第二卷 第一章 帰還-9
宴席が幕を下ろし、神明たちが彼らと別れを告げた後のことだった。
ようやく少しは一息つけて、どこか普通の旅館で休めるものだと、私はそう思っていた。
ところがその矢先、稲天寺が不意に告げたのは、今夜の宿泊先についてだった。
――それは、六島之國国内でも最上級と名高い旅店、「天豐旅店」だという。
私は思わず護送を担当する稲天寺へと視線を向け、声を潜めて問いかけた。
「……さすがに、少し過剰ではないだろうか。私たちは、ただの初めてこの地を訪れた冒険者にすぎない。正直なところ、六島之國のために何か貢献したと胸を張れるほどのこともしていない。……この待遇は、少し身に余る気がするのだが。」
稲天寺は話を聞き終えても、相変わらず彼一貫の真面目で落ち着いた表情を崩さず、淡々(たんたん)とこう述べた。
「布雷克殿、ご謙遜なさっています。お二人は、いずれも混沌級の冒険者です。この程度のもてなしは、決して高規格とは申せません。――それに、情報記録によれば、お二人は混沌級の中でも名列前茅に連なる存在ですから。」
私は一瞬言葉を失い、眉をわずかに跳ね上げた。
「……それは、いったいどこから聞いた話なんだ?」
私たちは自ら、行動においては極力目立たぬよう心がけ、名を残すことすら避けてきたつもりだった。
しかし、ひとたび混沌級へと到達したその瞬間から、まるで形のない光環をまとったかのように、どこへ行こうとも、見えぬ無数の視線が、私たちの一挙手一投足を記録しているのだと、否応なく思い知らされることになった。
私が思索に沈み込んでいた、その最中のことだった。
緹雅がそっと身を寄せてきて、いかにも気楽な口調で言った。
「凝里、そんなに深く考えなくてもいいじゃない~。冒険者なんて、履歴は派手であればあるほど価値があるものだよ。そうすれば、もっと良い任務も受けられるし、離ればなれになった仲間を探すのにも有利になるでしょ?」
彼女の言葉には、確かに一理あった。
過度な注目を浴びることには慣れていないものの、それによって資源や情報を引き出せるのであれば、それもまた一種の助力と言えるだろう。
そして、その話題に上った「天豐旅店」は、まさに名は体を表していた。
旅店は羽生島のちょうど中央に位置している。
そこは四方を水に囲まれ、複数の商道が交差する、きわめて戦略的な要地だった。
その外観は、私が当初想像していたような絢爛な建築ではない。
むしろ、古い寺院の蔵経閣を思わせる佇まいだった。
高くそびえる木造の塔楼、深紅の反り返った軒、そして静かに立ち並ぶ石灯籠。
夕陽の斜光を受けて、それらが地面に長い影を落とす様は、まるで時の流れそのものが、そこに滞留しているかのように感じられた。
外界では戦火が絶えぬ混乱が続いているというのに、羽生島から受ける印象は、驚くほどの安定と静寂だった。
この島は大結界の直接的な庇護を受けているわけではない。
しかし、多国の商路が交わる場所に位置しているがゆえに、周囲には商人、学者、冒険者が絶え間なく行き交っている。
その結果、それ自体が幾重にも重なった自律的な防衛網を形作っているのだった。
「ここでは……魔物ですら、市場価値の高い場所を避けることを覚えているのかもしれないな……」
私は思わず、心中で苦笑した。
こうした特殊な構造ゆえに、羽生島の住民は、すでに各国から訪れる強者たちと共存することに慣れているのだという。
そのため、魔物が自ら進んで侵入してくることも、ほとんどない。
魔法による防御結界に頼るのではなく、
人と人との繋がり、商業と情報によって築かれた、もう一つの「現実の防護」。
羽生島は、まさにその象徴のような場所だった。
私たちは、天豐旅店の最上層に位置する「觀鳴樓」へと案内された。
そこは、この旅店の中でもさらに選ばれた、いわば“旅店の中の旅店”とも言うべき場所であり、神明自らが名指しした特別な賓客のみを迎え入れるのだという。
回廊には、精緻な水墨の浮彫が施された絨毯が敷き詰められ、
壁には銀墨で描かれた六島の地図や、古の詩文が静かに掛けられている。
各部屋の扉はすべて龍柏木で彫刻されており、ほのかに漂う古典的な香りが、この階層全体を包み込んでいた。
空間は、驚くほどの静寂に満ちている。
足音ですら、この建築そのものに優しく受け止められているかのようだった。
重苦しさはない。
だが、その静けさの奥には、確かに気品と尊貴さが満ちていた。
私たちには、それぞれ独立した和式の客室が用意されていた。
室内は、思わず言葉を失うほどに広く、
内には専用の温泉浴池が備えられ、さらに月池を望む私的な大露台まで設けられている。
枕には龍雲織の綿が詰められ、
寝台は表面の硬さを好みに応じて調整できる仕様となっていた。
壁には、希少な魔獣の羽筆で記された詩巻が掛けられており、
その一幅一幅が、すべて正真正銘の真作であるという。
私は部屋の扉を開けながら、思わず小声で呟いた。
「こんなに高級な場所……本当に、任務で来ているわけじゃないんだよな?」
――だが、それ以上に私を言葉に詰まらせたのは、緹雅の行動速度だった。
私がようやく荷物を部屋の中へ押し入れたばかりで、
まだ、ほのかに香草の香りを放つ寝台をきちんと眺める暇すらなかったというのに、
緹雅は妲己と他の面々(めんめん)を、文字通り一蹴して隣の部屋へ押し込み、
そのまま自分の行李箱を引きながら、まるで自宅に戻ってきたかのように、何の躊躇もなく私の部屋へと入ってきたのだ。
「……え?」
私が声の調子を整えるより早く、
彼女は行李箱を壁際に寄せ、無駄のない素早い動作で置き終える。
その様子は、まるで最初から、この展開が彼女の中で手順として組み込まれていたかのようだった。
私が何か言おうとした、その矢先。
彼女はすでに自然な所作で箱を開け、洗面用品や着替えの衣類を手際よく整え始めていた。
その合間に、のんびりとした口調で、こう言い放つ。
「私、隣の女の子たちが集まって、がやがや騒ぐ部屋で寝るのは遠慮したいんだよね。」
私はその場に立ち尽くしたまま、室内に増えている二つ分の行李と、
明らかに香りの系統が異なる香水と護膚品の一式を目にし、
思わず胸中に、言葉にしがたい微妙な危機感を覚えた。
「緹雅……忘れないでくれ。私たちは遊びに来たわけじゃない。」
そう告げても、彼女は答えなかった。
ただ、寝台の縁に腰を下ろし、片脚を組み、両手を重ねて膝の上に置く。
その視線はゆっくりと窓外へと移り、表情には、容易には掴み取れない余韻のようなものが滲んでいた。
「凝里、あなた、ちょっと緊張しすぎだよ。」
彼女の声は、一筋の風のように軽く、
そこには微かな笑みと、どこか甘やかすような響きが含まれている。
「せっかく、こんな場所に来たんだもの。利用しないなんて、もったいないでしょ。
部屋もこんなに広いし、二人で寝ても窮屈じゃないよ。……隣で五人が一緒に寝たって、きっと余裕があるくらい。」
私は思わず喉を詰まらせ、手にしていた水杯を危うくこぼしかけた。
彼女の口調は、あまりにも含みを持ち、
聞き流すことを許さない、不思議な引力を帯びていた。
私が話題を本題へ引き戻そうとした、その瞬間だった。
彼女はすでに立ち上がり、窓辺へと歩み寄っていた。
緹雅は静かにカーテンを引き開け、
夕陽の光を室内いっぱいに招き入れる。
それと同時に、外からの風もそっと吹き込み、
外界に広がる沈静した水池と、香木の熏香が混じり合った匂いを運んできた。
その一瞬で、部屋の空気は明らかに変わった。
そこはもはや、任務のための拠点ではなく、
まるで何か別の――
冒険の旅路には本来存在するはずのない、
柔らかく、静かで、心を解いてしまいそうな空間へと、姿を変えてしまったかのようだった。
彼女は再び寝台の傍らへ戻り、元の位置に腰を下ろした。
今度は何も語らず、ただ首を少し傾け、ゆっくりと私を見つめてくる。
「もう少し、こっちに来なよ。」
そう言いながら、彼女は自分の隣を軽く叩いた。
私は一瞬ためらい、それから彼女のもとへ歩み寄り、横に座った。
距離は驚くほど近い。
近すぎて、彼女が息を吸い、吐くたびに生まれる、かすかな気音さえ聞こえてしまいそうだった。
彼女は私を見なかった。
ただ視線を落とし、指先で寝具の上に走る皺を、ゆっくりとなぞるように描いていた。
しかし次の瞬間、彼女は不意にこちらへと顔を向けた。
その動作はとても静かで、押しつけがましさは微塵もなく、
ただ言葉にできないほどの温もりだけが、そこにあった。
彼女は手を伸ばし、私の頬の側にそっと触れる。
指の腹が下顎をなぞり、まるで何かを確かめるかのようだった。
私は、動かなかった。
その一瞬で、互いの間にあった距離は、あまりにも自然に消え去った。
私たちは、そうして再び唇を重ねる。
やわらかく、ゆっくりと、そして感情を何一つ隠すことのない口付けだった。
私は目を閉じ、彼女の触れ合いに応えた。
その瞬間、世界は静止したかのように感じられた。
窓外では、夕陽の光が変わらず静かに差し込み、
風音はやさしく、空の色は落ち着きを保っている。
何ひとつ変わっていないはずなのに、
それでも――確かに、何かが変わってしまったのだと、そう思わずにはいられなかった。
黃泉之島の火山の山頂では、硫黄の匂いが濃く立ち込め、
灼熱の裂け目から噴き上がる蒸気が唸り声を上げている。
焼けつくような風は空気と共に舞い、辺り一帯を包み込んでいた。
二つの人影が、断崖の縁に立っている。
紅衣の者は崖際に腰を下ろし、
黒衣の者はその傍らに立つ。
強い風勢に押され、二人の身体はわずかに揺れながらも、
その姿は彫像のように揺るぎなかった。
「紅……どうやら、私たちは失敗したようだ。」
黒が低い声で告げる。
その表情には重い緊張が浮かび、視線は妖幻島の方角へと固く注がれていた。
「……本当に、申し訳ありません。」
紅は俯いて答え、その声にもかすかな落胆が滲んでいる。
「だが、全てをお前の責にするつもりはない。」
黒の口調には、非難の色はなかった。
「主人は、私たちに明確な制限を課していた。
領域魔法の使用は禁止――
あの条件下では、手違いが生じるのも、避けられぬことだったのだ。」
紅はわずかに眉を寄せ、
なおも煙を上げ続ける遠方の岩谷を見つめた。
「でも……私には分からない。
七葉真は、確かに結界を張っていたはずだ。
それなのに、あの者はどうやって献祭魔法を発動させたというの?
……まったく、連中は本当に、裏で薄汚い真似をするのが好きね。」
黒は小さく鼻を鳴らし、冷たい光を宿した眼差しで応えた。
「それだけじゃない。逆召喚魔法まで使って逃走した。
正直に言えば、七葉真の魔法なら、
あれを完全に封じ込められると思っていたんだが……
結果、私たちの残業を増やしただけだったな。」
紅は小さく苦笑を漏らす。
「もし、私たちが一歩早く動いていれば、
この混乱は避けられたのかもしれない……。
でも、今となっては、もう心配する必要もないわね。」
「……ああ。」
黒は短く応え、視線を前方へと向けた。
「なにしろ――
二人の王は、すでに帰還したのだから。」
「ここで起きた一切の出来事を、詳細に記録しておけ。」
黒はそう言い残し、ゆっくりと身を翻した。
吹き抜ける風が、彼女の衣袍の端をひらりと巻き上げる。
歩み出して立ち去ろうとした、その時。
黒は不意に足を止め、肩越しに背後の紅へと視線を向けた。
「……そうだ、紅。
最近、妳がこっそり何をしているか――私は、ちゃんと分かっている。」
紅は明らかに息を呑み、はっと目を見開いた。
黒を見返したその表情には、驚愕が一瞬に浮かび、
無意識のうちに、足が半歩だけ後ろへ下がっていた。
だが、黒はそれ以上追及することはなかった。
ただ、ふっと小さく笑い、瞳の奥に一瞬だけ、戯めいた光を走らせる。
「そんなに身構えるな。妳を告発するつもりなんて、最初からない。」
その声は警告というより、むしろ淡々(たんたん)とした冗談めいた響きを帯びていた。
「主人だって、おそらく最初から気づいている。
ただ……妳のその小さな思惑は、あまり露骨に遊ばせないほうがいい、というだけだ。」
紅は一度ぱちりと瞬きをし、
それから、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
その笑顔には、安堵と同時に、どこか悪戯っぽい色が混じっている。
「やだなあ~。
もう、そんな前から気づいてたの?
妳が何も言わないから、けっこう上手く隠せてると思ってたのに。」
黒は微かに口元を緩めると、そのまま背を向けて歩き出した。
足取りは終始変わらず、静かで、落ち着いている。
そして、風に溶けるように、ひとつの言葉だけが後に残った。
「主人に好かれたい気持ちなんて――
みんな、同じさ。」
(黒暗祭壇)
黒暗祭壇の真下には、一道の祕門が密かに隠されていた。
三位の魔神が三角形を成す三つの方位に分かれて座り、それぞれが一角を鎮守している。
中央には、禍々(まがまが)しい光を放つ魔法陣が刻印されていた。
彼らの姿は実体ではなく、
音波と映像が交錯して形作られた、擬態の躯体にすぎない。
三人のうち、
一人は鎧を纏った男性の戦士、
一人は魔杖を携えた女の魔法使い、
そしてもう一人は祭袍を身に着け、冷厳な眼差しを宿す女の大祭司だった。
鎧の戦士が低い声で問う。
「八歧大蛇……逃走したというのか?」
女魔法使いは眉をひそめ、続けて口を開く。
「また、あの二人の仕業なの?」
大祭司はゆっくりと首を横に振った。
「否。情報によれば、当時、彼らは依然として海上にあり、行動にも齟齬は見られない。」
「では……いったい誰が手を下したのだ?」
鎧甲の戦士は、抑えきれぬ怒気を含んだ口調で問い質した。
女魔法使いは、声を落として答える。
「八歧大蛇に恐怖を与えられる存在となると……おそらく――王しかいないのでは?」
「だが、六島之國の王は、すでに何年も前に姿を消しているはずだ。」
鎧甲の戦士は、低く鼻を鳴らした。
「だからこそ……理解しがたいのです。」
大祭司は低声で応え、
黒霧の中に漂う気配が、わずかに揺らいだ。
短い沈黙の後、
大祭司は再び口を開く。
「六島之國を、この流れのまま滅ぼせなかったのは……実に惜しいことでした。」
「ならば――」
鎧甲の戦士は、手にした物を掲げながら言い放つ。
「八歧大蛇が再び降臨した暁には、この“秘密兵器”を投入しよう。」
「ええ……」
女魔法使いは、ゆっくりとうなずいた。
「その力は、間違いなく必要になります。」
大祭司は静かに手を上げる。
その指先から立ち上る黒霧は、やがて渦を巻くような符紋へと変わっていった。
低く、耳に絡みつくような声が響く。
「それまでの間……すでに降臨に成功している、第十二魔神を先に動かしましょう。どうせ――」
彼女の声音は、次第に冷たい嘲笑へと変わり、
祭壇全体に反響していく。
「――そろそろ、思い知らせてやる時でしょう。
真の災厄が……まもなく、始まるということを。」
この章は、ここまでで一区切りとなります。
皆さん、読み終えてみて、どのような感想を持たれたでしょうか?
私個人としては、現時点での物語の進行が、やや早いように感じています。
この物語には、さまざまな人物が登場するため、すべての登場人物を明確に描写することは、正直なところ簡単ではありません。
ときどき、何か大事な要素を書き落としていないか、不安になることもあります。
特に、後半を書き進めてから、前半に説明が足りていない部分に気づき、そこを合理的に修正するために、多くの時間を使うこともありました。
最近は、仕事の面で悩み事が多く、その影響もあって、後続の物語の展開について、なかなか良い発想が浮かばず、執筆の進捗も思うように進んでいません。
それでも、私は書くこと自体が好きです。
ですから、これからも自分がやりたいと思っていることを、できる限りやり遂げたいと考えていますし、読者の皆さんからの応援もいただければ嬉しいです。
次の二週間は、旧正月のため更新をお休みします。
その後、二月二十八日に第二章を公開する予定ですので、どうぞご期待ください。
また、感想や意見などがありましたら、ぜひ教えていただけると幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




