3. しかし愛し合うためには
紙袋をスコースコー鳴らしてたキヨイ先輩は、やがてもう大丈夫だというように軽く右手を挙げた。心配そうに控えてたリッキーさん、ほうっと大きく安堵の息を漏らす。それからしょぼーんと身を縮ませた。
「ごめんね。僕のせいでキヨイさんがそこまで思い詰めてたなんて」
「えっ!」
ぎょっとしておののくキヨイ先輩へ、リッキーさんは言いにくそうに上目遣いする。
「名前聞くだけで拒絶反応起こすくらい、嫌いだったんだ……足が八本の揚げ物」
「リッキーさん、イカの足は十……」
「そ、そうなんですの、嫌いですの足が八本の揚げ物!」
キヨイ先輩。手の甲をつねらないでください、痛いです。
「だからもう、キヨイのことは気にせず、忘れてくださいです」
え?
「そういうわけにはいかないよ。ね、好き嫌いを教えてくれる? また改めて」
「いいんです!」
ぐしゃ。キヨイ先輩の手の中で紙袋が潰れた。
うつむいた横顔は強張ってて、肩からは拒絶のオーラが放散されてる。放っておいて、これ以上入り込んで来ないで、空気を通してそう叫んでる。ぎりぎりまでたわんだ枝が、みしりと鳴いて限界を伝えてるみたいだった。
ベンチの脇で、リッキーさんは思案顔だ。リッキーさんは何も知らない。リッキー軍団が存在することも、高等部団長がキヨイ先輩であることも、キヨイ先輩がどんな想いでリッキーさんを見つめてきたのかも。
ここは、莉子が何とか!
「リッキーさん、そんなことありませんよね!」
今にもまた逃走しそうなキヨイ先輩の腕を、がっちと確保。
「好き嫌いって住む世界が違うからダメだとか、だから無理とか。そんなんじゃありませんよね! 何かお願いします、愛のご託宣を!」
「高居莉子、おまえっ……」
「お願いします、リッキーさん!」
頭を下げたのか、キヨイ先輩にしがみついたのか、よく分からない。
リッキーさんには大牙さんがいる。大牙さんにはリッキーさんがいる。わたしもキヨイ先輩も、所詮叶わぬ恋なのかもしれない。
だからってこんな風に違いを思い込んで、違いに傷ついて諦めたりするなんて悲しいです。でもリッキーさんじゃないから、そんなのうまく言葉に出来ない。
国語が苦手で、こんなに悔しい思いをしたのは初めてです。
「……莉子ちゃん。僕は預言者じゃないよ」
リッキーさんの革靴の先、木漏れ日が気持ち良さそうにじゃれている。さやさや鳴る椿の葉に合わせて踊ってるみたい。
ほんの少しの沈黙の後で。リッキーさんの言葉にそっと目を開けたら、まるで妖精みたいな小さな陽だまりたちの乱舞が見えた。
「先人の英知を引いてくるだけ。答えなんて持ってないの。その英知にだって答えがあるわけじゃない。自分でしかたどりつけない答えまでの道筋に、ほんの少し明かりを添えてくれるだけ」
とても静か。
光はこんなに溢れているのに、音を持たない。揺れる木漏れ日たちの声を代弁するみたいに、リッキーさんはそうっと話す。
「僕は言わば、おみくじを渡す人。道筋が照らされますように、愛のお導きがありますように、って精一杯祈りながら手渡すの。そうだね、たとえばこんなのはどうかな」
過呼吸の名残で乱れていたキヨイ先輩の息も静か。力んでいた肩も緩んで、ほぐれてる。
「『理解し合うためにはお互い似ていなくてはならない。しかし愛し合うためには、少しばかり違っていなくてはならない』――フランスの詩人、ポール・ジェラルディ」
ああ。リッキーさんが差し出してくれる明かりは、なんて柔らかな温度に満ちてるんだろう。きっと陽だまりの体温。
冷血変温動物大牙さんが、リッキーさんの膝枕でなら眠れる理由。それは体温の差じゃない。人肌だからだ。単に血が通ってるだけじゃない、愛が通った体温だけを、大牙さんは人肌として認識してるんだ。この満ち足りて幸せな、眠りを誘う体温。
チャンピオン・リッキー、第五ラウンドで莉子を安楽死させるおつもりなのですね……。
「違ってるから愛せるんだよ。だって自分と同じものを欲したら、それって……食人でしょ」
はい?
うとうとしかけたところを、物騒な単語に現実へ引き戻された。
「キヨイさんは魚介類がダメなんだね。でも、魚介類と人間じゃ住む世界が違うからって理由は初めてだなー。違うからいいんだよ、僕は類人猿を食べる気は起きないもん」
腕組みして、首をてん、と傾けて。リッキーさんは真剣に説いてらっしゃいます。ものすごく見当違いなことを。
「リッキーさん、そうじゃなくって――うきゅっ」
「ち、違うから惹かれるんですわね、今日からはイカでもタコでも食べるですわっ」
キヨイ先輩。そんな爪立てて手の甲をつねらないでください、痛いですってば。もう起きてますってば。
「そお? でも無理はしないでね」
ガクガクガク、と頷くキヨイ先輩の頭は取れちゃいそうな勢い。
「あのっ!」
「ん、なあに?」
そして、キヨイ先輩はようやく顔を上げた。避け続けてたリッキーさんの方へ。さすがに真正面は無理みたいだけど、ギシギシと頚椎の悲鳴が聞こえてきそうな硬さだけど、キヨイ先輩が精一杯勇気を振り絞ってるのが分かった。
「キヨイは、諦めません、ですわ」
「うん。ふふ、頑張って」
小鳥の羽先を思わせる、豊かにして繊細なまつ毛が笑う。その羽先に軽やかにすくいあげられて、キヨイ先輩の想いは空色の空に舞い上がったことでしょう。
ぴゃぴゃっと手を振り、じゃあまたーと挨拶して細身の後ろ姿は校舎へ駆け戻って行った。まるで鉄骨入りみたいに背中をガッチガチにしてたキヨイ先輩は、何とかその鉄骨を捻じ曲げて会釈して、紅潮した頬でぼんやり見送ってた。
「解釈が食い違ってたみたいですけど……良かったんですか」
途端に北極圏の猛禽類に戻ったキヨイ先輩の眼光が、ズバッと振り向く。
「おまえの説明不足がいかんのですわよ」
ぎゃふーん。
「すすすすみませーん」
「……人と違うということは、人を傷つけることもあるが」
そう言ってツイと鼻先を上げたキヨイ先輩の横顔は凛々しかった。スローの直前、ボールの行き先でなく目前の敵でもなくゲームの行方だけを見定めて、指先に魂こめた瞬間みたいな瞳をしてた。
惚れそうです。
「その相違からしか生まれない絆があるなら、あながち悪いとも言えないですわね」
良く見ればキヨイ先輩、大きな手をしてらっしゃる。バスケットボールを平然とつかむのであろう力強い指。それに連なる第二中手は、キヨイ先輩の箸が動くたびに手の甲から密やかに存在を表す。働く骨は縁の下の力持ち。
「……聞いてるんですの? リッキー様と衛藤のことでございますわよ」
「は、はいっ?」
骨に見とれてたら怒られました。
「衛藤はムカつく。衛藤は生意気だ。衛藤は目障りで人を馬鹿にして不真面目で怠惰で、リッキー様を撮る時も邪魔で邪魔で」
箸をグイグイ振って熱弁なさるキヨイ先輩。よっぽど大牙さんがお嫌いらしい。
「――だが軍団は、衛藤に手出しできないですの。初代総団長時代からの団規でもあるし、律音嬢の件で疲弊したリッキー様を支えたのは衛藤だしな……ですの」
ぴこん、と耳小骨が跳ねた。
「初めてここに呼び出した時、おまえは何も知らされていなかったようですわね。リッキー様が言わないなら本来、私が言うべきではないですの。とはいえおまえは、『お姉さまのご冥福をお祈りしますー』などと不用意に発言しかねないでございますの」
「あの……いけないんでしょうか、ご冥福を祈っちゃ」
「ならんですわよ。律音嬢は生きてるんですの」
外界の音が消えた。光も温度も消えた。
あるのはただ憂えるキヨイ先輩の伏目と沈んだ声だけ。