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そのゲームは、切り離すことのできない序曲に過ぎない  作者: 珂珂


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第二卷 第一章 帰還-4

清晨せいちょうひかりが、そっとんできた。

わたしはゆっくりとける。

周囲しゅうい静寂せいじゃくつつまれており、とおくで海浪かいろう船身せんしんつ、かすかなおとだけがこえていた。

魔晶灯ましょうとうはすでにえており、室内しつないのこっているのは、カーテンのふちからる、ほそ金色きんいろひかりだけだった。

それはまるで、あかつきうみ口付くちづけたあとにのこる、最初さいしょのやさしい一筋ひとすじぬくもりのようだ。

わたし物音ものおとてないよう注意ちゅういしながら、そっとこした。

となりねむっている緹雅ティアを、こしてしまわないように。


わたし窓辺まどべあるり、指先ゆびさきでカーテンのはしをそっとまみ、わずかに隙間すきまけた。

まぶしい陽光ようこうがそのからみ、空気中くうきちゅうただよ微塵みじん横切よこぎって、ちゅうやわらかなきんいとりなしていく。

陽光ようこうつよすぎず、ちょうどいい加減かげんで、部屋へや一隅いちぐうをやさしくらしていた。

ベッドのうえでは、緹雅ティアがまだふかねむっている。

呼吸こきゅうおだやかで、両頬りょうほおにはあわべにし、ほおまくら片側かたがわあずけたまま、かみ無造作むぞうさかおわきちていた。

ゆめなか何度なんど寝返ねがえりをったのだろう。

かすかにっていたまゆも、もうすっかりほどけている。

昨夜さくやえたちいさな不安ふあん意地いじ跡形あとかたもなく、そこにのこっているのは、やすらぎきったしずけさと、たしかな安心あんしんだけだった。


わたしはベッドのそばへもどり、おとてないようをつけながら、彼女かのじょ身側みがわにそっと片膝かたひざをついた。

いつのにか、彼女かのじょ肩先かたさき布団ふとんからちており、外気がいきさらされたはだは、朝光あさひなかでひときわしろえる。

わたしばし、布団ぶとんをそっとげて、彼女かのじょかたおおなおした。

できるかぎしずかに、物音ものおとひとつてないように。

緹雅ティアはわずかにじろぎしたが、ますことはなかった。

ただ、かる体勢たいせいえ、まるでそのぬくもりにゆだねるかのように、すこしだけってくる。

わたしは、彼女かのじょとこれほどちかくいられるるなど、かんがえたこともなかった。

ましてや、こんなあさまもりたいとおも瞬間しゅんかんおとずれるとは——たとえ、それがほんの一瞬いっしゅんであったとしても。

ふとかえると、たくうえには、昨夜さくやのこした酒杯しゅはいがまだかれている。

あかさけ硝子がらすなかしずかに朝光あさひ欠片かけらうつし、昨夜さくや言葉ことばにしきれなかった感情かんじょう余温よおんを、そのままめているようだった。

わたしちいさくいきき、酒杯しゅはいひとつずつかたづけると、盥洗室かんせんしつはこび、中身なかみをすべてながしててた。

もともと緹雅ティアさけよわい。

もし今日きょう目覚めざめたときに、まだ余韻よいんのこっていたら——きっと、一日中いちにちじゅう頭痛ずつうなやまされることになるだろう。


着替きがえをませたわたしは、緹雅ティアこさないよう細心さいしん注意ちゅういはらい、おとてずに部屋へやた。

彼女かのじょはまだふかねむっており、口元くちもとには、ゆめ余韻よいんひたっているかのような、かすかな微笑ほほえみがかんでいる。

私は一度いちどだけかえってその寝顔ねがおつめ、そしてしずかにとびらめた。

今日きょうは、ひさしぶりに早起はやおきができただった。

ここ数日すうじつ移動いどうつづき、つかれから昼夜ちゅうや感覚かんかく曖昧あいまいなまま、無秩序むちつじょやすんでいたようにおもう。

けれど、今朝けさたこのしずかな時間じかんが、うしないかけていた自分じぶんのリズムを、すこしだけもどさせてくれたがした。

私は階段かいだんり、二階にかい船室せんしつにある共用きょうようスペースへかった。

船内せんない食堂しょくどう二十四時間にじゅうよじかん営業えいぎょうしており、そらしろはじめたばかりのこの時間帯じかんたいでも、早起はやおきの旅客りょかく船員せんいんが、数人すうにんほどせきいてしずかに食事しょくじをしている。

あたたかなあかりが木製もくせいゆかやわらかなテーブルクロスのうえそそぎ、

その空間くうかん全体ぜんたいは、不思議ふしぎなほどおだやかで、やすらぎにちていた。


わたしはカウンターへかい、サンドイッチを二人分ふたりぶんとミルクを注文ちゅうもんした。

緹雅ティアぶんも、部屋へやかえるつもりだ。

料理りょうりてくるのをあいだ何気なにげなく周囲しゅういける。

すると、窓際まどぎわせきで、船員せんいん制服せいふくわか二人ふたりが、こえひそめるでもなく、ひくこえはなんでいるのがはいった。

その口調くちょうみょう高揚こうようしていて、興奮こうふんかくしきれていない。

まるで、なにかとてつもない出来事できごとかたっているかのようだ。

いたか?」

「ええ……本当ほんとうに、すごいですよ。」

その言葉ことばが、ふいにわたしみみんできて、おもわず動作どうさめてしまった。

……すごい?

なにが?

二人ふたりこえには、からかいのいろはなく、

むしろ、つよ衝撃しょうげきともな光景こうけいかたっているかのような、真剣しんけんさがにじんでいた。


わたしは、がつけば自然しぜんかれらのほうへあるっていた。

なにかあったんですか?」

おもわず、そうこえをかけてしまう。

二人ふたり同時どうじにこちらをて、はっとした表情ひょうじょうかべた。

まるで、見知みしらぬきゃくはなしかけられるとは、想定そうていしていなかったかのようだ。

そのうちの一人ひとりが、ぱちりとまたたきをし、

自分じぶんたちのこえおもった以上いじょうおおきかったことにづいたのだろう、ちいさくこえとしてった。

「おきゃくさま……ごぞんじないんですか?」

わたし一瞬いっしゅん言葉ことばまり、むねおくに、理由りゆうからない不安ふあんひろがるのをかんじた。

「……りません。なにがあったんですか?」

昨夜さくやそと大変たいへんなことがきたんです。」

もう一人ひとりこえおさえ、どこか秘密ひみつめいた調子ちょうしで、しかしかくしきれない高揚こうようにじませながらつづける。

「ええ……あの光景こうけいは、本当ほんとうすごかったですよ……。」



わたし片手かたて朝食ちょうしょくげ、もう一方もういっぽうとびらわきえ、ひとつふかいきってから、いつものくせさきかるくノックをした。

「トン、トン。」

数秒すうびょうってみたが、部屋へやなかからはなに反応はんのうかえってこない。

相手あいて緹雅ティアだからといって、油断ゆだんするわけにはいかなかった。

もし彼女かのじょ着替きがえの最中さいちゅうだったりしたら、このまま不用意ふよういむなど、かんがえただけでもおそろしい。

それでも、しばらくっても返事へんじはなく、わたしはようやく慎重しんちょうかぎし、できるかぎおとてないようにとびらけた。

そとからなかはいると、室内しつないはやや薄暗うすぐらかんじられた。

カーテンは完全かんぜんにはめられておらず、ゆかうえに、ななめにほそひかり一本いっぽんしずかにちている。

緹雅ティアは、まだねむっていた。

どうやら、昨夜さくやはやはり相当そうとうつかれていたのだろう。

そうおもった途端とたんわたしおもわずほおあつくなるのをかんじた。

……この時間じかんに、そんなことをかんがえるなんて、さすがにやばいとおもった。


わたし視線しせんらし、朝食ちょうしょくたくうえいてから、わきこしろした。

そして、聖王国せいおうこく神明しんめいわたしたちにさずけた誓約せいやく写本しゃほんひらき、ページいながら、緹雅ティアきるのをつ。

どれほど時間じかんったのかからない。

背後はいごから、かすかな寝言ねごとのようなこえこえてきた。

「ん……ぎょ……凝里ギョウリ、おはよう……」

わたしかえる。

すると、緹雅ティア布団ふとんからかおのぞかせ、こすりながら、ゆっくりとがっていた。

寝起ねおきのこえには、まだすこかすれた調子ちょうし気怠けだるさがのこっている。

焦点しょうてんいきらないひとみわたしつめ、完全かんぜんには目覚めざめていない様子ようすながらも、なんとか元気げんきそうにおうとしている——

その仕草しぐさが、なんともえず可愛かわいらしかった。



わたし誓約せいやく写本しゃほんじ、くすりとわらってった。

「おはよう。」

それからたくうえ食事しょくじゆびさし、朝食ちょうしょくべにていいよ、という合図あいずおくる。

「え~、わざわざしたまでってってきてくれたの……?」

緹雅ティアこえにはすこしのおどろきと、どこかれたようなひびきがじっていた。

突然とつぜんこみげたうれしさを、かくそうとしているみたいだ。

彼女かのじょはベッドからり、あくびをころしながら自分じぶんふくばす。

うごきはどこかのんびりしていて、着替きがわるまでにすこ時間じかんがかかった。

そのあいだも、ぶつぶつと小声こごえ文句もんくっている。

「うぅ……はやきしすぎだよ……。かみもこんなにぐちゃぐちゃ……」

たしかに、彼女かのじょ金髪きんぱつはまだすこみだれていて、ふさかたにばらりとちていた。

けれど、朝日あさひけて、そのかみはかえって自然しぜんやわらかさをびている。

大丈夫だいじょうぶだよ。わってから、ゆっくりととのえればいい。」

わたしわらってそうった。

緹雅ティア朝食ちょうしょくくちはこはじめるのをながら、

わたし昨夜さくやきた出来事できごとを、彼女かのじょはなはじめた。



昨夜さくや深夜しんや、それまでしずかでおだやかだった海面かいめんに、突如とつじょとしてはげしい変化へんかおとずれた。

夜空よぞらがまだ完全かんぜんやみしずらぬうち、地平ちへい彼方かなたひろがっていた雲層うんそうは、にわかにすみながしたかのようにまり、

つぎ瞬間しゅんかんなん前触まえぶれもなく、幾筋いくすじもの稲妻いなづまよるとばりいた。

直後ちょくご暴風ぼうふう豪雨ごううてんよりたたきつけ、

うみはたちまちなべのようにくるはじめた。

托德は護衛船ごえいせん甲板かんぱんち、あめたれておもれた斗篷とほうまといながら、ふかまゆせていた。

その表情ひょうじょうは、これまでせたことのないほど、めている。

かれかんっていた。

——これは、ただのあらしではない。

この異変いへんは、まるで何者なにものかの「意志いし」が、うみこうからせまってくるかのようだった。

そして事態じたいは、かれもっとおそれていた方向ほうこうへと、確実かくじつころがりはじめていた。



海面かいめんは、一瞬いっしゅんにして激変げきへんした。

さきほどまで、かろうじて平穏へいおんたもっていた波光はこうは、いま狂風きょうふうかれ、無数むすう浪柱なみばしらへとわる。

巨大きょだいなみうずきながら船舷せんげんたたきつけられ、みみつような、戦慄せんりつおぼえる轟音ごうおんひびかせた。

雷鳴らいめいちるよりさきに、ひくおもうなりが、海底かいていからがってくる。

それはかみなり咆哮ほうこうではない。

なに途方とほうもなく巨大きょだい存在そんざいからはなたれた、警告けいこくそのものだった。

あまりに低周波ていしゅうはで、胸腔きょうくうおくつぶすようにひびき、呼吸こきゅうすら困難こんなんにさせる。

托德は、甲板かんぱん護欄ごらん両手りょうてつよつかみ、暴雨ぼううこうへとらした。

視線しせんさきくるやみなかから、次第しだい不吉ふきつかげが、その輪郭りんかくあらわはじめている。

「……やはり、あいつか。」

かれは、ほとんど吐息といきちかこえつぶやいた。

その表情ひょうじょうからは、もはや恐怖きょうふ重圧じゅうあつも、かくしようがない。

長年ながねんかれもっと遭遇そうぐうしたくないとねがつづけてきた災厄さいやく——

それが、よりにもよって今夜こんや現実げんじつのものとして、姿すがたあらわしたのだった。


即座そくざ撤退てったい信号しんごうせ!」

かれは、そばにいた魔法使まほうつかいへかって、大声おおごえさけんだ。

護衛船ごえいせん商船しょうせんあいだは、つねいちキロほどの安全距離あんぜんきょりたもっている。

それは、まさにこの最悪さいあく事態じたいそなえるためだった。

災厄さいやく完全かんぜん姿すがたあらわまえ警告けいこくはっすることができれば、

商船しょうせんがわも、まだ航路こうろ調整ちょうせいし、撤退てったいうつ猶予ゆうよがある。

托德は信号水晶しんごうすいしょうき、てのひらなかつよにぎめた。

伝訊でんしん陣列じんれつ起動きどうする、その瞬間しゅんかんそなえて。


しかし——

不意ふいに、ひとつのが、おともなくかれ手首てくびかさねられた。

托德は、はっとしてかえる。

いつのにか、背後はいごには全身ぜんしん深紫色しんししょく法袍ほうほうつつんだ、見覚みおぼえのないおんなっていた。

暴雨ぼうう烈風れっぷうは、いまにも彼女かのじょ姿すがたしてしまいそうだったが、

それでも彼女かのじょは、磐石ばんじゃくのようにそのつづけている。

かおはフードの陰影いんえいおおわれ、そのしたからのぞくのは、よるそのもののようにつめたい紫色むらさきいろひとみだけだった。

「き、きみは……だれだ? どうやってはいってきた?」

托德トッド反射的はんしゃてき一歩いっぽあとずさり、身構みがまえる。

だがおんなこたえなかった。

ただ、人差ひとさゆびしずかにくちびるて、

「しー……」とせいする仕草しぐさせる。

そのこえは、おどろくほどやわらかかった。

いまは、大人おとなたちをもっと邪魔じゃましてはいけない時間じかんなの。」

語調ごちょうはあくまで平静へいせいで、

その言葉ことばだけをけば、意味いみはあまりにも不可解ふかかいだった。

しかし——

彼女かのじょからにじ気配けはいは、

否応いやおうなくひとせるほどの、強烈きょうれつ威圧感いあつかんびていた。


「……くるっているのか?

あれは世界せかい災厄さいやくだ。この世界せかいそのものが対処たいしょできない存在そんざいなんだぞ!

いますぐ、全員ぜんいん撤退てったいさせるべきだ!」

托德トッドはその状況じょうきょうまえに、はげしいいかりをあらわにした。

かれはそのおんなちからづくで退けようとし、

一刻いっこくはやく、商船しょうせんにいるすべての人々(ひとびと)へ警告けいこくつたえにこうとする。

本来ほんらい護衛隊ごえいたいとして、

そして隊長たいちょうとして——

托德トッド行動こうどうは、まさに模範もはんぶべきものだった。

事態じたい即座そくざ見極みきわめ、

躊躇ちゅうちょなく、もっと合理的ごうりてき判断はんだんくだす。

それこそが、かれせられた責務せきむであり、なにより重要じゅうよう役割やくわりだ。

たとえ、だれかがはばもうとも——

そこにまよいは、ゆるされなかった。


しかし、托德トッドがそのおんなちからまかせにばそうとした、その瞬間しゅんかん——

なん前触まえぶれもなく、空気くうきなか透明とうめい結界けっかい瞬時しゅんじ展開てんかいし、かれはじかえした。

その結界けっかいは、水面みなもひろがる波紋はもんのようにらめき、

おとひとつてぬまま、しかしおどろくほど強靭きょうじんだった。

托德トッドおもわずうごきをめ、

あらためておんな見据みすえる。

今度こんどこそ、フードのおくかくされていた、そのするど紫色むらさきいろ瞳孔どうこうを、はっきりととらえた。

おんなは、かすかに溜息ためいきをつく。

そのこえ相変あいかわらずおだやかだった。

「お願い(おねがい)ですから、そんなに乱暴らんぼうしないでください。」

托德トッドうちで、いかりが一気いっきがる。

いまにもつるぎきかねない衝動しょうどうが、全身ぜんしんめぐった。

だが——

長年ながねんにわたる軍旅ぐんりょ経験けいけんが、かれ冷静れいせい警告けいこくきつける。

まえにいるこのおんなは、

けっして軽々(かるがる)しくしていい相手あいてではない——

そう、本能ほんのうげていた。



妲己ダッキからはなたれる気場きばは、ただ強大きょうだいなだけではない。

それは、相手あいてむほどに圧倒的あっとうてきな——「余裕よゆう」そのものだった。

風雨ふうう戦意せんい渦巻うずまなかで、彼女かのじょはふいに語調ごちょうえる。

わたしは、対立たいりつするためにたのではありません。」

妲己は斗篷とほうしたから右手みぎてばし、

てのひらしたけたまま、ゆっくりとげる。

それは、いまにもがりそうななにかを、しずかにさえむかのような仕草しぐさだった。

全面ぜんめん撤退てったい決断けつだんするまえに、

ひとつ、わたし提案ていあんいていただけませんか?」

托德トッドいしばり、

いかりとめた警戒心けいかいしん必死ひっしおさえながらう。

「……なにをするつもりだ。」

「その“相手あいて”は、わたしけます。」

妲己ダッキこえ終始しゅうしいており、

一言ひとこと一言ひとことが、くことなく、たしかなおもみをともなっていた。

「……もし、わたし処理しょりできなかった場合ばあいは——

そのときに、あなたがたなにえらぼうとも、わたしめません。」



しかし、妲己ダッキくちからかたられた、あまりにも自信じしんちた宣言せんげんまえに、

甲板かんぱんにいた人々(ひとびと)は、だれ一人ひとりとして動揺どうようかくせなかった。

それはけっして、ありふれた魔物まものなどではない。

大海原おおうなばらそのものをふるわせる、深海しんかい災厄さいやく——。

たとえ、その怪物かいぶつ自分じぶんたことがなくとも、

それが自分じぶんたちのえる存在そんざいではないことくらい、だれもが理解りかいしていた。

「……あんたは、その“相手あいて”がなになのか、かっているのか?」

托德のこえは、すでにわずかにかすれている。

剣柄けんづかにぎはなさぬまま、

その身体からだは、重圧じゅうあつあらがうようにかた強張こわばっていた。

「もちろんです。」

妲己のこえは、なおもきりのようにやわらかい。

相手あいてかた恐怖きょうふなど、

ただまえながれていく一景いっけいぎないかのように——。



「……そこまでの確信かくしんがあるとでもうのか?」

托德トッドいしばり、するどった。

かれけっして臆病おくびょうなのではない。

ただ、部下ぶかたちを無駄むだにさせたくなかっただけだ。

妲己ダッキ正面しょうめんからこたえず、

ただしずかに視線しせん海平線かいへいせんへとけた。

その紫色むらさきいろひとみ底知そこしれず、

まるで、すべてを見通みとおしているかのようだった。

彼女かのじょくちひらこうとした、その刹那せつな——

「グオォォ──!」

海面かいめん突如とつじょとしてはげしくち、

巨大きょだい章魚たこ触手しょくしゅが、浪濤ろうとうなかから一気いっきがった。

それは、地獄じごく深奥しんおうからしてきたやみかげのように、

海水かいすい暴風ぼうふうげ、

あらがいようのない破壊力はかいりょくともなって、護衛船ごえいせんへと突進とっしんしてくる。

その触手しょくしゅは、帆柱ほばしらよりもふとく、

表面ひょうめんには紫紅色しこうしょく魔紋まもん海水かいすいからみつき、

空気くうきにはおもわずもよおすほどの生臭なまぐささと、

おもせる霊圧れいあつちていた。

数名すうめい兵士へいしは、そのひざふるわせ、

顔色かおいろ瞬時しゅんじ蒼白そうはくへとわる。

「くそっ……!

あの一撃いちげきなら、ふねごとこわされるだろう……!」

托德は、はっとかえり、

怒号どごうげた。

「ちくしょう!

貴様きさま時間じかんばさなければ、

とっくに最善さいぜん対応たいおうれたものを!

全員ぜんいん退避たいひだ——ふねてろ!!」


「その必要ひつようはありません。」

妲己のこえは、終始しゅうしゆったりとしており、

そこには、わずかな倦怠けんたいすらにじんでいた。

人々(ひとびと)が、もはや死神しにがみせまると覚悟かくごした、その瞬間しゅんかん——

あわ紫色むらさきいろ符紋ふもんびた防御ぼうぎょ障壁しょうへきが、船体せんたい周囲しゅうい一斉いっせい展開てんかいした。

それは、まるで反転はんてんした円月えんげつが、

海面かいめんからさかさにがったかのようだった。

「ドンッ!」

巨大きょだい触手しょくしゅが、防御障壁ぼうぎょしょうへき真正面せいめんからたたきつけられ、

にぶおも衝撃音しょうげきおん甲板かんぱんひびわたる。

つぎ瞬間しゅんかん

空気くうきなかに、くようなおと爆裂ばくれつ連鎖れんさはしった。

それは、まるで巨獣きょじゅう雷撃らいげきけたかのような、

がた悲鳴ひめいにも咆哮ほうこうだった。

紫色むらさきいろ稲妻いなづま結界けっかい表面ひょうめんはじけ、

そのまま触手しょくしゅつたって海中かいちゅうへとはしける。

られた海面かいめんは、

「ジジジ……」とおとてながら、くるしげに泡立あわだっていた。


人々(ひとびと)は、呆然ぼうぜんくしていた。

本来ほんらいなら、かれらのふね木屑きくずへとたたくだくに十分じゅうぶんなはずの一撃いちげきは、まえつこの神秘的しんぴてきおんなによって展開てんかいされた一枚いちまい防御ぼうぎょ障壁しょうへきにより……完全かんぜんふせがれていた。

「こ、こんな……ありるはずが……」

彼女かのじょ一人ひとりで……めたというのか……?」

托德トッド妲己ダッキするど見据みすえながら、おのれつよにぎめていた。

そのゆび関節かんせつは、すでにしろくなるほどであった。

かれしんじたくないわけではない。ただ、このまえきている光景こうけいが、あまりにも常識じょうしきえすぎていたのだ。

だが、妲己ダッキ終始しゅうし平然へいぜんとしていた。

彼女かのじょはただしずかに正面しょうめん海面かいめんつめているだけで、まるで最初さいしょから、こうなることをっていたかのようであった。


るほど……」

彼女かのじょは、かすかにひくこえつぶやいた。

その口調くちょうおどろきはなく、まるでなにかの推測すいそくたしかめたかのような、冷静れいせいさだけがあった。

彼女かのじょいまなにかんがえているのか――それをものは、だれ一人ひとりとしていない。

だが、人々(ひとびと)が問い(と)いかけるもなく、海面かいめんふたたはげしくうねりはじめた。

今回こんかいあらわれたのは、もはや単一たんいつ触手しょくしゅではない。

水中すいちゅうから次々(つぎつぎ)とおどる、漆黒しっこく巻鬚まきひげれ――それらは、くるったように成長せいちょうする樹根じゅこんのごとく、護衛船ごえいせんへとおそいかかってきた。

その一撃いちげきはな威圧いあつは、さきほどをはるかにしのぎ、くる海浪かいろうをほとんどぷたつにかんばかりであった。

それは、まるで深海しんかい最奥さいおうからがる怒火どかが、そのままてんへとがってくるかのようであった。


るのが、わたしおもっていたよりも、ずっとはやい……」

妲己ダッキ左手ひだりてかるり、防御ぼうぎょ屏障しょうへきふたた展開てんかいさせた。

ただし、今回こんかい屏障しょうへきは、さきほどとはことなり、より一層いっそうあつみをし、交錯こうさくする六芒ろくぼう符印ふいんと、符文ふもん陣式じんしきさえびていた。

それらの触手しょくしゅは、ふたた外側そとがわはばまれ、はげしい身動みうごきと、苦痛くつうにも哀鳴あいめいげた。


幾度いくどにもわたる攻撃こうげきが、いずれも効果こうかさないとさとったのか、海底かいていひそむその巨獣きょじゅうは、ついに本気ほんきせた。

深海しんかいそこから洋流ようりゅう全体ぜんたいをかきみだし、直後ちょくごてんくほどの巨大きょだい波浪はろうこす。

くろかべのようにそそりつその巨浪きょろうは、護衛船ごえいせん遠方えんぽう商船しょうせんへと一直線いっちょくせんせまり、まるでのようにちいさなふねたちを、一息ひといきもうとしているかのようであった。

その巨浪きょろうは、狂風きょうふう雨幕うまくなかすさまじいはやさで接近せっきんし、空気くうきさえふるわせる圧迫感あっぱくかんともなって、海域かいいき一帯いったい瞬時しゅんじ騒然そうぜんとさせた。

「もし、このなみが、大人おとなたちのふね直撃ちょくげきでもしたら……厄介やっかいね」

妲己ダッキは、だれかせるでもなく、しずかにひとごとらした。


人々(ひとびと)がいきめて見守みまもるその瞬間しゅんかんでさえ、妲己ダッキ表情ひょうじょう終始しゅうしわらず、しずかなままであった。

彼女かのじょ紫色むらさきいろ斗篷とほうはしをそっとげ、そのしたかくされていた三本さんぼん銀白色ぎんぱくしょくを、わずかにのぞかせる。

そのは、まるで凝縮ぎょうしゅくされたエネルギーそのもののような存在そんざいであり、星光せいこうおもわせるむらさきほのおが、ゆるやかに流動りゅうどうしていた。

妲己ダッキが、かすかにれた刹那せつな空気中くうきちゅうにはえぬうずしょうじ、あたかもなにかの引力場いんりょくば起動きどうしたかのようであった。

てんいきおいでそびっていた巨浪きょろうは、その瞬間しゅんかん突如とつじょとして凝滞ぎょうたいせ、浪頭なみがしら前進ぜんしんは、次第しだいにぶっていく。

やがて、それはえざるしばられたかのようにうごきをふうじられ、巨浪きょろう威勢いせい急速きゅうそくくずり、みずかべ無数むすう水霧すいむへと潰散かいさんし、最終的さいしゅうてきには、なにおとのこさぬまま、しずかに海中かいちゅうへとしずんでいった。

周囲しゅうい海面かいめんは、さきほどよりもなお静穏せいおんとなり、そのあまりのしずけさは、おもわず背筋せすじ粟立あわだつほどであった。

護衛船ごえいせん兵士へいしたちは、ただ見開みひらいたまま、だれ一人ひとりとしてこえはっすることができなかった。

かれらはただ、あのおそるべき海嘯かいしょうが、あまりにもあっさりと無効化むこうかされる光景こうけい目撃もくげきするしかなく――それはまるで、自然しぜんことわりえた、なにかしらの神蹟しんせきせつけられているかのようであった。



しかし――

妲己ダッキは、どうやらひとつのてん見誤みあやまっていたようであった。

巨大きょだい波浪はろう船団せんだん実質的じっしつてき被害ひがいあたえこそしなかったものの、あの一瞬いっしゅんがり、そしてくずった驚愕きょうがくすべき光景こうけいは、すでに商船しょうせん船長せんちょう船員せんいんたちの注意ちゅういつよせていた。

遠方えんぽう商船しょうせんでは、すでに数十名すうじゅうめい動揺どうようかくしきれぬ船員せんいんたちがあつまり、さらにおおくのもの滂沱ぼうだそそ大雨おおあめをものともせず甲板かんぱんへとせていた。

かれらは海面かいめんゆびさして口々(くちぐち)に言葉ことばわしながら、不安ふあんかくせぬ様子ようすで、周囲しゅういきなく見回みまわしていた。


「こ、これは……すこ厄介やっかい状況じょうきょうになってきたわね……」

琪蕾雅キレアは、ややはなれた船縁ふなべりち、うでんだまま、冷静れいせいきを観察かんさつしていた。

緹雅ティアさまからは、はっきりとわれているわ。

――だれであろうと、かれらの邪魔じゃまをさせるな、って。

海底かいていからる、あの存在そんざいであっても、例外れいがいじゃない」

米奧娜ミオナも、どこかかない様子ようすでそうった。

「まったく、妲己ダッキってやつは……

なつかしい玩具おもちゃつけると、すぐもてあそびたくなる。

むかしから、ずっとそうだったわ」

雅妮ヤニーはこのとき人形ひとがたへと姿すがたえ、マストのかたわらにもたれかかりながら、気怠けだるげにくびった。

その口調くちょうには、あきれと無奈むなさがにじみつつも、長年ながねんともたいする、したしんだ理解りかいが感じかんじとれた。

雅妮ヤニーさま、このままでは本当ほんとう問題もんだいきてしまいます……。

もしおおきな騒動そうどう発展はってんしてしまったら、緹雅ティアさまは、きっとおいかりになります……」

彼女かのじょそば朵莉ドリは、はっきりとした不安ふあんかべ、指先ゆびさきころもはしをくるくるといじりながら、あせりをかくせない声音こわねうったえた。

問題もんだいないわ」

雅妮ヤニーは淡々(たんたん)とそううと同時どうじに、すでに空中くうちゅうへと、銀白色ぎんぱくしょく魔法陣まほうじんを次々(つぎつぎ)とえがはじめていた。

雨水あまみずなかで、符文ふもんはかすかなひかりび、まるで空気くうきそのものに、あるしゅ魔法構造まほうこうぞうきざんでいくかのようであった――。


海面かいめんはげしく翻騰ほんとうし、濃霧のうむ暴風ぼうふうなか渦巻うずまき、巨浪きょろう雲層うんそうく。

まるで地獄じごく呼吸こきゅうが、深奥しんおうよりがってくるかのようであった。

そして、ついに――

それは姿すがたあらわした。

漆黒しっこく海底かいていから、あの巨獣きょじゅうがゆっくりと浮上ふじょうする。

それは、まるで千年せんねんものねむりについた魔神まじんが、突如とつじょとして目覚めざめたかのようであった。

最初さいしょ水面すいめんへとあらわれたのは、しまにもひとしいほどの巨大きょだい頭顱とうろである。

深藍色しんあいいろ甲殻こうかく全身ぜんしんおおい、そこにはふる魔紋まもんと、深海しんかい潮流ちょうりゅうけずられた風蝕ふうしょく痕跡こんせき無数むすうきざまれていた。

海水かいすいはそのよりたきのようにながち、幾重いくえもの飛沫しぶきげる。

そして双眼そうがん――深淵しんえんうずおもわせるその両眼りょうがんは、いきまるほどの精神的せいしんてき圧迫あっぱくび、まっすぐにそらにらえていた。

それこそが、うみ支配しはいする絶対的ぜったいてきおう――海之王うみのおう奈吉托斯ナギトスであった。



貴様きさま……ただただものではないな」

そのこえひくしずみ、言語げんごというよりも、意識いしきそのものがふるわされるかのような波動はどうであった。

しかし、妲己ダッキはすでにその眼前がんぜんち、海風うみかぜ月光げっこういだかれるようにちゅうへとかんでいた。

紫色むらさきいろ斗篷とほう夢境むきょうのようにかぜはらみ、ひらりひらりとひるがえる。

彼女かのじょにした羽扇うせんかるらし、くちびるはしには優雅ゆうが微笑びしょうかべていた。

その眼差まなざしは、まるで水溜みずたまりでもがく一匹いっぴき泥鰍どじょうながめているかのようである。

「区々(くく)たる一匹いっぴきむしごときが、大言たいげんくとは……」

妲己ダッキはくすりとわらい、ゆめともうつつともつかぬ声音こわねつづけた。

いまのうちに退しりぞけば、まぐれでいのちだけは見逃みのがしてあげるかもしれないわ。

でなければ……後悔こうかいすることになるわよ?」

奈吉托斯ナギトス瞳孔どうこうはげしく収縮しゅうしゅくし、内奥ないおう渦巻うずま怒意どい一気いっき沸騰ふっとうした。

海之王うみのおうとして、太古たいこよりこの海域かいいき統治とうちし、三千年さんぜんねんにわたり、誰一人だれひとりとしてかれ退しりぞかせたものはいない。

それにもかかわらず――いま、このおのれ主場しゅじょうにおいて、わか人類じんるいおんなごときに、公然こうぜん挑発ちょうはつされるとは。

その屈辱くつじょくいかりは、もはやおさえきれるものではなかった。



狂妄きょうぼう凡人ぼんじんめ……

貴様きさまわれ何者なにものであるか、かっているのか?

われ海之王うみのおう奈吉托斯ナギトス――

かつて偉大いだいなる妖王ようおうつかえし、第一だいいち近侍きんじ

三千年さんぜんねんにわたり八海はっかい席巻せっけんしてきたこのわれに、

区々(くく)たる人類じんるいごときが、威嚇いかくするだと?」

奈吉托斯ナギトス怒号どごうはなち、無数むすう触手しょくしゅ水下すいかから一斉いっせいがる。

それらは海蛇うみへびのごとく蜿蜒えんえんとうねりくるい、一本いっぽん一本いっぽんに、すくませるほどのおそるべき威圧いあつ宿やどしていた。

そのうちの数本すうほんはげしくるわれ、ちゅうにある妲己ダッキへと猛然もうぜんおそいかかる。

その一撃いちげき一撃いちげきは、巨大きょだい戦船せんせんでさえ、粉砕ふんさいしてちりすに威力いりょくめていた。

空気くうきは、硝子がらすくだけるかのような震鳴しんめいげ、海風うみかぜ魔圧まあとは、この空間くうかんはげしくう。

――だが。

妲己ダッキは、ただかるやかにひるがえした。

羽毛うもううかのように触手しょくしゅ軌道きどうをすりけ、

そのうごきのひとひとつは、まるで相手あいて出手ですを、つね一歩いっぽさき見切みきっているかのようであった。


けるのは、なかなかはやいようだな……

だが――これは、れるかな?」

いかりが極限きょくげんたっした奈吉托斯ナギトスは、すべての触手しょくしゅ一点いってんへと収束しゅうそくさせ、空中くうちゅう凝集ぎょうしゅうした。

轟鳴ごうめいとともに、おのれ魔力まりょく狂気きょうきのごとくそそみ、核心かくしん光点こうてん黒洞こくどうのように圧縮あっしゅくされ、ゆがみ――空気くうきそのものが崩壊ほうかいはじめる。

だが、妲己ダッキは、なおもうごかなかった。

半空はんくうかんだまま、そっとじ、かすかな吐息といきとともにつぶやく。

「……もう、しょうがなくなったの?」

せてやろう――

われほこる、究極きゅうきょく殺招さっしょう――うみいかりを!」

つぎ瞬間しゅんかん、まるで海洋かいようそのものが、奈吉托斯ナギトス咆哮ほうこう呼応こおうしたかのようであった。

山岳さんがくをもくにる、水流すいりゅう光柱こうちゅう轟然ごうぜんはなたれ、妲己ダッキ存在そんざいする空域くういきへと一直線いっちょくせんすすむ。

それは、彼女かのじょごと天穹てんきゅうをもまんとするかのようであった。

妲己ダッキには、鑑定かんていとおさずとも理解りかいできていた。

この規模きぼ魔法攻撃まほうこうげきは、十階じっかい魔法まほう匹敵ひってきする。

そして、これを回避かいひすれば――背後はいごにいる護衛隊ごえいたいも、商船しょうせんものたちも、誰一人だれひとりとしてのこれない。



「ふふ……この、なかなかいじゃない」

妲己ダッキは、だれにもとどかぬほどのこえで、しずかにつぶやいた。

その言葉ことばちた刹那せつな妲己ダッキ周囲しゅういちる気息きそくは、劇的げきてき変貌へんぼうする。

――領域魔法りょういきまほう妖狐之鳴ようこのなき

彼女かのじょ背後はいごで、もとはほのかにらめいていた三条さんじょうは、天河てんがながれのごとく一変いっぺんし、瞬時しゅんじ七条しちじょう狐尾こびへと姿すがたえた。

銀光ぎんこうをきらめかせ、尾焔びえんひるがえすその一本いっぽん一本いっぽんが、空間くうかん律動りつどう牽引けんいんし、尾端びたんには淡金色たんきんしょく妖気ようきらめいている。

空気中くうきちゅうには、人声ひとごえでも獣吼じゅうこうでもない、不思議ふしぎ吟鳴ぎんめいひびわたった。

それは、月下げっか遠古えんこなるもりよりとどく、原初げんしょ詠唱えいしょうであるかのようであった。

この魔法まほうは、やがて巨大きょだい円環えんかん形作かたちづくり、空気くうきそのものの色彩しきさいさえも、やわらかなむらさき深金しんきん交錯こうさくする光暈こううんへとげていった。


奈吉托斯ナギトス攻撃こうげきは、轟然ごうぜんはなたれた。

だが、妲己ダッキ領域魔法りょういきまほうまえでは、爆発ばくはつすることも、貫通かんつうすることもかなわない。

円環えんかんれた、その刹那せつな――

それは、おとなき宇宙うちゅう破片域はへんいきへとんだかのように、幾重いくえにも分解ぶんかいされ、微塵みじんへとくだり、痕跡こんせきひとのこさず消失しょうしつしていった。

神罰しんばつにもひとしいその魔法攻撃まほうこうげきは――

かくして、しずかに、完全かんぜんに、ったのである。



護衛船ごえいせんる人々(ひとびと)は、一斉いっせいいきみ、周囲しゅうい完全かんぜん静寂せいじゃくつつまれた。

とおはなれた商船しょうせんにいる三姉妹さんしまいもまた、その瞬間しゅんかん彼方かなたから拡散かくさんしてくる気息きそくを、同時どうじ感知かんちしていた。

米奧娜ミオナはじかれるようにがり、驚愕きょうがくこえげる。

妲己ダッキさま……まさか、あのわざ使つかったというの……?」

妲己ダッキさまが、こんな魔法まほう使つかうところを見る(み)るのは、わたしたち、はじめてよね!」

琪蕾雅キレア朵莉ドリは、そろってかがやかせ、おさえきれぬ興奮こうふんにじませながらくちにした。

「まったく……またはじまったわね」

雅妮ヤニーは、あきれたようにひたいさえつつも、その口元くちもとには、どうしてもかくしきれない微笑びしょうかんでいた。



一方いっぽう、そのとき奈吉托斯ナギトスは、巨体きょたい全体ぜんたいを、かすかにふるわせていた。

「……ありない……

この魔法まほう……この気息きそく……

これは――あの御方おかたの……」

その瞬間しゅんかん奈吉托斯ナギトス愕然がくぜんさとった。

体内たいない能動的のうどうてき渦巻うずまいていたはずの魔力まりょくが、いま凍結とうけつされたかのように停滞ていたいし、おもうようにうごかなくなっている。

そして――

このときになってはじめて、かれづいたのだ。

みずからが「海之王うみのおう」であることを象徴しょうちょうする権能けんのう――

あらし災厄さいやくつかさどるそのちからが、いつのにか完全かんぜん封鎖ふうさされていることに。

もはやかれには、海流かいりゅう喚起かんきすることも、風圧ふうあつあやつることすらできなかった。

この現実げんじつまえにして、奈吉托斯ナギトスはようやく理解りかいする。

さきほどまで、みずからが攻撃こうげきくわえていた相手あいてが――

いかに、常識じょうしき序列じょれつ超越ちょうえつした、おそるべき存在そんざいであったのかを。


暴風ぼうふう突如とつじょとしてみ、万籟ばんらいはことごとく沈黙ちんもくした。

さきほどまで怒濤どとうのごとくくるっていた海面かいめんは、あの圧倒的あっとうてき魔力まりょく爆発ばくはつあと、まるで奇跡きせきのようにしずけさをもどしていた。

そらおおっていた烏雲ううんは、ゆっくりとりゆき、雲間くもまから月光げっこうが、死寂しじゃくしず海面かいめんあわ銀光ぎんこうげる。

護衛船ごえいせん騎士団きしだんの面々(めんめん)は、だれもが見開みひらいたまま、なおも視線しせんを、遠方えんぽう海面かいめん――かつて巨獣きょじゅう鎮座ちんざしていたはずの区域くいきへとつづけていた。

だが、いまやそこにはなにえない。

あの巨大きょだいなる海之王うみのおう姿すがたも、

そして、むらさきころもまとった、あの神秘的しんぴてきおんな姿すがたも――

すべてが、跡形あとかたもなくっていた。

海面かいめんは、まるで何事なにごともなかったかのようにからっぽで、

むしろさきほどよりも、いっそう不気味ぶきみなほどの静穏せいおんたたえている。

「……わったのか?」

わか騎士きし一人ひとりが、呆然ぼうぜんとした声音こわねつぶやいた。

暴雨ぼううんだ……

様子ようするに、あの怪物かいぶつ退しりぞいた、ということだろう」

べつ騎士きしまゆをひそめ、天際てんさいやりながらも、どこか確信かくしんてぬ口調くちょうこたえた。

「だが……おれたちは、結局けっきょくなにきたのか、ほとんどえていない」

托德トッドひくこえでそうげる。

このにいるなかで、もっと冷静れいせいかれは、表情ひょうじょうめたまま、なおも遠方えんぽう海面かいめんから視線しせんはずさずにいた。


かれは、海嘯かいしょうがり、そして一瞬いっしゅんにして崩壊ほうかいしていく過程かていた。

奈吉托斯ナギトスはな圧迫あっぱくと、突如とつじょとしておとずれた沈黙ちんもくのような沈降ちんこう届け、さらに、天幕てんまくつぶされるかのごとき魔力まりょく爆発ばくはつ一瞬いっしゅんひろがり、そしてる、その重苦おもくるしい感覚かんかくをも、たしかにかんっていた。

「……おれたちは、みなぬとおもっていた」

年嵩としかさ兵士へいしが、かすれたこえでそうつぶやく。

「だが、こうしてきている。ふねも……まだ無事ぶじだ」

何者なにものであれ、あの海之王うみのおう退しりぞかせた存在そんざいだ。

そのちからは……間違まちがいなく、我々(われわれ)の理解りかいはるかにえている」

托德トッドなにわず、ただしずかにうなずいた。

かれ胸中きょうちゅうには、これはたんなる危機きき回避かいひではなく、同時どうじ警鐘けいしょうでもある、という確信かくしんがあった。

――自分じぶんたちのとどかぬ領域りょういきに、なに得体えたいれぬ存在そんざいが、すでに介入かいにゅうしている。

托德トッドそらあおぎ、ひくった。

「このけんは……即刻そっこくうえ報告ほうこくしなければならない」


そしてそのときになって、ようやく人々(ひとびと)は、ひとつの奇妙きみょう事実じじつづいた。

いつからかさだかではないが、遠方えんぽうにある商船しょうせん船体せんたいが、きりのような一層いっそう気息きそくつつまれていたのである。

そのきり自然しぜん凝結ぎょうけつしたものではなく、むしろなにかしらの霊気れいき――あるいは結界けっかい外側そとがわへとびた結果けっかであるかのようで、商船しょうせん全体ぜんたい輪郭りんかく曖昧あいまいにぼかしていた。

しかし、海之王うみのおう気息きそく完全かんぜん退しりぞくにつれ、その濃霧のうむもまた、なにかにみちびかれるかのように、次第しだいうすれていった。

きりこうに、かすかにえていた商船しょうせんじょう人影ひとかげは、すこしずつ輪郭りんかくもどし、秩序ちつじょもまた回復かいふくしつつある様子ようすであった。

甲板かんぱんでは、ひとい、船員せんいんたちが三々五々(さんさんごご)にあつまり、何事なにごとかをはなっている姿すがたれる。

商船しょうせんにいたものたちが目撃もくげきしたのは、ただ奈吉托斯ナギトス触手しょくしゅあらわれ、海嘯かいしょうおそて、そしてしずまっていく、その一連いちれん出来事できごとだけであった。

奈吉托斯ナギトス存在そんざい完全かんぜんったことで、ようやく人々(ひとびと)は、めていたこころつるを、しずかにゆるめることができたのである。





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