは今日のお昼、わたしはリッキーさんに拉致される予定なのだそうです。朝からすでに緊張気味。
昨日の出来事を思い返しながら、一時間目の教科書を出すためにロッカーをバコンと開ける。
足元に、ぴらっと封筒が舞い落ちました。
『軍団の名の下に、高居莉子、おまえを召喚する。放課後、体育館裏に出頭せよ。R』
たったそれだけが書かれた手紙。額を突き合わせて覗き込んだお友達は、一斉に悲鳴をあげた。
「莉子あんた、何をしでかしたの!」
「この学院にはもういられないかもね……莉子のこと忘れないよ」
「思い残すことはない?」
お別れを言われてる。お別れというかお悔やみ?
どうしてそうなるのか考えていたら、ああもう世間知らずなんだから、この子は! と今度は口々に嘆かれてるもよう。
「このRはリッキー軍団のマークなの! リッキー先輩のファンクラブで、団員は初等部から大学卒業生、教員にまでいるって噂」
「ファンクラブっていうより秘密結社だよ、あれは。団長も団員も謎だもん。これはきっと高等部団長からの呼び出しだね」
「目をつけられたら、転校するしかないくらいの陰惨なイジメにあうらしいよ……」
良家の子女という人種には少々常軌を逸してる方々もいらっしゃるらしいことは、この聖ウェズリー学院で過ごしていればやがて分かってくること。服装の自由が大幅に許されていることもあって、独特なオーラを立ち昇らせてる人がいっぱいいる。
お姉さまと慕われる先輩が、お取り巻きの女生徒をぞろりと従えて歩いてらっしゃるお姿なんかも、日常の光景だったりするのだけれど。
リッキーさんもそんな特別な一人だったとは。確かにそこらの芸能人もびっくりの美少女さんだから、充分ありうる話。
手紙を持つ手が面白いくらい、ふるふるし始めました。
「どどどどどどうしよう。何もしでかしてなんていないのに」
「あんたに心当たりのないことでも、軍団にとってはどうかな……」
「莉子、あたしのパパ弁護士だから。遺言なら預かるっ」
お父さん、お母さん。先立つ不幸をお許しください。
「莉子ちゃーん。お迎えにあがりましたよん」
それなのにご本人はお気楽そのものに登場なさいました。教室の出入り口から、ぶんぶん手を振ってらっしゃいます。
クラスメイト、主に女子生徒が一斉にざわめいて、リッキーさんとわたしを交互に眺め回してる。この中にリッキー秘密結社の団員がいたら、即、コンパスとかカッターとか飛んでくるかも。
「……どうしてガードしながらダッキングで走ってくるの?」
カッターよけにと頭をかばいながら腰を屈めて駆けていったら、不思議そうな顔をされた。どうしてもへちまもなく、あなたの美貌のせいです。
「まあ! さすが神宮寺家のご次男、今のボクシング用語ですわよ!」
「もしかして高居さん、ボクシングがご縁でお近付きになったのかしら!」
「わたくし、購買部でボクシング雑誌を求めて参りますわ!」
背後で誤解と羨望に満ちたささやきが取り交わされている。れっつごー! と歩き出すリッキーさんと購買方面へ走り出すクラスメイトと、どっちを追おうか迷った。
その時、ガッと首根っこに力強い圧力が。
「ふらふらすんな。行くぞ」
この声は、というか、この子猫扱いは。
「大牙さん? いらしてたんですか!」
ブラボーな骨格さまのご登場に喜びかけて、びくりとする。オレンジ色のサングラスのふちで、大牙さんの眉はぎゅーっと寄っていた。いかにも不承不承って感じ。
「仕方ないだろ、律ちゃんが駄々こねるんだから。来たくて来たんじゃない」
リッキーさんにお願いされて断りきれなかった、と。ああそうですよね、だって、だってこの人たち……らぶらぶだもん。
気分がしおれたところへ追い討ちのように、首筋からぞくぞくぞくっと寒気が流れ込んできた。
「ひゃーっ、冷やっこいです、大牙さん! 手がすごく冷たいですー!」
ずるずる引っ張られながら抗議する。大牙さんの掌は大きいから、首筋をつかまれてると氷のうを当てられてるみたい。
「うるせえな、寒いのがいけない」
もう春なのに、この手の冷たさときたら真冬並みでは。そういえば昨日もちょっとドアを開けてただけで寒いと怒られたから、大牙さんは極端な寒がりなのかもしれない。
見上げたら、大牙さんの犬歯がきらっと光った。同時に、わたしの首筋をもう一度つかみ直して。
「ははっ、でもこれはあったかくていいな」
「…………」
笑った、ようです。
笑いました。初めて見ました。至近距離やや仰角でばっちりと。
なんてすてきな下顎底。なんてすてきな下顎角。この骨――じゃなくて、この人をあきらめるなんて無理。たとえ、男の人と同棲してる男の人だとしても……!
「ぼけっとすんな、歩け」
お父さん、これは愚かな恋でしょうか?
聖ウェズリー学院には食堂とカフェテリアがある。特に有名紅茶ブランドの出店であるカフェテリアは人気で、ちょっと出遅れたらもう席が埋まってしまう。ぎりぎりでテーブルに座れた。レジの前はすでに順番待ちの学院生でごった返してる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
待つことしばし、ふりふりエプロンのウェイトレスさんが、お水を運んできてくれた。
「んーとね、生ハムとカマンベールのサンドイッチに――」
ラブレターの差出人を探しに行くんだと思っていたのにリッキーさんたら、のんびりとメニューを眺めて注文を始めた。大牙さんはといえば、椅子からずり落ちそうな姿勢の悪さで、さっきからずっと文句を言ってる。
「この店、バナナのメニューないんだよな……くそっ、俺の投書を無視し続けやがって……」
「アイスティに……あ、ミルクでね。それから――」
デザートまで食べるんだー、さすが男の人は食べる量が……って思って見てたら、不意にリッキーさんの指先がメニューの内側から封筒を取り出した。魔法みたいに突然に。
あれは、差出人探しを頼まれてるラブレター?
「食後に――あなたのお時間を、少しばかり」
用件はお分かりですね? そんな確信的な眼差しと、驚愕に凍りついた視線。リッキーさんとウェイトレスさんは三秒ほど微動だにせず見つめあっていた。
「ふうん……こいつか」
そこへ、そう言うわりには興味のなさそうな大牙さんの、サングラス越しの目線が加わる。
「えっ? あ、もしかしてこのウェイトレスさんが、あの手紙の差出人……」
あまり化粧っ気のない、三十歳くらいの痩せたウェイトレスさん。薄い唇を半開きにしたまま、一歩、二歩と後ろにさがり……。
がらん! と音がして、銀のお盆がフロアに落ちた。そしてエプロンのリボンを揺らして逃げていく後ろ姿。
「あっ、い、行っちゃいますよ、リッキーさん!」
リッキーさんは、むう、なんて唇を尖らせてる。
「ねー。まだ大牙と莉子ちゃんの注文、聞いてもらってないのに……」
「そうですよー、ランチセット終わっちゃったらどうしよう」
「……そっちか、おまえら」
そのあいだにウェイトレスさんは順番待ちの人だかりをかきわけかきわけ、いなくなってしまった。店員さんの遁走に、何事かと学院生はざわついてる。
まったく慌てる気配を見せずにリッキーさんは、こてっと首を傾けた。
「大牙ー」
「……俺かよ」
がち、と下顎骨を鳴らして大牙さんは苦々しい顔。でもおねだりモードのリッキーさんを見ると、舌打ちしながら立ち上がる。そしてくるりと背を向けたと思うと、ガッ! と音がしそうな勢いで走り出した。
さっきまでかったるそーにしてたのに、あの変わりようっ……やっぱりパワー・オブ・ラブ、でしょうか。
ひしひしと打ち寄せる敗北感。大牙さんをめぐってのラウンドワン、タイトル保有者にしてチャンピオン・リッキーさんにいきなり必殺パンチを頂いた気配です。
その頃にはレジの前は順番待ちと野次馬で、すっかり黒山状態。通り抜けるのに時間がかかりそう。
「追いつけるんでしょうか……」
「へいきへいき。あいつ、すんごく運動神経いいの」
リッキーさんの太鼓判が終わらないうちに、大牙さんはフロアを右足で蹴って、レジカウンターを左足で蹴って、壁を蹴って三角跳びし、ぶつかりそうな天井をひょいと頭すくめてやり過ごし、野次馬の頭上を飛び越え、学ランの裾をはためかせながら人だかりの向こうへ消えた。
「…………」
「ねっ、猿みたいでしょー?」
あれは運動神経がいい、とか、猿みたい、とかってレベルなんです、か?
「さ、行こ行こー」
手を引かれて通り過ぎたレジ裏の壁には、大牙さんの靴底の形がくっきり残っていました。
若葉の萌え始めたいちょう並木に点在するベンチ。ぱりっと糊とアイロンの効いたエプロンの裾を、ウェイトレスさんはこれでもかと握りしめてた。力のこもった指の基節骨あたりが折れちゃいそうなくらい。
大牙さんにあっさり捕獲されたため、逃げるのは無理と悟ったようす。リッキーさんに尋ね人のいきさつを聞いても、延々と黙秘権を行使してる。ミランダ警告の必要もなかったみたい。
「えっと、ウーロン茶でよかったら」
「やっぱ女の子だー、莉子ちゃん! ありがとー」
「お、なかなか気がきくじゃないか。昼飯はこいつで済ますか……」
自販機で買ってきた缶を配ると、リッキーさんはなでなでしてくれて、大牙さんはバナナを取り出した――学ランの内ポケットから。
「おやつに持ち歩いてるんですか?」
「馬鹿野郎。バナナは日本人の主食なんだよ」
「そんなの、お猿さんだけです……きゃー」
子猫づかみで頚椎をガックンガックン揺さぶられた。
「……あの……どうして分かったんですか? それを書いたのがわたしだって」
ぽそり、とか細い声でウェイトレスさんが話しだした。伏し目がちな一重は、とても内気そう。
「ふふふっ。それはね、愛のお導き」
「…………」
リッキーさん、アヤしいから。優雅な笑みをこぼす口元に缶を持ってく手、小指が微妙に立ってますから。
でも、背中に天使の羽根が生えてるように見えてくるのはなぜ?
「……見ているだけでよかったんです。たまにカフェに来てくれる姿を見るだけで。だってわたしなんて彼より十歳以上年上だし、振り向いてもらえるはずありませんから」
あるときウェイトレスさんは教職員のランチつき会合のケータリングサービスをして、その帰りに偶然、想いを寄せる男子生徒のロッカーを見つけたのだそうです。そして翌日、衝動的にラブレターを投函。
「一通だけで終わりにするつもりでした。でもカフェであの子と友達が、ラブレターのこと話してるのが聞こえてきて……すごく照れて、喜んでくれてたんです」
彼が喜んでくれるなら。その一心で、ウェイトレスさんは差出人を明らかにしないまま、ラブレターを投函し続けたそうです。
だけどしばらくして彼の姿は消え、ウェズリー会報で事故死が伝えられ、ポストとしてのロッカーは役目を終えます。
ウェイトレスさんはうつむいたまま、ただでさえ細っこい身体を消え入りそうに縮めた。
「これで良かったんです。ほんの少しのあいだ、夢を見せてもらったんです。いい夢でした」
まだ柔らかそうな、小さないちょうの若葉が風にさらさら鳴ってる。静かなひとときを挟んでから、リッキーさんは穏やかに切り出した。
「彼のお母さん、思い出話がしたいって。会ってあげてくれませんか? 年齢差のことも気にしないって約束してもらってるから、安心して。ね」
『ただし、決してその恋を貶めないと約束していただけるなら』
ちゃんとそういう約束をしてた。でも頑なに首を振られてしまう。
「とんでもない。もういいんです。忘れます」
「……なにが、もういいです、だ。なにがいい夢だ。割り切れないでいる母親がいるってのに、決まりが悪いからって逃げるのか? ずいぶんと無責任だな」
突然、硬く冷たく切り込んできた人は、食べ終わったバナナの皮をゴミ箱に投げつけた。バン、ぐちょ、とその勢いと音がご機嫌ななめっぷりを如実に示している。
「だったら最初から手紙なんか出すなってんだよ。人騒がせなんだよ。きっちり自分の尻拭いしたらどうなんだよ。年齢のいってる自覚があるんなら、なおさらだ」
「…………」
怖い。
ウェイトレスさんは、ぐすっとすすりあげてる。なんかこっちまで涙が出てきた。
「ひどいです、大牙さん! わたしは分かります。わたしだって……わたしだって、お父さんのお嫁さんになりたかったんです!」
ぶへっ、と大牙さんが勢いよくお茶にむせた。
「でもお父さんにはお母さんがいるから、言えなかった。一人で想い続けるのって、すごくつらいことなんです! だからウェイトレスさんはラブレターを書いて少し吐き出すことで、どうにか耐えたんです……あのう、大牙さん、聞こえてますか?」
「げほ、げほっ……俺はバナナを力いっぱい吐き出しそうだ」
わたしが真剣にウェイトレスさんへの共感を訴えていたのに、大牙さんはぶち壊しにして下さいました。だけどあまりに激しく咳き込んでるから、背中をさすってあげます。
わーい、学ラン越しに大牙さんの脊椎。
「イギリスの小説家でもあり、詩人でもあったトーマス・ハーディは――」
詩の朗読みたいな、耳に心地よい音楽みたいな、小鳥の歌みたいなリッキーさんの声。大牙さんの喉の奥がグッと鳴るのが、背中の振動と一緒に伝わってきた。咳き込んでリッキーさんの発言の邪魔をしちゃいけないって配慮だとしたら……またしてもひしひしと押し寄せる敗北感。
ひょっとして、リッキーさんとタッグ組んで、わたしをノックダウンさせようとしてますか?
「――こう言ってんの。『分別を忘れないような恋は、そもそも恋ではない』。ラブレターは大きな一歩だったよね。もう一歩、分別を忘れてみない? この恋のためにも、そして、次の新しい恋を実らせるためにも。ねっ?」
ふふふっ、というリッキーさんの綿毛のように繊細な微笑が、天使みたいに見えました。