平和に生きたいだけだった
あまり深く考えずにお読みください。
「ヴィオラ、ちょっといいか?」
わたくしは兄に呼び止められました。生まれ育った屋敷の、広々とした食堂を出たところでした。
足下にはふかふかの赤い絨毯。わたくしたちの身分に相応しいしつらえです。
ヴィオレッタ・キャラウェイ侯爵令嬢。それがわたくしの名前です。
「はい、何でしょう」
わたくしはドレスの裾をひるがえしながら振り返ります。
兄は秀麗な顔を少しだけ真剣そうにして、こう訊きました。
「あー…………、ウィリアム殿下とは、この頃どうだ?」
わたくしは微笑を浮かべました。
「つつがなく、やりとりいたしておりますわ」
「……そうか、つつがないか」
兄は安堵していいのか、少し迷ったような顔をしてから、ならいいんだ、呼び止めてすまなかったなと部屋に帰って行きました。
わたくしも踵を返します。
兄は、家の将来を考えてあのようなことを申したのでしょうか?
確かに、ウィリアム殿下は現在唯一の王族男子で王太子。わたくしは、嫁すれば王太子妃、ゆくゆくは王妃となるはずの身の上です。
……ですがお兄様、ごめんなさい。
わたくしは、そうはならないことを知っています。
──だって私、悪役令嬢なんだもん!
前世の記憶が蘇ったのは、婚約式の日だった。
もっと前なら、どんな手を使ってでも回避したのに!
ヴィオレッタ・キャラウェイ。
私が前世で読んだ漫画では、主人公・聖女ローズマリーのことを目の敵にし、大小様々な嫌がらせを仕掛けてくる悪女だった。ちょっと聖女の元の身分が低いからといって、嫌味、悪戯、器物損壊のオンパレード。
そのうちにウィリアム王子が偶然ローズマリーと出会い、恋に落ちたことで、悪女の攻撃は激しくなる。
それでもめげない聖女にしびれを切らして拉致を計画し、あわやというところを王子が防ぐ。ついに証拠をつかまれて悪女は婚約破棄、身分を剥奪され追放──という流れだった。
当然、ローズマリーとウィリアムのハッピーエンド。
……いや、無理!
まず、他人にそこまで悪感情持てないし。シンプルに疲れる。
聖女がよっぽど嫌な人間ならともかく、完全に逆恨みでしょ?
ネチネチ嫌がらせっていうのも性に合わないし、嫌がらせだって全部自分でやるわけじゃなくて、周囲の人間に命令してやらせてたっぽいし。いや、他人巻き込むなよ。
破滅だって、私一人のお咎めで済むとは思えない……。
これでうちが悪女の家族っぽく、悪事に手を染めたりしてれば仕方ないかもしれないけど、私が見聞きしたり、ちょっと調べてみたりした限りでは、そんなこともなさそうだしね。領民にも慕われてるっぽいしさ。
原作ルート、無理、絶対。
こうなると、婚約は仕方ないので、全力で『理解ある婚約者』をやるしかないなって考えた。
つまりこうだ。
一、聖女に嫌がらせをしない。むしろ断固関わらない。
一、王子と聖女が恋に落ちたら全力で応援、すみやかに身を引く。
一、そのために、王子とは当たり障りのない関係を築いておく。
……これしかなくない!?
あわよくば、聖女のバックに我が家が控えてる形にでもすれば、政治的なバランスも大丈夫。
だからお兄様には悪いけど、私が王太子妃、王妃になる日は、来ない。
「つつがないやりとり」以上のお返事はできない。
侍女たちを下がらせて一人になった自室で、私は祈った。
「聖女早く来て……。王子はあげるから、断罪は勘弁して!」
★
この国で最も豪奢な建造物。それがわたしの家だ。
ウィリアム王太子。というのがわたしの名で、称号である。
国を背負って立つ予定のわたしは、今のところ、一人の女性に心をかき乱されていた。
「なあ、ヒース。どう思う」
「はあ」
控える従者に話を振ったが、いまいち反応が悪い。しかし、めげずに言葉を続ける。
「去年は花と髪飾りを贈ったが、わたしの前では一度しかつけて見せてくれなかった……。やはり、装身具の贈り物は難しいのだろうか。わたしのセンスがよくなかった、とは考えたくないのだが」
これでも国一番の教師をつけて、美術や着こなしについても学んでいる身である。
「まだ互いに学生の身だからな……。普段使いできる品がいいだろうか、たとえば……たとえば、万年筆など。……いやしかし、既に気に入りのものを持っているかもしれないしな……おい、聞いているか?」
「はい、聞いております」
聞いているならなんか……何とか、言ってくれ。本当に困っているのだ……。
わたしの頭を占めるのは、我が婚約者ヴィオレッタ。キャラウェイ侯爵の娘で、数年前に婚約を結んで以来、仲良くなれないものかと日々手を尽くしている相手である。
だが、彼女はわたしを儀礼上の相手であるかのように扱い、笑顔はおろか、一言、二言の私語も漏らしてくれない。
彼女の兄を通してちょっとした好みなどは把握しているが、そういったものを贈ったとしても反応はいまいちである。
そこで、姉妹がいるというこの従者に相談しているわけだが……。
じっとにらむと、従者は目をそらして口を開いた。
「申し訳ございません。……ここはやはり、ご本人に直接お聞きになっては?」
「……そっ……!」
それはもうおととしの誕生日に試した! とは言えず、口をつぐむ。
下手なことを口走って、ヴィオレッタとの不仲の噂が流れてはいけない。何しろ──
──俺はざまぁされるわけにはいかないんで!
ヴィオレッタとウィリアム王子。これは俺が前世で見ていたアニメのキャラじゃないか、ということに気づいたのは婚約式の日である。
なんかの小説のアニメ化だったと思うが、バイトの休憩時間に被っていたので休憩室で流し見していた。
ウィリアム王子は、王太子のくせに婚約者ヴィオレッタを裏切って聖女ローズマリーとくっつく。そして派手なパーティー会場で冤罪をふっかけ、断罪のていで婚約破棄を言い渡すのだが……。
逆にヴィオレッタとその家族に、華麗な断罪返しをくらい、王太子と聖女の身分を取り上げられ、破滅するのである。
その時は、へーこういうのが流行なんだ、と思っただけだったけど……。
実際のウィリアム王子の立場になってみたら、冗談じゃない。
ウィリアムは唯一の王族男子で、破滅するってことは王朝が終わるってことだ。その後国はどうなる?
そうでなくても、この年になるまでどれだけの金をかけてもらってると思う?
自覚したらプレッシャーがすごかった。婚約破棄とかしてる場合じゃなかった。断罪返しも当然である。
……それに、ヴィオレッタ。俺には塩対応だけど、普通にかわいいし、家族と仲良くしてるところ見ると……なんか……いい、んだよなあ。
せっかく縁づいてるんだから、俺だってもうちょっと親密になりたい……境界線の向こう側に踏み込ませてほしい。……決して自分の命が惜しいからだけで言ってるわけでなく。
が。今のところ、少しでも距離を縮めようという努力は空振ってばかりである……。
お茶会や観劇などの機会によく観察してみて、俺に悪感情を持っているわけではなさそうだと思ってはいるが、その自信も最近はくじけそうだ。
従者、母上、誰でもいい。女心がわかるやつ、俺を助けてくれないか。
そして、願わくば。
「聖女、頼むからまだ出てこないで! ヴィオレッタの好感度が上がるまで!」
★
殿下が涙目でこっちを見ている……。本当にやめてほしい。
オレは知っている。この世界は、前世で流行ったアニメの舞台だ。
ウィリアム王子が聖女ローズマリーと一緒にヴィオレッタ嬢をはめようとして、見事に断罪返しを食らうやつ。
しかしオレの記憶には、もっと強烈に残っているものがある。……アニメを楽しんでいたオレに、妹が見せてきた、ボーイズラブ二次創作だ。
ボーイズラブ。平たく言うと、ヒース×ウィリアムだった。
他人の嗜好についてとやかく言うつもりはないが、自分の人生が描かれていたかもしれないとなると話は別なんだ。……そう、
──オレには前世も今生もそっちの趣味はない!
……いや、BLのキャラもゲイではないんだっけ? ……と、深く考えるのはやめよう。ドツボにはまりそうな気がする……。
というか、一人しかいない王子の相手が男とか、普通に国、荒れるだろ。マジ勘弁してほしい。一国民として。
ヴィオレッタ嬢でも、まだ登場していない聖女でもいいから、そっちとくっついて次世代を誕生させるべきじゃないのか。
そう思って、機会があればヴィオレッタ嬢と直接話すように助言申し上げているんだが、なんか手応え薄いんだよなー。
てか、そもそもオレに相談するのをやめてほしい……接点をなるべく作りたくないので、あと普通に女心とか言われても前世と今生合わせて彼女いない歴ウン十年なので、役に立ちそうにない返事しかしてないんだが、なんで聞いてくるんだろうか……。
王子の部屋を退出してオレはため息をついた。
「とりあえずヴィオレッタ様、聖女でもいい、あいつとうまくいってくれ……」
★
自室で外出の支度をしながら、考えるのは、妹ヴィオレッタのことである。
私はアッシュ・キャラウェイ。侯爵家の跡取りだ。
兄の贔屓目ながら、ヴィオラはウェーブのかかった青い髪に紫の瞳も美しく、王太子たるウィリアム殿下と並んでも見劣りしない。
学業成績も優秀で、性格も穏やか、このままいけばよい王子妃──王妃になってくれるだろう、と思われる。……順調にいけば。
順調にいってくれ。頼むから。だって、だって──
──お兄ちゃん、味噌の造り方とかわかんないから!!
アッシュ・キャラウェイ、これっておれが前世で読んでた知識チートの主人公じゃん!
前世日本人のアッシュは、妹ヴィオラが悪役令嬢として断罪される世界に転生したことに気づき、前世の知識と侯爵家の力を使って断罪回避することを思い立つ。
味噌を造り、醤油を醸し、食に革命を起こしたかと思えば、石鹸を改良して風呂を流行らせ、新しいタイプの化粧品や香水を売りまくり、ファッションも改革して、とにかく社交界でキャラウェイ侯爵家を「なくてはならない」存在にして王子の横暴と立ち向かい、ついにはざまぁを達成するのだ。
……ぶっちゃけていいかな?
『前世日本人』ってとこしか合ってねええええ!
え、味噌……味噌? 大豆で合ってる? 転生してからそもそも大豆を見たことないけど!
正直、有能兄ムーブに憧れる気持ちもある……。けど知識が絶対的に足りてない。
調理チートどころかなんなら自炊すら怪しい。今世はお坊ちゃまでよかったー。
薬学の知識もなし、手芸の経験、もちろんなし。
一応大学生だったけど、前世のおれが学んでいたのは、言語学。生まれ変わったこの近世っぽいなんちゃってヨーロッパからは、二百年ぐらい進んだ内容をやっていたと自負できるがしかし、どう考えても金にも人脈にもなりそうにもない。
ちなみに日常語はおれには完全に日本語に聞こえている。……転生あるあるだけど、そこにチートは要らなかった……。
こうなったら、もうおれには祈ることしかできない。
「ヴィオラ……どうかお兄ちゃんのために、王子と仲良くして! 王子、変な気起こさないで!」
★
その日、ある中級貴族の家で。
奇跡を起こしたとして、聖女が神殿に保護された。
王宮周辺では、その報を受け、色めき立った者もいたというが、定かではない。
★
…………は~い。あたしローズマリーです。聖女やってます~。
中級貴族のあたしですが、神殿ではまず聖典を深く読み込むところからお勉強を始めました。
その他にも、神官様のありがたいお話を聞き、孤児院のお手伝いをし、そして、一日一回、神様の像の前で祈りを捧げます。
……一生こういうのさせててくれないかなあ。お城とかには呼ばないで。だってさあ。
──これ、絶対なろうで見たやつじゃん!!!!!
ローズマリーって聖女が出てくる話、めっちゃ記憶にある。多分死ぬ直前に見てたんじゃないだろーか。
王子の腕にぶら下がって婚約破棄させ、ざまぁされるところから始まる話。
そのざまぁってのがね、聖女としての力を封印されて、田舎で畑を耕すのを命じられるの。スローライフってやつ。
田舎で純朴な村人と交流したり、謎の小動物と共同生活したりするうちに、自分の行いを反省して成長し、かつて自分がいいように操られてたことも自覚して、聖女の力がだんだん戻ってきたところに王宮からの迎えが──でいろいろあって──悪役を倒して聖女として返り咲くんだけど。
農作業。
……前世クーラー漬けで暮らしてて今生貴族令嬢だったあたしに、畑作業とか無理くない!? 虫とか出るんでしょあれ!?
いや無理無理無理無理。無理寄りの無理。
神様。お願いだから神様。
「神殿に引きこもらせて……」
ほんとに、ほんっとーに頼む。王子とかあとなんか他の人には、申し訳ないんだけど、会いたくない!
★
「聖女、出てこないんですけど」
「よっしゃ……!?」
「やったか……!? あっこれフラグになるやつだいかん」
「そっちルートか……! 頑張ってくれヴィオレッタ様……!!」
★
彼らの時代は平穏に過ぎ、のちの歴史家からはPax Willelmi──ウィリアム王の平和、と呼ばれた。