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初仕事ーー誓約詐欺の小貴族を「契約無効」で黙らせます。

※婚約破棄から始まるお仕事×溺愛ものです。

※契約・制度要素がありますが、会話と事件中心で進みます。

※更新は皆様からのブクマやコメント等の反応をもとに行います。

 宰相府の奥、契約庁の執務室は紙の匂いがした。香水でも蝋燭でもない。墨と皮紙、乾いた封蝋の匂いだ。

 エレナ・ヴァルシュタインは背筋を伸ばして机の前に立っていた。目の前には、就任契約書が一枚。端正な文字、整った条文、そして――契印欄だけが妙に重い。


「緊張しているか」


 低い声が背後から落ちる。宰相エイドリアン・ルーヴェル。昨日“形式上の婚約”を交わしたばかりの男は、今日も温度のない顔をしていた。


「していません。確認しているだけです」


 エレナは紙面を指でなぞる。文字が、ほんのわずかに滲む。契約視――契約と誓約に宿る歪みが見える能力。前世の仕事で擦り切れた心が、こちらの世界では視覚になって残ったらしい。

 滲みは第六条に集中していた。


「第六条、“監査官は上司の指示に従い、必要に応じて……”ここ、曖昧です。責任の押し付けに使えます」

「だから君を雇う。曖昧さは腐敗の温床だ」


 淡々と言って、エイドリアンはペンを差し出した。エレナは余白に短く追記する。

 ――『必要に応じて』は、具体的要件を列挙し、監査官の拒否権を認める。


「これでよろしいですか」

「合意だ。命令ではない」


 昨日、自分が書き足した言葉を、彼がそのまま口にした。胸の奥が少しだけ熱くなる。エレナは何事もなかったように署名し、契印が淡く光るのを見届けた。

 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「宰相閣下。……その、新任監査官さま。受付に、契約無効の申立てが来ています」


 入ってきたのは若い書記官だった。栗色の髪を後ろで束ね、目の下に寝不足の影を作っているのに、瞳だけは妙に元気だ。

「リリィ・ノーランです! 今日から監査官さまの補佐、って聞いて。ええと……おめでとうございます、婚約も」


 最後の一言が軽すぎて、エレナは思わず瞬きをした。エイドリアンは表情一つ変えずに頷く。


「案件を聞け」

「はい。申立人は家政婦のマリアさん。雇い主のバルト男爵に“誓約奉公契約”を結ばされて――賃金が払われないうえ、辞めると呪いが来るって」

 呪い。契約魔法の罰則。弱い立場ほど逃げられなくなる仕組みだ。

 エレナは息を吸って、口角を上げた。


「分かりやすいですね。最初の案件に丁度いい」


 リリィがぱちぱちと瞬きをする。


「え、怖くないんですか? 相手、貴族ですよ?」

「怖いですよ。だからこそ、条文で殴ります」

「最高……!」


 リリィの小声の感嘆に、エイドリアンが一瞬だけ目を細めた。評価とも呆れとも取れるその視線が、エレナの背中を押す。


「監査官には護衛を付ける。ドゥランを同行させろ。契印偽造の確認が要る」

「了解です、閣下」


 合理的な守り方。感情の慰めはないが、手順がある。

 それが、エイドリアンの“保護”なのだとエレナは理解した。

 受付の一角で、マリアは震えていた。年の頃は二十代後半。指先が荒れて、爪の間に洗剤の白が残っている。


「辞めたいんです。でも、契約で……『辞めたら家族に不運が』って。息子が、熱で……」


 差し出された契約書は、王国標準の様式に似ていて、しかし紙が安い。封蝋も粗い。

 エレナの目には、文字が所々黒く滲んでいた。三箇所。


「確認します。契約は、いつ、どこで、誰の立会いで結びましたか」

「男爵さまの館で……公証人はいません。男爵さまが『口頭でいい』って」

「口頭で“誓約奉公”は成立しません」


 マリアが顔を上げる。リリィが横で小声で補足した。


「誓約は、契約庁の登録と契印が条件なんです。じゃないと、呪いが合法扱いにならないんですよ」

「でも……呪い、来てます。昨日、階段から落ちて……」


 エレナは紙面を指で軽く叩いた。


「来ているのは“誓約”ではなく、脅しです。条項の中に、呪いを発動させる正規の契印がありません」


 廊下の奥から、長身の男が現れた。鑑定官ドゥラン。無精髭を撫でながら契約書に目を落とす。


「こりゃ偽物だな。契印の魔力反応が薄い。……いや、薄いっていうか、別物。似せた染料だ」


 マリアの肩から力が抜ける。エレナは頷き、立ち上がった。


「バルト男爵に会いに行きましょう。契約は“無効”です。正式に差し止めます」



 男爵の執務室は豪華だった。だが飾りは新しく、金の匂いがした。

 バルト男爵は椅子にふんぞり返り、薄い笑みを浮かべた。


「宰相府の監査官? こんな小事に? ……いや、なるほど。婚約破棄された令嬢の再就職か」


 胸糞は短く。エレナは内側でそう唱えて、淡々と紙を広げる。


「確認します。貴方はマリア氏に対し、誓約奉公契約を締結したと主張していますね」

「そうだ。本人の署名もある。嫌なら最初から署名しなければいい」


 契約視が、男爵の言葉と紙面の間に糸の切れる音を立てた。嘘ではない。だが、前提が違う。


「署名はあります。しかし契印が無い。登録も無い。よって誓約罰則は発動しません。さらに――」


 エレナは指先で第三条を押さえた。黒い滲みが濃い。


「賃金の支払い条件が『男爵が適切と認めた場合』になっています。これは著しく一方的で、王国標準契約の禁止条項です」

「禁止? そんなもの、どこに――」


 ドゥランが机に小さな鏡を置いた。鏡面に、契約書の契印欄が映る。そこだけが赤く染まって、じわりと歪む。


「偽造の痕跡だ。ここを触った奴は、登録用の契印を盗んだか、真似たかだな」

 男爵の笑みが消えた。

「……証拠があるのなら、訴えればいい。宰相府がこんな――」

「訴えます。今ここで」


 エレナは封筒を取り出した。宰相府の封蝋。男爵の目がわずかに揺れる。


「契約庁の差し止め命令書です。今日付けで貴方の館の労務契約は監査対象となり、当該契約は一時停止。賃金未払い分は供託に回収します」

「そんな権限が――!」

 男爵が立ち上がりかけた瞬間、扉が開いた。

「ある」

 入ってきたのはエイドリアンだった。護衛も声も最小限。だが空気だけが一段冷える。

「バルト男爵。君は契約庁登録の義務を怠り、偽造契印を用いた疑いがある。いま抵抗すれば、誓約違反ではなく“犯罪”として扱う」

 男爵の喉が上下する。エイドリアンは続けた。

「選べ。賃金全額の返還と、今後五年の公的契約停止。……あるいは、裁判」

 合法の圧力。制度的ざまぁ。


 男爵は最後に一度だけエレナを睨み、震える手で命令書に署名した。契印が光り、今度は男爵の指先がわずかに痺れる。破れば代償が来る契約だ。

 廊下で、マリアが息を詰めて待っていた。エレナは命令書の写しを渡す。


「これで辞められます。未払い賃金も、契約庁が回収します」

「ありがとう……っ」


 泣き崩れるマリアの肩に、リリィがそっと外套を掛けた。ドゥランは興味なさげに欠伸をするが、口元は僅かに緩んでいる。

 エイドリアンがエレナに視線を向ける。


「初仕事としては十分だ。次は――宮廷調達だ。今日のように、数字と条文で救え」


 それは命令ではない。期待だ。

 エレナは契約書の束を抱え直し、頷いた。


「確認します。次の契約、どこが歪んでいるんですか」



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


この物語は、

誰かを踏みつける側ではなく、

黙って耐えてきた人が、契約と証拠で報われる話です。


第一話では、

主人公が「このやり方で進んでいく」と決めたところまで描きました。

次話からは、少しずつその選択が周囲を動かしていきます。

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