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そのゲームは、切り離すことのできない序曲に過ぎない  作者: 珂珂


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第二卷 第一章 帰還-3

わた天空てんくうと、遠方えんぽう金光きんこうびる海平線かいへいせんつめ、わたしあたまげておおきくいきんだ。

天色てんしょく清朗せいろうで、海風うみかぜやわらかく、陽光ようこう余暉よき甲板かんぱんそそぎ、まるでふね全体ぜんたい金紗きんしゃまとわせているかのようだった。

……こんな天候てんこうなら、何事なにごときないはずだろう?

そう自分じぶんかせようとした。だが、さきほど海之王うみのおうについてのうわさえたばかりで、むねおくにはなおかすかな不安ふあんのこっていた。

半信半疑はんしんはんぎ不安ふあんいだえながら、わたしたち一行いっこうは、ようやく商船しょうせんへとんだ。


此刻しこく天色てんしょくはすでに黄昏たそがれちかづいており、この航速こうそくすすめば、六島之國ろくとうのくに到着とうちゃくするのは、明日あしたあさになるはずだった。

「ええっ、このふね安定あんていしすぎじゃない? きしうえあるいてるみたいだよ。」

朵莉ドリは嬉々(きき)として甲板かんぱんみしめ、あるきながらおどるようにくるりと一回転いっかいてんしてみせた。

「そうね。それに、この船室せんしつゆか分厚ぶあつ絨毯じゅうたんまでいてあるなんて……あしつめえるのを心配しんぱいしてくれてるのかしら?」

妲己ダッキおどろいた表情ひょうじょうで、足元あしもと見下みおろしていた。

わたし荷物にもつに、隊列たいれつ最後さいごあるきながら、彼女かのじょたちが冗談じょうだんい、じゃれっている様子ようすながめていた。

その光景こうけいに、づけば口元くちもとが、ほんのりとゆるんでいた。


わたしたちの部屋へや三階さんがい中央ちゅうおう配置はいちされており、立地りっち非常ひじょうい、ふたつのひろ部屋へやだった。

「チッ……まったく、あのひとたちは段取だんどりがなってないわね。二部屋にへや用意よういするなんて。」

緹雅ティア小声こごえ舌打したうちし、まゆをひそめて不満ふまんげにった。その口調くちょうは、まるでなに重大じゅうだい利益りえきおかされたかのようだった。

わたし苦笑くしょうしながらこたえた。

「え? でも、これってちょうどくない?」

全然ぜんぜんよ!」

彼女かのじょ即座そくざわたしにらみつけ、そして神秘的しんぴてき表情ひょうじょうさくつぶやいた。

「でも……って。わたしとあなただけじゃなくて、妲己ダッキ雅妮ヤニー、それに、あのさわがしい三人姉妹さんにんしまい一緒いっしょよね?」

わたし返事へんじをするもなく、彼女かのじょがふっとかがやき、口元くちもとにはおまりの「緹雅式ティアしきわるわらみ」がかんだ。

それは、ものけっして安心あんしんさせない、あの笑顔えがおだった。


妲己ダッキ、あなたたちのために口添くちぞえしてあげた報酬ほうしゅうとして……」

彼女かのじょ唐突とうとつかえった。

「はいっ!」

妲己ダッキは、まるで最初さいしょからその合図あいずっていたかのように、きりっと直立ちょくりつし、には同盟者どうめいしゃとしての火光かこう宿やどしていた。

つづいて、精密せいみつで、まるで幾度いくどとなく事前じぜんわせていたかのような「作戦行動さくせんこうどう」が正式せいしき開始かいしされる――

妲己ダッキ雅妮ヤニー三人姉妹さんにんしまいれ、ためらいもなく左側ひだりがわ部屋へや突進とっしんした。ほとんどなかぶようないきおいでなかすべみ、しかもかえって、こえそろえてさけぶこともわすれなかった。

「ごめんなさい、緹雅様ティアさま、この部屋へやはもう満員まんいんで~す~~~!」

荷物にもつも、もう全部ぜんぶいちゃいましたよ!」

さきられました! 本当ほんとうはいれませんからね!」

そして――「パタン」というおととともに、とびら素早すばやめられ、内側うちがわからかんぬきまでけられた。

その一連いちれん動作どうさ素早すばやさといさぎよさは、まるでBOSSを回避かいひするさい防御反応ぼうぎょはんのうのようだった。


わたしはその呆然ぼうぜんくし、にはまだ自分じぶん荷物袋にもつぶくろげたまま、くちをわずかにけ、どんな表情ひょうじょうをすればいいのかからずにいた。

そのとき緹雅ティアいた。かおかんだ笑顔えがおは、まるでなにかの陰謀いんぼう成功せいこうさせたねこのようで、語尾ごびまでもがひかっているかのようだった。

「まあまあ、どうやらこの配置はいちれるしかなさそうね……わたし凝里ギョウリおな部屋へやるしかないみたい~」

その口調くちょうやわらかいのに、言葉ことばひとひとつには、はっきりとした悪意あくいのあるからかいがめられていた。

わたしなに反論はんろんしようとしたが、こえのどっかかり、そとてこなかった。

「ぼ、ぼ、ぼくは、まだすこめられるんじゃないかなって……彼女かのじょたちにいてみようか——」

凝里ギョウリ——」

彼女かのじょひじでそっとわたしこしつき、かおすこちかづけてきた。

「う……えっと……」

わたし視線しせんらし、ほおがほのかにあつび、耳元みみもとまでじんとしびれるのをかんじた。

こんな状況じょうきょうまえにして、わたしは「いや」の一言ひとことすらくちせなかった。

それを緹雅ティアは、ぷっとしてわらった。

その笑いわらいごえは、まるでついに最難関さいなんかんBOSSボスたおした瞬間しゅんかんのようだった。


彼女かのじょ両腕りょううでみ、とびらわきにもたれかかり、気分きぶんさがいまにもはなひらきそうな様子ようすった。

「まったく~、その反応はんのう本当ほんとう面白おもしろいわね。まさか、夜中よなか緊張きんちょうして、ころっとベッドからちたりしないでしょうね?」

ちたりなんかしないよ……」

「それなら、なおさら問題もんだいなしね~♪」

わたし言葉ことばもなく荷物にもつげ、ただ呆然ぼうぜんと、彼女かのじょさきにもう一方いっぽう部屋へやとびらけるのをるしかなかった。

その表情ひょうじょうは、まさに「計画けいかく成功せいこう進捗しんちょく百分ひゃくぶん%」とでもわんばかりの得意とくいげなものだった。

そして――

凝里ギョウリはやくしなさいよ。まさか、れてるんじゃないでしょうね?」

「ぼ、ぼくは、べ、べつずかしがってなんかない!」

そんな緹雅ティア様子ようすて、わたしおもわずかおそむけた。ほおには、まだかすかなあかみがのこっていて、正直しょうじきなにえばいいのかからなかった。

こうしてわたしは、だまったまま緹雅ティアならび、部屋へやなかへとはいっていった。


さすがは頂級ちょうきゅう商船しょうせんだけあって、部屋へやひろいだけでなく、内装ないそうわたしが元々(もともと)想像そうぞうしていたものをはるかに上回うわまわっていた——いや、むしろ、豪華ごうかすぎてすこかなくなるほどだった。

部屋へやあしれた瞬間しゅんかん、まずんできたのは、ゆか一面いちめんめられた墨藍色すみあいいろ分厚ぶあつ絨毯じゅうたんだった。あるいても、ほとんど足音あしおとこえず、やわらかさは、まるで身体からだごとまれてしまいそうなほどだった。

かべはありふれた木板もくはんではなく、あわ米色こめいろ基調きちょうに、薄金色うすきんいろ縁取ふちどりと浮彫うきぼり海怪かいかい図騰ずとうがあしらわれている。

それらの意匠いしょうは、古代こだい伝説でんせつかたられる海洋かいよう巨獣きょじゅうきとえがしており、まるで海上かいじょうかぶ貴族きぞく博物館はくぶつかんあしれたかのようだった。

室内しつない空気くうきには、かすかに鼠尾草そびそうかおりがただよっており、わたし部屋へやすみに、淡黄色たんこうしょく魔晶灯ましょうとうかれているのにづいた。

そのやわらかなひかりは、過不足かふそくなく部屋へや全体ぜんたいらしていた。

まどそとには、どこまでもつづ海面かいめんひろがり、カーテンのふちからななめに金色きんいろひかりが、室内しつないのあらゆる装飾そうしょくあたたかな色調しきちょうげていた。

その雰囲気ふんいきは、正直しょうじきなところ、すこ浪漫的ろまんてきすぎるとかんじてしまうほどだった。


寝台しんだい一人用ひとりよう大床おおどこで、ベッドフレームは淡象牙白たんぞうげはく硬木こうぼくつくられていた。彫刻ちょうこくこまやかで華美かびきわめ、四本よんほん床柱とこばしらには薄紗うすぎぬ天蓋てんがいけられ、海風うみかぜられてしずかにたなびいている。

寝具しんぐあつみがありやわらかく、表面ひょうめんには銀白色ぎんぱくしょく航海星図こうかいせいず刺繍ししゅうされていた。いとはこひとつにいたるまでしんじられないほど精緻せいちで、まるでねむりのなかでも遠洋えんよう旅立たびだてるように仕立したてられているかのようだった。

ベッドの両脇りょうわきには、魔法照明灯まほうしょうめいとう温度調整用おんどちょうせいよう水晶すいしょうそなけられており、使用者しようしゃ体温たいおんおうじて、室内しつない快適度かいてきど自動じどう調整ちょうせいする仕組しくみになっていた。

部屋へや反対側はんたいがわには小振こぶりな円卓えんたくかれ、そのうえには一式いっしき茶器ちゃきならんでいる。金鍍きんとしの壺身こしんには波紋はもんえがかれ、さらに五種類ごしゅるい現泡げんほう香茶こうちゃたのしめる魔法葉片まほうようへんまでえられていた。

椅子いす深藍色しんあいいろ絹天鵞絨けんびろう座面ざめんで、背凭せもたれの形状けいじょう人体じんたいわせて特別とくべつ設計せっけいされている。

とても短期たんき宿泊しゅくはくのために用意よういされた仮設家具かせつかぐとはおもえず、むしろ、どこかの高位こうい魔法師まほうし私的してき塔楼とうろう日常にちじょう使つかっている生活用せいかつよう椅子いす連想れんそうさせるたたずまいだった。


内側うちがわには、半開はんびらきの硝子扉がらすとびら仕切しきられた盥洗室かんせんしつがあり、ゆかには防滑ぼうかつ水晶煉瓦すいしょうれんがかれていた。なかには、天然てんねん海塩かいえん使つかった香浴剤こうよくざいと、肌触はだざわりの柔軟じゅうなん毛巾もうきん用意よういされている。

かべには、水圧すいあつ水温すいおん調整ちょうせいできる魔法まほう触控晶盤しょっこうしょうばんまれており、さらに身体からだ自動じどう乾燥かんそうさせる風属性かぜぞくせい魔法陣まほうじんまでそなわっていた。

こ、これは……商船しょうせんなのか、それとも浮動ふどう宮殿きゅうでんなのか?


緹雅ティアは、まるで宝蔵窟ほうぞうくつまよんだちいさなきつねのように、すでにしあわせそうではしゃいでいた。

彼女かのじょはいるなり、部屋へやなかをあちこちうごまわり、かべほどこされた浮彫うきぼりゆびすべらせ、足取あしどりは絨毯じゅうたんうえおどっているかのようだった。

やがて彼女かのじょいきおいよく大床おおどこみ、何度なんど寝返ねがえりをったすえまくらきしめて、満足まんぞくそうな一声ひとこえらした。

「はあ~、こういうかんじこそ、たびってうのよね~」

彼女かのじょはそのままひるがえして仰向あおむけにそべり、気怠けだるげに手足てあしばす。その様子ようすは、まるでベッド全体ぜんたい自分じぶんのものにしようとしているかのようだった。


わたしとびらのそばにったまま、荷物にもつげ、いったい視線しせんをどこにければいいのか、まったくからずにいた。

彼女かのじょ外套がいとう腰元こしもとまですべち、内側うちがわからだ沿襯衫シャツが、あかりのしたでほのかに曲線きょくせんえがしている——い、いけない。わたし必死ひっし自分じぶんかせ、あわててかおそむけた。

なにをそんなところにってるの? こんなにひろいんだから、すわらないと空間くうかんがもったいないでしょ~」

緹雅ティア寝返ねがえりをちながら、ベッドの反対側はんたいがわをぽんぽんとたたき、いかにも当然とうぜんといった表情ひょうじょうかべていた。

「えっ、あ、ぼくは……ま、まだ荷物にもつかたづけてなくて……」

わたしあわてて荷物にもつろし、なかでほとんどみだれてもいない衣類いるいを、さも整理せいりしているかのようによそおった。

「そっちに衣櫃いかいがあるわよ。」

彼女かのじょげて、部屋へや奥側おくがわ壁際かべぎわゆびさした。

「ちゃんと衣架いかいてるし~、ほんといてるわよね。」

わたし仕方しかたなく、荷物にもつきずるようにしてひつのそばまではこび、どうにか自分じぶんかせようとつとめた。

……しずかすぎる。

船体せんたいがかすかにれる感覚かんかくと、遠方えんぽうからとど波音なみおとのぞけば、この艙房そうぼうには、ほとんどなにおと存在そんざいしなかった。

そして、その静寂せいじゃくこそが、かえってわたし緊張きんちょうつよめていく——

なぜなら、わたし一人ひとりではないのだから。


これが、わたし緹雅ティアと「おな部屋へや」でごすのは、はじめてのことだった。

彼女かのじょはまるでなににしていない様子ようすで、むしろたのしんでいるようにさええる。けれど、わたしは……どうにも、自分じぶんがすでになにかのわなちてしまったようながしてならなかった。ただ、彼女かのじょ何事なにごともなかったかのようにっているだけなのだ。

わたしは、ベッドによこになっている彼女かのじょを、そっと一瞥いちべつした。

彼女かのじょいて、にこりと微笑ほほえんだ。

そのひとみはきらきらとかがやいていて、なにもかもっているようでもあり、同時どうじなにかたっていないようでもあった。

そして、かるくシーツをあしりながら、のんびりとくちひらく。

かおあかくなってるわよ!」

「ぼ、ぼくは、そ、そんなことない!」

わたしは、ほとんど反射的はんしゃてきかえしてしまった。あまりに早口はやくちだったせいで、自分じぶんでもおどろくほどだった。

この部屋へや雰囲気ふんいきが、あまりにも浪漫的ろまんてきすぎるからかもしれない。

それとも……今夜こんや緹雅ティアおな時間じかんを、おな部屋へやごすのだという現実げんじつを、はっきりと意識いしきしてしまったからなのか。

理由りゆうなにであれ——

わたしいま、とても、とても緊張きんちょうしていた。


黒夜こくやはすでにしずかに海域かいいき一帯いったいおおい、天際てんさいには星辰せいしん姿すがたえず、ただ一輪いちりんまんちた明月めいげつだけが遠方えんぽうかっていた。それは、まるで沈黙ちんもくする神祇しんぎが、人間界にんげんかい静寂せいじゃく慌乱こうらんだまってのぞんでいるかのようだった。

ふね全体ぜんたいは、黒海こっかいかぶ孤島ことうのようで、のこるのはなみ船体せんたいたたおとだけ。

そのひびきは重厚じゅうこうで、規律的きりつてきで、心拍しんぱくのように静寂せいじゃくなか反響はんきょうしていた。

わたし窓辺まどべこしろし、両肘りょうひじ窓枠まどわくき、あご手背しゅはいあずけたまま、うす硝子がらすこう、そこえない漆黒しっこく水面すいめんつめていた。

海風うみかぜ船室せんしつ通風孔つうふうこうからゆるやかにみ、塩気しおけと、よるならではのかすかなつめたさをはこんでくる。

乗船じょうせんしたあの瞬間しゅんかんから——いや、彼女かのじょ突然とつぜんおな部屋へやもう」とした、あの一言ひとことから、

わたしこころは、一度いちど本当ほんとういたことがなかった。


そしていま緹雅ティア浴室よくしつにいて、身体からだあらいながら、調子ちょうしさだまらないちいさな鼻歌はなうたくちずさんでいる。

その旋律せんりつは、水音みずおと湯気ゆげらぎにって、すこしずつ木扉きとびらえ、わたしみみへととどいてきた。まるで指先ゆびさきげんをそっとでるように、かず、おそすぎもせず——それでも、こころさぶるには十分じゅうぶんだった。

彼女かのじょこえけっしてはっきりしているわけではない。

それなのに、言葉ことばにしがたい親密しんみつさがあった。

自分じぶんだけにけてうたっているようでもあり、そして……わたしいていることを、っているかのようでもあった。

わたしは、それ以上いじょうふかかんがえまいとした。

こんな想像そうぞうは——あまりにも危険きけんすぎる。


しかし、わたし脳裏のうりには、どうしてもさきほど彼女かのじょ浴室よくしつはい直前ちょくぜん姿すがたが、勝手かってかびがってきてしまう——

かみくとき、何気なにげなくはらったあの仕草しぐさ

かえって「のぞいちゃだめよ~」とわらったとき、口元くちもとかんだ、あの得意とくいげな

そして、かすかにあせびた彼女かのじょ身体からだからつたわってきた、無視むしできないほど生々(なまなま)しい現実感げんじつかん

わたしうつむき、ふかいきんで、あたまなかつらなっていく、これ以上いじょうばしてはいけない情景じょうけいを、必死ひっしはらおうとした。

……わたしおろかではない。

彼女かのじょなにかんがえているのかも、今夜こんやなぜあそこまで積極的せっきょくてきに「部屋へやりにった」のかも、からないほど鈍感どんかんではない。

彼女かのじょ冗談じょうだんめかしてわらうけれど、そのいにはいつも、半分はんぶん本気ほんき半分はんぶんたわむれのような曖昧あいまいさがじっていて——

それがたんなる悪戯いたずらなのか、それとも、なにかを意図いとしたものなのか。

わたしには、どうしても判別はんべつできずにいた。


だが、長年ながねんひとりでらしてきたわたしにとっては、こうした距離きょりも、こうしたかかわりかたも、すでにほとんどおごりのようなものだった。

おもいをせるひとおな部屋へやかちい、彼女かのじょわらごえき、髪先かみさきのこるほのかなかおりをかんじ、数歩すうほさき彼女かのじょ気配けはいがあるのをる——

そのすべてが、現実げんじつというより、ゆめなか出来事できごとのようにおもえた。

もしかすると、わたしたされることに、あまりにもれていないのかもしれない。

明日あしたも、おなじようでいられるかどうか——そんなことさえ、わたしねがえなかった。

いまこの瞬間しゅんかんしずけさとあまさだけで、すでにむね鼓動こどうを、どうめればいいのかからなくなっていた。

わたしくびかたむけ、まどそとひろがる静謐せいひつ海面かいめんつめた。

かぜ相変あいかわらずやわらかくいている。

けれど、わたしにはかっていた。

この一夜いちやは、どんな風浪ふうろうよりも、はるかにしずまりがたいよるになるのだと。


水音みずおとまった。

わたしははっとわれかえり、ようやく浴室よくしつがわからこえていた蛇口じゃぐちおとが、いつのにかえていたことにづいた。

水蒸気すいじょうきまぎれてただよっていた鼻歌はなうた途切とぎれ、のこるのは、黒夜こくやなか船体せんたいれるさいしょうじる、かすかな物音ものおとだけ。

それは潮音しおおとのように、わたし耳元みみもとしずかにつつんでいた。

わたし反射的はんしゃてき背筋せすじばし、窓外まどそとけていた視線しせんを、あわててもどす。

部屋へや全体ぜんたい空気くうきが、きゅうめたようにしずまりかえり、その静寂せいじゃくは、かえって緊張きんちょうさそうほどだった。

鼓動こどうがやけにおおきくかんじられ、指先ゆびさきみゃくねる間隔かんかくさえ、はっきりとかる。

凝里ギョウリあらわったよ! あなたもはやくお風呂ふろはいりなさい!」

浴室よくしつほうから彼女かのじょこえとどいた。

その調子ちょうしかるやかで、どこかれた余韻よいんまでふくんでいる。

わたしおもわずつばんだ。

かった」とこたえるだけなのに、その一言ひとことさえのどっかかり、てこない。

「は、はい!」

返事へんじみょうちからはいってしまい、まるで新兵しんぺい上官じょうかんこたえるかのような緊張きんちょうぶりだった。

まだけたままなのに、こえき、いま彼女かのじょ姿すがたおもかべるだけで、身体からだ強張こわばってしまう。

がろうとした、その瞬間しゅんかん

浴室よくしつとびらが、かすかにひらおとがした。

つづいて、ほのかな湿気しっけがふわりとながんでくる。

わたしは、たまらずいた。

……そして、視線しせんは、そのまま釘付くぎづけになった。


緹雅ティアは、そこにっていた。

まとっているのは白色はくしょく浴巾よくきん一枚いちまいだけで、わずかに湿しめった金髪きんぱつかたながち、彼女かのじょ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくわせて、そっとれている。

魔晶灯ましょうとうひかりけたはだやわらかなつやび、きりなかからあるてきた幻影げんえいのように、足取あしどりはかるかった。

その肢体したいはしなやかで、曲線きょくせんうつくしい。

浴巾よくきんしたにかすかにのぞ鎖骨さこつ脚線きゃくせんは、否応いやおうなく視線しせんせる。

わたし思考しこう一瞬いっしゅん停止ていしし、ただ呆然ぼうぜんと、彼女かのじょがこちらへあるいてくるのをつめていることしかできなかった。

一歩いっぽ、また一歩いっぽ……。

「もう、いつまでてるのよ~」

彼女かのじょ口元くちもとをわずかにゆるめ、とがめるとも、からかうともつかない調子ちょうしった。

わたしは、まるで身体からだしばられたかのように、あわてて視線しせんとす。

「ご、ごめん……」

「ほら、はやあらってきなさいよ!」

そうって、彼女かのじょわらいながら、わたしかたをぽんとたたいた。

私はようやく思考しこうすこもどし、がろうとした。そのとき、ふと視線しせん彼女かのじょうでかすめ——そこで、うごけなくなった。

ほとんどはださらしているこの状態じょうたいでも、緹雅ティア左手ひだりてには、あの深黒色しんこくしょく手袋てぶくろがはめられたままだった。

浴巾よくきん彼女かのじょ身体からだつつんでいる一方いっぽうで、その手袋てぶくろだけが、この光景こうけいなかで、あまりにも異質いしつうつっていた。


わたしは、おもわずその手袋てぶくろをじっとつめた。

理由りゆうからない。けれど、むねおくに、言葉ことばにできないちいさな不安ふあんが、ふっとがった。

緹雅ティアも、どうやらわたし視線しせんづいたらしい。

さっきまでのたわむれるような表情ひょうじょうが、ほんの一瞬いっしゅんだけかたくなり——けれど、すぐに何事なにごともなかったかのような笑顔えがおへともどった。

「どうしたの? わたしかおに、なにいてる?」

「……ちがう。えっと……その、。」

わたしは、彼女かのじょ左手ひだりてゆびさして、そうった。

「ああ、これ?」

緹雅ティア自分じぶん左手ひだりてにちらりととし、どこか不自然ふしぜんなほどいた調子ちょうしつづける。

べつなんでもないよ。わたし左手ひだりて、もともとちょっと敏感びんかんでね。れてるから、こうしてるだけ。」

そのかたはあまりにもかるく、こえやわらかくて、まるでるにらない小事しょうじ説明せつめいしているかのようだった。

それでも、わたしはどこかっかかりをおぼえた。

……こたえが、あまりにもはやすぎた。

まるで、まえもって用意よういされていた返答へんとうのように。

本当ほんとうなら、もうすこんでくべきだったのかもしれない。

けれど、彼女かのじょはそこにち、微笑ほほえんでいる。

ただ、その笑顔えがおには、さっきよりもほんのすこしだけ、距離感きょりかんしたようにかんじられた。

わたしはしばらくだまみ、結局けっきょくちいさくうなずいた。

なにづかなかったふりをするしかなかった。

「……かった。じゃあ、あらってくる。」

緹雅ティアかるうなずき、ベッドのふちこしろすと、両足りょうあしげて、布団ふとんなかへとおさめた。

まるで、いまのやりりなど、ただの世間話せけんばなしだったかのように。


浴室よくしつあしれた瞬間しゅんかんあたたかくやわらかなかおりが、ふわりとはなをくすぐった。

それはたんなる沐浴乳もくよくにゅう石鹸せっけんにおいではなく、あわ花香はなかと、ほのかにあま木質もくしつわさった気配けはい——まるで、薔薇ばら雪松せっしょうりなす、しずかな芳香ほうこうのようだった。

かお自体じたいつよくない。

けれど、このせまく、蒸気じょうきちた空間くうかんでは、ひどく際立きわだってかんじられ、言葉ことばにしがたい私密しみつささえびている。

わたしはわずかにまり、鼓動こどう自然しぜんと、数拍すうはくはやまるのをかんじた。

緹雅ティアが、ほんのすこまえまで、ここで身体からだあらっていたのだ。

空気くうきなかには、彼女かのじょ気配けはい体温たいおんが、まだかすかにのこっているようで——まるで、その存在そんざいが、まだっていないかのようだった。

わたし反射的はんしゃてきふかいきみ、すぐにわれかえって、後悔こうかいするようにじた。

まるで、のぞをして、現場げんばさえられた盗視者とうししゃのような、いたたまれない羞恥しゅうちむねひろがる。

なにもしていない。ただ、そのっているだけなのに。

それでも、わたし緊張きんちょうしきってしまい、つぎなにをすればいいのか、からなくなっていた。


わたし意識いしきして注意ちゅういらし、洗面台せんめんだいうえにあるかがみへと視線しせんけた。

かがみうつっていたのは、どこかぼうけたような自分じぶんかおと、そして……特別とくべつ目立めだつとはえないからだだった。

はっきりとれた腹筋ふっきんがあるわけでもないが、肩幅かたはばはそれなりにあり、胸筋きょうきん背筋はいきん最低限さいていげんにはついている。

ひよわではない。だが、かといって「ひときつける」ような体格たいかくかとわれれば、むねって肯定こうていできるほどでもなかった。

私はかがみつめながら、そっとちいさくいきいた。

自信じしんがないわけじゃない。ただ——緹雅ティアのような女性じょせいが、本当ほんとうに、わたしのような人間にんげん特別とくべつ感情かんじょういだくことなど、あるのだろうか。

それとも、彼女かのじょはただ、ああいう距離感きょりかんひとせっすることにれているだけなのか。

ちかづきすぎず、はなれすぎず、からかうようにわらいながらも、けっしてませない——

それが、彼女かのじょなりのかたなのかもしれない。

あの「仕方しかたないから、あなたとおな部屋へやにするしかないわね~」という一言ひとことも、いまになっておもえば、ただのまぐれだったのか、それとも……。

私はくびり、あたまなか渦巻うずま雑多ざった思考しこうを、無理むりやりはらった。

すくなくとも、いま状況じょうきょうは、かつての日常にちじょうとは、もう完全かんぜんちがっているのだから。


聖王国せいおうこく拠点きょてんにいたころわたしたちはおな小屋こやらしてはいたものの、それぞれの部屋へやには独立どくりつした浴室よくしつそなえられており、「おな一室いっしつごす」必要ひつようしょうじたことは一度いちどもなかった。

当時とうじわたしには、そんな配置はいちがごく自然しぜんなものにおもえていた。

けれどいま、ようやく理解りかいした。

同住どうじゅう」という言葉ことばの、本当ほんとう意味いみを——。

それは、呼吸こきゅうひとつさえ、おもわず慎重しんちょうになってしまうほどの距離きょりなのだ。


わたしはゆっくりと浴槽よくそうしずめ、あたたかな身体からだつつませながら、からまってしまったこころを、水温すいおんでなだめようとした。

じ、あたま浴槽よくそうふちあずけると、全身ぜんしんはやわらかな浮力ふりょくゆだねられていく。

けれど、いくらつつまれても、こころまではどうしてもゆるまなかった。

思考しこう次第しだい制御せいぎょうしない、ついさきほど、緹雅ティア浴室よくしつからてきたときの姿すがたが、勝手かって脳裏のうりへとかびがる。

そして、あのみをふくんだこえ——

はやあらってきなさいよ~」

その笑顔えがおあかるく、それでいてどこか悪戯いたずらっぽく、まるで最初さいしょから、わたし動揺どうようすることを見越みこしていたかのようだった。

わたしは、しずかにいきいた。


普段ふだんわたし入浴にゅうよく手早てばやませる。

石鹸せっけんすこけて、さっとあらながせば、それでわりだ。

けれど今夜こんやだけは、できることなら、もうすこしここにとどまっていたかった。

心地ここちよいからではない。そとるのがこわかったからだ——彼女かのじょに、どんな表情ひょうじょうえばいいのか、からなかった。

もし、彼女かのじょがまた冗談じょうだんめかして、ふいにちかづいてきたら……わたしは、どうしてしまうのだろう。

万一まんいち真剣しんけんすぎる反応はんのうせてしまったら、きっと彼女かのじょに、馬鹿ばかみたいだとわらわれてしまう。

けれど、なにもせずにやりごしたら……それはそれで、なに大切たいせつなものを、のがしてしまうのではないか。


わたしけ、浴室よくしつ天花板てんじょうばんにある、かすかにひかはな魔晶照明ましょうしょうめいつめた。あたまなかは、まるでむすつくってしまったかのようだった。

いつも、自分じぶん物事ものごとかんがえすぎてしまう。

それでも、かんがえずにはいられない。なぜなら——自分じぶんには、後悔こうかいしないでいられる自信じしんがないことを、よくかっているからだ。

水面すいめんしずかにれ、浴槽よくそうふちかるたたいて、かすかなおとてる。

そとからは、緹雅ティア鼻歌はなうたこえてきた。

ほそく、途切とぎ途切とぎれで、まるでふる吟唱曲ぎんしょうきょくのように、ふわりと空気くうきなかただよっている。

わたしには、彼女かのじょなにかんがえているのかからない。

彼女かのじょも、すこしはまずさをかんじているのだろうか。

それとも、こんな距離感きょりかんでのかかわりに、もうれてしまっているのか。

あるいは……じつは、わたし以上いじょう緊張きんちょうしていて、それをあらわさないだけなのだろうか。


わたしは、みずなかながあいだだまんでいた。

本当ほんとうは、もうすこしここにとどまっていたい。

けれど同時どうじに、べつ不安ふあんあたまをもたげてくる——

もし、あまりにもながあらいすぎたら、彼女かのじょわたしけているとおもってしまうのではないか。

あるいは、浴室よくしつたとき、あの部屋へや空気くうきが……

もう、いまとはちがうものになってしまっているのではないか。

わたしはゆっくりといきき、両手りょうてかおおおった。

てのひらからつたわってくる、自分じぶん体温たいおんかんじながら——

あつすぎる。

そして、あまりにもみだれている。


わたしあらえて浴室よくしつると、部屋へやあかりは相変あいかわらずあたたかかったが、空気くうきはどこか不自然ふしぜんなほどしずまりかえっていた。

……緹雅ティアが、いない。

浴室よくしつのこ湯気ゆげはまだ完全かんぜんにはりきっておらず、わたし扉口とびらぐちったまま、れたかみひたいきわくのをかんじていた。

身体からだにはぬくもりがのこっているのに、部屋へや全体ぜんたいつつ静寂せいじゃくだけが、ひどくいてかんじられる。

たぶん、さっきかりながらぼんやりしすぎて、彼女かのじょがいつったのか、づかなかったのだろう。

ふと視線しせんけると、たくうえ二杯にはいものかれていた。

硝子杯がらすはいなかには淡紅色たんこうしょく液体えきたいれ、魔晶灯ましょうとうひかりうつして、どこか魅力的みりょくてきえる。

わたしちかづき、そのうちの一杯いっぱいって、そっとかおりをたしかめた——

……て。

このにおい……さけじゃないか?


緹雅ティアのやつ……あきらかにさけよわいくせに、どうしてもうとするんだ。」

わたしこまったようにひたいさえ、あたまなかには、ったあとくちびるとがらせ、意味いみもなくしゃべつづける彼女かのじょ姿すがたが、自然しぜんかんできてしまう。

そのとき部屋へやとびらかるされ、すずしいかぜがそのままながんできた。

緹雅ティアもどってきたのだ。両手りょうてには、さきほどとおな色合いろあいのものはいったはいを、さらに二杯にはいかかえている。

私はおもわずいきみ、反射的はんしゃてきちかづいて、彼女かのじょから一杯いっぱいうばった。

そして、もう一度いちど鼻先はなさきちかづけてたしかめる——やはりさけだ。それも、さっきのはいより、あきらかに度数どすうたかい。

緹雅ティアさけよわいんだから、無理むりしてまなくていいだろ。」

わたしこえには、おもわずわずかな叱責しっせきじっていた。

「なにってるの! 平気へいきだもん、みたいんだもん!」

緹雅ティアくちびるとがらせてかえし、その調子ちょうしは、どこか意図的いとてきあまえたものだった。

そして言葉ことばわるやいなや、彼女かのじょ素早すばやわたしからはいうばかえし、まるでなに大切たいせつものまもるかのように、ぎゅっときしめた。


わたしまゆをひそめ、そこでようやくづいた——

この部屋へや全体ぜんたいに、防音ぼうおん魔法まほうと、感知かんち結界けっかいほどこされている。

外界がいかいおと一切いっさいこえず、わたしもまた、結界けっかいそと状況じょうきょうかんることができない。

同様どうように、そとからも、この結界けっかい内側うちがわ感知かんちできないはずだった。

「……感知かんち結界けっかい、だよね?」

わたしさくつぶやき、すぐにかおげて彼女かのじょた。

緹雅ティアは、はっきりと一瞬いっしゅんだけ身体からだ強張こわばらせたが、すぐに何事なにごともなかったかのような調子ちょうしもどる。

「だって、妲己ダッキたち、すごくさわがしいでしょ。よるこされたらいやだから……ちょっとだけ、さえぎっただけよ。」

わたしは、しずかにいきいた。

緹雅ティア、こんなことをして、もしなにかあったら……わたしたちは、すぐにづけなくなる。」

大丈夫だいじょうぶだってば!」

そういかけてから、彼女かのじょ一瞬いっしゅん言葉ことばまらせ、視線しせんらし気味ぎみつづけた。

「……そんなに、わたしおな部屋へやにいるの、いやなの?」


その言葉ことばすこ唐突とうとつで、いつもの茶目ちゃめはなく、ひくく——まるで、自分じぶんに問いかけるような調子ちょうしだった。

わたしは、はっといきんだ。

彼女かのじょあたま窓辺まどべける。

だが、カーテンはすでにきっちりとめられていて、そとなにえない。

それでも彼女かのじょは、そのむなしい空間くうかんつめつづけた。

まるで、そうすればわたしからげられるかのように。

わたしこたえなかった。

ただだまって彼女かのじょとなりき、こしろした。

いま彼女かのじょは、横顔よこがおあかりのしたでひどくしずかにえた。

いつも悪戯いたずらめいたひかり宿やどしているあのひとみも、いまあわうれいにおおわれている。

なにうべきだとはおもった。

けれど、どんな言葉ことばも、いま相応ふさわしくないがした。

彼女かのじょ一口ひとくちさけみ、かすかにまゆせたが、くことはなかった。

かっている。

彼女かのじょねているわけじゃない。

じつは……彼女かのじょも、こわがっているのだ。

そしてわたしは、もしかすると——

彼女かのじょのことを、もっとかろうとするべきなのかもしれない。


「……ごめん。」

わたしちいさなこえでそうくちにした。自分じぶんでもかるほど、その調子ちょうしには躊躇ためらいと不安ふあんにじんでいた。

緹雅ティアはすぐにはこたえなかった。

ただしずかにベッドのふちこしろしたまま、身動みうごひとつせず、視線しせん窓辺まどべけている。そこには、すでにられた厚重こうじゅう窗簾そうれんがあるだけで、そとなにえない。

その背中せなかはひどくしずかで、まるで感情かんじょうのすべてを、夜色やしょくしずむそのひとみおくにしまいんでしまったかのようだった。

「……どうして、わたしあやまるの?」

緹雅ティアはベッドにこしろしたまま、きもせず、ひくちいさくつぶやいた。

そのこえにはめるいろはなかった。

けれど、かすかな失落しつらくと、意地いじるようなつよさが、あわにじんでいた。


「さっきのこと……あやまりたい。」

わたしはゆっくりとちかづき、彼女かのじょとなりこしろした。

両手りょうてひざうえいたまま、彼女かのじょるべきか、それともゆかるべきかからず、こえにはまだ緊張きんちょうのこっている。

空気くうきを、あんなにおもくするつもりはなかった……。

ただ、すこ緊張きんちょうしすぎてて……それで……」

言葉ことばが、そこでまった。

むねうちにはつたえたいおもいがあふれているのに、いざくちにしようとすると、どんな一言ひとこと不器用ぶきようおもえてしまう。

やがて、緹雅ティアが、ゆっくりとかおをこちらへけた。

水色みずいろひとみにはかすかなひかり宿やどり、ほおにはあわべにしている。

それが酒気しゅきのせいなのか、それとも感情かんじょうたかまりなのか——わたしにはからなかった。

彼女かのじょは、なにわなかった。

ただしずかに、わたしつめているだけだった。


わたしは、まるでその視線しせんせられるようで、むねおくが、そっとむすばれてしまったかのようにかんじた。

その瞬間しゅんかんわたししずかにがり、指先ゆびさきはためらいながら、ちゅうまった。

彼女かのじょあとずさることもなく、ただしずかにっている。

まるで、わたしちかづくことを、だまってゆるしているかのように。

そしてわたしは、ついにばし、彼女かのじょほおれた。

そのはだあたたかく、まるで炉火ろびのそばからあるてきたばかりのようだった。

彼女かのじょじ、なにわない。

けれど、そっとかおせてきて、いまのこのいが、同情どうじょうからではなく、たしかな感情かんじょうからまれたものなのかを、たしかめているかのようだった。

わたしにはかった。

彼女かのじょかたが、ゆっくりとゆるんでいくのが。

さきほどまでのかたさが、おともなくほどけていくのが。

彼女かのじょは、もうつよがる素振そぶりさえせない。

ただしずかに、わたしてのひらなかとどまり、

まるで——つぎにどうするのかを、わたしゆだねているかのようだった。


わたしは、あのひとみなかれる光影こうえいへとまれていくようで、この瞬間しゅんかんにおいては、あらゆる言葉ことば余分よぶんおもえた。

わたしは、さらにすこしだけ距離きょりめる。

一歩いっぽちかづくごとに、彼女かのじょ気息きそくはいっそうたしかなものになり、やわらかく、ほのかにあま酒香しゅこうびて、まるで月夜つきよ海風うみかぜにおいのように、こころきつけてやまない。

わたしたちはぐこともなく、言葉ことばわさず、ただたがいの距離きょりを、すこしずつ、すこしずつちぢめていった。

その瞬間しゅんかんときこおりついたかのようにかんじられた。

彼女かのじょ呼吸こきゅうが、わたし呼吸こきゅうまじわるのがかる。

ゆっくりで、けれどたしかに高鳴たかなっていて、まるでふたつの心臓しんぞうが、たがいの存在そんざいせられ、おな拍動はくどうきざはじめたかのようだった。

わたしじ、そっとひたい彼女かのじょひたいへとれさせる。

彼女かのじょは、退かなかった。

わたしたちのくちびるが、かさなった。

それは予想外よそうがいなほどやわらかく、羽毛うもう湖面こめんかすめるようにかるいのに、こころみずうみには、途切とぎれることのない波紋はもんひろげていく。

彼女かのじょが、かすかにふるえているのがかった。

けれど、げることはなかった。

そしてわたしも、もうまよわなかった。

わたしたちは、ただしずかにい、呼吸こきゅうかさね、たがいの気息きそくで、鼓動こどうつよむすわせていく。

世界せかいには、わたしたち二人ふたりしかのこっていなかった。


「——コツン!」

かすかなおとが、突然とつぜんとなり部屋へやからつたわってきた。

だれかが、かべかるたたいたようなひびきで、防音ぼうおん魔法まほうつつまれているせいか、どこかにぶひくこえる。

わたしははっとき、すこみだれた呼吸こきゅうのままかおげた。

いまおとって……?」

緹雅ティアひらき、ぱちりとまたたいた。

ほおさきほどよりも、はっきりとあかくなっている。それでも、口調くちょうだけはつとめて平然へいぜんよそおっていた。

「だからったでしょ。あのたち、うるさいんだって。にしなくていいの!」

彼女かのじょげ、わたしかるした。

言葉ことば相変あいかわらず茶目ちゃめがあるのに、そのこえは、あきらかにいつもよりやわらかかった。

わたしちいさくわらい、それ以上いじょう追及ついきゅうすることはしなかった。

彼女かのじょはそのまま、わたしかたへとせてくる。

まるで、なにきなかったかのように。ただ、しずかにいたいだけだというふうに。

わたし一瞬いっしゅん戸惑とまどい、それからおもわずわらった。

さきほどまでねつびていた空気くうきは、ゆっくりとしずみ、しずかな親密しんみつさへとわっていく。

わたしうでげ、彼女かのじょかたまわして、そっとせた。

彼女かのじょなにわず、ただしずかにあずけてくる。

彼女かのじょにあった酒杯しゅはいわきかれ、のこった酒香しゅこうと、かみ宿やど気配けはいい、

それは、まぎれもなく——彼女かのじょだけのかおりになっていた。


緹雅ティアは、いきなりわたしをベッドへとたおし、そのいきおいのまま、さきほど外出がいしゅつしていたときの衣裳いしょうをするりとった。

そして、彼女かのじょかるゆびはじく。すると、部屋へやともっていた魔晶ましょう照明しょうめいとうが、一瞬いっしゅんえた。

彼女かのじょは、そっとあたまわたしむねあずけ、次第しだいはやくなっていく心音しんおんを、しずかにいている。

わたしも、自然しぜん緹雅ティア後頭部こうとうぶへとび、彼女かのじょがその鼓動こどうを、よりはっきりかんじられるよう、そっとささえた。

嘻嘻ひひ!」

緹雅ティアは、もう一度いちどわたしかおへとかおせ、じる。

そして今度こんどは、ためらいもなく、わたしたちはくちびるかさねた。

そのころそとでは風雨ふううがいっそうはげしさをしていたが、

わたしたちは、ただそのまま——

わすれがたいよるを、ともごしたのだった。




この段落だんらくは、くまでにとてもながなやみました。

実際じっさい執筆しっぴつしている最中さいちゅうも、「ここはおもってばしたほうがいいのではないか」と、何度なんどかんがえていました。


分級ぶんきゅう問題もんだい意識いしきしていたため、表現ひょうげん尺度しゃくどはあえておおきくしすぎないようにしています。

(おそらく、規範きはんえてはいない……はずです。)

正直しょうじきえば、このまま原稿げんこうすすめていたら、「成人せいじん作品さくひん」の領域りょういきはいってしまった可能性かのうせいもありました。

そのてんについては、今後こんご反響はんきょうながら、あらためて判断はんだんしたいとかんがえています。


なお、本編ほんぺん全七章ぜんしちしょう構成こうせいされており、

物語ものがたり核心かくしんかかわる重要じゅうよう情報じょうほうは、後半こうはんにてあきらかになる予定よていです。

どうかつづき、たのしみにしていただけたらうれしいです。


最後さいごまでおみいただき、すこしでもたのしんでいただけたなら、さいわいです。

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