第二卷 第一章 帰還-4
清晨の光が、そっと差し込んできた。
私はゆっくりと目を開ける。
周囲は静寂に包まれており、遠くで海浪が船身を打つ、かすかな音だけが聞こえていた。
魔晶灯はすでに消えており、室内に残っているのは、カーテンの縁から差し入る、細い金色の光だけだった。
それはまるで、暁が海に口付けたあとに残る、最初のやさしい一筋の温もりのようだ。
私は物音を立てないよう注意しながら、そっと身を起こした。
隣で眠っている緹雅を、起こしてしまわないように。
私は窓辺へ歩み寄り、指先でカーテンの端をそっと摘まみ、わずかに隙間を開けた。
眩しい陽光がその裂け目から差し込み、空気中に漂う微塵を横切って、宙に柔らかな金の糸を織りなしていく。
陽光は強すぎず、ちょうどいい加減で、部屋の一隅をやさしく照らしていた。
ベッドの上では、緹雅がまだ深く眠っている。
呼吸は穏やかで、両頬には淡い紅が差し、頬を枕の片側に預けたまま、髪が無造作に顔の脇へ落ちていた。
夢の中で何度か寝返りを打ったのだろう。
かすかに寄っていた眉も、もうすっかり解けている。
昨夜に見えた小さな不安や意地は跡形もなく、そこに残っているのは、安らぎきった静けさと、確かな安心だけだった。
私はベッドのそばへ戻り、音を立てないよう気をつけながら、彼女の身側にそっと片膝をついた。
いつの間にか、彼女の肩先が布団から滑り落ちており、外気に晒された肌は、朝光の中でひときわ白く見える。
私は手を伸ばし、掛け布団をそっと引き上げて、彼女の肩を覆い直した。
できる限り静かに、物音ひとつ立てないように。
緹雅はわずかに身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。
ただ、軽く体勢を変え、まるでその温もりに身を委ねるかのように、少しだけ寄ってくる。
私は、彼女とこれほど近くいられる日が来るなど、考えたこともなかった。
ましてや、こんな朝を守りたいと思う瞬間が訪れるとは——たとえ、それがほんの一瞬であったとしても。
ふと振り返ると、卓の上には、昨夜飲み残した酒杯がまだ置かれている。
赤い酒は硝子の中で静かに朝光の欠片を映し、昨夜、言葉にしきれなかった感情と余温を、そのまま閉じ込めているようだった。
私は小さく息を吐き、酒杯を一つずつ片づけると、盥洗室へ運び、中身をすべて流して捨てた。
もともと緹雅は酒に弱い。
もし今日目覚めたときに、まだ余韻が残っていたら——きっと、一日中頭痛に悩まされることになるだろう。
着替えを済ませた私は、緹雅を起こさないよう細心の注意を払い、音を立てずに部屋を出た。
彼女はまだ深く眠っており、口元には、夢の余韻に浸っているかのような、かすかな微笑みが浮かんでいる。
私は一度だけ振り返ってその寝顔を見つめ、そして静かに扉を閉めた。
今日は、久しぶりに早起きができた日だった。
ここ数日は移動が続き、疲れから昼夜の感覚も曖昧なまま、無秩序に休んでいたように思う。
けれど、今朝に得たこの静かな時間が、失いかけていた自分のリズムを、少しだけ取り戻させてくれた気がした。
私は階段を下り、二階の船室にある共用スペースへ向かった。
船内の食堂は二十四時間営業しており、空が白み始めたばかりのこの時間帯でも、早起きの旅客や船員が、数人ほど席に着いて静かに食事をしている。
温かな灯りが木製の床と柔らかなテーブルクロスの上に降り注ぎ、
その空間全体は、不思議なほど穏やかで、安らぎに満ちていた。
私はカウンターへ向かい、サンドイッチを二人分とミルクを注文した。
緹雅の分も、部屋へ持ち帰るつもりだ。
料理が出てくるのを待つ間、何気なく周囲へ目を向ける。
すると、窓際の席で、船員の制服を着た若い二人が、声を潜めるでもなく、低い声で話し込んでいるのが目に入った。
その口調は妙に高揚していて、興奮を隠しきれていない。
まるで、何かとてつもない出来事を語っているかのようだ。
「聞いたか?」
「ええ……本当に、すごいですよ。」
その言葉が、ふいに私の耳へ飛び込んできて、思わず動作を止めてしまった。
……すごい?
何が?
二人の声には、からかいの色はなく、
むしろ、強い衝撃を伴う光景を語っているかのような、真剣さが滲んでいた。
私は、気がつけば自然と彼らのほうへ歩み寄っていた。
「何かあったんですか?」
思わず、そう声をかけてしまう。
二人は同時にこちらを見て、はっとした表情を浮かべた。
まるで、見知らぬ客に話しかけられるとは、想定していなかったかのようだ。
そのうちの一人が、ぱちりと瞬きをし、
自分たちの声が思った以上に大きかったことに気づいたのだろう、小さく声を落として言った。
「お客さま……ご存じないんですか?」
私は一瞬言葉に詰まり、胸の奥に、理由の分からない不安が広がるのを感じた。
「……知りません。何があったんですか?」
「昨夜、外で大変なことが起きたんです。」
もう一人も声を抑え、どこか秘密めいた調子で、しかし隠しきれない高揚を滲ませながら続ける。
「ええ……あの光景は、本当に凄かったですよ……。」
私は片手に朝食を提げ、もう一方の手を扉の脇に添え、ひとつ深く息を吸ってから、いつもの癖で先に軽くノックをした。
「トン、トン。」
数秒待ってみたが、部屋の中からは何の反応も返ってこない。
相手が緹雅だからといって、油断するわけにはいかなかった。
もし彼女が着替えの最中だったりしたら、このまま不用意に踏み込むなど、考えただけでも恐ろしい。
それでも、しばらく待っても返事はなく、私はようやく慎重に鍵を取り出し、できる限り音を立てないように扉を開けた。
外から中へ入ると、室内はやや薄暗く感じられた。
カーテンは完全には閉められておらず、床の上に、斜めに差し込む細い光が一本、静かに落ちている。
緹雅は、まだ眠っていた。
どうやら、昨夜はやはり相当疲れていたのだろう。
そう思った途端、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
……この時間に、そんなことを考えるなんて、さすがにやばいと思った。
私は視線を逸らし、朝食を卓の上に置いてから、脇に腰を下ろした。
そして、聖王国の神明が私たちに授けた誓約の写本を開き、頁を追いながら、緹雅が起きるのを待つ。
どれほど時間が経ったのか分からない。
背後から、かすかな寝言のような声が聞こえてきた。
「ん……凝……凝里、おはよう……」
私は振り返る。
すると、緹雅が布団から顔を覗かせ、目を擦りながら、ゆっくりと起き上がっていた。
寝起きの声には、まだ少し掠れた調子と気怠さが残っている。
焦点の合いきらない瞳で私を見つめ、完全には目覚めていない様子ながらも、なんとか元気そうに振る舞おうとしている——
その仕草が、なんとも言えず可愛らしかった。
私は誓約の写本を閉じ、くすりと笑って言った。
「おはよう。」
それから卓の上の食事を指さし、朝食を食べに来ていいよ、という合図を送る。
「え~、わざわざ下まで行って取ってきてくれたの……?」
緹雅の声には少しの驚きと、どこか照れたような響きが混じっていた。
突然こみ上げた嬉しさを、隠そうとしているみたいだ。
彼女はベッドから降り、あくびを噛み殺しながら自分の服に手を伸ばす。
動きはどこかのんびりしていて、着替え終わるまでに少し時間がかかった。
その間も、ぶつぶつと小声で文句を言っている。
「うぅ……早起きしすぎだよ……。髪もこんなにぐちゃぐちゃ……」
確かに、彼女の金髪はまだ少し乱れていて、房が肩にばらりと落ちていた。
けれど、朝日を受けて、その髪はかえって自然な柔らかさを帯びている。
「大丈夫だよ。食べ終わってから、ゆっくり整えればいい。」
私は笑ってそう言った。
緹雅が朝食を口に運び始めるのを見ながら、
私は昨夜に起きた出来事を、彼女に話し始めた。
昨夜の深夜、それまで静かで穏やかだった海面に、突如として激しい変化が訪れた。
夜空がまだ完全に闇へ沈み切らぬうち、地平の彼方に広がっていた雲層は、にわかに墨を流したかのように濃く染まり、
次の瞬間、何の前触れもなく、幾筋もの稲妻が夜の帳を切り裂いた。
直後、暴風と豪雨が天より叩きつけ、
海はたちまち煮え立つ鍋のように荒れ狂い始めた。
托德は護衛船の甲板に立ち、雨に打たれて重く濡れた斗篷を身に纏いながら、深く眉を寄せていた。
その表情は、これまで見せたことのないほど、張り詰めている。
彼は感じ取っていた。
——これは、ただの嵐ではない。
この異変は、まるで何者かの「意志」が、海の向こうから迫ってくるかのようだった。
そして事態は、彼が最も恐れていた方向へと、確実に転がり始めていた。
海面は、一瞬にして激変した。
先ほどまで、かろうじて平穏を保っていた波光は、今や狂風に引き裂かれ、無数の浪柱へと変わる。
巨大な波が渦を巻きながら船舷に叩きつけられ、耳を打つような、戦慄を覚える轟音を響かせた。
雷鳴が落ちるより先に、低く重い唸りが、海底から這い上がってくる。
それは雷の咆哮ではない。
何か途方もなく巨大な存在から放たれた、警告そのものだった。
あまりに低周波で、胸腔の奥を圧し潰すように響き、呼吸すら困難にさせる。
托德は、甲板の護欄を両手で強く掴み、暴雨の向こうへと目を凝らした。
視線の先、荒れ狂う闇の中から、次第に不吉な影が、その輪郭を現し始めている。
「……やはり、あいつか。」
彼は、ほとんど吐息に近い声で呟いた。
その表情からは、もはや恐怖も重圧も、隠しようがない。
長年、彼が最も遭遇したくないと願い続けてきた災厄——
それが、よりにもよって今夜、現実のものとして、姿を現したのだった。
「即座に撤退信号を出せ!」
彼は、そばにいた魔法使いへ向かって、大声で叫んだ。
護衛船と商船の間は、常に一~二キロほどの安全距離を保っている。
それは、まさにこの最悪の事態に備えるためだった。
災厄が完全に姿を現す前に警告を発することができれば、
商船側も、まだ航路を調整し、撤退に移る猶予がある。
托德は信号水晶を引き抜き、掌の中で強く握り締めた。
伝訊陣列を起動する、その瞬間に備えて。
しかし——
不意に、一つの手が、音もなく彼の手首に重ねられた。
托德は、はっとして振り返る。
いつの間にか、背後には全身を深紫色の法袍で包んだ、見覚えのない女が立っていた。
暴雨と烈風は、今にも彼女の姿を掻き消してしまいそうだったが、
それでも彼女は、磐石のようにその場に立ち続けている。
顔はフードの陰影に覆われ、その下から覗くのは、夜そのもののように冷たい紫色の瞳だけだった。
「き、君は……誰だ? どうやって入ってきた?」
托德は反射的に一歩後ずさり、身構える。
だが女は答えなかった。
ただ、人差し指を静かに唇へ当て、
「しー……」と制する仕草を見せる。
その声は、驚くほど柔らかかった。
「今は、大人たちを最も邪魔してはいけない時間なの。」
語調はあくまで平静で、
その言葉だけを聞けば、意味はあまりにも不可解だった。
しかし——
彼女の身から滲み出る気配は、
否応なく人を圧し伏せるほどの、強烈な威圧感を帯びていた。
「……気が狂っているのか?
あれは世界の災厄だ。この世界そのものが対処できない存在なんだぞ!
今すぐ、全員を撤退させるべきだ!」
托德はその状況を前に、激しい怒りを露わにした。
彼はその女を力づくで押し退けようとし、
一刻も早く、商船にいる全ての人々(ひとびと)へ警告を伝えに行こうとする。
本来、護衛隊として、
そして隊長として——
托德の行動は、まさに模範と呼ぶべきものだった。
事態を即座に見極め、
躊躇なく、最も合理的な判断を下す。
それこそが、彼に課せられた責務であり、何より重要な役割だ。
たとえ、誰かが行く手を阻もうとも——
そこに迷いは、許されなかった。
しかし、托德がその女を力任せに突き飛ばそうとした、その瞬間——
何の前触れもなく、空気の中に透明な結界が瞬時に展開し、彼の手を弾き返した。
その結界は、水面に広がる波紋のように揺らめき、
音ひとつ立てぬまま、しかし驚くほど強靭だった。
托德は思わず動きを止め、
改めて女を見据える。
今度こそ、フードの奥に隠されていた、その鋭い紫色の瞳孔を、はっきりと捉えた。
女は、かすかに溜息をつく。
その声は相変わらず穏やかだった。
「お願い(おねがい)ですから、そんなに乱暴しないでください。」
托德の内で、怒りが一気に燃え上がる。
今にも剣を抜きかねない衝動が、全身を駆け巡った。
だが——
長年にわたる軍旅の経験が、彼に冷静な警告を突きつける。
目の前にいるこの女は、
決して軽々(かるがる)しく手を出していい相手ではない——
そう、本能が告げていた。
妲己から放たれる気場は、ただ強大なだけではない。
それは、相手を呑み込むほどに圧倒的な——「余裕」そのものだった。
風雨と戦意が渦巻く中で、彼女はふいに語調を変える。
「私は、対立するために来たのではありません。」
妲己は斗篷の下から右手を伸ばし、
掌を下に向けたまま、ゆっくりと持ち上げる。
それは、今にも噴き上がりそうな何かを、静かに押さえ込むかのような仕草だった。
「全面撤退を決断する前に、
ひとつ、私の提案を聞いていただけませんか?」
托德は歯を食いしばり、
怒りと張り詰めた警戒心を必死に抑えながら言う。
「……何をするつもりだ。」
「その“相手”は、私が引き受けます。」
妲己の声は終始落ち着いており、
一言一言が、急くことなく、確かな重みを伴っていた。
「……もし、私に処理できなかった場合は——
その時に、あなた方が何を選ぼうとも、私は止めません。」
しかし、妲己の口から語られた、あまりにも自信に満ちた宣言を前に、
甲板にいた人々(ひとびと)は、誰一人として動揺を隠せなかった。
それは決して、ありふれた魔物などではない。
大海原そのものを震わせる、深海の災厄——。
たとえ、その怪物を自分の目で見たことがなくとも、
それが自分たちの手に負える存在ではないことくらい、誰もが理解していた。
「……あんたは、その“相手”が何なのか、分かっているのか?」
托德の声は、すでにわずかに掠れている。
剣柄を握る手は離さぬまま、
その身体は、重圧に抗うように硬く強張っていた。
「もちろんです。」
妲己の声は、なおも霧のように柔らかい。
相手の語る恐怖など、
ただ目の前を流れていく一景に過ぎないかのように——。
「……そこまでの確信があるとでも言うのか?」
托德は歯を食いしばり、鋭く詰め寄った。
彼は決して臆病なのではない。
ただ、部下たちを無駄死にさせたくなかっただけだ。
妲己は正面から答えず、
ただ静かに視線を海平線へと向けた。
その紫色の瞳は底知れず、
まるで、すべてを見通しているかのようだった。
彼女が口を開こうとした、その刹那——
「グオォォ──!」
海面が突如として激しく沸き立ち、
巨大な章魚の触手が、浪濤の中から一気に跳ね上がった。
それは、地獄の深奥から這い出してきた闇の影のように、
海水と暴風を巻き上げ、
抗いようのない破壊力を伴って、護衛船へと突進してくる。
その触手は、帆柱よりも太く、
表面には紫紅色の魔紋と海水が絡みつき、
空気には思わず吐き気を催すほどの生臭さと、
重く圧し寄せる霊圧が満ちていた。
数名の兵士は、その場で膝を震わせ、
顔色も瞬時に蒼白へと変わる。
「くそっ……!
あの一撃なら、船ごと壊されるだろう……!」
托德は、はっと振り返り、
怒号を上げた。
「ちくしょう!
貴様が時間を引き延ばさなければ、
とっくに最善の対応が取れたものを!
全員、退避だ——船を捨てろ!!」
「その必要はありません。」
妲己の声は、終始ゆったりとしており、
そこには、わずかな倦怠すら滲んでいた。
人々(ひとびと)が、もはや死神が迫り来ると覚悟した、その瞬間——
淡い紫色の符紋を帯びた防御の障壁が、船体の周囲に一斉に展開した。
それは、まるで反転した円月が、
海面から逆さに立ち上がったかのようだった。
「ドンッ!」
巨大な触手が、防御障壁に真正面から叩きつけられ、
鈍く重い衝撃音が甲板に響き渡る。
次の瞬間、
空気の中に、焦げ付くような音と爆裂の連鎖が走った。
それは、まるで巨獣が雷撃を受けたかのような、
耐え難い悲鳴にも似た咆哮だった。
紫色の稲妻が結界の表面で弾け、
そのまま触手を伝って海中へと走り抜ける。
焼き切られた海面は、
「ジジジ……」と音を立てながら、苦しげに泡立っていた。
人々(ひとびと)は、呆然と立ち尽くしていた。
本来なら、彼らの船を木屑へと叩き砕くに十分なはずの一撃は、目の前に立つこの神秘的な女によって展開された一枚の防御障壁により……完全に防がれていた。
「こ、こんな……あり得るはずが……」
「彼女一人で……受け止めたというのか……?」
托德は妲己を鋭く見据えながら、己の手を強く握り締めていた。
その指の関節は、すでに白くなるほどであった。
彼は信じたくないわけではない。ただ、この目の前で起きている光景が、あまりにも常識を超えすぎていたのだ。
だが、妲己は終始平然としていた。
彼女はただ静かに正面の海面を見つめているだけで、まるで最初から、こうなることを知っていたかのようであった。
「成るほど……」
彼女は、かすかに低い声で呟いた。
その口調に驚きはなく、まるで何かの推測を確かめたかのような、冷静さだけがあった。
彼女が今、何を考えているのか――それを知る者は、誰一人としていない。
だが、人々(ひとびと)が問い(と)いかける間もなく、海面は再び激しくうねり始めた。
今回現れたのは、もはや単一の触手ではない。
水中から次々(つぎつぎ)と躍り出る、漆黒の巻鬚の群れ――それらは、狂ったように成長する樹根のごとく、護衛船へと襲いかかってきた。
その一撃が放つ威圧は、先ほどをはるかに凌ぎ、荒れ狂う海浪をほとんど真っ二つに引き裂かんばかりであった。
それは、まるで深海の最奥から噴き上がる怒火が、そのまま天へと突き上がってくるかのようであった。
「来るのが、私が思っていたよりも、ずっと早い……」
妲己は左手を軽く振り、防御屏障を再び展開させた。
ただし、今回の屏障は、先ほどとは異なり、より一層厚みを増し、交錯する六芒の符印と、符文の陣式さえ帯びていた。
それらの触手は、再び外側で阻まれ、激しい身動きと、苦痛にも似た哀鳴を上げた。
幾度にもわたる攻撃が、いずれも効果を成さないと悟ったのか、海底に潜むその巨獣は、ついに本気を見せた。
深海の底から洋流全体をかき乱し、直後、天を衝くほどの巨大な波浪を巻き起こす。
黒き壁のようにそそり立つその巨浪は、護衛船と遠方の商船へと一直線に迫り、まるで葉のように小さな船たちを、一息で呑み込もうとしているかのようであった。
その巨浪は、狂風と雨幕の中を凄まじい速さで接近し、空気さえ震わせる圧迫感を伴って、海域一帯を瞬時に騒然とさせた。
「もし、この波が、大人たちの乗る船に直撃でもしたら……厄介ね」
妲己は、誰に聞かせるでもなく、静かに独り言を漏らした。
人々(ひとびと)が息を詰めて見守るその瞬間でさえ、妲己の表情は終始変わらず、静かなままであった。
彼女は紫色の斗篷の端をそっと持ち上げ、その下に隠されていた三本の銀白色の尾を、わずかに覗かせる。
その尾は、まるで凝縮されたエネルギーそのもののような存在であり、星光を思わせる紫の焔が、ゆるやかに流動していた。
妲己の尾が、かすかに揺れた刹那、空気中に目には見えぬ渦が生じ、あたかも何かの引力場が起動したかのようであった。
天を衝く勢いで聳え立っていた巨浪は、その瞬間、突如として凝滞を見せ、浪頭の前進は、次第に鈍っていく。
やがて、それは見えざる手に縛られたかのように動きを封じられ、巨浪の威勢は急速に崩れ去り、水の壁は無数の水霧へと潰散し、最終的には、何の音も残さぬまま、静かに海中へと沈み込んでいった。
周囲の海面は、先ほどよりもなお静穏となり、そのあまりの静けさは、思わず背筋が粟立つほどであった。
護衛船に乗る兵士たちは、ただ目を見開いたまま、誰一人として声を発することができなかった。
彼らはただ、あの恐るべき海嘯が、あまりにもあっさりと無効化される光景を目撃するしかなく――それはまるで、自然の理を踏み越えた、何かしらの神蹟を見せつけられているかのようであった。
しかし――
妲己は、どうやら一つの点を見誤っていたようであった。
巨大な波浪は船団に実質的な被害を与えこそしなかったものの、あの一瞬に立ち上がり、そして崩れ散った驚愕すべき光景は、すでに商船の船長や船員たちの注意を強く引き寄せていた。
遠方の商船では、すでに数十名の動揺を隠しきれぬ船員たちが集まり、さらに多くの者が滂沱と降り注ぐ大雨をものともせず甲板へと押し寄せていた。
彼らは海面を指さして口々(くちぐち)に言葉を交わしながら、不安を隠せぬ様子で、周囲を落ち着きなく見回していた。
「こ、これは……少し厄介な状況になってきたわね……」
琪蕾雅は、やや離れた船縁に立ち、腕を組んだまま、冷静に成り行きを観察していた。
「緹雅様からは、はっきりと言われているわ。
――誰であろうと、彼らの邪魔をさせるな、って。
海底から来る、あの存在であっても、例外じゃない」
米奧娜も、どこか落ち着かない様子でそう言った。
「まったく、妲己ってやつは……
懐かしい玩具を見つけると、すぐ弄びたくなる。
昔から、ずっとそうだったわ」
雅妮はこの時、人形へと姿を変え、マストの傍らにもたれかかりながら、気怠げに首を振った。
その口調には、呆れと無奈さが滲みつつも、長年の友に対する、慣れ親しんだ理解が感じ取れた。
「雅妮様、このままでは本当に問題が起きてしまいます……。
もし大きな騒動に発展してしまったら、緹雅様は、きっとお怒りになります……」
彼女の傍に立つ朵莉は、はっきりとした不安を浮かべ、指先で衣の端をくるくると弄りながら、焦りを隠せない声音で訴えた。
「問題ないわ」
雅妮は淡々(たんたん)とそう言うと同時に、すでに空中へと、銀白色の魔法陣を次々(つぎつぎ)と描き始めていた。
雨水の中で、符文はかすかな光を帯び、まるで空気そのものに、ある種の魔法構造を刻み込んでいくかのようであった――。
海面は激しく翻騰し、濃霧は暴風の中で渦巻き、巨浪は雲層を引き裂く。
まるで地獄の呼吸が、深奥より噴き上がってくるかのようであった。
そして、ついに――
それは姿を現した。
漆黒の海底から、あの巨獣がゆっくりと浮上する。
それは、まるで千年もの眠りについた魔神が、突如として目覚めたかのようであった。
最初に水面へと現れたのは、島にも等しいほどの巨大な頭顱である。
深藍色の甲殻は全身を覆い、そこには古き魔紋と、深海の潮流に削られた風蝕の痕跡が無数に刻まれていた。
海水はその背より滝のように流れ落ち、幾重もの飛沫を巻き上げる。
そして双眼――深淵の渦を思わせるその両眼は、息も詰まるほどの精神的圧迫を帯び、まっすぐに天を睨み据えていた。
それこそが、海を支配する絶対的な王――海之王・奈吉托斯であった。
「貴様……ただ者ではないな」
その声は低く沈み、言語というよりも、意識そのものが震わされるかのような波動であった。
しかし、妲己はすでにその眼前に立ち、海風と月光に抱かれるように宙へと浮かんでいた。
紫色の斗篷は夢境のように風を孕み、ひらりひらりと翻る。
彼女は手にした羽扇を軽く揺らし、唇の端には優雅な微笑を浮かべていた。
その眼差しは、まるで水溜まりでもがく一匹の泥鰍を眺めているかのようである。
「区々(くく)たる一匹の虫ごときが、大言を吐くとは……」
妲己はくすりと笑い、夢とも現ともつかぬ声音で続けた。
「今のうちに退けば、気まぐれで命だけは見逃してあげるかもしれないわ。
でなければ……後悔することになるわよ?」
奈吉托斯の瞳孔は激しく収縮し、内奥に渦巻く怒意が一気に沸騰した。
海之王として、太古よりこの海域を統治し、三千年にわたり、誰一人として彼を退かせた者はいない。
それにもかかわらず――今、この己の主場において、若き人類の女ごときに、公然と挑発されるとは。
その屈辱と怒りは、もはや抑えきれるものではなかった。
「狂妄な凡人め……
貴様、我が何者であるか、分かっているのか?
我は海之王・奈吉托斯――
かつて偉大なる妖王に仕えし、第一の近侍。
三千年にわたり八海を席巻してきたこの我に、
区々(くく)たる人類ごときが、威嚇するだと?」
奈吉托斯は怒号を放ち、無数の触手が水下から一斉に立ち上がる。
それらは海蛇のごとく蜿蜒とうねり狂い、一本一本に、身を竦ませるほどの恐るべき威圧を宿していた。
そのうちの数本が激しく振るわれ、宙にある妲己へと猛然と襲いかかる。
その一撃一撃は、巨大な戦船でさえ、粉砕して塵と化すに足る威力を秘めていた。
空気は、硝子が砕けるかのような震鳴を上げ、海風と魔圧は、この空間で激しく引き裂き合う。
――だが。
妲己は、ただ軽やかに身を翻した。
羽毛が舞うかのように触手の軌道をすり抜け、
その動きの一つ一つは、まるで相手の出手を、常に一歩先で見切っているかのようであった。
「避けるのは、なかなか速いようだな……
だが――これは、避け切れるかな?」
怒りが極限に達した奈吉托斯は、すべての触手を一点へと収束させ、空中に凝集した。
轟鳴とともに、己の魔力を狂気のごとく注ぎ込み、核心の光点は黒洞のように圧縮され、歪み――空気そのものが崩壊し始める。
だが、妲己は、なおも動かなかった。
半空に浮かんだまま、そっと目を閉じ、かすかな吐息とともに呟く。
「……もう、堪え性がなくなったの?」
「見せてやろう――
我が誇る、究極の殺招――海の怒りを!」
次の瞬間、まるで海洋そのものが、奈吉托斯の咆哮に呼応したかのようであった。
山岳をも引き裂くに足る、水流の光柱が轟然と放たれ、妲己の存在する空域へと一直線に突き進む。
それは、彼女ごと天穹をも呑み込まんとするかのようであった。
妲己には、鑑定の眼を通さずとも理解できていた。
この規模の魔法攻撃は、十階魔法に匹敵する。
そして、これを回避すれば――背後にいる護衛隊も、商船に乗る者たちも、誰一人として生き残れない。
「ふふ……この子、なかなか良いじゃない」
妲己は、誰にも届かぬほどの声で、静かに呟いた。
その言葉が落ちた刹那、妲己の周囲に満ちる気息は、劇的に変貌する。
――領域魔法・妖狐之鳴。
彼女の背後で、もとは仄かに揺らめいていた三条の尾は、天河の流れのごとく一変し、瞬時に七条の狐尾へと姿を変えた。
銀光をきらめかせ、尾焔を翻すその一本一本が、空間の律動を牽引し、尾端には淡金色の妖気が揺らめいている。
空気中には、人声でも獣吼でもない、不思議な吟鳴が響き渡った。
それは、月下の遠古なる森より届く、原初の詠唱であるかのようであった。
この魔法は、やがて巨大な円環を形作り、空気そのものの色彩さえも、柔らかな紫と深金が交錯する光暈へと染め上げていった。
奈吉托斯の攻撃は、轟然と放たれた。
だが、妲己の領域魔法の前では、爆発することも、貫通することも叶わない。
円環に触れた、その刹那――
それは、音なき宇宙の破片域へと落ち込んだかのように、幾重にも分解され、微塵へと砕け散り、痕跡一つ残さず消失していった。
神罰にも等しいその魔法攻撃は――
かくして、静かに、完全に、消え去ったのである。
護衛船に乗る人々(ひとびと)は、一斉に息を呑み、周囲は完全な静寂に包まれた。
遠く離れた商船にいる三姉妹もまた、その瞬間、彼方から拡散してくる気息を、同時に感知していた。
米奧娜は弾かれるように立ち上がり、驚愕の声を上げる。
「妲己様……まさか、あの技を使ったというの……?」
「妲己様が、こんな魔法を使うところを見る(み)るのは、私たち、初めてよね!」
琪蕾雅と朵莉は、揃って目を輝かせ、抑えきれぬ興奮を滲ませながら口にした。
「まったく……また始まったわね」
雅妮は、呆れたように額を押さえつつも、その口元には、どうしても隠しきれない微笑が浮かんでいた。
一方、その時の奈吉托斯は、巨体全体を、かすかに震わせていた。
「……あり得ない……
この魔法……この気息……
これは――あの御方の……」
その瞬間、奈吉托斯は愕然と悟った。
体内で能動的に渦巻いていたはずの魔力が、今や凍結されたかのように停滞し、思うように動かなくなっている。
そして――
この時になって初めて、彼は気づいたのだ。
自らが「海之王」であることを象徴する権能――
嵐と災厄を司るその力が、いつの間にか完全に封鎖されていることに。
もはや彼には、海流を喚起することも、風圧を操ることすらできなかった。
この現実を前にして、奈吉托斯はようやく理解する。
先ほどまで、自らが攻撃を加えていた相手が――
いかに、常識も序列も超越した、恐るべき存在であったのかを。
暴風は突如として止み、万籟はことごとく沈黙した。
先ほどまで怒濤のごとく荒れ狂っていた海面は、あの圧倒的な魔力の爆発の後、まるで奇跡のように静けさを取り戻していた。
空を覆っていた烏雲は、ゆっくりと散りゆき、雲間から差し込む月光が、死寂に沈む海面を淡い銀光で染め上げる。
護衛船に乗る騎士団の面々(めんめん)は、誰もが目を見開いたまま、なおも視線を、遠方の海面――かつて巨獣が鎮座していたはずの区域へと向け続けていた。
だが、今やそこには何も見えない。
あの巨大なる海之王の姿も、
そして、紫の衣を纏った、あの神秘的な女の姿も――
すべてが、跡形もなく消え去っていた。
海面は、まるで何事もなかったかのように空っぽで、
むしろ先ほどよりも、いっそう不気味なほどの静穏を湛えている。
「……終わったのか?」
若い騎士の一人が、呆然とした声音で呟いた。
「暴雨も止んだ……
様子を見るに、あの怪物は退いた、ということだろう」
別の騎士は眉をひそめ、天際を見やりながらも、どこか確信を持てぬ口調で答えた。
「だが……俺たちは、結局何が起きたのか、ほとんど見えていない」
托德が低い声でそう告げる。
この場にいる中で、最も冷静な彼は、表情を引き締めたまま、なおも遠方の海面から視線を外さずにいた。
彼は、海嘯が巻き上がり、そして一瞬にして崩壊していく過程を見た。
奈吉托斯が放つ圧迫と、突如として訪れた沈黙のような沈降を見届け、さらに、天幕が押し潰されるかのごとき魔力の爆発が一瞬で広がり、そして消え去る、その重苦しい感覚をも、確かに感じ取っていた。
「……俺たちは、皆死ぬと思っていた」
年嵩の兵士が、かすれた声でそう呟く。
「だが、こうして生きている。船も……まだ無事だ」
「何者であれ、あの海之王を退かせた存在だ。
その力は……間違いなく、我々(われわれ)の理解を遥かに超えている」
托德は何も言わず、ただ静かに頷いた。
彼の胸中には、これは単なる危機の回避ではなく、同時に警鐘でもある、という確信があった。
――自分たちの手の届かぬ領域に、何か得体の知れぬ存在が、すでに介入している。
托德は空を仰ぎ、低く言った。
「この件は……即刻、上へ報告しなければならない」
そしてその時になって、ようやく人々(ひとびと)は、一つの奇妙な事実に気づいた。
いつからか定かではないが、遠方にある商船の船体が、霧のような一層の気息に包まれていたのである。
その霧は自然に凝結したものではなく、むしろ何かしらの霊気――あるいは結界が外側へと伸びた結果であるかのようで、商船全体の輪郭を曖昧にぼかしていた。
しかし、海之王の気息が完全に退くにつれ、その濃霧もまた、何かに導かれるかのように、次第に薄れていった。
霧の向こうに、かすかに見えていた商船上の人影は、少しずつ輪郭を取り戻し、秩序もまた回復しつつある様子であった。
甲板では、人が行き交い、船員たちが三々五々(さんさんごご)に集まり、何事かを話し合っている姿が見て取れる。
商船にいた者たちが目撃したのは、ただ奈吉托斯の触手が現れ、海嘯が襲い来て、そして鎮まっていく、その一連の出来事だけであった。
奈吉托斯の存在が完全に消え去ったことで、ようやく人々(ひとびと)は、張り詰めていた心の弦を、静かに緩めることができたのである。




