私と緹雅は宿屋の部屋へ戻った。
狭い空間には、薄暗い油灯が一盞だけ点されている。
男と女が同じ部屋にいる——やむを得ない事情とはいえ、やはりどこか顔が熱くなり、胸が高鳴ってしまう。
思えばすべては、私がつい口を滑らせたせいだ。
身分を隠すためとはいえ、咄嗟に「兄妹」だと言い切ってしまったのだから。
「バタン!」
背後で戸板が重く閉ざされ、耳を劈くような鈍い音が響いた。
その瞬間、空気が一気に凝り固まり、黒雲が押し寄せるような重圧が迫ってきた。
緹雅の口元がわずかに吊り上がり、冷たい笑みが浮かんだ。
その笑顔には微塵の温もりもなく、逆に私の背筋に寒気を走らせた。
——まずい、本当にまずい。
「緹……緹雅?」
「黙りなさい!」
彼女の声は甲高く鋭く、まるで細長い匕首が私の心臓を突き刺すかのようだった。
私は慌てて膝をつき、両手を床につき、頭を何度も下げた。
「ごめんなさい! 私が悪かった! 本当にわざとじゃないんです! 一時の焦りで……兄妹なんて言っちゃって……」
「凝里、」
緹雅は額に手を当て、深く息を吸い込んだ。
まるで何か衝動を必死に抑え込もうとしているかのように。
「いい? よく聞きなさい。いつ私があなたの妹になったの? え? 顔が似てる? 話し方が似てる? それとも、私があなたの妹に見えるって言いたいの?」
私はビクリと震え、まったく返事ができなかった。
「それに、身分を隠すにしても、もっと普通の言い方があるでしょう? 旅仲間、同伴者、雇主と雇員、旅の途中で拾った流浪者……兄妹よりは全部マシじゃない!」
彼女の口調は次第に速まり、語気も激しくなっていった。
「もし見破られたら、あなたはどう弁明するつもり? 最初からいっそ、私たちは……ふ……ふ……ふう、ふうふ……だって……」
彼女は言葉を途切らせ、頬を真っ赤に染め、語尾を曖昧に濁した。
語尾は曖昧になり、先程酒館で少し酒を飲んでいたせいか、声もわずかに震え、目の光も定まらなかった。
私は顔を上げ、怒りと羞恥を同時に浮かべた緹雅の表情を見つめ、心の中で思わず溜息をついた。
——もう身分の問題どころではない。今目の前にある、さらに重大な問題に対処せねばならない。
緹雅の酒の弱さ——これこそが、もしかすると今までで最も重要な情報かもしれない。
夜も更け、私は急いで緹雅を寝台に横たえ休ませた。
自分はバルコニーの端にもたれ、今日の会話を反芻しながら考えを巡らせる。
まず、この世界は六大國によって支配されており、各國が均衡を維つことができているのは、どうやら各國の神明の力によるところが大きいらしい。
神明の力もさることながら、私はその「神位」の由来にも強い好奇心を抱いている。
いずれ時間を見つけ、きちんと調査する必要がありそうだ。
神位は単なる称号にすぎないとはいえ、その名には中国古神話の神たちの名前が引き合わされている。
もしかすると、他の国々(くにぐに)でも同じような事情があるのかもしれない。
次は冒険者協会について。
各國に跨がって活動できる組織である以上、混沌級冒険者に頼るだけの存在ではないはずだ。
必ず別の理由があるだろう。
今の私の力量で、この経路を利用して神明に会うことができるだろうか?
世界は広く、誰も軽んじてはならない。
とはいえ、内密に動くのはまだ難しい。
できれば、支援してくれる者が必要だ。
何よりも重要なのは、私たちが今いる拠点が、実は立ち入り禁止の場所だということだ。
安心感があると言うべきか……だが多くの怪物がいると聞くと、やはり少し不安になる。
先ほどまでディ路嘉がそんな話をしていた記憶はないし、弗瑟勒斯を出る前に緹雅と周囲を感知したときも危険な怪物は見つけられなかった。
単に運よく隠れていたのだろうか?
まあ、何かあればディ路嘉が必ず知らせてくれるはずだ。
戻ったらもう一度聞いてみよう。
そして、私にはずっと疑問が残っている。
なぜ六大國は建国当初にあのような誓約を立てたのか?
破れば滅亡を招くような誓約、普通なら誰も同意しないはずだ。
唯一考えられる理由は……。
私がまだ思考の渦中に沈んでいたその時、突如として鋭い咆哮が夜の静寂を切り裂き、村落全体に響き渡った。
「火事だ!」
それは守衛の叫びであった。
続いて轟いたのは、耳を劈くような獣の咆哮。
低く荒ぶるその声は、人ならざる何かの怒号のようであった。
空気さえも震わせるその咆哮は、夜色全体を圧倒的な威圧感で覆い尽くしていく。
やがて、夜空から幾つもの火球が降り注いだ。
長い火尾を引き、流星のごとく村落めがけて墜落する。
その一つは頭上すれすれをかすめ、灼熱の気流が肌を焼くように吹き付け、息を詰まらせた。
幸運にも直撃は免れたが、落下点の近くにあった家屋は瞬く間に炎に包まれ、烈火が夜空を焦がすように立ち昇り、闇を赤々(あかあか)と照らし出した。
突如として襲い来た災厄は、瞬く間に現場を混乱へと陥れた。
逃げ惑う者、悲鳴を上げる者、その場に立ち尽くし動けなくなる者……。
——まさか、これが第二十八代の王が口にしていた「襲撃」なのか?
村落全体が火光と恐慌に包まれる中、ただ一つ、私と緹雅が宿泊していた旅館だけは無傷のままだった。
火球は周囲に降り注いでいるのに、まるで意図的にこの一角だけを避けているかのように。
幸いにも、私はあらかじめ準備をしていた。
部屋の周囲に密かに張り巡らせておいた結界魔法が、今まさに効力を発揮し、外界の炎を隔てていたのだ。
緹雅は熟睡しており、どうしても彼女をこの騒がしい時に起こしたくはなかった。
そこで私は急いで屋外に飛び出し、状況を確かめることにした。
ちょうどその時、同じように屋外へ逃げ出した凡米勒と鉢合わせた。
「坊や、頼む! 屋内の人々(ひとびと)を助けてくれないか? 私はすぐに事態の真相を確かめに行かねばならん!」
凡米勒は慌てふためきながらそう言った。
「分かった。すぐ行って!」
彼が「ありがとう!」と一言残して駆け去っていくのを見届けると、私は急ぎ近隣の人々(ひとびと)を救助し始めた。
その間にも、正体不明の咆哮と惨叫が遠方から途切れなく響いてくる。
「行って助けるべきか……?」
私は心の中で自問した。
「だが、今動けば、自分の正体が露わになってしまうのではないか?」
本来なら他国のことに口を出すつもりはなかったが、見殺しにする気もなかった。
いわゆる「一飯千金」の恩という言葉もあるし、それ以上に——ひょっとすれば彼らを通じて仲間たちの行方を掴めるかもしれない。
私は部屋に戻った。
もともと防音結界の効果があるはずだから、外がどんなに騒がしくても緹雅が起きることはないだろうと思っていた。
だが、一歩部屋に足を踏み入れた途端、緹雅が自分の寝台の上に胡座をかいて座り、細めた目でこちらを見据えているのに気づいた。
「緹雅、どうして起きているんだ?」
「ふん~、外の騒がしさが大きすぎるからよ。あなたの防音結界と防御結界があっても、外にうごめく鬱陶しいハエどもは感じ取れるわ。」
緹雅の感知能力は私たちの中でも群を抜いている。
どうやら九階魔法だけでは、緹雅の周囲への感知を完全に遮ることはできなかったようだ。
「それじゃ、今からどうするつもり?」
緹雅はあくびをひとつして訊いた。
「敵は大したことはないが、放っておくわけにもいかない。それに、貴女の眠りを邪魔するとは許せない!」
「ふん〜、それなら合格ね。」
緹雅はようやく笑顔を見せた。今日はずっと拗ねていたから、なおさらだ。
「ちょうど良い練習にもなる。いまだにこの世界で自分がどれほどの力を持っているか分からないからな。」
その時、私は身に纏っていた変身魔法を解き、普段着の魔法袍に着替えた。水晶球と魔導書も同時に手に握った。
「緹雅、ここで観戦していなさい〜私はあの愚かな連中を叩きのめしてくる。」
「頼むわよ〜でも、あんな相手なら全力は要らないでしょ?」
「もちろんだ。鑑定の結果から見るに七級程度だろう。運が良ければ何か情報を掴めるかもしれない。」
そう言い終えると、私は転移魔法を発動した。
「傳送。」
その時、村落の上空には幾匹もの深紅の巨龍が旋回していた。
牙を剥き、爪を振るいながら、夜空を縦横無尽に掠め飛ぶ。
巨龍が羽根を振るうたびに烈風が巻き起こり、その直後、口腔から灼熱の炎が奔流のごとく吐き出される。
それはまるで地獄の門が開かれたかのように、村落を業火で呑み込んでいった。
それぞれの龍の背には二人から三人の小柄な龍族の戦士が跨がっている。
彼らは漆黒の重鎧を身に纏い、武器を構えて、圧倒的な威圧感を放っていた。
数名の龍族兵士は不意に龍背から飛び降り、地面に衝突する金属音が轟く。
着地するや否や、彼らは迷うことなく武器を振り下ろし、聖王國の兵士へと容赦なき屠殺を開始した。
上空を飛ぶ飛龍たちは絶え間なく火球を投下し、火光が閃くたびに爆音と悲鳴が入り混じる。
そして龍背に残った龍族の魔導師たちは杖を振るい、雷撃、氷矢、岩槍といった多様な属性の攻撃魔法を繰り出す。
それらは天から降り注ぎ、村落を混沌の戦場へと変貌させていった。
夜陰の中、聖王國の兵士たちは敵の動きを視認することすらできず、ただ一方的に襲い掛かる猛攻を耐えるしかなかった。
凡米勒は局勢の危機を察すると、即座に陣形を整え、兵士たちに速やかに後方へ退くよう命じた。
彼自身は前線に踏み留まり、手にした重厚な紅光盾牌を高く掲げ、襲い来る烈火と魔法の奔流を防ぎ切った。
盾牌の表面には光輝を放つ魔紋が浮かび上がり、そこから迸る堅牢無比の障壁が戦線を辛うじて守り抜いていた。
だが龍族の攻勢は衰えるどころか、ますます激烈さを増していく。
凡米勒は強靭な肉体と魔力に物を言わせて必死に踏み止まるも、その身には次第に疲労の圧迫感が重くのしかかっていた。——ただ防御するだけでも、彼の精力は容赦なく削られていった。
さらに地上では、複数の龍族戦士が彼めがけて突進してくる。
鉄蹄が地面を叩き鳴らし、その勢いは虹のごとく鋭い。
聖王國の兵士たちはその光景を見て、次々(つぎつぎ)と援護に駆け寄った。
だが、実力の差は歴然であり、彼らが相手にする敵は決して凡百の兵卒などではなかった。
防衛線は刻一刻と崩れ、彼らはただ必死に支えるしかなく、いずれ総崩れになるのは時間の問題であった。
混乱と火光が村落全体を覆うその時、天空が突如激しく震えた。
黒き濃霧が空に広がり、夜空の星明りを覆い隠していく。
その霧気は生き物のように蠢き、捩じれ、渦を描いた。
やがてその中から、一条の巨きな黒龍が降臨した。
広大な翼が空気を激しく掻き乱し、吹き荒ぶ烈風を巻き起こす。
その巨体が地上へ降り立つと、大地は震動し、まるで山崩れや地裂が起きたかのようであった。
この黒龍は、先の深紅の飛龍たちよりも遥かに巨大で、その放つ気配は一層陰鬱かつ邪悪であった。
その背には、異様に大柄な龍族の戦士が立っていた。
全身を暗銀と深鉄が交り合う重甲冑で覆い尽くし、鎧甲の上には生物のように蠢く魔紋が浮かび、紫黒の光を妖しく瞬かせていた。
言葉は不要だった。
ただその身から放たれる威圧感だけで、周囲の兵士たちを縛り付け、動きを封じるに十分だった。
その龍族の戦士は下方の凡米勒を見下ろし、口元に軽蔑の笑みを浮かべた。
声は鉄石がぶつかり合うように低く重く、空気の中に反響して広がっていった。
「驚いたぞ……まだ我々(われわれ)に抗おうとする者がいるとはな。
だが——所詮は身の程を知らぬ蟻に過ぎん。」
そう言うや否や、彼の手の中に漆黒に近い深青の長槍が虚空から凝り現れた。
槍身は不気味な冷光を帯び、その瞬間、雷霆のごとき勢いで一直線に凡米勒めがけ突き放たれた。
——六階戦技・雷殛穿影。
凡米勒は紅色の盾牌を掲げ迎撃した。
だが衝突の刹那、盾牌は脆き瑠璃のごとく粉砕し、無数の破片となって四散した。
その衝撃に押され、彼の身体は数歩後退し、肩口からは鮮血が溢れ出て甲冑を赤く染めていった。
黒龍の背に立つ戦士は、冷酷さと嘲笑を帯びた声で嗤った。
「惜しいな! せめて先程の一撃で死んでいれば良かったものを……」
彼は片腕を高く上げる。
指節が裂け、その上を漆黒の鱗片が覆い、鋭利な龍爪へと変貌した。
次の瞬間、彼は軽く腕を払う。
爪影が空気を切り裂き、周囲の気圧を震わせる。
堅牢であったはずの家屋は、その一撃で紙細工のように崩壊した。
その光景を目にした凡米勒は、歯を食い縛り、必死に立ち上がる。
蒼白な顔色のまま、かすれた声で呟いた。
「……まずいな。」
彼が呼吸を整える間もなく、その龍族の戦士は巨爪を天へと高く掲げた。
周囲には雷電が渦巻き、死の気配が押し寄せる。
——六階戦技・雷獄破。
凡米勒にはもはや抗う力は残されていなかった。
彼は目を閉じ、まるで運命の裁決を受け入れるかのように佇んだ——。
だが、いくら待てども、その致命の一撃はついに降ってこなかった。
凡米勒は固く閉じていた瞼を微かに震わせ、周囲から温かく、そして確かな力が伝わってくるのを感じ取った。
ゆっくりと目を開くと、視界に映ったのは柔和な光を放つ光球だった。
その光球は彼の全身を包み込み、結界のように先程の殺意に満ちた攻撃を完全に遮断していた。
そして、その眩い光幕の前方には、一条の見慣れた人影が真直に立っていた。
長身の背を向け、堂々(どうどう)と佇むその姿は——まるで神祇が現世に降臨したかのようであった。
「布雷克さん……!」
凡米勒は一瞬呆然とした後、低く驚嘆の声を漏らした。
「おじさん、もし死んじゃったら俺が困るんだよ。」
私は振り返り、いつもと変わらぬ笑みを顔に浮かべて答えた。
その様子を目にした龍族の戦士は、表情を一変させた。
自らの一撃を防がれるとは思ってもいなかったのだ。
ゆえに、彼は否応なく警戒を強めざるを得なかった。
「貴様……何者だ? 俺の一撃を防ぐとは! まさか……混沌級の冒険者なのか?」
私は慌てずに返答せず、斜めに彼を睨みつけるように見やり、落ち着いた口調で言った。
「……さっき、君は何かしたか?」
その何気ない反問は、無音の平手打ちのようにその龍族の戦士を一瞬言葉を失わせた。
「人に名を尋ねる前に、まず己の名を名乗るのが最低限の常識ではないのか?」
場の空気は途端に張り詰め、風さえも一瞬止まったかのようだった。
龍族の戦士は軽く鼻息を漏らし、不安と苛立ちを必死に抑え込もうとするように、陰った声で続けた。
「死にゆく者に名を問うてもなんの意味がある……だが、どうやらお前は只者ではないようだな。
我らの意志に逆らうとは愚かなる振る舞いだ。お前はその身に相応しい代償を払わせられるだろう!」
そう言うと同時、彼の全身からは山岳のごとく重く、深淵のごとく冷たい、恐怖に満ちた気配が湧き上がった。
両腕を大きく広げ、傲然と宣告する。
「よく聞け! 我は偉大なる黒棺神の麾下に連なる特種部隊の七大龍使の一人、第二席・烈風龍さま直属の忠僕——風龍僕德蒙!
この名を、貴様が黄泉への路を行く時の伴手土産とするがいい!」
その言葉が地に落ちるのと同時、德蒙の背後に黒霧が渦を巻きながら翻騰し始めた。
それはまるで深淵が巨口を開き、再び戦場そのものを呑み込もうとしているかのようであった。
德蒙の眼差しが冷え、右腕を高く振り上げた瞬間、彼は鋭い声で命じる。
「殺せ!」
その号令と同時、数名の龍族兵士が四方から一斉に突き進み、猛然と私に襲い掛かった。
彼らの手に握られた長槍は冷たい金属光沢を放ち、迷いなく私の胸を目掛けて突き出された。
同時に、德蒙は再び深青の長槍を呼び出した。
その手の動きに従い、槍尖は稲妻のように空気を切り裂き、致命の輝きを放ちながら、真っ直ぐに私の胸元を貫かんと迫った。
「布雷克さん!」
凡米勒は思わず声を上げ、双眼を大きく見開いた。
彼の目には、到底受け入れ難い光景が映し出されていた。
幾本もの長槍がほとんど同時に私の身体を貫いた。
その光景は凄惨にして壮絶、まるで一瞬で行われた屠殺のようであった。
だが——場は不気味なほど静まり返っていた。
血飛沫が舞うこともなく、悲鳴が響くこともない。
世界そのものが、この瞬間だけ凍り付いたかのようであった。
德蒙の口元には勝利の笑みが浮かぶ。
彼は冷笑しながら言った。
「ふん……先程の威勢は、ただの虚張声勢に過ぎなかったというわけか。」
だが、その笑みは半秒と続かず、瞬時に凍り付いた。
――ドンッ!
低く鈍い衝撃音が幾度も連続して響き渡る。
突撃してきた龍族の兵士たちは、次々(つぎつぎ)と血を吐き、身体を捻じ曲げながら地面に崩れ落ちた。
彼らが振るった長槍は、私の身を貫くことなく、触れた瞬間に制御を失ったかのように逆へと返り、まるで毒蛇のごとく彼ら自身の身体を突き刺したのだ。
そして、德蒙自らが放った深青の長槍も、私に触れる寸前で突如として寸々(すんずん)に砕け散り、灰燼と化して風に舞い散った。
その瞳孔はわずかに収縮し、德蒙の顔には信じ難い驚愕が走った。
私はゆっくりと頭を上げ、いつもと変わらぬ淡然とした表情のまま、肩口にかすりもしなかった槍塵を軽く払い落とした。
そして低く呟く。
「八階魔法――物理攻撃反転。この程度の攻撃に使うのは、少し贅沢だなぁ~。」
その声色には、動揺の欠片すらなく、むしろ一抹の惜しささえ滲んでいた。
私が指先を軽く揺らすと、淡金色の魔法符文が周囲に浮かび上がった。
それはまるで神聖の庇護そのもののように輝き、精緻かつ複雑な呪陣はゆるやかに回転を続けながら、絶対的な威圧感を放っていた。
「まあいい、ちょうど実験になる。攻撃の程度が違えば、反映の効果にも微妙な差異が生じる……ふむ、このデータは記録しておくべきだな。」
私は心中でそう思い巡らせ、先程の攻撃を小さな試験として受け止めていた。
德蒙の瞳孔は激しく収縮し、先程の兵士たちの無惨な最期と、自らの長槍が砕け散った光景が脳裏に鮮明に焼き付いていた。
心の奥底に浮かんだのは、かつて覚えたことのない震え――不安と恐怖の入り混じった感情だった。
だが、彼はすぐに首を振り、その感情を振り払うようにして無理やり冷静を装い、口元に嘲笑を浮かべた。
「ふん……ただの奇術だ。貴様とて全てを防げるわけがなかろう!」
彼は空に向き直り、左手を高く掲げて命令を放った。
「魔法部隊、構え! 全力で撃ち落とせ!」
次の瞬間、夜空を旋回していた飛龍たちが一斉に大口を開き、龍息と高温の炎が烈焔球となって降り注いだ。
さらに、その背に跨がる龍族の魔法師たちも同時に杖を振るい、水、火、風、雷と、さまざまな属性の魔法を解き放った。
無数の魔力光弾は夜空を花火のように彩り、まるで世界の終末を告げる天災のごとく、轟然と私のもとへと降り落ちてきた。
それでも私は静かにその場に立ち続けた。
両手を上げることもなく、ただの一度も呪文を唱えることもなかった。
私の双眸には淡い銀光が宿り、鑑定の眼はすでに放たれた全ての魔法の属性、構造、そして致命的な破綻までも見抜いていた。
……とはいえ、実際のところ、そこまでの必要はなかったのだが。
――ドンッ!
すべての魔法は、私に触れようとした瞬間、何の前触れもなく激しく反射し、さらには速度を増して跳ね返った。
高空に陣取っていた魔法師たちの顔は一変し、反応する間もなく、自らの放った攻撃が直撃する光景を目の当たりにするしかなかった。
爆音、悲鳴、龍族の哀号が入り乱れ、夜空に木霊する。
空に展開していた部隊は瞬時に崩壊し、統制を失った。
私は口元をわずかに歪め、低く呟いた。
「俺に魔法を使えば勝てるとでも思ったのか……その発想は、本当に――天真爛漫で可愛いな。」
その声音は至って平淡で、瞳に宿る光も冷徹だった。
德蒙は双眼を見開き、顔色は蒼白に染まり、先程まで雷鳴のごとく轟いていた気迫は跡形もなく崩れ去った。
彼の両手はわずかに震え、荒い呼吸が胸を揺さぶる。
額には冷汗が浮かび、ついに悟った。
――目の前のこの男は、自分の理解や対処の及ぶ存在ではない。
物理であれ魔法であれ、彼の前では児戯に等しく、反撃の理すら一片も見抜くことができないのだ。
「実際には……七階以下の魔法攻撃は、すべて俺にとって反射される対象にすぎない。」
私は心中で静かにそう思った。
これは己に宿る力、七階未満の魔法は必然的に反される。
「まだ俺は何もしていない。それだけでここまで怯えさせられるとは……この世界、本当にこの程度の水準しかないのか?」
「どうやら……切り札を出す時だな。」
德蒙は低く囁き、語調からは戯けた面は消え、これまでにない程重苦しい気配を纏っていた。
その言を聞いた瞬間、私は即座に警戒を最大限に高めた。表面では平静を保っているが、心中では既に警報が鳴り響いていた——先程の、全く威力のなかった攻撃で自分を少し油断させてしまったことを痛感しているのだ。
もしこのことを姆姆魯に知ら(し)れでもしたら、わたしは間違いなく一しきりの罵倒を浴びることになるだろう。
德蒙は両手を高く掲げた。
周囲の空気は突如として激しく歪み、掌からは漆黒の濃霧が立ち昇る。
それは頭上に渦を巻き、翻騰しながら凝縮していった。
次の瞬間、黒霧は紅黒入り混じる結晶体へと変貌し、半空に浮かんだ。
その晶体の奥からは、無数の咆哮が微かに響き渡り、まるで眠れる悪魔が封じられているかのようであった。
「こいつは……俺の力すら凌駕する代物だ。」
德蒙の双眼は狂気の光に揺らめき、続けて吐き出した。
「これは一切の魔力を必要としない。いったん解放すれば――俺自身ですら、その真の行方を制御できんのだ。」
言葉が終わるや否や、德蒙は背後から一条の鞭を引き抜いた。
それは毒蛇のごとく身を捩らせ、全身には深紅の怪しき光紋が脈動していた。
彼の口元には凶悪な笑みが浮かび、その声は狂熱に満ちていた。
「この二つがあれば……貴様といえど、生きて此処を去れると思うな!
偉大なる黒棺神への冒涜と悔恨を携え、焔に焼かれる深淵へ沈め!
――八階龍族召喚・燃燼龍!」
鞭が烈しく結晶体を打ち据えると、水晶はその場で粉砕し、無数の光粒となって四方に飛び散った。
大地は突如として震動し、巨獣が目覚めるかのように轟音を上げた。
次の瞬間、暗紅色のエネルギー柱が天より落下し、德蒙の目前の空地へと轟然と突き立った。
轟音と共に、深淵の悪霊のごとき黒霧が天へと立ち昇った。
それは瞬く間に凝縮し、やがて紅黒入り混じる巨龍となって姿を現した。
その龍は、これまで現れたどの飛龍よりも巨大であった。
全身を覆う鱗は水晶のように煌めきながらも、決して砕けぬ堅牢さを誇っている。
山岳のごとき巨体、爪牙は鋭い金属光沢を放ち、全身を纏うは黒き業火。
炎は絶え間なく外へ広がり、空気すら焼き焦がし歪めていた。
その圧倒的な威圧感は瞬時に戦場全域を覆い尽くし、周囲の兵士たちは立ち上がることすら困難となった。
多くは畏怖に耐え切れず昏倒し、衝撃波に触れただけで数メートル弾き飛ばされ、血を吐く者すら現れた。
それでも私は、微動だにせずその場に立ち続け、ただ静かにその双眸を見据えていた。
私は一切の表情を浮かべず、眉ひとつ動かすこともなかった。
しかし、德蒙はますます興奮し、すべての勝機を掌握したかのように得意げに高声で叫んだ。
「どうだ? 恐怖を感じているだろう! わかっているぞ、今やお前の心は完全に崩れ去り、絶望の中で震えているはずだ!」
確かに、この圧に晒された聖王国の兵士たちは、すでに稲穂のように次々(つぎつぎ)と倒れ、呼吸すら困難となり、群れを成して昏倒していった。
ただ一人、凡米勒だけが非凡な精神力で必死に耐え続けていたが、その顔にはすでに冷汗が幾筋も伝っていた。
「可笑しい。」
それは、私が心底から吐き出した評であった。
この程度の威圧に対して、私が抱いたのは恐怖ではなく、ただ厭わしさを伴う失望だった。
私は退屈そうに地面の泥土を靴先で軽く蹴り始めるほどである。
確かに、私はすでに完全な警戒態勢に入り、未知の強敵に備えるつもりでいた。
だが、鑑定の眼が弾き出した答えは――私が身構えていた相手の実力は、所詮夢魘級のボス程度に過ぎなかったというものだった。
七階の召喚師にとっては、確かに戦局を覆す切り札となり得るのだろう。
だが、私にとっては――せいぜい雑魚より少しばかり手強い程度の存在にすぎなかった。
私のその一言は、まぎれもなく重錘のごとき衝撃となって德蒙の胸奥を打ち据えた。
彼は信じられぬものを見るかのように双眼を見開き、かつて味わったことのない恐怖に心を支配されていた。
――七大龍使ですら長鞭を用いてようやく制御する召喚獣が、この男に「可笑しい」と言い捨てられるとは?
「やつは絶対に虚張声勢だ!」
德蒙は心中で必死に怒鳴り立てた。
だが、その不安は荊棘のように足元から這い上り、全身を締め付けていった。
燃燼龍が低く唸ると、空気は瞬時に震動し、大地は裂け、耳膜は引き裂かれるかのように軋んだ。
龍息は雷鳴のごとく響き、呼吸さえ困難にする。
漆黒の業火がその身より爆ぜ広がり、生き物のように蠢きながら万物を蝕んでいく。
かすめただけで岩石は瞬時に溶け落ちていった。
「なあ、そんな大袈裟な魔法攻撃はやめてくれないか? ここ一帯を平らにされてしまったら、俺としては本気で困るんだよ……」
私は小さく嘆息し、まるで手に負えぬ子供を咎めるかのような声音でそう告げた。
その言葉は、德蒙の理性を繋ぎ止めていた最後の糸を断ち切った。
彼は完全に激昂し、怒声を轟かせた。
「今強がれるのも束の間だ!
燃燼龍――燃燼地獄を放て!」
その号令と共に、燃燼龍の全身の鱗が妖しく輝きを帯び、月光を浴びて紅黒入り混じる閃光を放った。
直後、その体内からは異様にして膨大な魔力が爆ぜ出し、黒焔は制御された歯車のように高速で回転を始めた。
やがて炎の中心には、無数の鋭利な刃が凝縮し、あらゆるものを粉砕する気配を纏いながら、私へと猛然と襲い掛かってきた。
今回の攻撃は反射されることなく直撃し、着弾の瞬間、大地は激しく震動した。
黒炎は巨浪のごとく逆巻き、濃煙が四方に拡散して戦場を覆う。
轟音が鳴り響き、空気には灼熱が渦巻き、呼吸すら許さず、現場の光景は一切視認できなくなった。
その区域はまるで煉獄の一角と化し、炎と刃は悪魔の爪牙のように空気と大地を狂おしく切り裂いていた。
「この地獄の炎と刃と共に、深淵へ堕ちてゆけ! ハハハハハッ!」
德蒙は天を仰ぎ、狂気と得意に満ちた笑声を轟かせた。
彼は確信していた――この攻撃こそが相手を完全に消滅させる、と。
烈焔の中に生き残れる者など、誰一人として存在しないと。
だが、その笑声はすぐさま一つの突兀な反響音によって遮られた――
「ハハハハハハハハ~」
それは濃煙と火海の奥から響いてきた嘲笑であった。
軽蔑と余裕を含みながらも、背筋を凍らせるような威圧感を帯びていた。
次の瞬間、濃煙は見えざる力に引き裂かれ、そこに現れたのは――
毫髪も傷つかず、その場に悠然と立ち続ける私の姿であった。
衣の裾すら焦げることなく、まるで烈焔の王者のごとく傲然と聳え立っていた。
荒れ狂う炎は私の傍らを翻涌しながら通り過ぎるばかりで、いかなる損傷も与えることはできなかった。
「こ、これは……ありえない!」
德蒙の瞳孔は激しく震え、顔に浮かんでいた傲慢は瞬間に崩れ去り、その身体は小さく震え始めた。
「こんな、超量兵器に匹敵する力で俺に挑むつもりか? 頭は大丈夫か?」
私は淡々(たんたん)とした口調で告げ、そこにはわずかに憐憫を帯びた冷たい色が混じっていた。
「ありえん! こんなことが起こるはずがない!」
德蒙はほとんど崩壊しかけたように叫んだ。
私はゆっくりと一本の指を持ち上げ、天を指し示した。
「では――そろそろこの拙劣な茶番劇に幕を下ろそう。《原初水牢》。」
大地は突如として崩れ裂け、純粋無垢の水元素によって凝縮された蒼藍の光柱が地底から爆ぜんと突き上がり、天地すらも貫いたかのように轟いた。
それは単純な水元素の魔法ではない。元素の深層に眠る原始の力――《原初の水》。その純粋さは、炎の本質すら侵蝕し尽くすほどであった。
奔流はまるで生き物のように渦を巻き、瞬く間に燃燼龍を包み込んだ。
水牢が完成した刹那、内部では無数の水の腕が魔力によって形づくられ、燃燼龍の四肢と咽喉を容赦なく締め上げた。それは、まるで深淵から下される審判のようであった。
「ありえん! この世界に、燃燼龍の炎を消し止められる水元素など存在するはずがない!」
德蒙は恐怖に満ちた叫びを上げ、顔を恐怖に歪ませた。
德蒙が驚愕するのも無理はなかった。燃燼龍は本来、いかなる水元素の魔法にも耐性を持つはずだった――ただし、それは八階級以下の水元素魔法に限られていたのだ。
水牢の中で燃燼龍は激しく身をよじり、断末魔のような嘶きを響かせた。しかし、その咆哮も、原初の水元素から生まれた禁錮の力によって、少しずつ息吹と力を奪われていった。
数秒後、この地を荒らし尽くした巨獣はついに首を垂れ、その声はか細く、もはや抵抗の動きも止んでしまった。
「転送。」
低く囁かれた呪文と共に、黒い光を放つ転送陣が静かに展開した。
私は、すでに抵抗の力を失った燃燼龍を、ためらうことなくその中へと投げ入れた。巨きな躯体は瞬間に姿を消し去り、残されたのは呆然と立ち尽くす德蒙だけであった。まるで魂を奪われたかのように、その身体は動かなかった。
「おまえ……いったい何者だ?」
その声は極限まで震え、かつての傲慢な気焔は影も形も残っていなかった。
「俺の名は布雷克だ。だが、俺が何者かなんて、どうでもいい。」
言葉が落ちたその瞬間、私は右手に浮かぶ水晶球を操り、指先を軽く弾いた。すると、深紫色の魔法陣が瞬く間に顕現した。
低い唸りが響き渡り、空気は激しく震動し始める。天空には黒雲が立ち込め、突如として巨大な竜巻が形成された。その風眼の中心には、僅かに歪んだ異空間の裂け目が潜み、あらゆる存在を呑み込むかのようであった。
――八階魔法・《千羽颶風陣》。
狂風は一気に吹き荒れ、地上の建築物は軋む音を立て続け、家屋の瓦は次々(つぎつぎ)と吹き飛ばされた。村落はまるで終末の光景の中に投げ込まれたかのようであった。
あの燃燼龍ですら、ここまでの破壊をもたらしたことはなかった。
魔法を放って初めて、私はそれが村に少なからぬ損害を与えることに気づいた。だが、すでに術式は発動しており、もはや止めることはできない。
――ならば、一気に決める!
「ま、待ってくれ……布雷克閣下……い、いや、布雷克様! どうか寛大なお心で、私をお許しください!」
德蒙は完全に崩れ落ち、地面に膝をつき、両手で頭を抱えた。顔には先程の驕りも傲慢も微塵も残っておらず、そこにあったのは生き延びようとする原始的な本能だけだった。
私は彼を見下ろし、平静にして揺るぎない声で言った。
「残念だが、俺にはそれほどの慈悲はない。」
次の瞬間、私は指を軽く弾いた。龍巻の風眼は微かに収縮し、德蒙の身体は見えざる力に引き上げられ、絶叫しながら異空間の裂け目へと呑み込まれた。次の瞬間、その姿は跡形もなく消え失せた。
全ての過程は十秒にも満たなかったが、それはまさしく地獄から下された審判のようであった。
すべてが静まり返った後、私は荒れ果てた村の光景を見渡し、思わず眉をひそめた。
「ふう……あとで人を呼んで再建させるしかないな。」
そう小さく呟いた。
「伝達。」
衣服の襟元に付与された通信の聖甲蟲を起動し、意念を通じて遠く離れた弗瑟勒斯の守護者たちへと迅速に伝えた。
「芙洛可、あの德蒙の件はおまえに任せる。できる限り口から情報を引き出せ。もしどうしても口を割らぬようなら……そのときは永遠に黙らせろ。」
「燃燼龍の方は德斯、ひとまずおまえに預ける。第三層へ連れて行き、馴服の訓練を施せ。俺がこっちの用事を片付けたら、直接様子を見に行こう。」
命令を発したのち、聖甲蟲は静かに襟の内側へと戻っていった。
私は風の中に立ち、遠方の天際に広がる輝かしい星空を見上げ、口元をわずかに吊り上げた。
これが、この世界で初めて本当の敵と刃を交えた戦いだった。
想像していたような危機が幾重にも迫ることもなく、息が詰まるような絶境でもなかった。
ただ――一場の、軽い勝利に過ぎなかった。
それだけではない。戦いの中で、多くの有益な情報をも得ることができた。ただ、その量があまりに膨大で、頭が一度に処理しきれないほどだった。
「今は深く考えるのはやめよう。」
私は小さく呟き、その全てを心の奥へ押し込めた。
私は振り返り、少し離れた場所に倒れ伏す凡米勒の姿に目を向けた。
彼の身体にはまだかすかな息が残っていたが、先程の燃燼龍の余波の攻撃によって深手を負い、昏睡していた。私の結界が衝撃の一部を防いではいたものの、その規模の威力は今の彼にはあまりに重すぎた。
凡米勒の傷はあまりにも深刻で、このままでは危険だった。私はすぐに治療を施さねばならなかった。
「回帰如初。」
私は治癒の魔法――《生命の息吹》を発動した。掌に柔らかな光が咲き広がり、その光は凡米勒の身体を包み込んだ。
血に染まった傷口は自ずと閉じ、裂けた骨は静かに繋がっていく。
わずか数秒のうちに、彼の全ての傷は痕跡すら残さず消え去り、その呼吸も次第に安定していった。
しばしの後、凡米勒の瞼がわずかに震え、ゆっくりと開かれた。
彼が私を見たとき、その瞳にはまず茫然とした色が浮かび、次に安堵へと変わっていった。
「……布雷克さん……俺は、まだ生きているのですか?」
私は微笑み、彼の肩を軽く叩いた。
「もちろんだ。安心しろ。俺がいる限り、おまえが死ぬことはない。」
一方、緹雅もまた休むことなく動いていた。
彼女は傷を負った兵士や村人たちの中に立ち、治療薬水を用いて負傷者を癒していた。それは重傷を癒すには至らなかったが、軽い傷を治すには十分であった。
彼女の真剣な表情は人々(ひとびと)に安堵を与え、皆の心を落ち着かせた。
私が凡米勒の治療を終えて彼女のもとへ戻ったとき、緹雅はようやく、先程張っていた防御結界を解除した。
「助かったよ。こんな細かいことまで任せてしまって悪かったな。」
そう言うと、緹雅は口を尖らせ、不満げに返した。
「何よ、それ? 助け合うのは当たり前でしょ?」
その言い方に思わず笑みが漏れたが、返事をする間もなく、彼女はふいに私を抱き締めた。
それは予兆もなく、ためらいもない抱擁だった。
彼女は顔を私の胸元に寄せ、まるで私の存在を確かめるかのように、指先で髪を梳きながら、優しくもどこか執拗な仕草を見せた。
それは甘えでも弱音でもなく、ただ確認であり、抑えてきた感情がようやく解放された証だった。
私はどう応えていいか分からず、その場に立ち尽くすしかなかった。
こんな彼女を見るのは、初めてだった。
ほんの少し離れていただけで、彼女をこんなにも不安にさせてしまったのか?
緹雅は答えず、たださらに強く私を抱き締めた。
「緹……緹雅?」
「黙れ!」
「……はい。」
私はすぐに大人しく口を閉じ、息をするのさえ気を遣い、彼女の機嫌を損ねないように、息まで慎重になった。