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青い花束

作者: 月石 靡樹

 別れを惜しむ涙がその人の周りに溢れていた。

 私はその人がかろうじて見えるくらい遠いところで一人、青い花束を抱えていた。


 絵を描いていて褒められたのは久しぶりのような気がした。

 それは私が中学に入って何度目かの美術の時間。校舎の外へスケッチブックを持って風景画を描くということになり、私は友達から離れ一人で絵を描いていた。

 小学校の美術という授業にいい思い出などまったくなかった私は中学では自分の感覚ではなく普通の絵を描こうと決めていた。入学したてということもあり、そんなことでいじめの対象にされるおそれだってある。しかしどうせ描くならちゃんとしたものを描きたいと思うのは当然で友達と喋りながらではなく、一人で真剣に描いていたかった。

 そんな私に声をかけてきたのは美術の先生でも担任の教師でもなかった。

 「なんだってこんなとこで絵を描いているんだ? 風景画ならもっといい場所があるだろう」

 「みんなと同じというのが嫌なんです」

 私はまともに取り合わずスケッチブックから目線を変えず、こいつちょっと面倒くさい生徒だな、と思わせてその人を遠ざけようとした。

 しかしその人は逆に私のスケッチブックを覗き込むように歩み寄ってきた。

 「なるほど、だからキミの描く絵はどれも独創的だったわけだ」

 「私の描いた絵を見たことがあるんですか?」

 「去年、ボクが審査員をしていた絵画コンクールに珍しく学校の名前を使わず個人で送られてきたものがあった。むろん学校や教師の後ろ盾がないその絵は賞を受賞することなんてできなかったけど、僕の脳裏には鮮明に焼きついているよ」

 私はそう言われて初めてその人の顔を見た。ぼさぼさの髪に無精ひげ、しかし吸い込まれるようなその瞳は子供のようにさえ感じた。

 「奥若 なつきさんだね」

 言われて胸がドキッとなった。

 「は、はい」

 動揺がそのまま言葉に出たようだった。

 しかし、そんな私にそれまで無表情に近かったその人の顔が私の全てをを包むような穏やかな笑顔に変わった。

 「キミの色使いは素晴らしいね。美術部に入らないかい。ボクはそこで臨時顧問をしてる内藤だ」

 舞い散った桜を温かな風が運んでいくその緩やかさと同じくらい穏やかで優しい声が私の心に染み渡ってきた。どうしよう、気を緩めたらスケッチブックを覆えるくらい涙が溢れてしまいそうだ

 翌日、私は美術部に入部した。絵を描くためではなく、その人のそばにいるために・・・


 誰にもいえない私の初恋だった。

 私より一回り以上年が離れていて、その蓬髪や無精ひげに反して女子からの人気は高く、普通に話しかけることはおろか部活中もその人と話すことはほとんどできなかった。

 それでも私は満足だった。自分の描きたい絵を描ける、ちゃんと評価してもらえている、いやそれ以上にその人に見てもらえるということが何より嬉しかったんだと思う。

 中でもその人は私の青い色の使い方を一番に褒めてくれた。

 「空や海、青は自然の色だ。ボクはその色が一番好きなんだよ」

 その人のおかげで私は絵を描くことが前以上に好きになった。周囲からは批判されることもあったけど、私は私でいいんだという自信を持つことができた。コンクールだとか賞だとか、私にとってそんなものはどうでもいいとさえ思っていた。


 そして、二年の冬。美術部で一つの噂が飛び交った。

 「辞めるって本当ですか・・・」

 すでに九時を回った美術準備室で私は静かにその人へ問いかけた。するとその人は意外にも少し驚いた表情になった。

 「驚いたな」

 心の内を素直に吐露するとその人に私はさらに言葉をぶつける。

 「驚いているのはこっちです。どうしてですか? なにかあったんですか?」

 責めるように言った声にその人は申し訳なさそうな表情を浮かべる。そんな表情を見るために言っているわけじゃないのに、胸がぎゅっと締め付けられる。

 「ボクにもやりたいことがあるんだよ。それにあくまでボクはここの非常勤講師、正規の教師じゃない。期限がきたってことだよ」

 「でも・・・」

 「そうだね。キミをこの部に誘った責任は感じている。ただ、今驚いているのはキミが誰かに関心を持っているということだ」

 言われてはっとなった。

 「この部に入ってからもキミは誰かと仲良くしたり、他人の絵に関心を持ったりはしなかった。どんどん上手になってみんなから称賛を受けられれば受けられるほどキミはどんどん孤立していっているように感じたよ」

 本心を言えば一人になっていたのはこの恋心を隠すためでもあった。誰かと仲良くなればその分心を許してしまう。ぽろっとこぼしてしまうこともあるだろう。だから私はその人にも同級生や先輩たちにも一貫して同じ態度をとり続けた。むろん不遜にならず、しかし決して馴れ合うことはせず、あくまでつかず離れずといった距離感でだ。

 だが今は・・・

 「キミはボクによく似てる」

 声を出すことはしなかったけれど驚きを隠せない私をよそにその人はその理由を話す前に立ち上がりインスタントのコーヒーを自分用と私の分も淹れてくれた。

 「ボクも昔はキミみたいだった。もっともボクはキミと違って自分の才能を過信して周りを下に見てたけどね」

 「私は違うと?」

 「キミはあまりいい先生に巡り会わなかったのが一番残念なところだ。指導者としても社会人としても、キミの担任をして来た教師たちに恵まれていない」

 私が絵を描くことを嫌いになった理由なんてその人に話したことはない。しかしその人は私という人間をよく見てくれていたのだということがそのとき初めて分かった。そうでなければ私は「違う」と反論していただろう。静かに黙って聞いていれるのはインスタントとは思えないほど落ち着けるコーヒーのせいじゃない。

 「本当ならボクがそれをしたかったけど絵の指導だけで手一杯だ。それに特別扱いするといろいろうるさい人たちが多くてね」

 あきれたように肩を竦めると小さくため息を吐いた。

 「残念なのはまだある。キミの才能をこれから先も見てあげれないということだ」

 「先生さえよければ、指導を受けに行きますけど・・・」

 真顔で言った私の言葉にその人は一瞬嬉しそうに微笑んだが、「それは無理だよ」と言わんばかりに目線を落とした。

 「海外まで指導を受けに来られても困るな。それに今度はボクも勉強する側だ」

 「それって・・・」

 「もう一度、一から絵を勉強しようと思う。誰も知らないところで、一人でね」

 その目には希望の光が宿っていた。

 「留学ですか・・・」

 「本当はどうしようか迷ってたんだけど、キミたちのおかげだよ」

 「私たちの?」

 「そう。この学校に来て先生をやってみて、いろんな生徒と接して、そして一人で戦ってるキミを見て、ああ、ボクも負けていられないなぁって、まだまだやりたいことがあったなぁって思うようになってきたんだ」

 でもその代償は大きすぎる。少なくとも私にとってこの人がいてくれたから今まで絵を描いていたようなものだ。私という種を土に植え、水をやり、陽光まで浴びせてくれたからこそ私は先日のコンクールで賞をとるまでに至った。

 「感謝してるよ。ありがとう」

 感謝してるのはこっちの方だ。頭を下げなくてはならないのは私のほうだ。

 私はその場にいることができなくなり走ってその場を立ち去った。それがその人に思いを告げる最初で最後のチャンスだったかもしれないのに、私は悲しみに満ちていく心に抗うことができなくなっていたのだ。

 私はしょせん噂は噂に過ぎないだろうと思っていた。

 少なくとも、私たちが卒業するまではここにいてくれるだろうと思っていた。

 そして私はそのときにちゃんと思いを伝えようと思っていた。

 結果ではなく、大事なのはその姿勢だと教えてくれたその人の教えを最後に守ろうとした。



 そして、今、一年繰り上がりで別れのときがやってきてしまった。

 ここ数日間考えた告白の言葉は実にありきたりなものだ。たった四文字の言葉に思いの丈を全てこめることにした。

 しかし遠くで見つめている私の足は動かない。

 じっとその場で立ち尽くす私に襲い掛かる寂寥の思いと強い風は心をかき乱し青い花束の花びらを静かに飛散させる。まるで風がその人への思いを千切れさせんと言わんばかりに僅かずつ、しかし確実に花びらは花束から消えていく。

 いつかその人が大好きだといった青い色。

 私らしく、誰よりも印象に残るように白いバラを青い染料で染めたその歪さはきっと『私らしさ』の象徴だろう。

 その青が、私らしさがまるで結び目を解いた糸のように解け、散っていく。

 私が自分の思いをそのまま思い出にしようとその人に背を向けた。

 これでよかったんだと何度も言い聞かせた。

 振り返って前に進むのにも勇気がいることを知った。

 「奥若さん?」

 呼び止められた声に振り返るにはさらなる勇気が必要だった。

 「そのままでいいので聞いてもらえるかな」

 そんなに申し訳なさそうに言わないでほしい。これで最後なのだからいつものように明るく、明日もまた会えるように自然な感じで話して欲しい。

 「絵を描き続けてください。そうすればまた、どこかで会えるはずだから・・・」

 私は一度大きく息を吐いた。もう声を出すことはできない。出したところでまともな会話ができるとは思えない。だからせめてこの手にあるものを渡すことにした。

 「青い・・・バラ?」

 それを見てその人の顔はぱあっと明るくなった。

 「知っているかい? 青いバラはどんな専門家にも作り出せないと言われてた幻の花なんだよ。でもどっかの飲料メーカーが長い年月を重ねてようやく作り出したんだ。それでもその花の色は青というよりはむしろ薄い紫に近い色で、青と呼ぶにはちょっと無理がある色だった」

 手にある花束はそう言った意味では本当のブルーローズだった。

 そしてもちろん私はその花言葉も知っている。

 「でも元々あったブルーローズという花言葉の意味は変わった。目的を達成するために諦めず、努力すれば幻も現実にできるということからそれは『夢叶う』『神の祝福』という意味を持つ花になった・・・・ありがとう。最高の贈り物です」

 それでよかった。

 私の知ってる花言葉とは違ったけど、少なくともそれが私の象徴であることに違いはない。

 「先生、いろいろとありがとうございました」

 ここぞと言わんばかりに抱きついて涙を流す私にもその思いを伝えることはブルーローズの花言葉どおり『不可能』だった。


友人が描いた絵に青い花束を持った女子高生が切なげに立っているものがあり、その絵からお話を描いてみました。

いつの日か、本当に海や空の色をしたバラが開発されてほしいものです。

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― 新着の感想 ―
[一言] まるでドラマを見ているようでした。青いバラ、目に浮かびます。希望の色をしたバラは最高の餞になったと思います。
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