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序章

※婚約破棄から始まるお仕事×溺愛ものです。

※契約・制度要素がありますが、会話と事件中心で進みます。

※更新は皆様からのブクマやコメント等の反応をもとに行います。

祝宴の広間は、香水と蝋燭の匂いでむせ返っていた。

 男爵家の娘――エレナ・ヴァルシュタインは、笑顔の仮面を貼り付けたまま、壇上の伯爵家嫡男クラウスを見上げていた。


「エレナ。君との婚約を、ここで破棄する」


 乾いた声。拍手が一瞬遅れて起こり、すぐにざわめきに変わった。

 隣には、クラウスが“真実の愛”と紹介した令嬢がいる。白いドレスが眩しいほど清楚で、周囲の視線は最初から彼女の味方だった。


 ――まただ。空気が、決まってしまう。


 エレナの胸の奥で、古い痛みが目を覚ました。

 東京。会議室。理不尽な契約条項。責任の押し付け。最後は体が動かなくなった。

 あのときと同じ空気が、今世の祝宴にも流れている。


「理由は明白だ。君は、伯爵家の資産管理を任せるに値しない。……それに、彼女の形見を盗んだ疑いもある」


 可哀想な人を見る目。正義の断罪。誰もが、エレナの弁明を待っていない。

 泣けば負ける。怒れば狂人。黙れば有罪。

 だから、エレナは微笑んだ。


「承知いたしました。では確認します。婚約破棄は“正当な理由”が必要です。クラウス様、あなたは――婚約契約書の第七条を読んでいらっしゃいますか?」


 どよめきが一段大きくなった。クラウスが一瞬だけ目を泳がせる。

 その仕草だけで、答えは出ていた。


 エレナは、胸元の小さな革袋から紙片を取り出した。婚約契約書の写し。

 そこに浮かぶ文字が、エレナの目には“ひび割れ”として見える。

 条項の矛盾。意図的に捻じれた言い回し。違法な補足条文。


「第七条には、資産管理の権限移譲が“私が十八歳になるまで”保留されるとあります。つまり、今日の時点で私に管理責任は存在しません。責任がない者を理由に断罪するのは――契約違反です」

「な……!」

「それと、盗難の件。証拠は?」


 誰かが咳払いをした。王家の使者だ。ここで揉めるのは困る、という顔をしている。

 エレナは、その視線を見て確信した。これは“個人の破棄”ではなく、派閥の演出だ。


 ――なら、私の戦場はここじゃない。


「私は、婚約を破棄されること自体は受け入れます。ですが、虚偽の理由で名誉を毀損されたことは記録に残します。公証人をお呼びください。……それと」


 エレナは壇上を一礼し、ゆっくりと広間の出口へ向かった。

 背中に刺さる笑い声。憐れみ。興味。

 それでも足は止まらなかった。


 廊下の冷たい空気に触れた瞬間、胸の奥が少しだけ楽になる。

 そこに、黒の外套をまとった男が立っていた。宰相エイドリアン・ルーヴェル。

 噂では冷酷。合理の塊。王の犬。――そして、契約庁を握る男。


「エレナ・ヴァルシュタイン。今の発言、聞いた」


 低い声。責めるでも、慰めるでもない。


「君は“契約の矛盾”が見えるのか」


 エレナは息を呑む。――この男は、空気を読まない。だから怖い。

 でも、だからこそ。


「……見えます。正確には、歪みが分かります」

「なら、宰相府に来い。契約監査官が足りない。君のような人材は、金で買えない」

 頬が熱くなるのを、エレナは必死に隠した。

 救いの言葉ではない。条件提示だ。契約だ。

「ただし、今の君は狙われる。元婚約者の派閥は、君を黙らせたい。君が生き残る最短手は――」


 エイドリアンが懐から一枚の契約書を取り出した。提出用の公的文書よりも簡素で、しかし契印欄だけが異様に重い。


「私との形式上の婚約だ。君を“宰相府の身内”にする。署名できるか」


 紙の上で、文字が淡く滲む。

 条項の末尾に、見慣れない一文がある。

 ――“監査官は、契約庁の秘密を守るためならば、宰相の命令に従う”。

 危険だ。命令。従属。前世で散々味わった言葉。


 でも、エレナは同時に理解していた。条項は修正できる。契約は交渉できる。

 エレナはペンを取り、契約書の余白に一行を書き足した。


「この条項、修正します。“命令”ではなく“合意”。そして、私が拒否できる例外を追加します」


 エイドリアンの眉が、ほんの少しだけ動いた。

 驚きか、興味か――その答えはまだ契約書の外にある。


「……いい。交渉する監査官は、嫌いじゃない」


 エレナは深く息を吸って、契印欄に署名した。

 紙が微かに光り、空気が変わる。

 形式上の婚約。

 それは盾であり、首輪でもある。


 ――だからこそ、私はこの契約を“勝てる形”にしてみせる。



次話では、さっそく最初の「契約監査」が始まります。

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