3. 恋人同士のけんかは
怪我もなく連れ帰ったタンゴさんを、黒住先輩にお渡しして任務完了……と思いきや。そうはタンゴさんが卸してくれませんでした。
「ああ僕のタンゴ。さっきはすまなかっ……」
とたんにフーッ! と尻尾をふくらませたタンゴさん。大牙さんの腕の中から手を伸ばし、黒住先輩の頬に見事な猫パンチを叩き込みました。
黒住先輩……莉子は今あなたに、ものすごい親近感を感じています!
「わざとじゃないんだよ、もう二度と君のトイレを覗いたりしないよ……」
殴られ者同士・黒住先輩は、黒猫パンチを浴びて初めてはっきりと感情らしきものを浮かべた。はらはらと細い髪が頬にこぼれおちる憂いの貴公子、彼が悲哀を漂わせてとりすがるさまは、とても絵になります。
周囲が神社で、とりすがり対象が黒猫でなければ。
「僕はどうすれば……。そうだタンゴ、お詫びに歌ってあげよう……」
そう言って黒住先輩は通称乗馬服の制服のえりを整え、発声練習を始めた。
「僕もお手伝いするよ」
「神宮寺君、君は優しい人だ……」
神社の境内に、黒住先輩とリッキーさんが熱唱する黒猫のタンゴが響き渡る。美声なのは認めます。愛なのも分かります。だけどお願いですからもう少し声を小さく……なんて言えない。
タンゴさんを抱いているために至近距離でイタリア童謡鑑賞させられている大牙さんの顔にははっきりと、勘弁してくれと書いてある。
だけどポーズだった。合唱中の先輩方は気づいてないようだったけれど、わたしには、大牙さんの指先がこっそりタンゴさんの顎をなでてあげてるのが見えてた。
ひょっとして、大牙さんも下顎骨のすばらしさに目覚めたのかな。莉子座右の書、骨学実習の手引をプレゼントしてみようかしらん。もちろん、バナナも添えて。
やがてご機嫌を回復したタンゴさんは、黒住先輩の腕に帰っていった。激しい頬ずりをする黒住先輩。どっちが猫だか。
「けんかなどするものではないね……。僕とタンゴの愛の軌跡に、傷がついてしまったよ……」
ふう、と長い憂いのため息が似合いすぎるプリンス黒住。
「そお? 僕はいいと思うよ。ローマの喜劇作家、テレンティウスはこう言ってんの――『恋人同士のけんかは、恋の更新なり』ってね。ふふふっ」
出ました愛の伝道師リッキー!
おそらくリッキーさんの笑顔からは、人を癒すフェロモンが放出されてるに違いありません。そのフェロモンには光があって温度があって。一面に花咲く春の野の昼下がりみたいに、ほんわりまどろみたくなる優しい大気が降りてくる。
「神宮寺君……」
ほうら、黒住先輩もうっとりしちゃってます。感応したように瞳が赤っぽくきらめいてますが、それが恋の炎なら、タンゴさんだけに燃やしておくのがいいですよ。リッキーさん相手だと獰猛な黒猫がライバルにいますからね、猫パンチじゃ済まされないですよ。
「君にお礼をしたいんだ……。僕にできることなら、何でも言いつけてくれないかい……」
「ほんと?」
リッキーさんは待ってましたとばかりにぴょんと跳ねた。
「じゃあじゃあ、おみくじ引かせて、ねっ! 授与所はもう時間外だけど、黒住君ならこの神社の人だから開けられるんだよね!」
たこ焼きでなく。まさかそのために風邪をおして、神社にいらしたんですか。
両手をお祈りの形に握りしめ、ドキドキな様子で返答を待ち受けるリッキーさん……サンタにお願い事をする子供だっていまどき、こんなに興奮しません。
「……無欲な人なんだね、君は……」
呟く黒住先輩の腕の中。同意するかのようにタンゴさんが、みゃあおと鳴いた。
○願望 悪いことは言わん ○待人 希望を持つのは自由だ ○失物 高いとこにあんじゃね? ○旅行 保険入っとけよ ○仕事 マイホームは遠いな ○恋愛 めがね作っちゃダメだって!
「……フザけたおみくじだな、おまえんち」
しぶーい顔をふーっと逸らしながら、大牙さんは呆れてる。恋愛運にご立腹なのでしょうか。リッキーさんってばやけに真剣におみくじ箱振ったのに、思いっきり凶だし。
黒住先輩は無感情なまま肩をすくめた。
「弟の趣味なんだ……。僕だったらこの願望は、『闇に在る者に幸あれ。その者は光の光たる所以を知る』と記すよ……」
「憂うつなダメージが増すからやめとけ」
その前に解読できないです。
「えーと、でもリッキーさん、当たってますよ! 探し物は高いところにあるって。タンゴさん、屋根の上にいたじゃないですか」
「うん。いいご託宣だよ、ふふふ」
いそいそ財布にしまうあたり、本当にそう思ってるみたい。それを見てた大牙さん、せいせいしたって感じで身体を伸ばしてあくびした。
「はー、助かったぜ。律ちゃん、気に入らない結果が出ると何軒でもはしごするからな」
「だってー」
そういえば。初めてリッキーさんに会ったとき、おみくじを渡されたっけ。いいのが出るまで引いたの、って。あの時のおみくじもいい運勢とは言えなかったはずなんだけど。ひょっとして凶のおみくじ収集マニアだったりして。
あたりはすっかり暗くなって、大牙さんはようやくサングラスを外してる。サングラスしてる時間のほうが長いから、この機にしっかり眼窩近辺を観察しておかねば。
しかし、一向に大牙さんの視線がつかまらないと思ったら。
「大牙、さっきはごめんね。わがまま言って出てきたりして」
リッキーさんの、許してうるうる攻撃にとらえられているもよう! それがクリーンヒットしたのは、大牙さんの目尻がふいっと緩んだことで知れた。
「俺も悪かったな。さーて帰るか、本気で腹減ったぞ」
ぱっとリッキーさんの笑顔が弾けた。サプライズパーティーのクラッカーのように、華やかに色が舞う。
「うん」
そしてリッキーさんは、すっすっすっすと。大牙さんは、ずるぺたずるぺたと。並んで歩き出すお二人を、わたしは追えません。足が動きません。出たかメデューサ!
恋人同士のけんかは、恋の更新なり。
ええよーく分かりました、激しくこっぴどく更新されてました、何もそれを目の前で見せつけていかなくてもいいじゃないですかっ……!
茶々さんが指導してくれた、教学相長。調べたら、教えることでみずからも学ぶ、そんな意味だった。
先輩方は依頼人さんに恋というものを導きながら、自分たちも恋を学んでいるということ? 莉子も学んでますけど、希望実践先・大牙さんはチャンピオン・リッキーと熱烈実践中……。
「……君、衛藤君と親しいのかい……」
背後から、風に吹き消えそうな細い声がした。
「いいえ、カイロか雑巾くらいにしか思われてません! せめて脊椎動物になりたいです!」
ついつい黒住先輩に八つ当たり。
「そうなのかい……」
しずかーに納得されると虚しい。
「なら、君に言っておかなくてはいけないね……」
重々しい雰囲気を感じて、そろりと先輩へ向き直った。
タンゴさんをなでる白魚の指。声や指だけでなく、黒住先輩の骨格はガラスでできていそうに華奢だ。貴公子な唇から、静かで抑揚の少ない旋律がこぼれてくる。
「闇に慣れた眼に、光を当ててはならない。その者を永遠の闇に葬り去る……」
解読不能。
「えーと……」
黒住先輩の瞳の奥が、また一瞬赤くきらめいた。なんだかこの世ならざるものにご託宣を受けているかのようで、息をのむ。
「僕は初等部の頃から衛藤君を知ってる……。彼はまだ、夜の中にいるんだよ……」
大牙さんが、夜の中にいる?
神社の木々がざわめいてる。葉の一枚一枚がこちらを向いて警鐘を鳴らしてる、そんな気がした。このままじゃいけない。彼はきっといつかぽきんと折れてしまう、と。その前におまえがどうにかしてやらねばならないのだ、と。
「……分かりました。先輩に、お伺いしたいことがあります」
「なんだい……」
境内の神聖なる空気をすうっとひとつ深呼吸。勇気を出して聞く力をもらう。そして、言った。
「カルシウムとってますか?」
黒住先輩に骨にいい食べ物を説いていたら、遅くなってしまった。黙って聞いてくれてたけど、憂い度が限りなく上昇してるようにも見えたっけ。どうしてだろう。
リッキーさんと大牙さんのお部屋に急ぐと、お二人とも電池切れたみたいにぐったりしてた。風邪なのにタンゴさん探し回ったせいだ。帰宅して気が緩んで、熱が上がっちゃったみたい。またバタバタと氷水やタオルを持ち、キッチンと部屋との行き来が始まったのだった。
ふと、温かく少し重い感触で目が覚めた。
覚めてから、うたた寝してしまったのを知る。身動きしてから、毛布がかけられているのを知る。暗がりの中でその毛布のはじっこを整えてた手が止まった。
「ごめん、起こしちゃったね」
寝かしつけるようになでなでしてくれるのは――考えるまでもなくリッキーさん。柔らかな小声と髪ごしの優しい指先に甘えて、ついまた眠りに落ちそうになったけど。
「大丈夫なんですか?」
もぞもぞ起き上がると、リビングのソファだった。今日もうっかりここで眠ってしまったらしい。壁の時計はもう真夜中を指してる。
キッチンには大牙さんもいて、レンジをぴこぴこ操作していた。
「あー俺はな……律ちゃんは、寝付けないって言うから」
寝癖で豪快にぐしゃぐしゃな髪をした大牙さん、ごみ箱にぽいと放ったのは牛乳パックみたい。もしかして、寝付けないリッキーさんのためにホットミルク製作中?
一方さらさらヘアに乱れのないリッキーさん、嬉しそうに笑って首を傾けた。
「でも莉子ちゃんのおかげで、熱は下がったみたい」
お二人の恋の熱は下がってないみたいですけどね……! ぐし。寝起きから攻撃受けてる。
ココロの涙を流したら、のどが渇いてきた。お水をもらおうとキッチンに入る。大牙さんは色の違う砂糖の小袋を二つ破いて、マグカップのミルクに加えてるとこだった。
「わー、芸が細かいですね。砂糖をブレンドしてるんですか?」
メイドなら、リッキーさん好みのホットミルクを覚えなくては。そう思って覗き込む。だけど砂糖の空袋は、ささっと大牙さんのハーフパンツのポケットにしまわれていった。
「企業秘密だ」
その企業はリッキーさんへの愛を大量生産中のようで。ココロの涙、砂漠のように乾いてます。
「あーそうだ。おまえさ」
ホットミルクをスプーンでぐるぐるかきまぜてた大牙さん、思い出したようにおっしゃった。
「俺たちのメイドをする気なら、これだけは忘れんなよ――牛乳の在庫は常に置いとけ、いいな」
「……はい……」
似たようなことを言われたばかりのような記憶が。そうそうリッキーさんに、バナナだけは切らさないであげてねって頼まれたんだっけ。
この方たち、メイドにつける唯一の注文が、お互いのなくてはならない食材なんですか?
「できたぜ、律ちゃん。残すなよ」
「僕が一滴だって、大牙のホットミルク残したことある? ふふふっ、効くんだよね」
背後でらぶらぶホットな会話。よろよろとキッチンシンクにもたれかかる。
第三ラウンドの先輩方は風邪で、けんかもして、状況は莉子に大幅有利だったはずなのに。ものすごい勢いで恋の更新をされただけで、終わってしまいました。
翌日は土曜、お二人がまだよく眠ってる遅い朝。買い物しておこうとマンションを抜け出した。今回みたいな不測の事態に備えて、着替えを少し置かせてもらわなくちゃと考えていると。
「高居さん、おはようございます!」
礼儀正しい声がどこからか。見回せば聖ウェズリーの正門前、守衛さんが敬礼してた。あの四角い銀ぶち眼鏡、海に沈んだ婚約指輪の依頼人さんだ。
「あ、おはようございます。休日なのに大変ですね」
土曜日だというのに正門は開かれ、見慣れない制服を着た生徒が歩き回っている。
「今日は王竜旗高校剣道大会の予選があるんですよ。聖ウェズリーは一昨年、昨年と連続優勝しております! 今年も神宮寺さんが大将ですから、優勝間違いなしであります!」
神宮寺さんって……リッキーさん? そういえば、クラスメイトが言ってたっけ。剣道の全国大会で入賞してるのに美術部なんだって。
「えーっ、試合ですか? リッキーさん、おうちで寝てますよ! 起こしてきますっ」
「いいんです、いいんですよ高居さん! 神宮寺さんは本選からしか出場なさらないので!」
駆け出したところを、守衛さんに止められる。
「え? 助っ人待遇なんですか?」
「神宮寺家の皆さんはずっとそうです。お兄さんもお姉さんも剣道の達人でいらしたんですが、他の部の所属でした。大会のときだけ請われて出場なさるんです。いやあ、さすが警視庁副総監のお家柄ですよねえ」
なんか今、とってもカタくてすんごい肩書きが聞こえた気がする。
「高居さん、顎が外れそうに開いてますが大丈夫ですか? え、ご存知ない? いやまあ、この学院には名家の方なんて珍しくもありませんからねえ。だけど神宮寺家は有名ですよ、旧家ですしねえ」
わたしの挑んでいるお相手は、細っこい小鳥のくせしてやたらと腕が立つらしいです。どうりで三ラウンドも戦って、かすり傷ひとつつけられないワケです。
「お姉さんがいらっしゃることしか知りませんでした……。あ、それならお姉さんもウェズリー学院生なんですね。聞いたことあるんですけど、わたしに似てるって本当ですかー?」
ただの好奇心だったのに。
とたんに、守衛さんから笑みが消えた。制帽の端をちょっとつまんで、うつむいて、かかとをそろえる。湿度が増したような静寂。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ、とその沈黙が語っていた。
「そうですか。ウェズリー会報の卒業生訃報欄は小さいですからね……」
守衛さんは顔を伏せ気味にしたまま、それまでと打って変わった元気のなさで呟いた。
「高居さん。神宮寺さんのお姉さん――律音さんは、昨年お亡くなりになりました」
他校の生徒の歓声が妙に遠くへ飛んでいく。
「亡くなっ……」
急に重くなった空に耐えかねて、足の裏の地面がどっか行ってしまったように思えた。
そうなんだ。
リッキー軍団はきっと、このことを知ってたんだ。だから、お姉さんの面影があるわたしがリッキーさんの近くにいるのを許したんだ。リッキーさんがそれで慰められるのなら、と。
大牙さんは生き別れのお姉さん、なんて言った。亡くなったこと黙ってた。わたしに気を遣わせまいとそんな嘘をついたのかもしれない。
「ごめんなさい……」
色んな人の優しさの中で、一人のうのうと安全圏にいさせてもらってたんだ。自分が恥ずかしくて、情けなくて、悔しかった。お父さんがリストラ後に役員を辞職したのは、その安全な椅子に収まっているのが恥ずかしかったからだろうか。
自然と足が動いてた。走って、リッキーさんと大牙さんのお部屋を目指してた。何でもいいから、何かお役に立ちたくて。お二人の笑顔を見たくてどうしようもなくて。
このマンションのエレベーター、こんなに遅かったっけ? 廊下、こんなに長かったっけ? 鍵を回すのももどかしく、急いでドアを開けた。
「リッキーさん、大牙さ……わ」
視界に飛び込んできたのは、豪快な寝癖。黒猫の顎。玄関で、腕組み仁王立ちの大牙さんが待ち受けていた。
あの唇の端に浮かんでるのは悪魔の笑い? だって目が、目が怖いよう。
「手ぶらか?」
「ど、どどどどうしたんですか?」
「俺は言ったはずだな。牛乳は忘れんなと」
あれ? どうしてお二人が眠ってるあいだに買い物行こうと思ったんだっけ。
記憶をえっほえっほ掘り返してみれば、牛乳もバナナも昨晩でなくなったから、だった、ような……。朝イチで買って来いって至上命令が下ってたんだった、ような……。
大牙さんの薄い笑いが全力点滅中の警報ランプに見えてきた。
「いいことを教えてやる。茶々がメイド服を買ってたぞ」
「へえ、茶々さんてスーツしかお召しにならないのかと思ってました。部屋着にするんでしょうか?」
この不機嫌な沈黙の理由を誰か、今すぐ教えてください。命に関わる予感テンコ盛りです。
今日も朝からマーベラスな下顎骨がクワッと唸った。
「茶々んとこにメイド服で出張させられたくなけりゃ、さっさと牛乳買ってこいっ!」
「はいっ!」
「仲裁の借りがなかったらクビにするとこだ、このボケメイド!」
「すみませーん!」
Uターンで飛び出した。
黒住先輩の神社、お守り売ってるかな。帰りに寄ろう。開運? 商売繁盛? とにかく、メイド業に失敗しなさそうなもの。
それから必勝祈願も。三つ買って、一つは剣道大会を控えたリッキーさんに、ひとつは守衛さんに差し上げよう。確か今日が決戦、プロポーズの日。莉子も次の第四ラウンド、少しは挽回してみせますから。
大牙さんには怪我のないよう、健康祈願。もちろん、バナナを添えて。ああ、バナナも忘れず買わなくちゃ。
走って走って走ったら、胸のモヤモヤを後方に置き去りにできた気がした。