2. 幻のお砂糖
「うっうっ……大牙さん、いっそ永遠に入院しててください……」
麻雀。リッキーさんが懇切丁寧に家庭教師してくれたけど、刻々と時は過ぎていくばかり。
「莉子ちゃん。索子が好きなんだね、ふふ。でもこういう時は」
「捨てられません! 捨てられないんですー。ワンちゃんだって骨は後生大事に取っとくじゃないですか!」
「んー言いにくいんだけど、この絵は竹……わあ泣かないで、そうだよね骨だよね、骨。取っとこうね。じゃあこの場合の待ちは……」
そんなこんなでお決まりのように終電を逃し、泊まらせていただくことに。リビングのソファで毛布に潜り込んだけど、目をつぶっても瞼の裏に牌が湧いてきて眠れない。
どうにかしなきゃ。第六ラウンド、麻雀で大牙さんに見直してもらえるチャンスなんだから!
むーんと唸りながら寝返りを打ちまくっててふと、カウンター越しの冷蔵庫が見えた。牌の白板みたい。あれって真っ白なミルクキャラメルみたいで、つい舐めたくなってくる。
「あ。ホットミルク」
眠れぬ夜にホットミルク。大牙さんの真似してみようと思い立って、毛布から羽化してみた。
「莉子ちゃん、寝れないの?」
出来るだけ静かにしてたのに、気配に敏いリッキーさんが起きてきてしまった。でも眠そうな顔してらっしゃらないから、リッキーさんも眠れずにいたのかも。
「牛乳、まだある?」
あります。だって大牙さんとの約束ですから、メイドやるなら牛乳は切らすなって。ちゃんと守ってること、大牙さんは気づいてくれてるかな。
猫舌の大牙さんにはお味噌汁早めにつけたり、お二人の好みで卵焼き作り分けたり。そんなちょっとしたことが毎日増えていくのが、たまらなく嬉しかったりするんです。
真夜中にホットミルクで乾杯しながら、幸せな気分に浸ったけど。
翌朝のリッキーさんの冴え切らない顔色から察するに、莉子のホットミルクの効果はなかったもよう。
ええそうでしょう、大牙さん特製のお砂糖じゃありませんでしたから。愛までブレンドされた大牙さんのホットミルクはさぞおいしいのでしょう。莉子には一度も作ってもらえたことのないそれは、どんな甘露の味なんですかー!
第六ラウンド序盤、大牙さんのために麻雀に挑んでるのに。初心者莉子、大牙さんを賭けてならプロ雀士のリッキーさんにホットミルク一杯で、お二人の愛情を思い知らされてしまいました。
リッキーさんは退院する大牙さんをお迎えに病院へ。わたしはお洗濯。そうだ、大牙さんがお部屋にためこんでる洗濯物もこの隙に。
寒がり大牙さんが洗濯乾燥を待てないと文句を言って手放さないホームウェアの数々を強制回収。ポケットを探って何もないのを確認してたら、一枚だけ反応があった。
ハーフパンツのポケット、かさりと音を立てて出てきたのは半透明の小さな袋。切ない痛みの記憶と共に見覚えあり。大牙さん特製ホットミルク用の粉砂糖だ。企業秘密って言って教えてくれなかったんだっけ。
袋は二つあって、一つはわたしも知ってるブランド。でももう一つは知らない。リッキーさんのためにわざわざ用意してるんだから、おいしいお砂糖なんだろうな。
シンプルな袋を逆さに振ってみたら、はらはらと小さな粒が掌に落ちてきた。舐めてみたけど、量が少なすぎて味なんて分からない。
「これがリッキーさんに対する、大牙さんの愛かあ……」
形ある愛を見せつけられて、砂糖ならぬ塩をかけられたなめくじのようにしおれる。そこへヒヨヒヨとのんきなひよこ型キッチンタイマーの音、バナナケーキが焼けた合図。確認しに走る。
「うん、ばっちり。あとはクリームを七分に泡立てて……あれ?」
ない。
冷蔵庫に上半身を突っ込んで探したけど、生クリームがない。クリームを添えなかったらまた、責任持って土に還せ、律ちゃんに食わせたら屈葬するぞって言われちゃう。
そんな、骨格に負担のかかる埋葬法はイヤですー!
バッグをつかんで、慌てて飛び出した。
きゅきゅっ、とこするようなブレーキ音がした。
スーパーへ小走りしてたら、ガードレールの向こう側を通り過ぎた車がなぜか急停止。運転席から急いで降りてきた長身の男性が、これまたなぜかわたしに手を振ってきた。
「やあ。確か……高居君でしたね」
にこやかに名を呼ばれたけど、知らないお方。
「祝日なのにこんなとこにいるってことは、柔道部の応援ですか?」
二十代後半かぎりぎり三十くらい、水色のぱりっとしたシャツは仕立てが良さそう、顔は昔スポーツやってた系の爽やかさ。だけどどこにも覚えがな……きゃあ、あの美しい鼻梁は!
「鼻骨せんせ……じゃない、保健の先生! こんにちはー。えっ、柔道って?」
「今日はウェズリーで柔道大会があるんです。それで私も休日出勤というわけです」
そう言って鼻骨先生はシャツの袖口を人差し指でずらした。
「ですが思ったより道が空いてて、ずいぶん早く着いちゃいまして……そうだ高居君、コーヒーでも付き合ってもらえませんか」
「ええっ?」
わたしには生クリーム入手という、埋葬法のかかった至上命題が。
「すぐそこにおいしいカフェがあるって聞いたので行ってみたかったんですが、男一人だとどうも入りづらくて」
鼻ってどうして顔の真ん中にあるんですか、話しているとどうしても目に入ります。美しすぎです。
見とれていたら、鼻骨の周りが困ったように笑った。
「私の顔に何かついてますか?」
はい、鼻が。
鼻骨先生は運転席からぐるっと車を回ってくると、助手席のドアをうやうやしく開けてくださった。
「どうぞ、お姫さま」
こんなお誘い、お断りできるわけがありません。
裏通りにあるカフェは洋館を改築してあって、猫が端っこを歩いていく自然な中庭にテーブルが並んでる。車道の喧騒の届かない、ぽかっと静かな空間。お茶を片手に午後いっぱい本を読んでいたくなる居心地のいいお店です。
高校生のわたしが来るには、ちょっと場違いな感じもする。大人の方は、鼻骨先生は普段からこんな素敵なお店にいらしてるんでしょうか。
運ばれてきたコーヒーのカップはミントン、牛骨を利用した磁器を発明したブランドではありませんか。そうそう、牛骨の麻雀牌もあるって聞いたっけ。骨ってえらいです。
お砂糖を入れようとして、お皿の上に何種類も用意されてることに気づいた。もしかして中に大牙さんの企業秘密なお砂糖があるかもしれない。
「何を探してるんです?」
あれでもないこれでもないと袋をかき分けてるうちに、一人の世界に入っちゃってた。怪訝そうに聞かれて鼻骨の存在を思い出す。
「あっ、すみません。実は幻のお砂糖がないかと思って。これなんですけど」
ハーフポケットから回収して、勢いでバッグに突っ込んで持ってきちゃってた大牙さんのお砂糖。半透明のパッケージに印刷されたブランド名を眺めて、鼻骨先生は意外そうに美しい眉弓をうごめかせた。
「これなら知ってます」
「ええっ、本当ですか! どこで売ってますか?」
さすが、こんなおしゃれなお店をご存知の大人の方は違う。思わずテーブルに身を乗り出すと、コーヒーカップが乱暴なふるまいに抗議するみたいに、かちゃんと音を立てた。
「残念ですが、市販はされてません」
天国から地獄へ突き落とされた。
「ですが試してみたければ、一袋あげましょう」
地獄から天国へ突き上げられた。
「ありがとうございます、ぜひお願いします!」
「ちょうど持ってたんです」
鼻骨先生の指が鞄の中から、するりと小さな袋を取り出した。パッケージからして、まさしく大牙さんの幻のお砂糖。
喜び勇んでコーヒーに投入、いざ!
「おいしいですか?」
にっこりと爽やか笑顔を浮かべて、鼻骨先生はわたしの反応を待ち構えてる。
「お……おいしい、です」
「それはよかった」
市販されていないという幻のお砂糖、それも先生が持ち歩いてた大事な一袋、せっかくそれを頂いたのに言えない――おいしくない、だなんて。
おいしくないというより、お砂糖にしては癖のある味というか。想像してた甘美なる味じゃなかった。これが大人の味なんでしょうか。ひょっとしてこの癖のある味が、そのうち病み付きになったりするんでしょうか。
コーヒーの強い味にまぎれてるからまだしも、そのまま舐めたらペッとしたくなるのでは……。
でも先生の手前そんな素振りは見せられない。覚悟を決め、ゴキュゴキュと幻のお砂糖入りコーヒーを飲み干した。
「ところで、昨日ボールが当たったところ、大丈夫ですか? 腫れはひきましたか?」
「あっ、はいすっかり」
お砂糖じゃない話題に大歓迎で飛びついた。
「ボールを蹴った中等部生が面白い話をしてくれましたよ。先週、サッカーボールで窓を割ってしまって、それが三階だというのに割れた窓から学ランの生徒が飛び降りて追いかけてきたそうで……」
「へええ」
一名ばかり、そんなヒーロー技が可能な学ランさんに心当たりがあるような。
「聖ウェズリー学院はスポーツでも有名ですね。私が高校生の時には、ボクシングでものすごく強い選手がいたんです。名前なんでしたっけ、ええとあれは……」
眉弓と鼻梁が劇的に出会う場所、眉間に指先を当てて考え込む鼻骨先生。もう片方の手は、牛さんの形をしたミルクサーバーからカップにクリームを注いでる。
クリームを注いで……。
「ああっ! 鼻骨先生すみません、買い物の途中だったんです。生クリーム買わなきゃ屈葬されちゃうんです!」
「びこ……何ですか? ああ、予定があるんですね。急に付き合ってもらって悪かったね、店まで送ります」
辞退しかけたけど、考えてみればこのカフェの現在地が不明。送ってもらわねば帰れません。車の送迎つきでご馳走になるなんて、高校生のわたしには破格の待遇。
大牙さんなんて一緒に歩いててもひなた求めてウロウロなさって、莉子の存在はどうでもいいって感じなのに。もしかしてわたしは、どこか間違った恋をしてるんでしょうか。
だけど車のシートは新緑の季節の日差しで温められてて、大牙さんのひなた欲求もうなずけちゃう心地よさ。しかも小さくクラシックなんかかかってると、まつ毛に小さな睡魔さんたちがこぞってぶら下がってるみたいに瞼が重くなる。
「眠くなってきたみたいですね、高居君」
鼻骨先生はすぐ隣の運転席なのに、声はもっと遠くで囁かれてるかのよう。カフェインの入ってるコーヒー飲んだのに、眠くなるなんて。
ぼんやり眺めてた車窓を、スーパーが通り過ぎていったように見えた。
「あれはね、睡眠導入剤なんですよ。アルコールと一緒に摂取すると副作用で健忘をおこすことがあって、レイプ犯罪に利用されたりするんですよ」
先生は、急に妙なことを言い出した。だけど聞き返す気力は倦怠感で押し流されてしまう。
「だからすぐにアルコールも打ってあげます。でも飲ませてくれと言ったのは君ですよ。幻の砂糖、なんて可愛い口実でね」
いつしか外は霊園。霊園とは言っても桜並木はお花見スポットになるほど見事。都会の中にあって公園がわりに散歩コースにもなり、著名人の墓も多いという。車はその霊園に近い墓石屋さんの石置き場か何か、人通りのない一角に停まった。
「つまり誘ったのは君、ということです」
大牙さんに代わって屈葬しちゃおう、なんて思ってらっしゃるわけじゃありませんよね?
水の中では走れない。そんな風に動きの遅い思考でも、これが危機的状況なことに思い当たった。
「先生、降ろしてください。降ります!」
ドアにしがみついて、ロックを引っ張る。
「えっ」
ロックは外れた。部品ごと。
「すみません、それ壊れてるんです。外からしか開かないんですよ」
後ろからやけに静かに説明する先生の声には、含み笑いが混じってる。
壊れてる? 壊してある? だから先生はわたしを乗せる時、わざわざ助手席まで外を回ってきてドアを開けてくれたんですか? どうぞ、お姫さまなんて言って。
髪の生え際、首筋、背中、あちこちに冷たい汗が吹き出るのが分かる。早く逃げろ、早く逃げろって心臓はばっくんばっくん急き立てるのに、逃げ場所なんてどこにもない。周囲は倉庫と石ばかりで、通行人なんて誰もいない。
信じられないことに自分の眠気までもが、自分の可能性を狭めてく。
開かないドアに目一杯はりついて振り返る。先生が鞄から慣れた手つきで取り出していたのは、注射器とガラスの小瓶。
ビニール袋を破る先生は楽しげだった。
「さあ、高居君。お薬の時間です」