3. なんかしゃべっとけ
診断はやっぱり盲腸、急性虫垂炎。かなり進行しちゃってたみたいで、どうしてここまで我慢してたんだってお医者さまに呆れられたそう。
そういえば今日の大牙さんはやけに少食でバナナだって減ってなかったし、ソファで丸まってダルそうにしてたっけ。気づいてあげられなかったなんて、メイド失格です。うう。
すぐに手術ってことになった。
救急の診察室に招き入れてくれたお医者さまは、眼鏡の向こうからわたし、リッキーさん、茶々さんをぐるっと検分した。
「保護者の方に連絡を取りたいのですが」
大牙さんという黒猫を飼い慣らしている方ならばリッキーさんですが、そういうわけにはいかなさそう。
「もちろん、迅速に連絡はする」
そこへ進み出た茶々さん、明け方に叩き起こされたとは思えぬ凛々しさで、きっぱりとお医者さまを見据えた。
「だが未成年の手術に保護者の同意書が必要ということであれば、私が委任状を預かっている。すぐに痛みから解放してやって欲しい」
「では、こちらで手続きを」
お医者さまと茶々さんは、クリーム色のカーテンで仕切られたスペースへと連れ立って消えた。
「えっ、えっ? 茶々さんって、大牙さんの保護者代わりなんですか? どうして」
「茶々さんは姉さんの親友だから。僕たちの保護者代わりで監督者でもあんの。そういう条件で、僕たちは二人で暮らすことを両親に許してもらったの」
なんと茶々さんとお二人は、大家や常任理事以前に、個人的なお知り合いだったということだ。
リッキーさんの口調も横顔も沈んでる。いつもどれだけこの先輩が笑ってるのか、どれだけその笑顔が場を癒しているか、こんな時に思い知らされる。
「……くそ、手術か」
ベッドから大牙さんの忌々しそうなうめき。覗き込んだら、ものすごくご機嫌が悪そうだった。手術と聞いてご機嫌になられても困りますが。
「あのー、手術がイヤで、具合が悪いの黙ってたんですか?」
「手術室って眩しいんだろ……」
イヤなのはそこ?
逞しい前腕に点滴針、というギャップが妙に哀れを誘う。
「大牙さん……体調悪いの、気づいてあげられなくってごめんなさい。移植手術になるなら、莉子の盲腸提供しますから!」
「いらねーよ! せっかく取るもん、わざわざ移植させんな!」
勇気付けてるつもりなのに、大牙さんってばつれないです。
「病院食を食べすぎないでくださいね。下顎骨が二重顎に埋もれたら犯罪です!」
「盲腸で手術するやつがどう食べすぎろっていうんだ。頼むから律ちゃん、こいつを外に放り出してくれ。思いっきり遠くにな」
無体ですー。
「あーうるせえ……おかげでさっさと手術してもらいたくなったぜ。これじゃ痛いとか感じるヒマもねーよ」
ウンザリ。いかにもそんなお顔で、大牙さんは天井を仰ぐ。
「ふふっ。莉子ちゃん、大牙使いの才能があるみたいだね」
あ、リッキーさんが笑ってくれた。その華やかなのに控えめな、体温のにじむ笑顔を大牙さんに近づけて。きゃあ、それ近づきすぎです、トンと背中を突いたら大牙さんの唇とコンニチハしちゃいそう。
「大牙、手術終わるまで待ってるから」
「今、何時だ……六時? 律ちゃん、王竜旗は九州だろ。さっさと空港に行け」
いけない忘れてた、王竜旗全国剣道大会本選の日だった。支度しに部屋に戻って、タクシーで空港に飛ばしても、もうあまり時間がなさそう。
だけどリッキーさんは上体を起こすと、ううんと首を振った。
「僕がいなくてもウェズリーは勝つよ。スパルタしといたから、ふふふっ」
大会直前の剣道部に、練習に行ってたのではなく。シゴキに行ってたんですかリッキーさん。
「行け」
有無を言わせぬ迫力だった。大牙さんの強い瞳に、リッキーさんの笑顔がかき消える。
「律音は見てる」
律音。
それって、リッキーさんの亡くなったお姉さんの名だ。
「変わらずにいるとこ見せて、戻る場所がまだあること、知らせたいんじゃないのか!」
戻る、もなにも。
律音さんはもう亡くなってるわけで。
「案ずるな、大牙。昨今、アクセルを踏み抜く快感に飢えていたところだ。律季には空港まで、ドライブに付き合ってもらうぞ」
いつの間にか戻ってきていた茶々さんが、腕組みした指先でキーをくるくる回してた。愉快なショーでも始まるみたいに、楽しそうに唇のはしっこつりあげて。
病院までの道のりでも、車に翼つけたら離陸しそうに飛ばしてたと思うのですが……あれでもまだ、アクセルを踏み足りないと?
「ハニー、警察なら心配には及ばない。お偉方の知り合いは掃いて捨てるほどいるのだよ。閣僚の一人には土地を貸してやっているしな……生殺与奪、支配などたやすいものだ」
わたしは茶々さんの思考回路が心配ですっ。
きゅっと引き締められたリッキーさんの目が、ぎゅーっと大牙さんに注がれてる。視線の先に紙を差し出したら、『愛』って文字があぶりだされてきそう。
「……今夜、毛布の代わりに王竜旗で寝かせてあげるから」
「あんなホコリっぽい旗なんかどうでもいい。神宮寺家の得意技ブチかましてこい」
「ふふっ。ご注文、承りました」
どうしてリッキーさんってこう、騎士みたいな洗練されたお辞儀まで似合うんだろ。隣でくすぶってる大牙さんのガラの悪さで引き立ってるにしても。
「手術の成功祈ってる。幸運はありったけここに置いてくね。じゃ、行ってきます」
「おー。またな、大将」
リッキーさんと茶々さんが早足で診察室から去ると。大牙さんはこらえかねたようにうめいて、眉間に深々と苦痛を刻んだ。
「きゃーっ大牙さん、しっかりしてください。万一のことがあったら、大牙さんの下顎骨は莉子が拾いますから!」
「縁起でもないこと言うな! 変なとこ拾おうとすんな!」
「変なとことは何ですかっ? 下顎骨がなかったら、人間は食事もできないんですよ?」
「やかましい、逆ギレか!」
ふえん。怒られました。
手術の用意だとかで、お医者さまも看護婦さんもぱたぱた忙しそうにしてる。大牙さんの枕元の椅子に腰掛けて黙ってたら、周囲の慌しさから切り離されたみたいにむしろ静か。
大牙さんは浅い息を押さえ込んで極力、痛いのを見せまいとしてるみたい。意地っ張り。
「……なんかしゃべっとけ」
ぽつん、とそう言われた。
「さっきは黙れって言ったじゃないですか」
「うるさいとかやかましいとは言ったが、黙れとは言ってない」
屁理屈? でも、痛みが紛れるなら。
「えっと……舞以さんのマドレーヌ、食べ損なっちゃいましたね。冷凍しときましょうか?」
「おまえ食っとけ。んで……修行しとけ、アレ。バナナケーキ。退院したら、毒見してやる」
思ってもみなかった言葉に振り向くと。大牙さんは腕を額にのっけて、目元を隠してた。まぶしいのか、痛がってるの隠してるのか、それとももしかして、照れてらっしゃる?
第四ラウンド、教授の実験で騒がしかったし大牙さんは倒れちゃうし、ノーカウントになるかと思ったけど。毒見なんておっしゃってるけど。手作りケーキを所望してくださるなんて、これってすごいリードなのでは!
「俺がマズいって突き返しても、もう律ちゃんに処理させんなよ。したら屈葬するぞ」
すごいリード……じゃなかった、ようです。
「ただいま。手術うまくいったんだってね、大牙。お疲れさま。はい、お約束の毛布」
午後。面会時間終了ギリギリになって、ほんとに王竜旗を持ち帰ってきました、リッキーさん。実力は警備員さんに優勝確実って太鼓判押されてたけど、そりゃあやっぱり愛のチカラも大きかったんだろうな。優勝旗という形ある愛が、莉子をグイグイ防戦に追いやります。
さすがに少々血色の悪い大牙さんは、それでも気丈に薄く笑った。
「おめでとさん。悪かったな、観戦に行けなくて」
「僕も、大牙の観戦したかったのに。残念ー」
「手術なんか見て楽しいのか」
「ううん。ほら……」
ちら、と一瞬だけこっちを見たリッキーさんは、上体をかがめて大牙さんに耳打ちした。小声だったけど聞こえたのは、『剃るの』って台詞。
「……は?」
「看護婦さんがやってくれるんでしょ? その時の大牙、どんな顔してたのかなーって、ふふっ。見てみたかったの」
剃るって……いやんひょっとして……ひげ?
「えー、盲腸の手術の前って、剃るんですか? っていうか大牙さん、生えてるんですかあ?」
意外だったから、少し声が大きくなってたみたいで。
四人部屋の病室は、患者さんとその見舞い客があちこちで談笑していたのだけれど。その瞬間、ピターッと水を打ったように静まり返った。
大牙さんは手術前よりよっぽど痛そうにうめいて枕に沈み、両腕で顔を覆ってしまう。
「おまえら絶対、見舞い向きの人間じゃない……ッ」