1. その玉ねぎ、大牙の顔してる?
○願望 闇だと思えばそこは闇 ○待人 闇雲に踏み出せば見失う ○失物 光明は高きところより降り注ぎ足許の深淵を照らす ○旅行 光は外に闇は内に広がる まず内なる心の旅 ○恋愛 タンゴのごとく静謐になれど情熱をもって ああ可愛い僕の恋人 ラッキーアイテムは赤いリボン
「黒住先輩んちのおみくじですね?」
「わーすごい莉子ちゃん、どうして分かるの?」
他にあるんですか。たとえ大吉だとしても、引かなきゃ良かったと陰鬱な気分になるおみくじなんて。しかも最後あたりが激しく公私混同。
大牙さんのお見舞いからの帰り道、リッキーさんは黒住神社に寄ったらしい。わたしもお見舞いしたかった。でも昨日、二度と来るなと盲腸入院患者・大牙さんに厳命されてしまったばかり。
「お元気そうでしたか?」
「寝ちゃってた。日当たりいいから、あの場所」
ほらね。と証拠のように出てきたスケッチブックには、すかすかと気分良さそうな大牙さんの寝顔のデッサン。
「お上手ですねーリッキーさん! そういえば美術部なんでしたっけ」
サングラスしてなくて不機嫌でもない大牙さんの寝姿。野生動物が気を許して見せちゃった素顔みたいで、貴重な瞬間だ。リッキーさんはそのお宝ショットを、デッサンの間ずーっとご覧になっていたはず。場面を想像してみる。
清潔な白いシーツからは陽だまりの匂い。幸せそうにまどろむ大牙さんの枕元で、これまた幸せそうにスケッチするリッキーさん。周囲には黄金色の光の粒が瞬きながら、音もなくゆっくり落ちていく。
大牙さんの静かな寝息と、鉛筆が紙を滑るさらさらという音が響くだけ。そんな微かな音にさえ目を覚ましはしないかと、リッキーさんは気遣って息を詰める。だけど変わらぬ規則正しい寝息の満ち引きにそっと微笑み、また鉛筆で寝顔をかたどっていく……。
タンゴのごとく静謐に、なれど情熱をもって。ああ可愛い僕の恋人。
「おみくじ当たってます……」
第五ラウンド序盤、デッサン一枚でギブ寸前。
「莉子ちゃんに会ってから一日一回しかおみくじしなくなったの。だって最初の一回でいいご託宣が出ちゃうんだもん」
でっぷり膨らんだお財布から、おみくじが泉のごとく溢れ出した。形も大きさも様々な紙片を、リッキーさんのしなやかな指先がテーブルへ開いていく。小指が微妙に立ってます。
一、吉方 東 一、病気 長引くが回復す 一、転居 控えるべし 一、待人 いずれ来たる 一、失物 低きにあらず 一、縁談 しばし待て 一、就職 あせらず吉……
独歩上雲梯 このみくじにあふ人は万事慎みて過ごすべし、願ひ事は時機を待て、病人丑の医者を頼むべし、待ち人来たること遅し、失せ物出る高いところ、商売見込み難し……
運勢 邪魔は多かれど立身す 願望 初めは叶いがたし後に喜び多し 待人 根気良く待て 失物 早く探せ高き場所にあり 旅行 近ければ悪 転居 よろしからず 縁談 初めの縁よし……
「いいご託宣……ですか」
ざっと見た限りは末吉と吉ばかり、中には凶も。ということは全体運より個別項目で良し悪しを判断しているのでしょう。リッキーさんが注目しそうな項目と言えば……まずは恋愛、それか探し物がお仕事だから失せ物、あるいは……待ち人。
ふっと大牙さんの厳しいお顔が外後頭隆起あたりをよぎった。
――戻る場所がまだあること、知らせたいんじゃないのか!
リッキーさんのお姉さん、律音さん。リッキーさんと大牙さんは律音さんが生きてて、音信不通みたいな言い方をなさる。亡くなったっていうのは、その情報を教えてくれた守衛さんの勘違い?
「莉子ちゃんはどう思う? このおみくじ」
聞かれて我に返ると、リッキーさんに覗き込まれてた。いつもみたいにふんわり微笑んでらっしゃるけど、蒼を思いっきり濃くしたような深みのある瞳には、期待と真剣さが潜んでいるようだ。
「えっと」
待ち人項目を見直す。いずれ来たる、来たること遅し、根気良く待て……全体運は悪くても待ち人に絞れば、来ないとは書かれてないから悪くない。
「いいお告げだと思います」
律音さんの事情は分からない。でもリッキーさんが望むなら、それがどうか叶いますように。
「ふふっ、よろしくね」
よろしくね?
意味が分からずにぱちくりする。リッキーさんはわたしの困惑をよそに、花もつられて咲き誇りそうな艶やかな笑みを浮かべた。ああ美少女なわたしの雇用主、ラッキーアイテムはおみくじ。
着替えてくるー、とそのままご機嫌にお部屋へ消える後ろ姿。見送ったわたしはおみくじ満載なテーブルを片付けようとして、スケッチブックに目を留める。
もしかして他にも大牙さんスケッチがあったりして。もしかしてのけぞり気味だったり、下からのアングルだったり、顎爛漫なデッサンがあったりして!
「すこーし拝見しまーす……」
こそっと呟いて寝顔のページから戻ってみると、笑いかけていたのは――リッキーさんだった。
「あ、自画像」
と思ったのは一瞬。髪が長い。
「きゃー、女装願望?」
と思ったのも一瞬。雰囲気がリッキーさんよりずっと落ち着いてて、年上で、おとなしそう。よくよく見ればほくろや頬のラインがリッキーさんと違う。頭頂骨に閃いた雷が、ぴしゃんと脊椎を駆け抜けた。
律音さんだ!
もう一枚ページを戻す。律音さん。さらにもう一枚戻す。律音さん。もう一枚。律音さん。
何枚戻しても、大きさを変え向きを変え、律音さんが現れた。ぞくぞくと冷たいものが制服の下を這い回る。紙を繰る手が震えだす。
光は外に闇は内に広がる まず内なる心の旅。わたしは今、リッキーさんの内なる闇の旅行記を手にしてる。光の笑顔の裏にある影が、形としてここにある。
めくっているうちに、ふと違和感を覚えた。何だろうとページ間を行ったり来たりしてみて、パラパラしてみて、それに気づいた。スケッチブックの前へ行くほど、律音さんは幼くなってる。輪郭や表情が少しずつ。
若い女性だった律音さんは、ページを遡るごとに少女へ戻ってく。そして最初の一ページまでめくると一枚の写真が貼られていた。
見間違いようのない聖ウェズリーのブレザー。徽章は高等部三年、ジョージアンクラス。場所は学院の礼拝堂、パイプオルガンを弾いてる。弾いてると言っても手を鍵盤にかけてるだけで、上半身はゆったりとカメラを向いて、少し恥ずかしそうに微笑んでる。
リッキーさんそっくりの美少女さん。リッキーさん系統の小鳥笑顔。
写真の右下に焼きこまれた日付は八年前。
「神さま」
思わず呟いてた。
リッキーさんが美術部なのは。お家芸でお得意の剣道部でなく、よりによって美術部なのは。
律音さんの面影を追うため、消息不明になってから八年経った律音さんの似顔絵を描くため。
「すっごいご馳走だー。病院食の大牙には内緒にしておかなくちゃ」
お夕食のテーブルを前に、リッキーさんは尻尾があればちぎれてそうな勢いで喜んでくれてる。スケッチブックを見ちゃったことは言えなくて、でもせめて何かしたくて、食材総動員した。
「お祝いの日だったっけ?」
「いいえ……ぐす」
悟られないようにと我慢してたのに、犬並みに無邪気なリッキーさんを目の前にしたら涙が勝手に土手を越えて暴れだした。ぴたっと一拍置いてから、リッキーさんはすすすと隣に寄ってきた。
「どしたの」
大げさに驚いてくれたら、泣き止まなくちゃって思う。だけど静かに優しく問われたら、涙っていい気になってどんどん押しかけてくる。
「いえ、そのう……玉ねぎです。玉ねぎにやられましたっ」
また一拍。
「玉ねぎ使った料理、ないみたい」
どうしてこういう時だけ鋭いのですか。
「間違えて切っちゃったので、冷凍しました!」
また一拍。
「そうなの」
嘘だってバレてる間合いです。
「その玉ねぎ、大牙の顔してる?」
「してません」
「明日は莉子ちゃんも一緒に見舞いに行こうね」
「……はい」
大牙さんに、二度と来るなと言われたのを気にしてるって思われたみたい。だけどお見舞いに行きたいのは確かだから、ちゃっかりハイって答えたりして。
頭をなでなでしてくれるリッキーさんの掌に、茶々さん対策に勉強してる四字熟語のひとつを思い出した。
妙手回春。
触れれば春が巡ってくるように患者を回復させる、医者の凄腕のこと。リッキーさんはその妙なる手をお持ちに違いない。ほら、胸にほわんと春のあったかさ。
「それとも、下顎骨禁断症状かな。ふふっ」
「はい、一日一回拝まないと……えっ?」
妙なる人差し指を立てて、リッキーさんは悪戯な形に笑いそうな唇を押さえ込んでるみたい。
「大丈夫、言わない。大牙、きっと年中マフラー巻いて隠しちゃうもんね。照れ屋だから」
「あの、あのあの」
もう泣いてる場合じゃありません。大牙さんの下顎骨に中毒なこと、見抜かれてたなんて! チャンピオンに秘密を握られてしまいました。第五ラウンド、情報戦でも一気に不利です!
チャンピオン・リッキーはとどめみたいにきゅっと目を細めてから、テーブルのお皿へ屈み込んだ。
「あっイカリングフライ。これ好きー。莉子ちゃんはケチャップ? マヨネーズ?」
「わさび醤油です」
「うそーん!」
試してみてくださいーと言いながらわさび醤油を製作していたら、インターフォンが鳴った。また新聞の勧誘でしょうか、敵も懲りません。
「僕が出る。はい、あなたに愛のお導きサイケメタリック神宮寺です」
口調が本気なのは気のせいですか。
リッキーさん、何度か「もしもし?」を繰り返した。
「……シズイさん?」
挿絵は[Adagio]min様