4. みゃおって何ですか
失踪宣告。
不在者の生死が七年間不明の時、家庭裁判所への申し立てによって法律上死亡したとみなされる。律音さんは昨年その申し立てが受理されて、書類上亡くなったことになったのだそうです。
「律音嬢は八年前に家出をなさったですの。リッキー様のお父上が警察官僚のトップエリートというのは知っているですのね? 全力を挙げての捜査が行われたものの、徒労に終わったんですの」
――まだ舞以が初等部の時だったか、君は行方不明になった姉を追って、樹海で遭難しかけたんだったな。
「名家の令嬢の家出、それも樹海へ行くという不吉な置き手紙つき。この不名誉に、お父上は激怒なさったそうですわよ。しかも捜査が空振りに終わった、それじゃ旧家の名も父親のメンツも警察の体面もズタズタですの。だから」
だから?
叫びたかったけど、見えない黒い手に喉を締め上げられてるみたいで声にならなかった。代わりに涙が叫びだす。冷たくて痛くて、どんなに流しても何の足しにもなりそうにない涙。
「だから神宮寺家のお父上は、失踪宣告を申し立てたでございますの。初等部生でありながら樹海まで探しに行ったリッキー様がその措置にどれだけ反対し、傷ついたかは想像できますわね?」
――僕はまだまだ家出を続けるつもりです。
「初等部生が二人、樹海の不気味な闇夜で帰り道を見失う。底抜けの恐怖の中で、リッキー様と衛藤が常人離れした感覚を刷り込まれてしまったとしても無理はないですの」
――彼はまだ、夜の中にいるんだよ……。
「衛藤はお父上との意見の相違ですっかり憔悴してしまったリッキー様を、半ば奪うようにして連れ出したんですわよ。律音嬢の親友であり、初代リッキー軍団総長であり、今や聖ウェズリーの常務理事でもあられる――」
「茶々さんのとこに」
代々の団長にだけ受け継がれるという秘話を、キヨイ先輩は話してくれた。
五時限目なんてとっくに始まってて、後ろの体育館内からはバレーらしきボールのリズムが聞こえてる。トラックでは中距離走、グラウンドの向こう端には順番待ちで柔軟体操してるジャージ姿。そういうのから全部、日常から全部、わたしとキヨイ先輩だけ切り離されちゃってた。
リッキーさんの感じ取る生命の波動、大牙さんの夜にだけ見えまくる目。どうやって身についたのかなんて深く考えたこともなかった。お二人が同棲し始めたきっかけだって、愛と絆の深さだって。
「キヨイ先輩……わたしたち、勝ち目のない片思いをしてますけど」
視界がガラス瓶越しみたいに歪んでる。片手でぐしぐし涙を拭い、もう片手でキヨイ先輩の腕を求める。
「お二人の愛の奇跡に触れられただけでも……先輩?」
手探りしたけど、キヨイ先輩の腕はどこにもなかった。
「あれ? せんぱ……」
「ああッ畜生ですの、緊張で手ブレしますのっ」
つつじの茂みに片膝をつき、ビデオカメラを構えているキヨイ先輩がいた。レンズの先をたどってみれば、今まさに出走しようとなさってるリッキーさんのジャージ姿。
「高居莉子、ここに来い! ですの。肩を貸せ! 人間三脚にするですわよ。早くッ」
キヨイ先輩、ビデオを携帯なさってるらしい。さすがですっ!
「わーリッキーさん速い、カモシカー」
「動くなっブレるですの、息も心臓も止めろ! ですわよっ」
「は、はいいい」
「お待たせをばー」
放課後、正門前で待ち合わせ。銀杏並木に敷き詰められた赤煉瓦の上をカモシカリッキーさんは、体重どこ行っちゃったんだろと思うような軽やかさで走り寄ってきた。周囲の、主に女子生徒の視線をぞろぞろ引き連れて。
あ、リッキーさんの肩越しに見える茂みで、覚えのあるビデオカメラがこっち向いてる。
「さー参りましょうか?」
ヒョイと右手が軽くなった。リッキーさんが当然のように持ってくれた鞄を慌てて引っ張る。
「いえ、お気遣いありがとうございます。でも大牙さんのお見舞いは申し訳ありませんがリッキーさん、お一人で行ってきてください!」
ぱちこ、と小動物系の瞬きが見下ろした。
「玉ねぎにやられちゃってたのに、いいの?」
「もう玉ねぎには負けません!」
意味を図りかねてるらしく、リッキーさんは顎に指を添えてじーっと考えてる。
「約束したんです、大牙さんと。バナナケーキの修行しとくって。退院したら毒見してくれる約束なんです」
「ふうん?」
「わたしがどんなに頑張ったって、大牙さんの理想にも好みにも一歩も近づけないのかもしれないです。だけどわたしの精一杯を見てもらいたいんです」
今朝は、お見舞いに連れて行ってもらおうと思ってた。だけどキヨイ先輩と話をしてたら、それじゃダメなんじゃないかって思い始めた。
「そのためには精一杯やらなくちゃ。精一杯やったって背筋を伸ばして言えるように、精一杯」
顎に添えてたリッキーさんの指は、少し上方に動いて唇を押さえた。ほころぶ口元を戒めようとしてるみたいに。
「その結果できたものが大牙さんにとってマズくっても……それでいいんです、たぶん」
戦績じゃなくて、リングに立つこの姿を大牙さんに見て欲しい。病院という楽屋へ花やバナナを差し入れに行くより、わたしはまっすぐリングに立つんです。
「今の。予約」
「え?」
言われた意味が分からないでいたら、ふふふん、と上機嫌な鼻唄あるいは小鳥微笑が覗き込んできた。
「莉子ちゃん、いい顔してたから描きたくなったの。だからモデルに予約、ねっ」
わあ、なんかいい匂いがします。眠たくなります。陽だまりで昼寝する猫から睡眠促進ホルモンを抽出したら、こんな効き目をあらわすのでは。ふにゃあ。
おっと第五ラウンド、安楽死させられてる場合じゃありません。完成させるのです、必殺バナナケーキ莉子スペシャル! 退院して一番に食べていただかなくっちゃ。
見舞いは出来ないけどせめて、とメールした。
『リッキーさんの妙手回春には及びませんが、莉子も修行してお待ちしてます。退院後を楽しみになさっててくださいね』
有言実行、小麦粉をガッシャガッシャふるっていたら携帯が鳴いた。
『俺』
大牙さん!
オレ、ってその一言で通じると思い込んでらっしゃるのが、ここここ恋人同士みたいでドキドキです。口調も楽しげだし。何よりメールしてすぐ電話くださるという反応の良さ、この特別感が、ああ骨にしみわたります。
『おまえが中国麻雀やるとは知らなかった。マジで修行しとけよ、メンツに入れるから。茶々から家賃分まきあげてやる。あいつ、クソつえーんだよ』
はい? 麻雀?
『律ちゃんも強いだろ? 妙手回春とか海底撈月とか土壇場で持ってくんだよな。ったく、俺がいない間に何してんのかと思えば麻雀とは侮れねえな』
はい? みゃお?
『さっき茶々に宣戦布告しといたからな。おまえ負けたらその分給料天引きしてやっから根性入れろよ……』
気合とドスまで電信されてきます。
「あの、何か大いなる誤解が……」
『うし、俺も腕磨いとくか。いい暇つぶしになるぜ。修行しとけよ』
ブツッ。
「えええ? 麻雀なんて知りません! 大牙さん! みゃおって何ですか大牙さーん!」
さっぱり状況が掴めないけれど、ただ一つ確かなのは。バナナケーキ莉子スペどころではない、ということだ。
第五ラウンド試合凍結。ふるいかけの小麦粉もそのままに、麻雀入門本を買いに走った。