4. もいっこ
「はあ? 俺の服、洗濯機に入れっぱなし? はあ? 生クリーム忘れた? おまえ、どっかの軍団みたいな陰湿なイジメすんなよ」
「イジメじゃありません! 不可能力で」
「不可抗・力、だ」
だから区切らないでくださいってば。
生クリームなしのバナナケーキを出して、大慌てでお昼ごはんの支度に取りかかると。
「大牙、脱いで」
背後からとんでもない台詞が聞こえた。
「何でいま」
「決まってるでしょ。さっきからずっと我慢してたんだから」
「んな顔すんな」
もしもし? もしもし先輩方? 莉子、ここにいますよー。と、必要以上にガッチャガッチャとお鍋を鳴らしてみたりする。
背後では無言が続いてる。これは絶対アレです、リッキーさんがおねだりモード発動してるんです。で、大牙さんが一応抵抗を見せてるんです。でも折れるんです。
「……わかったよ、しょうがねーな」
脱いだー! がさごそ音がしてるもん。あの、莉子ここに……。
何か音の出るもの、とキッチンタイマーを一分にセットしてみたりする。
それともそっと帰るべき? ああでも覗いたら大牙さんの鎖骨とか肩甲骨とか、拝めちゃったりするんでしょうか。キヨイ先輩に隠密行動を習っておくんだった!
「動いちゃだめ、僕がやる。大牙には激しい運動させないから」
僕が、やややややるって。は、はははは激しい運動って。
どうしよう。いっそ火災報知器とか鳴らしちゃってみようか。それともゴキブリーって叫んでみるとか、ああでも大牙さんは自力で処理しろとか冷たい人なんだった。
オタオタするわたしに追い討ちをかけるように、はあ、とリッキーさんの悩ましげにして切なげな吐息が聞こえた。
うきゃー、誰か助けてー!
「やっぱり出血してる。ガーゼ取り替えなきゃ」
ヒヨヒヨヒヨヒヨ。
ひよこ型キッチンタイマーが鳴り始める。鳴ってる。鳴ってる。鳴ってる。
「おい。やかましい」
「あっ。すみません」
我に返ってタイマーを止める。呪縛を解かれてカウンター越しにリビングをそろり覗けば、大牙さんの手術跡の絆創膏を換えてるリッキーさんのお姿。
あ、なーんだ。そっか、さっき先生を蹴り倒した時に少し傷が開いちゃったんだ。なーんだ。いやだなもうてっきり、絆創膏の交換じゃなくて愛の交歓が始まっちゃうのかと。
「ごめんね、病み上がりなのに無理させて」
大牙さんが座ってるソファに向けて膝を突く、リッキーさんの後ろ姿。細っこい肩峰関節面の落ち具合で、しゅんとしょぼくれてるのが痛いほどわかった。甲斐甲斐しく手当てする姿がいじらしい。
このシーンを見たらキヨイ先輩、大牙さん向けに銀の銃弾作り始めそう。
「無理なんかじゃない。こんなん舐めときゃ治る」
心痛のリッキーさんを気遣ってか、いつも以上にぶっきらぼうに言い放つ大牙さん。美しい愛情です。それを感じてるんでしょう、リッキーさんがふふっと笑うのが聞こえました。
「でも、自分じゃここ舐められないよね」
な。
舐めた。
舐めたーっ!
リッキーさん、大牙さんの傷横を舐めたー!
「なんだよ、くすぐったいだろ」
あの、先輩方。莉子ここに……ここに……死す。
莉子、燃え尽きました。総白髪になってるかも。ここまでです。第六ラウンドでノックアウト。もう立ち上がれません。
誰かカウントダウンして、莉子に引導渡してください。あ、ひよこタイマーを十秒でセットすればヒヨヒヨヒヨと終了のゴングを鳴らしてくれますか。
「おい、そこでボケっとしてるヤツ」
場外からそんな声が聞こえますが、ひょっとして莉子のことでしょうか。
「コレ。もいっこ」
のろのろと声の方を見やると。ソファにでんと座ったまま、お皿を突き出してる大牙さんがいました。
「はい?」
「だから、もいっこ持ってこいって言ってんだよ」
イラついたようにお皿が上下する。あのお皿に載ってたのは確か……バナナケーキ莉子スペ。
バナナケーキはすっかり消えてる。生クリームなかったのに。しかも、もう一個……っておっしゃったんですか?
「え?」
とん、と膝を叩いて脚気のテストをしてみる。骨格筋による膝蓋腱反射を確認。夢じゃないらしい。
「おまえな……俺にお願いしますと言わせたいのか」
細く険しくなってる大牙さんの目。
「反抗期か? それとも見舞い来るなって言った仕返し……おい、何で泣き出すんだよ!」
だって。
「大牙、莉子ちゃん今日大変だったんだから。いじめないの」
違います。違うんです。
「そうは言ってもな、あのあと隣のにーさんなんか一言も口きいてこなかったんだぞ! 看護婦も冷たくなったし! 代わりに医者がやけになれなれしく触ってくるし!」
すみません。でも違うんです。
だって、バナナケーキ。前はたった一口で、土に還せって突き返したじゃないですか。
もいっこ、って短い言葉だけで。お見舞いに行けなかった寂しさも、小麦粉ふるって腕がくたくたになったのも、今日の怖かった出来事も、もうどうでもよくなった。
大牙さん。ちゃんと第七ラウンドもリングに上がりますから。どうか見ていてくださいね。
翌日、保健室に鼻骨先生、もとい鼻骨ポッキリ先生の姿はなかった。
「臨時養護教諭に雇ってから判明したんだが、あの男は臨時着任の度に似たような事件を起こしていた形跡があった。むしろそれが目的で、常勤でなく臨時として各校を転々としていたのかもしれんな」
お昼休みの生活指導室。リッキーさん、大牙さん、わたしを前に茶々さんは流星眉を厳しくひそめた。
「しかし警察沙汰になったことはない。被害者が睡眠導入剤とアルコールの同時服用による副作用、つまり健忘で事件当時の記憶が曖昧だったり、世間体を気にして表沙汰にしなかったり、あの男にうまく言いくるめられたりしたんだろう」
大きな嘆息。茶々さんは私の牧場、子羊なんて言い方をなさるけど、本当は生徒と学院のことをとても大事にしてる、立派な理事さんなんだ。
「そこで抹殺することを考えていた時」
あのう。立派な理事さんは、抹殺なんて言葉を口にしていいんでしょうか。
「タイミングよく更衣室隠し撮りのアツのご登場だ。盗撮の件は不問にしてやるから、臨時養護教諭の犯罪の証拠を押さえろと取引したのだ。手際のよさと仕事の速さには正直驚いた。あの生徒、裏で相当悪事を重ねているな、ハハッ」
笑っていいんですか?
「昨日の一件は、アツが養護教諭の鞄やら車やらに仕込んだ盗聴器と隠しカメラで全て記録済みだ。二度と再犯はさせない。結果として莉子、おまえにつらい思いをさせてしまったな。すまなかった」
「いえ! あれで、もう誰も被害に遭わなくて済むなら」
スーツにタイの麗人さんは、腕を緩めて優しく微笑んだ。よかった、これこそ立派な理事さんのお顔。
「やれやれ、それにしても往生際の悪い男ほどみっともない物体はないな」
物体って……立派な理事さん……。
「睡眠薬は生徒が飲みたがったんだ、なのに蹴られた、暴行罪だとぼやいていたよ。しかし大牙、うまく挑発したな。向こうから先に殴りかかっているから、こちらは正当防衛を主張できる」
それを見越しての挑発だったとなると。大牙さんに逆らっちゃいけない、大牙さんに逆らっちゃいけない。
「しかもアツに脅迫されて、二百万を払わされたと泣き言をたれていたな。愚かな男だ、二百万払えばアツがデータを私に渡さないとでも思ったか。フフッ、世の中そう甘くはないという授業料にしては安かろう」
ウェズリーは魔窟。ウェズリーは魔窟。
それまで静かに聞き入ってたリッキーさんが、そこでふうとため息をこぼした。
「協力者がいてくれて良かったー。車にGPSつけてくれてたんだってね。もし莉子ちゃんが連れてかれたのがあまりに遠かったら、波動追えなかったかもしんない。そしたらあんなに早く駆けつけらんなかった」
「あれ、じゃあリッキーさんはアツって人が協力してるの知ってたんですか? もしかして天罰ってこのことだったんですか?」
「うん。でもまさか莉子ちゃんがターゲットにされちゃうとは思わなかった。僕もさすがに怒っちゃったから、天罰を待たずしてメキョメキョにしちゃおっかなー、って迷ったんだけどねっ」
リッキーさんにも逆らっちゃいけない。リッキーさんにも逆らっちゃいけない。
「そのことだが。大牙、莉子が保健室に担ぎ込まれた原因を知ってるか?」
「んあ? 保健室に担ぎ込まれたこと自体、知らないぜ」
生活指導室に来てからというもの、黙々とお弁当をかき込んでた大牙さん。そこでやっと発言なさいました。
「中等部生が誤って廊下に蹴り込んだサッカーボールが頭に当たって、脳震盪を起こしたそうだ。とある先輩の命令で、ボールの芯を蹴る練習をしていたらしいぞ。私はその先輩とやらの見当がつく」
「……へーえ」
大牙さん……茶々さんと目を合わさないようにしてませんか?
「しかも聞くところによると莉子が養護教諭に薬を飲まされたのは、おまえがそれを砂糖だと偽っていたからだそうだな」
「……ほーお」
苦しいですよ、その相槌。
「つまり今回の件は大牙、おまえが莉子と養護教諭の接点を作る遠因になったとも言えるわけだ」
「……ふーん」
もそもそとお弁当箱を片付け始める大牙さん。逃走準備でしょうか。茶々さんは逃走経路を断つように、指導室の立派な扉の前に移動して腕を組んだ。
「大牙から莉子に三千点だ」
ゲッ、と大牙さんが苦々しく唇を歪める。
「多すぎだろ。千五百」
「ふざけるな。では二千、おまえの戦略指南つきだ」
「くそっ」
お弁当箱に頭を打ち付けて、やたらと嘆いてる大牙さん。何の話なんですか、とリッキーさんに耳打ちで聞いてみる。殺伐としたやりとりを優雅に眺めてたリッキーさんは楽しそう。
「麻雀の配給原点で、莉子ちゃんにハンデあげなさいって話。大牙が莉子ちゃんの戦略指南につくから、もし莉子ちゃんが負けても大牙の連帯責任だね」
ということは、負けても大牙さんにクビにされることはないってことですか!
「これね、茶々さんには何の得もない取引なの。麻雀ってもともと運に大きく左右されるゲームだから、ハンデって概念はあまりないの」
茶々さんは莉子のクビを守るために、取引してくださったと。なんてありがたい大家さんなんでしょう。
感激してるわたしの目の前で、大牙さんは茶々さんに向け、ビシイッと指を突きつけた。
「見てろ茶々、俺たちは団結して家賃もぎ取ってやる。万札の耳揃えて払ってやるよ」
わーい大牙さん、俺たちって。莉子も仲間なんですね、えへへ。
「銀行振り込みを指定してあるはずだが。まあ、家賃でなく役満を振り込んでくれればそれでいい」
「するかッ!」
大牙さんはやたらと気合の入った睨みを茶々さんに飛ばしてから、おもむろにお弁当箱を掴んだ。
「帰るぞ律ちゃん、戦略会議だ」
「はーい」
あの、先輩方。理事さんの前で堂々と、午後の授業をサボる宣言していいんですか?
「フッ、面白い。受けてたとう」
あの、理事さん。承認しちゃっていいんですか?
オロオロしているあいだに大牙さんはスタスタと、リッキーさんはすっすっすっと、生活指導室を後にされました。
「あれっ、わたしは? わたしは会議に混ぜてもらえないんですか、大牙さーん!」
戦力外通告。
それが第六ラウンドの結果でした。
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