パンとアフロディーテ
原初の神々の世界には、人間社会ほどの建前もなかった。
恋愛はただ、選ぶ者と選ばれる者を容赦なく分けていた。
容姿、身長、声、財産、権力、家柄。
誰もが、そうした条件から逃れることはできない。
その中でも、特に女性から縁遠かった百人の男性神が集まり、ある計画を立てた。
「我々だけの世界を作ろう」
土地を分け、都市を造り、水道を引き、食料を生産する。
法律を作り、争いを防ぐ仕組みも考えた。
そして最後に、最も難しい問題が残った。
「結婚制度はどうする?」
しばらく沈黙が続いた。
「やめよう」
そう言ったのは、半人半獣の神パンだった。
「結婚できる者と、できない者を制度によって分ければ、我々は今までと同じだ」
「では、どうする?」
「全員に恋人ができるようにする」
そこで彼らは、恐ろしく単純な計算を始めた。
女性の八割は、男性の上位二割を選ぶ。
残った女性の八割は、その次の二割を選ぶ。
それを延々と繰り返す。
百人の男性全員に、少なくとも一人の女性が行き渡るためには、女性はどれだけ必要なのか。
計算結果を見た神々は黙り込んだ。
必要な女性の数は、
約九十五兆三千六百七十四億人。
「……作ろう」
誰かが言った。
こうして世界には、ありとあらゆる性格、容姿、趣味、価値観を持つ女性が創造された。
そしてパンは旅に出た。
自分を恋人に選んでくれる女性を探すために。
百人。
一万人。
一億人。
何億人と出会っても、誰もパンを選ばなかった。
「やはり私では駄目なのか」
パンは自分の蹄を見た。
山羊の角。
獣の脚。
毛深い身体。
自分でも、恋愛市場で不利なのは分かっていた。
それでも旅を続けた。
そして、ある日。
パンは一人の女性と出会った。
彼女は、他の女性とは違っていた。
世界で最も美しい女神。
アフロディーテだった。
「なぜ、ここに?」
パンが尋ねると、アフロディーテは微笑んだ。
「あなたを探していたの」
「私を?」
パンは笑った。
「冗談だろう。私はこの世界で最も醜い男性神だ」
「そうね」
アフロディーテはあっさり答えた。
パンは少し傷ついた。
「……否定しないのか」
「私は愛の女神よ」
「だから?」
アフロディーテは少し考えた。
「だからこそ、気づいたことがあるの」
「何を?」
「私は今まで、誰からも愛されない男を愛したことがなかった」
パンは黙った。
「愛の女神なのに?」
「そう。私が愛してきたのは、私を求める者や、美しい者、力を持つ者だった。けれど、誰からも選ばれない者を、自分から選んだことはなかった」
アフロディーテはパンを見つめた。
「だから、一度くらいは、自分が愛を与える側になってみようと思ったの」
パンは答えられなかった。
「あなたたちは、恋愛を数学にしたのでしょう?」
「ああ」
「上位二割。下位八割。選ばれる確率。必要な女性の人数」
アフロディーテは笑った。
「でも、愛は計算できないわ」
「では、なぜ私なんだ?」
「あなたが、誰にも選ばれないことを知りながら、それでも私を探し続けたから」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう?」
パンは長い間、黙っていた。
九十五兆三千六百七十四億人。
それほどの女性を用意しても、自分を選ぶ女性は一人しかいなかった。
けれど、その一人に出会うために必要だったのは、九十五兆三千六百七十四億という数字ではなかったのかもしれない。
「アフロディーテ」
「なに?」
「私は、君が愛の女神だから好きになったのではない」
「ええ」
「君が、私を選んだから好きになった」
アフロディーテは笑った。
「それなら、私たちは同じね」
その日、世界で最も醜い男性神と、世界で最も美しい女性神が恋人になった。
そして二人は、誰にも邪魔されない山の中へ消えていった。
残された神々は、途方もない数の女性を前にして頭を抱えた。
「……ところで、この九十五兆三千六百七十四億人、どうする?」
誰も答えられなかった。




