2. 自分を愛してもいいんだって
「えー、キヨイ先輩じゃないですかー」
ドアを開けてびっくり、そこにいたのはキヨイ先輩だった。向こうもびっくりしたみたいで、短髪の下の鷹の目が見開かれてる。
「……高居莉子……何故エプロンをしてここにいるんですの……」
地の底から這ってくるような声なんて聞いたことがないけれど、これがそうだと直感した。きっと寒さに苦しめられるという八寒地獄からの声。視線が形を持つのなら、キヨイ先輩の場合はツララとなって莉子を貫くでしょう。
「あ、こないだの。莉子ちゃん通して風邪薬くれたキヨイさん」
無数のツララに射抜かれて動けずにいると、背後から春を呼ぶ声がした。追い返された寒波を浴びたみたいに、途端にキヨイ先輩は真っ青になる。カチコチと背筋を強張らせて。
「き、キヨイです」
「あれ、シズイさんはどこ? 一緒じゃないの?」
「き、キヨイです」
シズイさんは帰ってしまったのでしょうか。
「こんばんは。どしたの?」
首を傾けてにっこり笑顔のリッキーさんから、キヨイ先輩はギクシャクと視線を逸らす。その右腕が、ギギギと音を立てそうな硬い動きで前に出る。握っているのは白いビニール袋。
「キヨイは、これを、衛藤……サンにと、もし、ご迷惑でなければ。盲腸って、聞いたのですの」
息も絶え絶えなキヨイ先輩。どうしてしまったのでしょう、いつもの威勢は。見ているこっちがハラハラするほど緊張しきってらっしゃいます。
受け取ったリッキーさんと一緒に袋の中を覗くと、漢方薬の箱がいっぱい。大建中湯、佳枝加芍薬大黄湯などなど。
「わー、大牙のために……ありがとう。僕からもお礼を言わせてね。心配してもらってるの知ったら、あいつ喜ぶよ。伝えておくから」
「いいです、いいです伝えなくて! むしろ伝えないで欲しいですの!」
ぐおーっとすごい勢いで、キヨイ先輩は手を否定のフォームで振る。風邪薬をくれた時は大牙さんを念入りに除外なさってたはず。なのに今回はここまで届けに来るなんて……そっか、それを口実にリッキーさんに会いにいらしたんだ。
キヨイ先輩、グッジョブです!
「キヨイさんって、イカリングフライに何つけて食べる?」
ケチャップ? マヨネーズ? わさび醤油? と訊ねるリッキーさんを、キヨイ先輩はぽかんと口開けて見返した。
「莉子ちゃんのご飯、一緒に食べてかない? 冷めちゃうから、早く……あれ」
キヨイ先輩は逃走した。
「もうダメですの。嫌われたですの。もうダメですの」
翌日のお昼、真っ青を通り越して土気色な顔をしたキヨイ先輩に連行された体育館裏。キヨイ先輩は百七十五はある長身を折り畳んでしゃがみこみ、バスケットボールを抱えてる。スリスリさすってるところを見ると、ボールが精神安定剤みたい。
「リッキー様と食事なんて恐れ多くて、気が付いたら全力疾走をしてたですの」
昨夜はパニクってしまったらしい。そして今もパニクってらっしゃるようで、キヨイ先輩の手先はわなわなしてる。
「大丈夫です、リッキーさんは分かってませんから!」
『そんなにイカリングフライ、嫌いだったのかなあ。悪いことしちゃったね』
と、リッキーさんはしょんぼりなさっていた。そう力を込めて伝えたら、キヨイ先輩のバスケボールに脳天をはたかれた。
「全然大丈夫じゃないですわよ! ぜはー、ぜはー、か、過呼吸が」
「えーっしっかりしてください、さあ深呼吸を!」
「殺す気か! ですの」
キヨイ先輩は常備してるという紙袋をポケットから取り出し、しばし口に当てていた。背中をさすってあげます。
やがて治まると先輩は再びボールを抱え、ぶつぶつ呟きだした。
「逃げたりして、この先リッキー様にどんな顔をすればいいのです? 無理ですわよ。いっそ転校。転校してしまえば会わずに済みますですの。それしかないですの。転校転校」
「キヨイ先輩、落ち着いて」
「き、キヨイです」
いつものブリザードっぷりが嘘のように、キヨイ先輩はすっかり混乱しちゃってる。顔は相変わらずスポーツ少年だけど、ボールにすがって涙目な先輩を見てたら何だか胸がじわじわしてきた。
「先輩、『の』の字飲みましょう、『の』の字! 落ち着きますよ!」
「そ……そうだな、よし、『の』」
ごくっと一気飲みして、キヨイ先輩はハーハーと息をついた。だけどふと、荒く上下していた肩がぴくりとする。
「……飲むのは『人』じゃなかった、ですの?」
「そうでしたっけ?」
ごいん、とまたバスケボールで殴られた。
「私はこの背でこの顔で、小さい頃からスポーツも男には負けなかったですわよ。周りはすごいって褒めてくれたし、自分でもそれを自慢してたけど、本当はずっと……自分が嫌いだったですの」
ようやく冷静を取り戻したキヨイ先輩は、お弁当をつつきながらぽつぽつ語りだした。
体育館脇のベンチは椿の木陰になっていて、てろっと厚い常緑の葉をすり抜けてきた陽が柔らかい。温められた土の匂いが足許からそろりと立ち昇っては、グラウンドを渡ってきた風にさらわれてく。打ち明け話日和。
「女の子らしい女の子に憧れて髪を伸ばしてみても、スカートをはいてみても、全然似合わなかったですわよ。嫌になるですの。バレンタインも卒業式も、ただ眺めてるしか出来なかったですわ。男みたいな女の子に告白されて喜ぶ男子なんて、いるわけないですの。だから」
つついてばかりで運ぶという用をなしていなかったキヨイ先輩の箸が、ぴたりと止まった。
「だから高等部からここに入学して初めてリッキー様を見かけた時、ショックだったですわ。私が会ったどんな子より可愛くて、女の子みたいで、繊細で、上品で」
激しく同意させていただきたく、ぶんぶん頷いた。
「一番驚いたのは、リッキー様がそれを全然気にしてないことですの。リッキー様だってきっと、何度も何度も心無いからかいを受けたと思うですわよ。女みたいとかオカマっぽいとか。男は可愛いって言われても嬉しくないって聞くし。だけどリッキー様は背筋伸ばしてらっしゃいますの」
キヨイ先輩の言いたいことが、すごく分かる気がした。
リッキーさんが愛っていう、普通は照れて口に出来ないような言葉をさらりと言っても受け入れられちゃうのは、ご本人が恥ずかしいなんて思ってないからだ。きちんと向き合ってるから、堂々として言える。
外見が女性的なのも、リッキーさんは恥ずかしがったり嫌がったりしてない。ごくごく自然に当たり前に、そういうご自分を肯定なさってるんだと思う。
「持って生まれた性格なのかもですし、悩んだ末に達した境地なのかもですけど、リッキー様の凛とした姿は本当にショックだったですわ。いい意味で、ですわよ。私もあんな風になれたらと思ったですの。尊敬ですの」
そうか。リッキーさんはキヨイ先輩のコンプレックスを打ち消してくれちゃう存在なんだ。自分を愛してもいいんだって、姿勢で教えてくれる人なんだ。
どこまで愛の人なんですか、大天使リッキー!
「リッキー様は心持ちのレベルが上すぎでございますの。住む世界の違う、手の届かない人ですわよ。分かってたのに昨日は、バカな真似をしてしまったですの」
ふーう、と切なげに肩を落とすキヨイ先輩が、いつもよりずっと華奢に見えた。
「そんなこと……確かにリッキーさんは男の人の世界にいらっしゃいます。でもそれならわたしにとっての大牙さんだって同じですから、一緒に頑張りましょう!」
「男の人の世界って、おまえ――」
「あ、いたいたー。莉子ちゃん、キヨイさーん」
不意に呼ぶ声に見上げれば大天使、グラウンドの向こうからぶんぶん手を振って降臨中。キヨイ先輩の箸が、からりんと音を立てて落下した。
「キヨイさんの波動って、すんごく強くて追いやすいな。こんにちは、食事中ごめんね」
たったか軽快に走ってきて息も切らさず、リッキーさんは爽やかに笑う。
「昨日のイカリングの件、きちんと謝ろうと思って……キヨイさん?」
キヨイ先輩がうつむいたまま、顔を上げないと思ったら。
「……ぜはー、ぜはーッ、ぜはァーッ」
「わあ、キヨイさん、深呼吸ー!」
「いえいえこういう時は袋なんですよ、リッキーさん」
「百年前から知ってたような口をきくな! でございますの!」