2. 僕の黒い猫
「黒住君。太陽もそろそろ、かくれんぼに混ぜて欲しがってるみたいだけど――」
ゆらり。
リッキーさんが微笑むと、境内のもともと濃い空気が一段と濃厚になって動き始めたようだった。愛という名のもとにこの世の生きとし生けるもの、すべてを召喚できそうな神秘の微笑――美笑、と言ったほうがすんなりくる。
その圧倒的な存在感を背負ったリッキーさんは人差し指を唇にあて、宣言した。
「もう終わりにしよう。愛する者という美酒を欠いた晩餐は味気ないものだからね、ふふっ。君の恋人この僕が、愛で見つけてみせましょう!」
「感謝するよ……」
あの決め台詞に引かなかった方、初めて見ました。
信頼を寄せる病弱貴公子と、忠誠を誓う中性騎士。神社の一角に異質なオーラが立ち昇ってる。そのオーラに一歩踏み込めば、中世ヨーロッパあたりにタイムスリップできそうな気が。
「馬鹿野郎……」
濁点つきの唸り声で現実に引き戻される。
「トイレ見られてヘソ曲げる猫がどこの世界にいるんだっ?」
「僕の世界にはいるよ……」
もやしっ子黒住先輩、か細いながらもしっかりと反論。大牙さんはあさっての方角を向いたまま、ひらひらと追い払うような手の仕草をした。
「ああ悪い、聞いたのが間違いだったな。行くぞ律ちゃん」
そう言ってリッキーさんの腕をつかんで引っ張っていく大牙さんが、思わぬ恋の伏兵から恋人を奪回しているように見えるのは……錯覚ではなさそう。
痴話げんか中でさえパンチ力抜群の先輩方。
リッキーさんは素直に引っ張られながら、にっこりと自信ありげです。
「黒住君に心底愛されてるみたいだから、彼の波動を追えば会えるよ。タンゴさん」
鳥居を一歩出たところでリッキーさんは夕空を仰ぎ、すっと目を閉じた。見えないアンテナを張り巡らせて、波動をつかまえようとしてるんだろう。
こういう時のリッキーさんははかなげな感じがして、不安にさせられる。瞬きひとつのうちに光の粒に変わって、しゃぼん玉みたいにぱつんと弾けて拡散しちゃいそうな気がする。
「こっちだねっ」
もちろんそんなことはなく。しばらくしてリッキーさんは、遠足の子供ばりに楽しげに歩きだした。
黒猫のタンゴを歌いながら。
「リッキーさん……お願いですから、もう少し声を小さく……」
神社を出てからというもの、通行人さんたちがあからさまに避けて歩いていくので。
「え? なに?」
だけどそんなこと、先輩は全く気づいてらっしゃらない。この方、周囲の視線とか不穏とか敵意とかに果てしなく鈍感なのでは。
だから声を、ともう一度言いかけた言葉は、後方から強烈な子猫づかみで強制封鎖されました。
「あー、そういえば大牙も黒猫みたいだよね。学ランだし、すばしっこいし、ふふふっ」
そして再度、実にご機嫌に歌いだすリッキーさん。両手で大きく四拍子取って。すみません、それもう、大牙さんへのラブソングにしか聞こえません……。
ところで首筋つかんでる黒猫大牙さんの手、あったかい。恒温動物の人には普通のことだけど、変温動物の大牙さんにしては異常な熱さ。
「大牙さん、熱ある……」
ひょっとして鳥居に寄りかかってたの、熱で身体がつらかったからなんじゃ? 猫探しは明日にして、今日は休んだらどうでしょう――そう提案しようとしたけど、大牙さんの低い呟きのほうが早かった。
「律ちゃん本調子じゃない。普段なら近所の猫一匹に、あんな集中する必要ないからな。邪魔すんな、さっさと終わらすぞ」
ほんとにけんか中なんですかこの人たち。
リッキーさんは足さばきがしっかりしてる。だけど肩の上下動はあまりない。すっすっすっす、って風を受け流すあいだに前に進んでる感じ。姿勢もいいし。
一方の大牙さんはポケットに両手を突っ込んで、ずるぺたずるぺた。
「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
太陽がかくれんぼしてしまった薄暗がりの中。しゃれたマンションや立派な邸宅がひしめく高級住宅地を抜けながら、リッキーさんが言い出した。
「えーと、悪いニュースを先に聞いておくと、そのショックはいいニュースの喜びで緩和されるので……」
「どっちが先でも、差っ引いて残るもんの絶対値は同じだ。早く言え」
大牙さんって、時々妙に説得力のあることをおっしゃいます。
「じゃ、いいニュースからね。タンゴさんは移動してないみたいなの。追いかけっこはしないですみそう」
「悪いニュースは何ですか?」
ん、とリッキーさんは少しうつむいた。
「タンゴさんは移動してないみたいなの」
それはいいニュースだったのでは。熱のせいでまた変になっちゃったのかな、リッキーさん。いつも変と言えば変な方ではあるけれども。
うーん、大牙さんは変な方がお好みなんでしょうか。それは太刀打ちが難しい……。
「この生垣の向こうだね」
立ち止まったのは和風邸宅。生垣も、その向こうに見えてる庭の木々もきれいに刈り込まれてる。高級住宅地でこれだけの敷地とは贅沢です。出入り口はあるけど裏門みたいで、表札もインターフォンもない。
「表に回って、事情を話してみま……」
がちゃ。
一瞬ののちには、大牙さんが裏門を開けていた――内側から。飛び越えたようです。助走とか一切なかったように見えたんですが? お願いですからリッキーさん、少しは一緒に驚いてください。
「こんばんはーお邪魔しまーす」
つつい、と迷いなく裏門をくぐるリッキーさん。
「あのー先輩方、それ無断侵入……」
「さあタンゴさんはどこかなー」
言うだけ無駄。そう悟り、裏門からきょろきょろ中の様子を見回していると。
「おまえはそこにいろ」
大牙さんに、道路へ押し戻されてしまいました。顔面を子猫づかみしないで頂きたいのです。
「えーずるい、仲間はずれですか」
「足手まといだ」
わーなんてシンプルなお返事なんでしょう! しくしく。
仕方なく裏門の前で立たされ坊主状態になっていると、門扉の向こうからお二人の声が聞こえてきました。
「あーいたいた、タンゴさん。大牙ー」
タンゴさんを発見したリッキーさん、捕獲を大牙さんにおねだりしているもよう。
「結局俺なんだからな……。おい律ちゃん、これ――あーくそ、しまった」
忌々しそうな舌打ち。タンゴさんにトラブル発生か。
「遅かったか。もう冷たくなっちまってる」
大牙さんの苦味ばしった報告は、わたしの胸から腕へと鳥肌を走らせた。
『悪いニュースは何ですか?』
『ん。タンゴさんは移動してないみたいなの』
移動してないってまさか、まさか――もう、死んじゃってたから? それがリッキーさんが言葉をにごらせた悪いニュース? だからタンゴさんは、黒住先輩との食事に来なかった。来ることができなかったんだ。
「もう少し早ければね……。ごめんね、僕がもっと早くたどり着いていれば」
残念そうに沈んだリッキーさんの声がする。胸の中の悔しさがどんどん増幅されて、涙になってあふれだした。
黒住先輩にどう報告すればいいんだろう。あんなにタンゴさんを可愛がってるのに。タンゴさんが黒住先輩の知らないうちに、知らないところで、お亡くなりになってたなんて。
かわいそうなタンゴさん。どうか安らかに……。
「家に持って帰ってレンジにかけりゃ、案外復活するんじゃないのか?」
のんきそうな大牙さんの台詞が頭蓋骨直撃。ひどい、ご遺体になんてことを!
「あ、じゃあ爆発しないように穴開けないとね」
リッキーさんまでー!
ばあん! と思わず裏門をブチ開け、中に飛び込んだ。庭先で背を丸め、手元を覗き込んでいたお二人が振り返る。
「やめてください先輩方、そんなことしたら死体損壊ですよ! 死者への冒涜です!」
「はあ?」
ぽかんと顎を落とすお二人の手元にあったのは――タンゴさんでなく、すっかり冷えたコーヒー缶だった。大牙さんがわたしの五百円で買って、服に入れとけと配ったコーヒー缶。
「だーかーら、足手まといだと言ったんだ。他人ちの庭先で、いらん騒ぎ起こすな」
裏門の外へ、大牙さんにつまみ出されました。ええ文字通り首根っこを、親指と人差し指でつままれて。子猫から雑巾扱いに格下げされた。
「だって、お二人ならやりかねないと!」
「黙らないとおまえを生で損壊するぞ。いいからそこにいろ、誰か出てくる」
その言葉が終わらないうちに、邸宅の裏口ががたがた鳴った。慌てて門扉の裏に避難、門扉と門柱のすきまから中を覗き見することにした。大牙さんはといえば、雨どい引っつかんでするすると屋根へ。
うーん、コンクリートジャングルでも野生児は育つのですね。
「どちらさまですかっ?」
間一髪でガラリと開いた裏口から、エプロンしたおばさんが威嚇と戸惑いの表情を覗かせた。まずい、警察に通報されたらどうしよう?
そこへすかさず物腰柔らかく、丁寧にお辞儀するリッキーさん。
「すみません、お騒がせして。近くに住んでおります神宮寺と申します」
「あら、まあ」
おばさんの剣幕が明らかにやわらいだ。そりゃあんな至近距離でリッキーさんの美貌を見ちゃったら。莉子もまだ慣れずに見とれちゃうときあるのに。
「実はお宅の屋根の上で、うちの黒猫が友人の黒猫と追いかけっこを始めまして。つい無断で失礼してしまいました、申し訳ございません」
そこへタイミングよく、どたどたにゃーお! と黒猫二匹の喧騒が落ちてくる。おばさんは瞬時に信じてくれちゃったらしく、まあと懸念顔で頭上を仰いだ。リッキーさんの和やか小鳥笑顔の威力絶大です。
それにしてもリッキーさん、うちの黒猫って。ヒトなんですけど、その黒猫。屋根の上で小脇に動物抱えて親指立ててるんですけど、その黒猫。
「あ、終わったみたいです。お邪魔しました。かわいい僕の黒猫を連れ帰ります、ふふふっ」
「あらあら、ちょっと待って。アサリがたくさんあるのよ、猫ちゃんにおすそ分けするわ」
「わー、ありがとうございます。ひょっとして潮干狩りに行かれたんですか」
リッキーさん……初対面のおばさまに食材頂いてる。
「いいなー、大漁だったんですね。僕も潮干狩りに行ったばかりなんですが、釣果は指輪だけだったんです」
「まあ、じゃあぜひにも」
とおばさまが台所へアサリを取りに行った隙に、黒猫を抱えた黒猫が屋根から飛び降りて、するりと裏門を抜けてきた。先輩方のすばらしい連携プレーに唖然。
赤いリボンのタンゴさんは、大牙さんの腕の中でおとなしくしていた。その場所代わって欲しいです。肋骨のすてきなカーブを堪能できるベストポイントではありませんかっ。
「もう、はらはらしましたよー。怪我してませんか?」
「見たところ大丈夫みたいだな。動けなかった原因は怪我じゃなさそうだ。庭にデカい野良猫がうろついてたんで、降りるに降りられなかったんだろ」
大牙さんの怪我の有無を伺ったんです。普通は屋根から飛び降りれば捻挫のひとつもしてるはずなんです。
「おまたせー」
にこやかに出てきたリッキーさんはビニール袋を持ってる。
「すごいなー、うちの黒猫は。猫もアサリもとってきちゃった。お疲れ、大牙」
んあ、と気の抜けた返事をして、大牙さんはずるぺたと歩き出した。黒住先輩の神社の方向だ。
ようし、風邪なのに働いてお疲れの先輩方に、莉子がはりきってお夕飯を! アサリの酒蒸しバナナ添えなんてどうかな。大牙さん攻略法は何と言ってもバナナです!
リッキーさんがアサリ入りのビニール袋をぶんぶん振り回しながら、また歌いだした。黒猫への熱い情熱を。
牽制されてます……。