1. 悪家政婦破家
「裏筋……パイパン……鳴く……ワレメ……一発」
「莉子、朝っぱらから何を言い出すのー!」
「ここ学校だよー!」
「誰に教わったの、それー!」
一時限目は選択音楽、合唱曲の楽譜を抱えて音楽室へと向かう渡り廊下。
起床三時間して頭脳は良く動き出す、とか聞いたから。試しに昨夜就寝前の記憶を呼び起こしてみてたら、お友達が仰天して、だけど非常に興味ありげに騒ぎ出しました。
「教わったっていうか……修行しとけって、大牙さ……衛藤先輩が」
「興味ないって顔して、手の早い男!」
「しかも莉子が世間知らずなのをいいことに、そんなの仕込むなんて」
「性悪男め……莉子ごめん、あたしたちがもっと気をつけてあげてれば!」
頬を染めたお友達は憂いと嘆きと怒りと、だけどやっぱり非常に興味ありげな様子であれこれ言ってくれる。思わぬ激しい反応にたじろぎ、さかさかと楽譜の裏に隠れた。
「ううん、大牙さ……衛藤先輩は誤解しただけなの。わたしが妙手回春ってメールしたのを」
「買春!」
赤信号が一斉に青になったみたいに、お友達の顔色が塗り変わった。
「どうして言いなりになったの、バカ莉子!」
「え、だって大牙さ……衛藤先輩が嬉しそうだったから、つい」
「ダメ! きっぱりと断ち切りなさい」
「え、だって約束しちゃったもん。退院したらすぐにやるって」
あの鬼畜! 外道! 死に損ない! 寝癖野郎! と、すごい剣幕で罵倒されてる大牙さん。さすがにここまでされると、莉子の認識不足だと認めるしかなさそうです。
「ごめんね、みんな。そんなに悪いことだとも、心配かけるとも思わなかった……」
「ごめんって言うなら今すぐやめるの、そんなこと!」
「もっと自分を大事にしなくちゃ。ねっ」
神さまにお祈りするような形で、わたしの手をぎゅうううって握り込んで。涙目のお友達は必死に説得してくれてます。胸がきゅんと鳴る。ああ、お友達ってなんて素晴らしいものなんでしょう。
わたしもお友達の手をぎゅうううっと握り返した。
「わかった。もうしない」
「わかってくれたんだね、莉子!」
「うん。そんなにいけないことだなんて、知らなかった。麻雀」
キーンコーンカーンコーン。
始業のベルが鳴り始める。鳴り始めて、鳴って、鳴り終わって、その間お友達はただ目をぱちくりし続けてるだけだった。
「……麻雀?」
「うん。退院までに麻雀用語くらいは覚えなくちゃと思って、昨日一生懸命覚えたんだ。でも漢字が中国語の読みだったり、覚えること多いし、頭パンクしそうだったー」
遅刻しちゃうー、と見知らぬ生徒がバタバタ横を走り抜けていく。走り抜けて、走り去って、足音がどっかの教室に消えた。その間お友達はただ不審な目をし続けてるだけだった。
「じゃあもしかしてさっきの、麻雀用語だったの……?」
うんそう、と答えると。熱烈に握り合ってた手がサーッと離れ、さらにはお友達本体もサーッと離れていっちゃいました。
「あれっ、みんなっ?」
「いっぺん頭パンクしてこい、ボケェ」
ええっ、お友達のキャラが違いますよ? なんか大牙さんばりのドス効きまくってますよ? キヨイ先輩並みのブリザードが吹き荒れてますよ?
「みんな待っ……」
追いかけようと踏み出した瞬間、ドベシと鈍い音がした。
「……ったんすよ。それからオレ毎日朝練してんスよ、ボールの芯を蹴れるように」
「へえ、感心ですね。そのスーパーヒーローみたいな先輩って誰なんです?」
「知らないんス。名前聞く前にいなくなっちゃったんでー」
遠いような近いようなどこかから、男性二人の声がする。
「けど難しいんすよ! それでイラッとして思いっくそ蹴ったボールが、渡り廊下に飛んでっちゃって」
「で、開いてた窓からあの子の頭に命中した、と」
「すんませーん」
一人は軽薄で調子いい感じの少年、一人は落ち着いた口調の青年らしき声。
「君、謝るならあの子に謝らなきゃいけませんよ。気絶するほどの衝撃だったんですからね」
「すんませーん」
にゃわにゃわした模様の天井板。クリーム色の布地を張った衝立。
「けどおっかしーな。高等部の保健室のセンセって女の人って聞いてたのに」
「そうですよ。産休でしてね、私はその間だけの代理なんです」
真っ白の清潔そうなシーツ。空気中に漂う消毒薬の匂い……保健室? なにゆえに?
起き上がろうとしてみたら側頭線周辺で、ずっきょんと痛みが暴れた。触ると少し腫れてる。さすりつつ這い出し衝立から覗くと、デスク前の椅子に中等部生らしき少年と白衣の先生。
「おや、お目覚めのようですね、お姫さま」
わたしに気づいた先生、にこやかに立ち上がると百八十センチはあった。二十代後半かぎりぎり三十といったところ、知的だけど体育会あがりみたいな精悍さのある文武両道タイプ。痩せてるっていうか引き締まってて骨格しっかり。
あ、もしかして。お友達の間でカッコイイって話題もちきりの保健の先生?
「気分はどうでしょう、ええと――二年キングスウッドクラスの、高居君。君ね、廊下の窓から飛び込んだボールが頭に当たったんですよ」
「ちょっとクラッとしてますけど、だいじょう……!」
なんて。
なんて逞しいくっきり眉弓なんですか、このお方! そこから眉間を経て高く細い鼻梁を形成する鼻骨の美しさ、鼻中隔の左右対称性、きゃあー。
「高居君?」
「クラッとしてます。めまいしてます……」
先生の鼻骨に。
「でも大丈夫です、先生。すごくいい気分ですー」
「すんませんでした! オレがボール蹴ったんス」
視界の隅っこで頭下げてる中等部生など、どうでもいいのです。
こんな掘り出し骨が保健室にあったなんて。大牙さんに見舞いを断られてから美骨格に飢えていたけど、これはきっと神さまが莉子にくれた目の保養。
そのプレシャス眉弓上の眉がきゅんと寄って、懸念の形になった。
「脳震盪を甘く見ちゃいけませんよ。癖になりますし、軽症でも蓄積すればパンチ酔いなんて言われたりしますしね。ボクサーは度重なる慢性的なパンチによる脳震盪で……」
先生が眼鏡かけてなくて良かった。眼鏡かけたら、フレームやノーズパッドでせっかくの眉弓や鼻骨が隠れてしまうじゃありませんか。
「詳しいッスねえ、先生」
「そりゃ養護教諭ですから。高等部時代はボクシングやってましたし」
鼻骨先生、お会いできて嬉しいです!
『三年、アダスゲイトクラスの神宮寺律季さん。および二年、キングスウッドクラスの高居莉子さん。至急、生活指導室までおいでください。弁当持参で、一分以内に来なければ家賃を値上げするそうです……?』
お昼休み突入の鐘が鳴ったところで、校内アナウンスが流れた。
「莉子ってば、生活指導を受けるような乱れた行為をしちゃったの!」
「それも衛藤先輩じゃなくてリッキー先輩とってどういうこと!」
「今頃リッキー軍団がナイフ研いでるよ……」
「ナイフで済めばその方が幸せかもねえ」
お友達の皆さま、頷きながら憐れみいっぱいの目を向けるのはやめていただきたく。
「汚らわしい。風紀の乱れた生徒など、粛正でなく粛清していただきたいものですわ」
「あら、リッキー様に限ってそんなことは。きっと高居さんがたぶらかしたのよ」
「以前から汚い手を使っておいでのようでしたものね。ざまあごらんあそばせ」
女子クラスメイトの密やかな囁き攻撃を後頭部で受ける。リッキーさん大牙さんと関わって以来、莉子の評判が地に落ちているのはなぜですか。
誤解を解きたくても、一分以内に行かなければ家賃が。莉子のせいで値上げされたら、大牙さんにクビにされちゃうかもしれません。
泣く泣く偏見に満ちた噂を後に残し、生活指導室へ猛ダッシュをかける。指導室前では今日も美麗にスーツにタイの茶々さんが、腕組みして壁に寄りかかって待ってらした。
「やあ来たな、スウィーティー。やはり子羊は迷うべきもの、子うさぎは駆けるべきものだな」
その謎な茶々美学のために、莉子は走らされたのでしょうか。
「入れ、律季はもう来ている」
「莉子ちゃん、朝ぶりー」
ソファで寛ぎモードのリッキーさんが、ぴゃぴゃっと手を振ってお出迎え。さすがカモシカ、わたしと違って息も髪も乱れてません。
「昼時に悪いな。早速だが、実は水泳部の女子更衣室から盗撮カメラが見つかった」
衝撃的なことをサバサバとおっしゃって、茶々さんはリッキーさんに箱を差し出した。中には小さなビデオカメラが入ってる。盗撮に使われたものらしい。それも一台でなく、何台も。
「調べるとシャワールーム、トイレなどあちこちから隠しカメラが発見された。同一犯だろう。犯人を捜してもらいたい」
「えーっ、警察に届けないんですか? ちゃんと逮捕された方がみんな安心するかも」
麗人さんは大きくかぶりを振る。
「独自に調べたところ、一切の指紋がなかった。映像の転送先も不明。隠匿したにせよこういった機材を持ち込んだ業者は該当なし、侵入者の形跡もない。これは内部犯だよ。私は私の牧場に嵐を吹かせたくはないのだ。……分かりそうか、律季」
「ん、指紋は拭けても波動は残るからね。莉子ちゃん、二年生に金髪の男子生徒いるでしょ。後ろでひとつに結んでて。小柄で痩せてて、すこーし陰気で」
もう愛で見つけちゃったんですか! リッキーさんに不幸の手紙は出せません。
「それ、アツって呼ばれてる人です。正式名称は知りませんけど」
「フルネームと言うべきじゃないのかな、スウィート。そうか……あの生徒には何かあると睨んでいたが、やはりな。証拠はないが、ハハッ、そんなもの捏造すればいい話だ。取引には使えるだろう。さあ、食事にしようか」
証拠をそんなもの呼ばわりです。この学院の正義は、一体どこにあるのでしょう……。
「眉弓、眉間、鼻骨に鼻縁ーふんふんふーん。あ、リッキーさん、おかえりなさーい」
「ただいまー」
放課後は今日も今日とて大牙さんのお見舞いだったリッキーさん。なぜかしんなりとブレザーの細い肩を落としてらっしゃる。雨に濡れそぼれた小鹿みたいで、保護欲そそられます。
「莉子ちゃんに頼まれてた大牙の写真、撮らしてもらえなかったの。ごめんね」
差し出されたデジカメでようやく思い出す。大牙さんの下顎骨を激写してきてください、とリッキーさんにお願いしてたんでした。
「いえ、大牙さんって写真嫌いなんですよね。前に魂抜けるだろって怒られちゃったんですけど、リッキーさんだったら撮らせてもらえるかと思って……無理言ってすみませんでした」
でも鼻骨で目の保養できたから、下顎骨の写真が入手できなくてもそんなに痛手を感じません。
「魂抜けるなんて、大牙さんって変な迷信持ってるんですね」
「あながちそうとも言えないの」
歯列矯正もホワイトニングもばっちりな歯がきらりんと眩しく光った。
「写真ってね、波動を閉じ込めんの。心霊写真もそう。だから写真をいっぱい撮られる人はそれだけ波動を持ってかれて疲れんの。芸能人ってオーラすごいでしょ? 人並み以上の波動を発してないと続かないよね。大牙が魂抜かれるって言うのはそういうこと」
そうだったんですか。つまり大牙さんは疲れたくないから写真嫌いと……なんて怠惰な理由。
「へえ……じゃあリッキーさんは、写真からでも波動を拾えるんですか」
「うん、特にプリント写真ね。デジタルはデジカメやビデオが起動してるとか画面に表示されてるとかじゃないと、微弱すぎて拾いにくいかな」
じゃあどうすれば大牙さんの下顎骨を身近にキープしておけるんでしょう。
「石膏型なら取らせてもらえるでしょうか? デスマスク」
「莉子ちゃん……ライフマスクって言おうね。石膏型欲しさに殺さないでね、ふふ」
ふふっておかしそうになさる割には、目がやけに真剣のように見えますが。
「そうそう大牙、明日退院だって。担当の先生が驚いてた、人間とは思えないくらいの回復力だとか。ちょうど祝日だから迎えに行ってくる。ところで、ほらっ!」
百万ドルの笑顔で、リッキーさんは鞄から出した薄い包みを掲げてみせた。
「じゃーん。大牙から莉子ちゃんにおみやげー」
「えーっ!」
「……どうして脚気のテストしてんの?」
「骨格筋による膝蓋腱反射を確認。わー、夢じゃないんですね」
大牙さんから、あの無愛想大牙さんからプレゼントだなんて。信じられないけど、足はちゃんとピコンって跳ね上がった。ふるふるする手で包みを受け取る。リッキーさんの前じゃなければ、包みにキスしちゃいたい。
すはすは呼吸を整えてから開けてみる。
中身は想像する暇もなかったけど、想像もできなかったであろうものだった。
「麻雀ソフト……」
表面に貼られたポストイットには『悪家政婦破家』。覗きこんだリッキーさんが意外そうに目をみはる。
「悪婦破家なら、悪妻は家を滅ぼすって熟語だけど。大牙ってば、なんでこんな言葉貼ったんだろ?」
ボケ家政婦、茶々への借りを増やすんじゃねーぞ。修行しとけよ。という大牙さんの脅迫……いえ叱咤激励メッセージが、莉子にははっきり聞き取れました。