此時、侍者が再び入って来た。
手には細頸水晶杯を托し、その中には琥珀のような色沢を帯びた、温潤な液体が注がれている。
それは主餐に先立つ前酒であり、高級な宴席において、極めて儀式感の強い、開幕を告げる合図であった。
これがこの店における食事の習慣であるらしく、聞くところによれば、主厨が黄昏之國から学び取ったものだという。
その頃、主餐がちょうど運ばれて来て、味覚と視覚が交錯する饗宴が、ここに正式に幕を開けた。
連続する三道の料理に、三道の美酒を組み合わせるこの精緻な構成は、自然と期待を誘い、心までもが、それに呼応するかのように躍り始めた。
第一道の料理は、《春日滿堂》と名付けられている。
この一皿は、最初から視覚に強い衝撃をもたらした。
料理は、磁胎が極めて薄い青花瓷盤に盛り付けられている。磁面には六島を象徴する百花文様が描かれ、料理の本体は、まるでその中に身を置く春日の主役のようであった。
盤面の中央には、薄く切り揃えられた鴨胸肉が、花弁のように斜めに重ねられている。鴨皮は微かに巻き上がり、金褐色と栗紅色が交錯する層を描き出していた。表面には、炉火で炙られた後に生じた、ほとんど透明に近い酥皮の薄膜が残り、灯光を受けて、朝霧の中で露珠が瞬くかのような光点を反射していた。
鴨肉の周囲には、精緻に配された羅心花瓣が散りばめられている。この紫花は、高原の春日にのみ短い期間で咲くもので、その香りは柔らかく、しかも独特であった。雨後の草葉と檸檬薄荷が溶け合ったような気配を帯び、決して主張し過ぎることはないが、自然と意識を引き寄せずにはいられない。
その一縷の幽香が、立ち上る蒸気とともに広がるとき、料理全体は、まるで軽やかな魂を纏ったかのように、山間の暁霧が解け始め、桃李が蕾を含む春暁の景へと、静かに踏み入っていくようであった。
而その主役となるのは、神話之國から来た荷邊鴨である。
もともと極めて希少な存在であり、この鴨類は神話之國の「幻の內海」にのみ棲息すると伝えられている。
月光の底層に育つ泉藻を食とし、その肉質は絹のように細やかで、脂の香りは濃厚でありながら、決して重たさを残さない。
主厨はこの素材のために、真空魔法を用いて鴨胸を丸ごと封存し、恒定された魔法場において、弱火で九十分間、湯煮を施した。
それにより、鴨脂と筋理の間にある天然の汁水を保つと同時に、肉の内層は引き締まり、豊かな弾力を帯びるに至る。
この魔法技術は、黄昏之國の御宴学派に由来するものであり、火力の安定と、鍋壁におけるエネルギー流転を極度に重んじる、高階の厨藝である。
湯煮が終わった後、料理は最後の工程、「霊火炙焼」を経る。
火山木炭で点された炎を、肉面に五度、往復させるのみ。
脂が熱に反応した鴨皮は、極めて微細な気孔を弾かせ、酥脆でありながら弾性を備えた焦化構造を形作る。
口に運べば、先に脆く、後に潤い、まるで風が通り抜ける初融の氷層のように、層が重なって砕け、重なって滑らかに溶け、忘れ難い余韻を残す。
醬汁は、まさに画竜点睛の一筆のような存在である。
弱火で煮詰めた果木蜜梅、白葡萄酢、薑花蜜から成る特製の果木甘醬は、粘度が極めて低く、雨糸のように静かに落ち、鴨肉の間を自然に流れていく。
その味は詩のようであった。
まず蜜の甘みが味蕾を導き、初春の最初の一筋の陽光がそっと触れるかのように広がる。
続いて白酢の酸香が巧みに脂肪の重さを断ち切り、
そして薑花の余韻が、草地にひそやかに咲く野花のように、終幕にそっと顔を上げるのであった。
このような主菜に、共に舞うに足る佳醸が伴わなければ、それは疑いなく惜しむべき浪費であろう。
そのため主厨が用意したのは、葦原島よりもたらされた限定の果酒――「浮春酩」であった。
この酒は、春初に熟した黄桃と百香果を圧搾し、低温の霊気窖にて三か月、ゆるやかに発酵させて造られる。
発酵の過程では果実を完全には搾り切らず、果肉と花蜜を一部残すことで、果酒ならではの清新さを保ちつつ、花香甘酒に近い滑らかさと奥行きを備えさせている。
酒液は晶亮な淡金色を呈し、長脚杯に注げば、杯壁に沿ってゆるやかに流れ、まるで陽光が山巒と水澤を抜けた後に残す余光のようであった。
口に含んだ瞬間、まず果香と酒精が雨露のごとく舌面に絡みつき、細やかで軽やかな印象を残す。
次いで、鴨肉の煙火のように濃烈な香りが喉奥から湧き上がり、酒体はそれを受けて勢いづき、重厚な脂を羽毛で払うかのように拭い去り、舌先に清明を呼び戻す。
それは、柔らかさから濃さへ、そして再び軽さへと帰る、精緻に設計された味覚の橋段であり、春雷が初めて轟いた後、彩霞が静かに空へ溶けていくさまを思わせた。
さらに驚くべきことに、この酒は羅心花の香気とも共鳴する。
酒中に残る柑橘酯類の成分が、口腔に残る余温の中でゆるやかに放たれ、花香と重なり合うことで、かつてない幽芳を生み出した。
その瞬間、味覚は単なる肉と醬の構図を超え、山野に百花が競い咲き、晨霧と晴光が交会する、一幅の画巻へと大きく展いていったのであった。
春光の柔らかさが余韻として残るその後、第二道の料理は、まったく異なる風貌をもって姿を現した。
第二道の名は、《夏日時光》。
その名のとおり、この一皿が描き出すのは、灼けつく陽光の下、大地と火焔が共に舞う、熱力と野性そのものであった。
銀製の長盤の上には、赤と黒、二道の火烤肉排が並び立ち、夕陽に照らされた双影のごとく、質朴な佇まいの内に、尽きることのない張力を秘めている。
盤面の中央、左側に配されているのは、炭火で直に焼き上げられた牛小排である。
肉身は厚く、切面には恰も程良い「五分熟」の紅潤さが宿り、内裡は紅宝石のようにふくよかで、多汁に満ちている。
外層には、ほのかな焦香を帯びた炙焼の網紋が刻まれ、深褐色の中に炭灰の痕跡が交じる。
よく目を凝らせば、切り口に沿って肉汁がゆっくりと滲み出し、まるで夏日の驟雨が過ぎた後、岩縫から湧き落ちる泉水のように、静かな生命感を湛えていた。
右側の羊小排は、細く長く整えられ、わずかに弧を描く骨架は、まるで一柄の羽矛のようであった。
肉身は特製の香料で事前に漬け込まれた後、高熱の直火で炙られ、表層には焦香の結晶が形成される。
焼紋は深く刻まれ、縁は香ばしく焦げ、そこには抑え難い天然の野性が宿っていた。
近づくと、濃厚な肉香の中に、ほのかな辛香料の気配が混じり合い、正面から押し寄せてくる。
それは炎島香豆と火山岩塩が融け合った香りであり、高熱の中で一気に弾け、最終的には血脈を震わせる、強烈な第一嗅覚印象として沈殿した。
この料理に用いられているのは、黄泉島に特有とされる霊木炭である。
この木材は、火焔魔法が豊かな森にのみ生育すると言われ、燃焼後は長時間、均一な高熱を保ち続ける。
その熱は肉中の水分と油脂を過不足なく圧縮し、最も凝縮された肉魂だけを残すのである。
主厨の火候を操る妙技により、牛肉は咬感と柔潤さを失わず、
一方の羊肉は、香ばしく酥して脆く、しかも内側は嫩らかで、微塵も腥膻を残さなかった。
ソースに関して、主厨は肉そのものの個性を引き立てるため、二通りの異なる仕立てを精選している。
いずれも味を覆い隠すのではなく、素材の輪郭を明確にすることを目的としたものであった。牛排に添えられるのは、配合に極めて細やかな配慮が施された黄芥子ソースである。
芥末は黄昏之國北部の沙丘区に由来し、乾燥させた辛香籽を碾き砕き、微量の雪梨と焦糖を加えて調製されたものだ。
その味は辛辣の中に甘みを秘め、まるで夏日の午後に訪れる驟雨のように、初めは鮮烈な驚きをもたらし、後味には不思議な余韻を残す。
そのソースが牛肉の斜切面に刷かれると、口に含んだ瞬間、辛味が真っ先に舌を点火し、ほどなく肉汁が滲み出てくる。
両者は互いに絡み合い、重厚でありながら過度に逸脱しない、抑制の効いた張力を生み出し、思わず幾度も回想したくなる余情を残した。
羊排には、香気に富んだ羊排用のソースが選ばれている。
それは発酵させた赤ワインと燻製した藍莓をともに煨煮し、丁寧に凝縮させたもので、その色調は深紫にして、ほとんど黒墨に近い。
このソースは肉面を包み込むようにまとい、絨毯のごとく密着しながらも、決して流れ落ちることはない。
その風味は、濃厚な果実酢と葡萄皮を煎じ詰めたかのようで、酸香が脂肪を鋭く貫き、羊肉に潜む内斂した甘味と酥香を、過不足なく引き出す。
後には、歯頬に静かに残る芳香の余韻だけが、長く留まっていた。
そして、この料理における魂の一筆となるのが、肉と共に舞う一杯の美酒である――
黄昏之國西麓丘陵よりもたらされた名酒、《落陽深醇》だ。
このワインは、火紅の果皮を持つ魔力葡萄から醸され、六年にも及ぶ魔法静釀を経て完成したものだ。
酒体はきわめて濃重な宝石紅を呈し、黒曜杯に注がれると、まるで烈焔が夜幕の奥に潜むかのように、深く、しかも燦爛として輝いた。
酒香には、黒李、可可、果皮、そして微かな煙草の余韻が幾層にも重なっている。
初めに嗅いだ印象は力強く、やや覇道にすら感じられるが、ひとたび肉と交会すると――とりわけ芥子ソースを纏った牛排と出会った瞬間――雷鳴が衝突した後に生まれる余波のような共鳴を引き起こす。
酒精と肉汁は同時に口腔で膨張し、濃烈さと果香が渦を巻く風暴となって広がっていく。
やがて羊排へと向き直すと、酒体に宿る微酸は柔らかな導線へと姿を変え、羊肉の奥底に潜む鉱物的な甘味と脂香を、静かに、しかし確実に引き出す。
こうして料理全体の風味は、もう一段高い次元へと引き上げられていったのであった。
第三道の主菜の名は、低い囁きの中に差し出される一通の招待状のよう――《秋海秘境》である。
料理がまだ卓に届かぬうちから、遠くの銀蓋の下より、潮汐が動き始める瞬間にも似た気配が、静かに滲み出してくる。
これは単なる一皿ではない。
海を楽章とし、蟹を楽器とする、一場の味覚の旅である。
三種、まったく異なる調理法が重なり合い、秋日と海域、そして技藝についての三幕から成る物語を織り上げていく。
それは、声を潜めて語られる、海国の童話のようであった。
第一幕は、最も純粋な幕開け――塩煮高脚蟹である。
六島之國東岸の海溝に由来する蒼赤の高脚蟹は、毎年秋も深まる頃、ひととき海面に姿を現す。
その甲殻には天然の紅斑と青紋が宿り、秋の海の精とも呼ばれる存在である。
主厨は最も鮮度の高い活蟹を選び、海霊の魔法水を用いて、過不足のない温度まで静かに加熱する。
沸点に達する前で十七分間、恒温を保ち、仕上げに、潮殿湿原よりもたらされた黒晶海塩をごく微量だけ振りかける――それだけであった。
蟹は小さな塊に切り分けられ、殻色は鮮紅から暗金へと移ろっている。
それぞれの蟹足の節には、淡かな海霧を思わせる塩香が、静かに残っていた。
その一片を箸で取り、口へと運べば、緊緻な蟹肉が歯の間で細くほどけ、驚くほど抵抗なく分かれていくのが感じられる。
過度な加熱はなく、花巧な調味もない。
そこにあるのは、ただ海底の最深部から湧き上がる甘味が、潮水のように押し寄せてくる感覚だけであった。
それは、ほとんど原始的とさえ言える味覚の本能――
清く、純粋で、雑念の一切を含まない、ただひたすらな「鮮」そのものなのである。
続いて現れるのは、第二幕――
炙烤蟹足 檸檬と柚香のソース添えである。
蟹身は高温の炭焔の上に置かれ、直火で焼き上げられる。
外殻はわずかに焦黒を帯びる一方、内側の蟹肉は、事前に塗られた薄層の柑橘果油によって、いっそう柔らかく、多汁に仕上がっている。
供される頃には、殻は適度に叩き割られ、食べやすく整えられていた。
表面には金黄の檸檬皮末がわずかに散らされ、脇には軽やかな琥珀色の柚子ソースが添えられている。
このソースは、低温で丹念に煮詰められた工藝品のような存在である。
日晒しの柚子と清酒、そして微量の甜酒を調和させて仕立てられ、口に含めば、酸味の中にほのかな苦味を帯び、やがて淡い果香が静かに広がっていく。
蟹肉を口に運ぶと、まず炭火の焦香と蟹肉本来の塩味が絡み合い、
ほどなくしてソースが寄り添うように広がり、夏末の岩縫に細雨が染み入るかのごとく、肉の旨味を一層、また一層と解き放っていく。
その滋味は、単なる満足に留まらない。
陽光に口づけられ、海風の中でそっと瞼を閉じる瞬間のような、
覚醒と夢幻が同時に訪れる、静かな幸福感を残すのであった。
そして迎える最後の高揚――第三幕は、
蟹黄蟹粥、蟹殻に盛られて供される。
それは、視覚と香気が同時に心を揺さぶる一品であった。
器として用いられるのは蟹殻そのもの。その内に、金黄に輝き、濃やかな香りを湛えた蟹黄粥が満たされている。
粥の基となるのは、蟹汁をたっぷりと吸い込んだ海米飯。
これを丹念に炊き上げ、青葱と洋葱、ごく少量の白胡椒、さらに蛋液を溶かし合わせる。
仕上げに濃厚な蟹黄を添えることで、椀いっぱいの粥は、まるで熔金が静かに揺らめくかのような佇まいを見せる。
表面には、かすかに泡立つ油光が浮かび、
卓に置かれた瞬間、その香りは遮るものなく立ち上る。
濃く、しかし重すぎることはなく、ほのかな甘味と洋葱特有の余香が折り重なり、
眠りについていた味蕾の一つひとつを、確かに呼び覚ますに足る力を備えていた。
匙を一掬いして口へ運ぶと、舌先はまず粥の柔滑さに触れ、
続いて蟹黄の油脂、卵の香り、そしてほのかな辛味を帯びた洋葱が一斉に弾ける。
熱と香気は潮浪のごとく五感を包み込み、抗い難い引力となって、思わず一口、また一口と重ねてしまう。
それはまるで、舌全体で海面に反射する金光を掬い取るかのようで、深く沈溺し、我を忘れる感覚に近かった。
しかし、真に人を息づかせるのは、これらの料理と対をなす一杯の酒――
《天方鳴酒》である。
それは銀羽琉璃杯に注がれた半透明の酒液で、色調は露のようでもあり、煙のようでもある。
杯縁には、かすかな蛍光藍が揺らめいていた。
この酒の配方は主厨自らが創製したものとされ、醸造の工程は、いまだ一切外部に明かされていないという。
ある者は、神話之國の月海之水に銀花を混ぜて醸した酒だと語り、
またある者は、雲閣の上にある天櫻酒坊から生まれたものだと固く信じている。
真偽は定かではない。
だが、どのような伝聞があろうとも、ただ一つ確かなことがある――
それは、この酒が確かに魂を宿した一杯である、という事実であった。
酒液が口に触れた瞬間、その味は言葉では捉え難いものとなる。
初めは、ほとんど無味に近い。だが、数秒を経たのち、幽かな鳴動が胸奥を貫くように立ち上がり、口中で次第に薄れかけていた蟹の旨味を、再び引き寄せ、昇華させ、鮮明に呼び覚ます。
それは蟹の風味を覆い隠すことなく、むしろ見えない一本の琴弓のように、肉と味のあいだを静かに擦り抜けていく。
その瞬間、蟹はもはや単なる「味覚」ではなくなる。
あたかも一曲の楽章として奏でられているかのように、
一口ごとが旋律の一音節となり、
そして酒は、それらすべての旋律を結び上げ、全体を貫く主旋律となる。
それは、詩へと昇華された味覚体験であり、
二度と再現することのできない、一瞬の出来事であった。
この饗宴は、疑いなく、極めて贅を尽くした体験であった。
供される一皿一皿は、まるで芸術品のように姿を現し、
その一口ごとに、感覚の境界が静かに揺り動かされていく。
それは単なる視覚と味覚の饗宴にとどまらず、
季節と記憶を横断する、一つの旅路にも似ていた。
春の清雅、夏の炙熱、そして秋の海が湛える深く静かな気配へ――
その一瞬一瞬が確かな意味を宿し、
その一皿一皿が、忘れ難い余韻を残していった。
この店が名声を遠くまで轟かせ、
多くの人々(ひとびと)が競って訪れる伝説の地となったのも、決して不思議ではない。
もし、この体験を一語で言い表すとすれば――
「完美」という二字でさえ、
なお、その真の重みには届かないように思われた。
しかし、そのような陶酔の只中にあっても、私はやはり、わずかな懸念を抑えきれずにいた。
というのも、この宴席では多種多様な美酒が次々(つぎつぎ)と供されており、緹雅は決して酒量が強いほうではないからだ。
私はそっと首を巡らせ、彼女がすでに微かな酔いを覚えてはいないかと確かめようとした。
だが、そこで目に映ったのは、思いがけない光景だった――
緹雅の目尻に、まだ拭われぬままの、一滴の涙光がきらりと瞬いていたのである。
それは酔意による朦朧ではなかった。
紛れもなく、胸の奥から湧き上がった、真実の感動だった。
彼女の眼差しは柔らかく、そして深く集中しており、
まるで先ほど味わった料理の余韻の中に、なお身を委ねているかのようだった。
この饗宴は、ただ身体を満たしただけではない。
緹雅の心の底にひそむ、繊細で柔らかな一角にまで、静かに触れていたのである。
そのような技術と表現力を前にして、私もまた、心から服さざるを得なかった。
食材への理解、魔法の運用、そして全体の節奏に至るまで――
この名店の主厨は、私には到底及び得ない高みを示していた。
それは畏敬を抱かせる境地であり、
人が自ら進んで臣服したくなる、真の芸術である。
私がその余韻に沈思していると、
緹雅がふいに席を立ち、あまりにも自然な口調で言った。
「お手洗いに行ってくるね。」
私は言葉を返さず、ただ静かに頷いただけだった。
彼女の歩みは、どこか少し早かった。
おそらく、私が彼女の涙を目にしたことに気づき、
その姿を見られたままではいられず、
ひとまずその場を離れ、自分を整えようとしたのだろう。
料理の残香はなお空気に漂い、柔らかな灯光が精緻な器皿と晶亮な酒杯に降り注ぎ、
そこに、淡く滲む光影を幾筋も映し出していた。
宴はすでに終盤へと差しかかり、
人々(ひとびと)もまた、料理の驚嘆から徐々(じょじょ)に現実へと引き戻されていく。
先刻までの高揚は影を潜め、
その場を包むのは、どこか探り合うような、含意を帯びた静謐であった。
私はそっと酒杯を置く。
喉奥には、なお《天方鳴酒》の余韻が残り、
それはまるで、まだ消えきらぬ波光が舌底で静かに揺れているかのようだった。
小さく息を吐き、私は心からの実感を、そのまま言葉に乗せる。
「……これ(……これ)は、本当に、ただ事ではない体験だ。」
天之神は、わずかに頷き、
その声音には、余裕と温和が自然に滲んでいた。
「喜んでもらえて、何よりだ。
この一席は――我々(われわれ)からの、見面礼ということにしておこう!」
私は思わず、かすかに笑みを漏らした。
視線は、なお余温を帯びている目の前の食器をすべり、
胸中には、相反する敬意が静かに立ち上がってくる。
彼らは確かに、老獪で周到な神明だった。
神力による威圧でもなく、
権勢や利得による誘引でもない。
彼らが選んだのは、
「料理」という、最も人心に近い形を通して、
私たちと向き合い、交渉するという手段だった。
認めざるを得ない。
それは、きわめて高明な策である。
そして、私にとって――
それは、実に、見事なまでに効いていた。
安定した仕事と生活を得て以降、私は美食に対する執着を、以前にも増して強く感じるようになった。
おそらく、日々(ひび)があまりにも変化に乏しいからこそ、感覚を呼び覚まし、平坦さを打ち破る一瞬を、強く求めてしまうのだろう。
貯蓄の数字が増えていくのを守り続けるよりも、
自分が確かに「生きている」と感じられる価値を、この身で味わうほうが、よほど意味がある。
もし、私がただ一人で、
何ひとつ背負うものもなく、顧慮すべき存在もなかったのなら、
この瞬間、迷うことなく首を縦に振っていたかもしれない。
理由は単純だ。
この盛宴は、私の最も柔らかい弱点を、正確に射抜いてきたからだ。
だが、私ははっきりと理解している――
この旅路は、私一人のものではない、ということを。
私は顔を上げ、神明たちを見渡した。
「ご厚意あるおもてなしには、心から感謝しています……。
ですが、いくつかの事柄は、私一人で決められるものではありません。
どうか、少しお時間をいただき、検討させてください。」
天之神はその言葉を聞いても、不快な色を見せることはなかった。
むしろ、軽く笑ってこう応えた。
「構わぬ。
そなたたちの立場と、その難しさは理解しておる。
その慎重さこそ、かえって信頼に値する。
協力の話は、後日でも遅くはあるまい。」
私はわずかに息を呑み、意外に思いつつも、胸中に小さな安堵を覚えた。
神明たちは、少なくとも表面上、理を解える存在らしい。
機を見て畳みかけることもなく、
勢いに任せて圧をかけることもせず、
私たちに、きちんとした距離と余地を与えてくれた。
無論、胸の奥では、
自分がすでに何らかの筋書きの内に置かれているのではないか、という感覚も、なお消えきらない。
だが――少なくとも。
その策は高明で、優雅で、
そして不思議と、人の心に反感を抱かせないものであった。
その時、緹雅がゆっくりとお手洗いから戻って来た。
「緹雅、大丈夫?
お手洗い、ずいぶん長かったけど。」
私は、心配そうな表情でそう尋ねた。
「平気よ。ただ少し外で空気を吸っていただけ。」
「それなら、よかった。」
緹雅は席に戻ると、
妲己の腕の中にいる雅妮と、ひそひそと小声で話し始めた。
何を話しているのかは分からない。
主餐が幕を閉じ、酒香がわずかに沈むと、
廳中は静かに数分ほど落ち着きを見せ、
最後の一道の料理が、ひそやかに卓へと運ばれて来た。
小さな白瓷盅の中には、稜角のはっきりとした布丁が一塊、端正に収められている。
その表面は潔く、いかなる紋様も持たず、
頂部には淡白色の氷淇淋が一球添えられ、
さらに深色の糖漿が上から下へとゆるやかに滴り落ち、
やがて暗金色の波痕として凝り固まっていた。
この甜点の名は――《凜冬綻放》。
その名のとおり、
春の花の爛漫なる多彩もなく、
夏日の果実が持つ濃甜もなく、
秋日の収穫に見られる豊盈な香濃とも異なる。
それは冬――
沈静、節制、そして秘めて露わさぬ在り方。
一見すれば平凡な構成の下に、
しかしそこには、味覚と情緒が逆行する、一つの旅が静かに隠されていた。
布丁の本体の色調は乳白に近く、
口に含んだ瞬間、甘味はまったく感じられない。
その代わり、ほのかな焦乳香と、わずかな苦味を帯びた卵香が広がり、
舌触りは滑らかでありながら、決して重たさを残さない。
それは、雪地から歩み出す旅のよう――
冷静で、緩慢で、雪のように静かな感触である。
続いて、頂層を覆うアイスクリームが香気を放ち始める。
やさしい乳香と、ほのかな糖香が溶け合ったその匂いは、
まるで晨光が雪原に差し込むかのように、
先ほどまでの冷峻な口当たりを、徐々(じょじょ)に和らげていく。
甘度は高くないが、布丁の無甜に支えられることで、
かえって際立って明るく感じられ、
それは黎明前の一筋の温光のようであった。
そして、真の高潮は、
氷球から垂れ落ちる黒糖漿によってもたらされる。
これは文火で煉り上げられた濃縮シロップで、
長時間の低温煮詰めを経て、
焦糖と龍眼蜜を思わせる、深層の香気を帯びている。
それが舌先で開くとき、
甘味は一気に跳ね上がり、
夜色の中に突如現れる花火のように、
全体の味覚を「無」から「満」へと押し上げる。
こうして、逆向きに積み重ねられた甘味の層が、静かに完成していくのであった。
まず無味、次にほのかな甘味、そして最後に濃い甘味へ――
それこそが、この甜点に込められた匠心である。
伝統的な甜点のように段階的に積み上げていくのではなく、
極簡から極致へと一気に振り切る。
それは、沈黙から爆発へと至る冬日の楽章のようであり、
先ほどまでの熱烈で張揚し、豊盛を極めた主餐たちと、鮮烈な対比を成している。
だが、この《凜冬綻放》の真の驚きは、
外見を構成するいずれの要素にもあるのではない。
それは、その「静黙の核心」にこそ潜んでおり、
そこにこそ、綻びを待つ決定的な鍵が秘められているのである。
私が湯匙で布丁の中心をそっと割ると、
切れ目の奥に、一抹の透明な光沢が、不意に姿を現した。
それは糖漿ではない。
中に現れたのは、一枚の氷晶蕨餅であった。
琉璃のような姿形を持ち、触感は柔滑。
その内部には、さらに銀白色の液体が、ひそやかに封じられている。
これは、本日の甜点に添えられた餐酒――
月光で醸した酒と、冬花露を調合した秘製の酒品であり、
蕨餅の内に完璧に封存され、
布丁の中心に隠されていたため、
壊さぬ限り、その存在に気づくことは不可能だった。
この仕掛けは、まるで雪に封じられた秘密のようであり、
真に探そうとする者のためだけに、用意された贈り物であった。
酒液が解き放たれた瞬間、
冷流のごとき感触が口中に沁み渡る。
だが、それはすぐに、どこか親しみのある暖流へと姿を変え、
清酒の淡雅さ、冬梅の花香、
そして蜜橙皮を思わせる、ほのかな清苦が携えられ、
ゆるやかに布丁と氷淇淋の中へと溶け込んでいく。
三者が融合して生まれるその味は、
もはや単なる甜点でも、単なる酒精でもない。
それは、まったく新しい形の――
「液態記憶」と呼ぶべき存在であった。
その味に、私は思わず、わずかに息を呑んだ。
なぜかは分からない。だが、言葉にし難い既視感にも似た、奇妙な親しさが胸に広がった。
それは味覚の記憶から立ち上がる感覚であり、どこか心に触れる共鳴のようでもあった。
まるで、この一杯の酒が、私の記憶を手掛かりに、誰かが意図的に調製したかのように――
それは、この甜点に添えられた酒である以上に、私へ向けられた一種の「応答」のように感じられた。
布丁の冷静さ、
氷淇淋の温柔さ、
黒糖の炙烈さ、
そして酒の清透と、胸を打つ感情の揺らぎ――
それらを重ね合わせ、《凜冬綻放》は、
極簡から極盛へ、現実から記憶へと至る、ひとつの幻想的な旅を完結させた。
これは、ただ終幕を彩るための甜点ではない。
それは、主厨が餐桌の上に残した暗語であり、
静かに差し出された、一つの謎であった。
そこに示されていたのは、驚嘆すべき細部への掌握と、完璧に制御された節奏である。
過ちは一切なく、冗贅も存在しない。
それは、あたかも静かに語りかけるかのように告げていた――
凜冬の只中にあっても、花はなお綻び得るのだと。
甜点の余韻がまだ消えきらぬうちに、私は茶杯を持ち上げ、しばし沈思した後、ゆっくりと口を開いた。
「失礼ですが、一つ質問があります。」
天之神は頷き、語気は初めと変わらぬまま、落ち着いて応える。
「どうぞ。」
私は杯を置き、視線を餐桌の上にある、
一見すれば平凡でありながら、匠心に満ちた《凜冬綻放》へと滑らせ、
声調に幾分かの慎重さを帯びさせた。
「お尋ねします……
こちらの主厨に、お会いする機会はありますか。
もし直接お話を伺えるのであれば……
この場で、あなた方の依頼に首を縦に振ることになるかもしれません。」
語調には、わずかに冗談めいた響きが含まれていた。
だが、その言葉に込められた意図が、きわめて明白であったことも、また確かであった。
神明たちは互いに視線を交わし、
すぐに微笑みを浮かべ、ためらうことなく答えた。
「もちろん問題ありません。
稲天寺を通して、あなたのご要望をお伝えしましょう。」
その快い返答を聞き、私の胸中には、思わず小さな得意の算段が浮かんだ。
もし、料理を芸術へと昇華させるあの主厨に直に会い、
さらには技法を直接請うことができるのなら――
それは、またとない好機となるだろう。
それが叶えば、弗瑟勒斯食堂の料理は、さらに一段高みへと引き上げられる。
そして将来、緹雅もまた、何度でも、あの涙を誘う味を口にすることができるはずだ。
私にとっては、まさに一挙に数得――
これ以上ない話だった。
しかし、現実は常に思いどおりに進むとは限らない。
ほどなくして、稲天寺が席間に戻り、眉をわずかに寄せ、表情には少し困惑が浮かんでいた。
「申し訳ありません……主厨は、現在どうやら接客が難しいようです。
近頃は、ほとんど厨房から出ることなく、何か極めて機密性の高い研究や開発に専念しているとのことです。」
その口調は婉曲で、
この断りがあまりに硬く響かぬよう、努めているのが明らかだった。
私はそれを聞き、静かに頷いた。
無理を言うつもりはなく、胸中にわずかな落胆はあったものの、理解はできた。
「それは残念ですね……。
ですが、いつか縁があれば、またお目にかかれることを願っています。」
私は、結果が期待どおりでなかったからといって、執拗に拘る性分ではない。
ましてや、自分の都合だけで他者に無理を強いることなど、するはずもなかった。
ただ、心の奥には、なお一抹の憧憬が残っている――
たとえ一目だけでも、
緹雅を涙させたあの料理の神に、会ってみたいという思いが。
場面が一度やや沈みかけた、その瞬間――
次の刹那、時間之神が、ふと霊光を得たかのように、指先で軽く卓面を叩き、
どこか神秘と期待を帯びた語調で言った。
「それならば――
いずれ、改めて宴を設けるとしよう。
その折には、主厨本人に出てもらうのはどうだ?」
その言葉を耳にした瞬間、私の胸中は思わず大きく揺れた。
あの宴席料理を再び味わえるうえに、
さらに主厨自らが包丁を握る――
それは、まさしくこの世でもっとも遭遇困難な副本の、開幕宣言にほかならなかった。
「今日の予算を差し引いて、
それに後で他の者たちの分も持ち帰るとなると……
うー_q……問題はなさそうか?」
活力之神もまた、時間之神の言葉に乗り、
指を折りながら計算を始めた。
しかし、私が口を開くより早く、
稲天寺は、まるで天雷でも聞いたかのように、
勢いよく背筋を伸ばした。
先ほどまで浮かんでいた笑顔は一瞬で消え、
そこには職責を背負う者らしい、厳粛な表情が現れる。
「時間之神大人、活力之神大人……
そ、それはさすがに出費が過ぎるのでは……。
まさか、前回の『盛夏五百貝宴』で、
どれほどの予算赤字を出したか、お忘れではありませんよね?」
「まあまあ、そんなに緊張しなくていいじゃないか~」
時間之神は手をひらひらと振りながら首を横に振り、
言葉にしがたい、どこか得意げな笑みを浮かべた。
「私には――へそくりがあるんだ。
この程度の出費、問題にはならないさ!」
言葉が落ちた、その直後、場の空気は一変した。
「……なるほど、まだ私房銭をお持ちだったのですね、夜久様。」
稲天寺の声は決して高くはない。
だが、語尾にわずかに含まれた上がりと、言葉選びの変化は、まるで暴風雨前の最初の一滴の雨のようだった。
彼の表情は、まさに「晴れから曇りへ」とでも言うべき変化を見せる。
眉は揃って下がり、口元は固く結ばれ、
その全身は、今にも噴火しそうな火山のようだった。
時間之神は雷に打たれたかのように背筋を伸ばし、
冷汗が一気に噴き出す。
「ま、待って……! いまの発言、非公開だよね!?
だよね!? ちょ、ちょっと待って、みんな知ってると思ってたんだってばあああ——」
「私房銭の話はしないって約束だったでしょ!」
隣にいた活力之神も、まるで連鎖反応に触発されたかのように跳び上がり、
顔は炎よりも赤くなり、
一瞬で、羽毛をむしられた飛鳥のように落ち着きを失った。
「……ああ? 霧生様も、お持ちなんですか?」
稲天寺の視線が鋭く走る。
刃が一閃したかのような眼差しとともに、
その声音には、明らかに「ついに捕まえた」という快感が滲んでいた。
「ち、違う! あれは……その……節慶金!
非常用の予備金だ! そう、年末のために取ってあるやつ!」
活力之神は言葉を重ねるたびに混乱を深め、
もはや自分で自分を追い詰めているかのようだった。
「……神明であっても、家計簿からは逃げられないんだな。」
私は、目の前で繰り広げられるこの神聖な騒動を眺めながら、
心の中で、ひそかにそう呟いていた。
他のことはさておき、
彼らは「金を隠して見つかる」という点において、凡人と何ら変わりはなかった。
その時の稲天寺は、両腕を組み、身体をやや横に向けて立ち、
顔には一切の余分な表情を浮かべず、
ただ「待ち受ける案件が更新された」とでも言うような面持ちで、黙って彼らを見つめていた。
私は思わず天之神へと視線を向ける。
すると彼は、「自分にもどうにもできない」と言いたげな微笑を返してきた。
この宴席は、本来なら、
高雅、震撼、神聖――
その三語で締めくくられるはずだった。
だが最終的に残った記憶は、
神明たちが慌てふためいて言い訳を重ね、
それに対して財政官が山のような視線を向け続ける――
そんな光景だった。
とはいえ、正直に言えば、悪くはない。
なにしろ、
神明が子供のように、
金を隠して見つかったことで嘆き、懇願する姿を目にする機会など、そうあるものではない。
それは、おそらく――
どんな料理よりも、はるかに貴重な光景だった。