三か月前、未知 の 気息 が 静 かに 六島之國 の「萬界結界」を 通過 した。
それは 六島之國 が 誇 る 探知結界 であり、六島之國 の 初代神明 たちが 力 を 合 わせて 構築 したものだった。
幾重 にも 重 なり 合 う 屏障 は 互 いに 連動 し、天災 や 異象 でさえ、その 安定 を 揺 るがすことは 難 しいと 伝 えられていた。
しかし、その 気息 は 結界 を 越 えた 後、音 もなく 六島之國 の 内 に 溶 けるように 消失 した。
その 気息 は 極 めて 異質 であり、
その 圧迫感 は、まるで 遥遠 の 星空 から 墜 ちてきた 災厄 の 種 のように、
諸神 の 心 に 戦慄 を 走 らせた。
その 日 を 境 に、六島之國 の 神明 たちは 探知機制 の 運転 を 一層 強化 し、各地 の 兵部 の 人員 を 招集 して、地毯式 の 捜索 を 開始 した。
各島国 は 最高層級 の 神器感知儀 と 結界監測陣 を 起動 し、莫大 な 魔力 を 消費 することも 厭 わなかった。
しかし、その 気息 は、まるで 幻影 のように 掴 むことすらできず──
何 ひとつ、発見 されることはなかった。
この 日、神明 たちが 居 を 構 える「六玄閣」の 中央会議廳──「穹雲殿」には、やや 緊張 した 空気 が 漂 っていた。
ここは 六島之國 の 神明 たちが 重大 な 事象 を 協議 する 場 であり、九柱 の 神明 がそれぞれの 座 に 着 いていた。
その 背後 に 掲 げられた 白旗 の 紋様 は、各自 の 神権 を 象徴 している。
「何 だと……?
これほどの 時 を 経 ても、なお 侵入者 の 痕跡 すら 掴 めていないというのか?」
声 を 上 げたのは 天照大神であった。
その 双眸 には 金焔 が 燃 え 盛 り、身 の 周囲 には 熔岩 のような 霊気 が 揺 らめいている。
だが、いま 彼女 の 内 にある 怒火 は 暴走 ではなかった。
それは 体内 に 凝縮 され、絶 えることなく 灼 き 続 ける 圧力──
神 としての 威圧 そのものだった。
「非常に申し訳ございません。」
黒鉄の鎧を身に纏い、今回の行動を指揮している人物こそ、神々(かみがみ)直属の護衛隊を統べる統領、大将軍――稲天寺であった。
彼はその場に立ったまま頭を垂れ、長い髪が肩甲に沿って流れ落ちている。その声は鉄と石を打つかのように低く、重かった。
口調そのものに慌ては一切見られなかったが、それでもなお、言葉の奥には言い表せぬほどの重圧が滲んでいた。
「我々(われわれ)は、あなた様の『赤霊之焔』、月読様の『陰鑑宝盤』、そして伊邪那岐様と伊美那岐様の『天目鏡』――三つの神器を動員いたしました。
六旗部隊をそれぞれの担当区域へ派遣し、異常な気配が存在する可能性のある全ての領域に対して、徹底的な探索を行いましたが……それでも、いかなる異変も感知することは出来ませんでした。」
赤霊之焔――それは、黄泉之島の奥深くにおいて、千年の火山が抱く岩漿の心臓によって鍛え上げられ、生まれた炎の結晶である。
その外形は、まるで盛りに咲き誇る紅色の蓮華のようで、純粋なる火の元素の力によって凝縮された焔弁が、幾重にも層を成して開いている。
その温度は空気すら赤く染め上げるかのようで、周囲に立つ者の感覚にまで強烈な存在感を刻み込む。
天照大神は、この赤霊之焔を、鎏金を施した古の灯炉の中に封じ込めていた。
灯炉の外壁には、特殊な魔法の術式が浮き彫りに刻まれており、指先で軽く触れるだけで、火山の心臓が脈打つかのような低い唸りが、微かに響き渡る。
そしてこの灯りは、天照大神が自らの特異な火の元素の力をもって、引き起こすことで燃え上がる。
赤霊之焔の特性は、邪気を焼き尽くし、穢れを脱し去ることに留まらない。
それは同時に、空間に残留する「敵意の波動」を感知する力を備えている。
悪意を帯びた存在が、数歩でも近づこうものなら、焔光は即座に震え、激しく湧き上がり、耳を刺すような燃焼音を爆ぜさせる。それはまるで、怒号をもって敵意を暴き立てるかのようであった。
だが、今回に限っては――
その焔は終始変わらぬまま静かに燃え続け、いかなる揺らぎも示さなかった。
まるで、その気配など最初から存在しなかったかのように。
陰鑑宝盤は、月読が所持する神器の一つであり、全体は精緻な円盤の形状を成している。外枠は「月輝銀」によって打ち鍛えられており、その銀光は金属の反射ではなく、まるで本物の月色が宿っているかのように、呼吸に合わせて微かに脈動していた。
盤面には細密な星砂が散りばめられており、一粒一粒が凝結した夜空のような輝きを帯びている。それらは月輝銀と嵌合することで、自然と流動する星図を描き出し、あたかもこの円盤そのものが、縮小された天穹であるかのような錯覚を与える。
中でも最も目を引くのは、中央に据えられた深遠なる黒曜石の核であった。
それは単なる黒曜石ではなく、光を呑み込み、心念を屈折させる「影曜核」である。
月光がその核に注がれると、光線は反射されることなく、渦に吸い込まれるように深淵へと沈み込む。時折、淡い銀色の一筋だけが石の内側を緩やかに流れ、まるで意識を持つかのように、周囲を凝視しているかのようであった。
陰鑑宝盤は、「陰影の中にある真実を探り出す」神器として知られており、闇に潜むあらゆる波動を捕捉する力を持つ。
魔力によって気配を隠匿する潜行者、光影を操って欺瞞を行う幻術師、あるいは精神そのものを偽装する存在であっても、この宝盤に近づいた瞬間――
盤面は淡い光を帯び、星砂は再び配置を変え、黒曜の核からは髪の毛ほどに細い影線が伸び、真の所在を静かに指し示す。
だが、今回の調査においても――
陰鑑宝盤は、一切の反応を示すことはなかった。
この結果は、むしろ逆に、敵が常なる潜伏者ではないことを、より強く裏付けるものとなった。
天目鏡は、伊邪那歧と伊美那歧が、前代の神明より継承した神器である。
その本体は実体を持つ器具ではなく、「無形の鏡」と呼ばれる存在であり、外界からはその輪郭を捉えることが極めて困難である――
枠もなく、鏡面もなく、重さも影すら持たない。
ただし、強大な魔力が注がれた時に限り、その鏡はごく短時間、形を現す。
その刹那、空間は水面のように揺らぎ、波紋にも似た漣が走る。
やがて、朝霧のごとく薄い光膜が浮かび上がり、かすかに鏡面の輪郭を描き出す。
その鏡面は一見すると透明でありながら、底知れぬ深さを湛えている。
それは、空間そのものの構造を映し出しているかのようで――
風の軌跡、魔力の流線、物質と虚空との境界までもが、鏡の中で紋理のように流動し、淡く瞬いていた。
本来、この鏡は空間に生じる異象を探知するための神器であると伝えられている。
しかし今回、天目鏡を気配が発生したとされる方角へ向けた際に示された反応は、干渉でもなく、雑音でもなかった。
そこに映し出されたのは、ただの空白。
まるで、その気配など最初から、この世界に存在しなかったかのように。
「不合理だ。」
月読は眉をひそめ、低く呟いた。
彼女の身形は細く、夜色のごとく深い長袍を纏い、銀白の紋様が月痕のように浮かび上がっている。
その容貌は清冷かつ端正で、表情は静まり返り、銀白の長髪が月輝を映して肩に垂れ落ちていた。
暗元素は彼女の周囲に低く伏し、まるで夜空の下で音もなく巡る月輪のように、静かに運行しているかのようであった。
「つまり、相手は神器による探査に抵抗する能力を有している可能性が、極めて高いということ?」
「必ずしも、そうとは限らぬ。」
古びた沈着な声が響き渡り、殿内に居並ぶ諸神は同時に振り向き、至高なる五神の首――天之神を仰ぎ見た。
天之神の身形は高く端正で、線条の整った長衣の神袍を纏っている。
その色調は蒼白と深藍の狭間にあり、布地の上には星痕のごとき微細な光紋が、かすかに流動していた。
黒き長髪は背後で整然と束ねられ、五官の輪郭は深く刻まれ、低く落ちた眉骨の下から注がれる眼差しは、静かでありながら鋭利であった。
正面から向けられるその視線は、思わず目を逸らしてしまうほどの圧を宿している。
「この三件の神器、そして前代の神明たちが連なって構築した結界は、確かに、肉体の形をもって通過し、何の痕跡も残さずに越えられる者など、存在しない。だが……」
そう語りつつ、祂は緩やかに手を上げた。
すると虚空に、きわめて微妙な空間の歪みが、一層浮かび上がる。
「相手が仮に、『現界之躯』として此処へ侵入したのではなかったとしても――
その後、転じて『残影空間』へ逃れ込んだのであれば、あらゆる探測は、最初から無意味となる。」
殿中は、しばしの静寂に包まれた。
「『残影空間』?」
空間の力を司る伊邪那歧と伊美那歧もまた、その名を耳にして、思わず困惑の色を浮かべた。
深灰色と暗銀色の長袍を纏う者が伊邪那歧である。
その髪は自然に肩の後ろまで垂れ、特別な髪飾りは用いられていない。
神情には、どこか拭いきれぬ疲労の気配が、常に淡く漂っていた。
一方、もう一柱、凛とした姿勢で立つのが伊美那歧である。
彼女の神袍は象牙白と柔らかな金色を基調とし、その色合いは穏やかでありながらも威厳を湛えていた。
眼差しは温和で、神情はひどく集中しており。
「それこそが、問題なのだ。」
五神の一柱である生命之神もまた、静かな口調でそう述べた。
彼は淡紅色と乳白色が織り交ざった神袍を身に纏い、身形は修長で、五官の線はやや円みを帯びている。
髪色は浅褐色に近く、その末端には朱紅色の光沢がほのかに差していた。
「結界と神器による探知は、六島之國の『主層域』に対してのみ有効だ。
もし相手が、自ら生成した『残影空間』、あるいはさらに深層に位置する『黒界』に潜伏しているのだとすれば――
神器であれ、道具であれ、あるいは感知の結界であれ、その姿を見出す術は存在しない。」
(注):
主層域:地表上
残影空間:異空間
黒界:海面下方に位置し、結界による探知が及ばない範囲の外
「……つまり、敵は我々(われわれ)の触れることのできない空間の内に身を潜め、密かに我々(われわれ)の一挙手一投足を窺っている可能性がある、ということだ。」
同じく五神の一柱である大地之神が、低い声で補足するように語った。
大地之神の体躯は厚く、揺るぎのない安定感を湛え、まるで動かぬ山岳そのもののようである。
その衣袍は質感がやや粗野で、色調は土黄色から深赭色に近い。
衣の裾や肩部には、歳月に磨耗されたかのような不規則な紋様が刻まれていた。
深黒色の短髪は後方へ整えられ、風に揺れることはほとんどない。
広く張った五官には明確な稜角があり、高く通った鼻梁と相まって、威圧感を放っている。
その眼差しが伏せられる時、周囲の空気は一層沈重な気配に包まれた。
五神の一柱である時間之神は神杖を握り、静かに問い掛いかけた。
「もう一つ確認しておきたい。もし相手が身を置く空間の時間次元が此処と異なるならば、それは我々(われわれ)にとって不利となる可能性がある。仮に相手の目的が『あの封印』を解除することだとしたなら――我々(われわれ)は、いかに対処すべきだろうか?」
時間之神の体躯は高く、真っ直ぐに伸びた姿勢は端正そのものである。
その神袍は銀灰色と淡藍色の狭間に位置し、衣料の表面には細やかで規則的な線紋が浮かび上がっていた。
五官の輪郭は明確でありながら、感情の起伏をほとんど映さず、双眸は深遠で。
「心配には及ばぬ。」
五神の一柱である活力之神が、わずかに口を開いて告げた。
彼の体躯は引き締まっている、身には裁断の利いた短袍と護肩を着けている。
配色は赤金色と橙紅色が交錯する明快な色調で、深色の短髪はやや乱れ気味であった。
五官の線は鋭く、口元には常に笑意が浮かび、双眸は炯炯として生気に満ちている。
「宮司様の魔法が持続的に稼働している限り、あの封印が破られることはない。」
(聖王国の港)
私たちは港口に停泊し、六島之國へ向かう準備を整えた商船の傍らへと辿り着いた。
私が実際にその商船を目にした瞬間、眼前に広がる光景に、思わず驚愕した――否、それは驚きというより、むしろ震撼と呼ぶほうが相応しい。
その商船の豪奢さは、私の想像を遥かに凌駕していた。
船体は深い棕紅色の木材で造られ、船首には翼を大きく広げて翔ける金色の双尾鷲が彫刻されている。
それは王権と交易の栄誉を象徴する紋章であり、その威容に、海風さえも気圧されているかのようであった。
甲板は隅々(すみずみ)まで清潔に保たれ、一本一本の索は整然と巻き掛けられている。
船帆に至っては、聖王国の紋章を象る銀白色の刺繍が施され、朝陽を受けてきらめくように輝いていた。
「こ、これは……商船なのか? どちらかと言えば、豪華な客船に近いのではないか?」
私は思わず、そんな言葉を口にしていた。
一般的な交易用の商船と比べても、この船は規模が大きく、船体はより安定しており、その内装に至っては、まるで貴族が旅に用いる専用艦のようであった。
私は胸中で密かに思案する。
この待遇は、もはや通常の「貴客」に対する基準を、優に超えているのではないか――と。
聞くところによれば、聖王国における航海貿易は、国家総収益の約三割を占めており、国力の維持と資源の流通の両面において、極めて重要な役割を果たしているという。
眼前のこの商船の規模と配置を見る限り、彼らが海路をいかに重視しているかは、もはや言うまでもなかった。
たとえ純粋な貨物輸送であったとしても、その威容は決して他に引けを取るものではない。
しかし、私を本当に驚かせたのは、この船そのものだけではなかった。
私たちが乗船の準備を進めていたその時、浅藍色に銀紋を施した鎧甲を身に着け、雲兎騎士団を象徴する肩章を佩びた若い騎士が、検札の最中、ふと眉をひそめた。
彼は私たちの船票を入念に確かめるように見つめ、その表情を次第に硬くしていく。
やがて眉を深く寄せたまま、手を上げ、私たちに一時停止するよう合図を送った。
「この船票の印章は……申し訳ありません、少しお待ちください。」
声を低く抑えながらも、その口調には、隠しきれない警戒と、どこか敬意が滲んでいた。
そう言い残すと、彼は小走りでその場を離れていった。
私は胸中で首を傾げる。
――私たちの身分が、すでに露見してしまったのだろうか。
それとも、この特別な船票そのものに、何か秘められた標が施されているというのだろうか。
ほどなくして、反対側から足音が近づき、一行が整然と姿を現した。
先頭に立っていたのは、剛毅な面差しを持ち、茶褐色の髪を一束に結った中年の男である。
彼は銀白色の外套を羽織り、左肩には雲兎騎士団の指揮徽紋が刺繍され、その立ち姿は凛として背筋が伸びていた。
彼が私の前で足を止めると、右手を左胸に当て、深く一礼する。
「ご挨拶申し上げます。私は雲兎騎士団第七小隊の隊長、托德
でございます。
上官よりの命により、六島之國まで、皆様を全行程にわたって護送いたします。」
周囲を見渡すと、数名の騎士たちが、音も立てずに立ち位置を調整し、整然と一列に並び直しているのが分かった。
私は一瞬言葉に詰まり、気恥ずかしさを隠すように、ぎこちなく笑って口を開いた。
「そ……それほど手間を掛けなくてもよいのでは? 私たちは、ただの一般の旅客ですし、ここまで高規格な護衛は……」
「いいえ。」
托德は静かに首を振り、その声には慎重さが滲んでいた。
「これは団長方から直々(じきじき)に言い渡された任務です。どうか、決して辞退なさらぬようお願いいたします。」
「皆様は、聖王国にとって極めて重要な貴客です。万一にも、失うわけには参りません。」
そう語る彼の眼差しは揺るぎなく、口調にも一切の妥協は感じられなかった。
右手は依然として胸口に当てられ、最も正式な礼の姿勢を保っている。
思わず敬意を抱かせるものがあった。
そこまで強く主張されては、私もこれ以上言い募る気にはなれない。
「そういえば、なぜ六島之國へ向かう船は、必ず護衛が付くのですか?」
私は埠頭の縁に立ち、遠方に広がる海面を見つめていた。
一方、緹雅は木柱の傍に寄り掛かりながら、自身の風帽を整えている。
風がゆるやかに吹き抜け、ほのかな塩気と湿り気を含んだ空気を運んでくる。
人々(ひとびと)は貨物と水手の間を絶え間なく行き交い、馬車は酒樽や補給箱を積んでは往復を繰り返していた。
港口に満ちる喧騒の中には、海鳥の鳴き声が混じり合い、まるであらゆる音が、これから始まる海上の旅路に向けた序曲を奏でているかのようであった。
傍らに立つ托德は、その問い掛いを耳にすると、わずかに顔を横へ向け、私を一瞥した。
神情に大きな変化はなく、ただ淡々(たんたん)とした口調で、次のように答えた。
「それは、この航路が、天候の不安定さに加え、魔物が出没することが少なくないからです。
護衛を付けなければ、船が無事に目的地へ到達するのは、恐らく困難でしょう。」
「魔物? どのような魔物なのですか?」
私は身を翻して彼を見やり、好奇心からそう尋ねた。
陸地においては、私たちはすでに様々(さまざま)な魔物に慣れきっていたとはいえ、果てしなく広がる大海に潜む脅威については、いまだ知る由もない。
その事実を思い至り、胸中が思わずきゅっと締まるのを感じた。
「大半は、ありふれた海洋の魔物に過ぎません。」
托德は平坦な口調で答え、すでに見慣れた出来事であるかのように肩を竦める。
「たとえば裂嘴魚です。ああいった連中は群れを成して船底に襲い掛かり、木板で造られた船殻を噛み破ります。
それから食鳥蟒。帆架の上にとぐろを巻き、空から奇襲を仕掛けて、荷を運ぶ水手を狙う厄介な存在です。
さらに礁岩蟹もいます。数が非常に多く、ひとたび船に張り付かれれば、盾ですら奴らの鋏で切り裂かれてしまいます。」
傍らにいた騎士たちも話題に加わり、そのうちの一人が笑いながら言った。
「この前、私が巡航していた時は、甲板一面に礁岩蟹が這い上がってきて、危うく船を丸ごと解体されるところでしたよ。」
「だが――」
托德は一瞬言葉を切り、眼差しをわずかに揺らした。
「それらについては、我々(われわれ)も対処できる。真に警戒すべきなのは、天候の異変だ。」
「天候異変?」
私は、托德
の言葉を反芻するように繰り返した。
「海上の気候は変転極まりなく、想像している以上に理を外れている。
晴天が広がっていたかと思えば、次の瞬間には暴風雨となることも珍しくない。
だが――雷電が天を切り裂き、浪が壁のように聳え、さらには空そのものが引き裂かれるかのような渦が生じる時、それはもはや通常の自然災害ではない。」
「それは……魔力の異変ですか?」
緹雅が何気なく問い掛いかける。
托德は小さく頷き、声を落とした。
「我々(われわれ)は、それを『魔潮』と呼んでいます。
そして――『魔潮』が発生する時、『海之王』が姿を現す可能性があるのです。」
『海之王』――その三文字は、海風に晒された冷鉄のように、私の耳へと打ち込まれ、胸中に不安の波紋を広げた。
「海之王……?」
私は思わず、呟くようにその名を繰り返した。理由は分からないが、背筋にひやりとした寒気が走る。
すると、一人の若い騎士が声を潜め、まるで禁忌の伝承を語るかのように口を開いた。
「ある者は、あれには海蛇のような無数の触手があると言い、またある者は、その身そのものが移動する島だと語ります。
ですが、唯一共通している描写があります――
それは、巨大な一対の眼を持っているということ。まるで、深海そのものが渦を成したかのような眼だと。」
彼は一瞬言葉を切り、さらに声を低めた。
「その眼を見た者は皆、口を揃えて言います。
あれは、単なる視線ではない――魂の最奥に潜む恐怖を、直接覗き込まれる感覚だと……。
記録によれば、五十年前に一度姿を現し、その夜一晩で一個の艦隊が消え失せました。
漂う船骸すら、一片も見つからなかったそうです。」
「這れは単なる伝説ではありません。」と、もう一人のやや年長の騎士が補足した。
「我々(われわれ)は嵐をくぐり抜け、数多くの海底の魔物とも戦ってきました。ですが、ただこの事だけは――風勢が急変し、波濤が壁のように押し寄せるなら、我々(われわれ)は船を捨て、海上に身を漂わせることを選びます。それでも、あの未知の凝視に向き合うことだけは、決してしません。」
言葉が途切れた瞬間、空気は一瞬凍り付いたかのようで、先ほどまで自由に吹いていた海風さえ、この時ばかりは息を潜めたかのようだった。
桟橋全体は、目に見えぬ薄霧に包まれたかのように、異様な静寂に沈み込み、胸奥に得体の知れぬ寒気を走らせた。
私はそっと首を巡らせ、緹雅の方を見た。
彼女は眉先をわずかに寄せ、口元に不自然な笑みを浮かべている。
何か言おうとして、しかし思い留まった。
その表情は、緊張というよりも、どこか諦観に近い……
「海之王か……。
できれば、面倒なことを起こしに来ないでほしいな。」