2. 愛で見つけてみせましょう
「あ、いたいたー」
空からそんな声が舞い落ちてきた。
お昼休み、聖ウェズリー学院礼拝堂前のなだらかな広い芝生は、購買のパンやお弁当を広げる学院生で大賑わい。
資産家や名家の子女が多く集うこの私立聖ウェズリー学院高等部は、自由な校風と制服の多様さで知られている。男子は数種類のブレザーと学ラン、女子は同じく数種類のブレザーとセーラーから自由に選択できる。
だからお昼の芝生は、とりどりの花を寄せ植えしたみたいに、とっても賑々しく華やかな色に染まるのです。
「ふふっ、みっけ」
クラスメイトとピクニックシートに腰を下ろし、お弁当の包みをほどいたところで聞こえてきた、覚えのあるこの小鳥のさえずりは。
「昨日ぶり。お邪魔しまーす」
さらん、と黒髪をなびかせて滑るように登場したのは、あの美少女系美男子さんだった。ブレザー姿で胸元に光る学年章はイエロー、三年生の証。すなわち同じ学校の先輩。
世界史の教科書で見た、水爆実験のきのこ雲が頭蓋を埋めた。耳から煙がもれだしててもおかしくない。
これはクライシスです!
「わー、こんなちっさい弁当で足りるの? 中、見ちゃおー。あ、卵焼き」
視界の隅でいそいそと座り込んだ今そこにある危機さんは、わたしの膝上のお弁当箱を覗いてる気配。ふたが開くカパッという軽い音は、とっても滑稽に聞こえた。
だって、バイトがばれたら生活指導室行きなんです。
この学院は髪型や持ち物にも寛大なため、金髪縦ロールから七色アフロ、女王様風ロングブーツから高下駄まで何でもあり。だけどそれは、厳粛な生活指導の上に成立している個性。法律、礼儀作法、道徳、校則に背く者にはお導きが待っている。
どんなに素行が悪くても、一度踏み入れたら洗脳されない生徒はいないと噂の生活指導室。その扉がゴンゴンと開こうとしているのにお弁当ったら、カパッだなんて。
「君達は二年の……その徽章はキングスウッドクラス? 僕は三年、アダスゲイトクラスの」
「神宮寺律季先輩ですよね! 知ってるに決まってますー!」
「あたしも知ってますー!」
なんとクラスメイトが緊張に上ずりながら、知ってる知ってると輪唱してる。生活指導の先生に、両親は霊場めぐりで不在ですと言って信じてもらえるのか、という悩みはひとまず置いておくはめになった。
「初等部からずーっと毎年、剣道の全国大会で入賞してらっしゃるんですよね!」
「なのに美術部なんですよね、リッキー先輩! きゃっ、リッキー先輩って言っちゃったー」
「あ、いいよ。友達はたいてい、リッキーって呼んでんの」
「あたしもリッキー先輩って呼んでいいですか?」
お弁当そっちのけで盛り上がっている気配。もしかしてチャンス。この隙にこそっと逃げ……。
はしっ。
「だーめ。卵焼きとサンドイッチ交換してくれなきゃ」
通り名リッキー先輩、フルネーム神宮寺律季というらしいその人にジャケットの袖をつままれた。
そんな上目遣いでおねだりビーム出さないでください。卵焼きくらい、交換じゃなくても差し上げますから!
「莉子ってば、なんでリッキー先輩と知り合いなの?」
ほら、純粋な疑問じゃなくて、激しくトゲで構成されていそうな質問が飛んできた。鋭い視線まで投げられてる。痛いです痛いです。ダーツボードの気分です。
「あるお店でばったりと……ね、莉子ちゃん」
莉子ちゃんって……初めて聞いたはずなのに、どうしていきなりそんな呼び慣れたふりが可能なんでしょう。美術部じゃなくて演劇部の間違いでは。
「名字は何だったっけ、莉子ちゃん?」
「莉子の名字は高居でーす、リッキー先輩!」
「そっか、二年キングスウッドクラス、高居莉子ちゃんだったね。ふふふっ。改めてよろしく」
校舎脇でわずかに咲き残っていた最後の桜が、ひゅるると吹き抜けた風に散る。
オー・ヘンリー「最後の一葉」はそれなりに猶予があった。けれどわたしの場合、先輩は笑顔で、一瞬にしてすべてをむしり取っていきました。
卵焼きも。
話があるんだー、ふふっ。と弱みを握られてる先輩に言われて、どうして逆らえるでしょう。
男子の先輩と正門で待ち合わせて一緒に下校。それはもう、誰もが憧れるシチュエーション……のはずだったのに。気分は補導。そしてショッピング。
壷っていくらくらいするんだろう……。
駅へと向かう学院生の流れからひょいと外れて、先輩は慣れた様子で高級ブティックや美容院が軒を連ねる裏通りを進んでいく。このあたりは一歩側道に入れば超のつく高級住宅地でもあり、場違い感と不安に縮こまりながらあとに続いた。
「あのー、神宮寺先輩。昨日のお友達も、うちの学院の人なんですか?」
「リッキーでいいよ。うん、大牙は隣のブリストルクラス。天気が良すぎるから今日はお休み」
すてきな下顎骨の持ち主は大牙さんというらしい。でも、天気がいいからお休みって……聞き間違いだよね、きっと。
ファミレスかファーストフードにでも行くのかなと思っていたら、とうちゃーく! なんて示されたのは学院から徒歩十分の大きなマンション。ロビーに噴水まである、ゴージャスな造り。暗澹たる気持ちから一転、豪邸拝見のリポーター気分でわくわくついていく。
七階に上がるとリッキーさんは、どうぞ、とうやうやしく玄関ドアを開けてくれた。
「拝見しま……いえ、お邪魔しま……あっ」
ここまで来てようやく、お部屋に二人っきりになったらどうしよう、という危機的問題に思い当たった。美少女顔負けとは言っても、一応リッキーさんは男の人。すごまれたら、きっと逆らえない。
壷を買うまで、帰してもらえないかもしれない!
わたしがためらっているあいだに、リッキーさんはスタスタ上がっていってこう言った。
「大牙、ただいまー! お客さん来てる、高居莉子ちゃん」
「……え」
思わず耳小骨が反応。
大牙さんというのは確か、ミスター下顎骨さん。ただいまってことは、ここにお住まいということだ。リッキーさんが隣のクラスと言ったってことは、同い年ってことで……それはつまり……双子?
似てないっ! 骨格からして似てないっ!
「誰だって?」
どかどかと豪快な足音がして奥のリビングから顔を覗かせたのは、くしゃっとした茶髪に美しい下顎骨、確かにイノクニヤ・オレンジ山を崩壊させた大牙さん。
「覚えてないの? 昨日の店員さん。うちの高等部の二年だって。ふふー、奇遇だよね」
「あー? 覚えてるわけないだろ」
ひどいっ。ひどいです大牙さん、わたしは百人の中からあなたの下顎骨を見分ける自信があるのに!
いきなりなご挨拶に、思わず玄関ドアにすがりついてよろめく。とたんに、鋭い声がぶっ飛んできた。
「おい、そこ開けっ放しにすんな。寒い」
「あ、すみませんっ」
怒られて慌ててドアを閉め……結果、お部屋に入った形になってしまった。この状態からいまさら、帰りますとも言いづらい。もぞもぞと靴を脱いでリビングに踏み入れてみる。
壷代が今月のバイト代の範囲内でありますように。
大牙さんは部屋の中だというのに淡いオリーブ色のサングラスをかけてる。レンズ越しに機嫌の悪そうな目が見えてます。いっそ真っ黒なサングラスなら視線が隠れて怖くないのに。
「あ、あの……こんにちは、高居莉子です。お邪魔します」
しばらくして、ものすごーく渋々そうに、大牙さんが口を開いた。
「……衛藤大牙」
今、名字から名乗られた気がする。リッキーさんの二卵性双生児なら、名字は神宮寺のはず。
「あのう……双子なのでは?」
大牙さんはのけぞるようにして、キッチンにいるらしいリッキーさんへ顔を向けた。下顎骨大全開なアングルにめまいがっ。動悸がっ。やっぱり大牙さんはただもの……ううん、ただ骨じゃない!
ひょっとしてこれは恋でしょうか、お母さん!
「おい、律ちゃん。何でこんなボケ連れて来たんだ?」
なのに本日二度目のいきなりなお言葉。
苦笑しながらリッキーさんが奥から歩いてきた。そして大牙さんに背後から腕を回し……なんと、だ、抱きつきました! きゅっ、なんて音がしそうな可愛らしさで!
「莉子ちゃん、僕たちは二人で住んでるけど兄弟じゃないよ。ふふっ、同棲?」
「馬鹿、何言ってんだ」
と答えつつも大牙さん、振りほどこうとしない。照れ隠しみたいに眉をひそめて、あさっての方向を見たりして。
「それより俺は腹が減った」
「あ、バナナある。昨日、莉子ちゃんのお店で買ったやつ」
「おう」
お二人は何事もなかったように離れ、連れ立ってキッチンへ去っていきます。リッキーさんの華やいだ笑い声が聞こえてきます。わたしは一歩も動けません。キッチンとリビングのあいだにぶ厚い氷の壁が立ちはだかったような、激しい疎外感。
こんなことなら、壷を買わされたほうが幸せでした。
お父さん……莉子は今日、本当に男の人同士の世界があることを知ってしまいました。そして莉子が恋に落ちたのは、その世界に住む人みたいです。
「でねー、話っていうのは、莉子ちゃんにバイトで僕たちのメイドさんやってもらえないかなーってことなの」
「はい」
「男所帯だと散らかる一方でしょ。こないだの健康診断で、二人とも栄養が偏ってるって指摘されちゃった」
「はい」
リッキーさんが話しかけてくれてるみたいなので、反射で相槌を打つ。でもリッキーさんの柔らかい声も自分の声も、何だかはるか遠くからもわんもわんと響いてくるみたいな曖昧さ。
「お店でバイトするより、学校にばれるリスクも少ないでしょ、どう?」
「はい」
「わーい、よろしくねー。ふふふっ」
「……おい、律ちゃん。俺は反対だ」
それまで押し黙ってバナナをもぐもぐしていた大牙さんが、皮をテーブルに放り投げながらソファにふんぞり返った。
「世の中には家政婦紹介所ってもんがあるだろうが。どうしてよりによって、こんな年下の大ボケを雇わなきゃならないんだ?」
ボケから大ボケに昇格している気配が。
「だって前に紹介してもらった家政婦さんは、追い返されちゃったじゃない。貴様ら、この神聖なマンションにしなびた玉ねぎを立ち入らせるなとか言われて」
「あいつの趣味に合わせてやる必要ないだろうが」
「んーでも、その前はできそこないのジャガイモだって、たったの三日で……」
ピンポーン。
とインターフォンが鳴って、お二人さんの会話が中断した。応対したリッキーさんが玄関を開けに行ってるみたい。
大牙さんはバナナの皮で小山製作を続行してる。もしかしてリッキーさんが昨日言ってた、お腹空かせた小猿って、ペットじゃなくて大牙さんのことだったのかしらん?
戻ってきたリッキーさんは一人のおばさんを伴っていた。おばさんは不安げにきょろきょろして、バッグをしっかり抱えている。
「大牙、莉子ちゃん、お客さん」
リッキーさんは笑ってた。とても楽しそうに、嬉しそうに、そしてどこか挑戦的に。それまで女性的な柔らかさを絶やさなかったリッキーさんが突然、男の人に見えた。
ああそうだったんですね、これからセミナーとやらが始まるんですね。わたしはこのおばさんと一緒に、壷売買契約書にサインをさせられ……。
「尋ね人の依頼だって。ふふふっ」
とても悲しいお話を聞いてしまいました。
おばさんの息子さんはこの春に聖ウェズリー学院高等部三年生になるはずだったけど、その直前に交通事故で亡くなってしまったのだそうです。同学年にあたるリッキーさんと大牙さんは心当たりがあるみたいで、うつむき加減にうなずいていました。
遺品を整理していたおばさんは、ラブレターを見つけたそうです。数通の、息子さん宛ての。おばさんは驚きつつも、息子さんを好きになってくれた人と話がしたくなって、その手紙を開いてみたそうです。
あなたは気付いていないけれど、いつも見つめています。というような、切々とした想いがつづられたラブレター。だけど、差出人の名前はどこにもありませんでした。
おばさんは不安になったそうです。もし手紙をくれた子が息子の死を知らずに、最近は姿が見えないとパニックになっていたらどうしよう。
ラブレターの主を探し出して、きちんと事実と感謝をお伝えしたい。
「ですが、息子のお友達の誰も、思い当たる子はいないとおっしゃるんです。それで困っていた時、息子のお友達の一人が、神宮寺さんの噂を教えてくださって……」
そこでおばさんはおずおずと、言いにくそうに口ごもる。
「何でも、落し物の持ち主を言い当てたり、探し物をたちどころに見つけ出したりなさるとか。もしかしたら名前のないラブレターの差出人もお分かりになるんじゃないかと、わらをもすがる思いで……」
えーっ、本当ですかリッキーさん! さすが霊感商法ですね!
と詰め寄ろうとした瞬間、ガッと首根っこをつかまれた。この方角からすると、つかんだのは大牙さん。詰め寄ろうとしたのを読まれて、動きを制された感じ。
そりゃ、ここで騒いで商談……いえ、しんみりとした雰囲気というか、話の流れをぶち壊しにしなくて良かったとは思いますが。子猫じゃないんですから。
「それは、さぞやご心配でしたでしょう。もう大丈夫です」
滑らかな顎先に細い指を当てて、ふふふ、とリッキーさんが微笑んでる。なんていうか、ミステリアス。なんていうか、魔法使いのオーラ。なんていうか……。
「僕が、愛で見つけてみせましょう!」
なんていうか……アヤしいです。