(神暦2975年)
朝の光がまだ射し込まぬ時刻、聖王国の王都はすでに濃厚な煙霧と焦土の匂いに覆われていた。
灰色に曇った空は呼吸すら苦しくさせ、数羽の烏が王城の上空を旋回し、時折耳障りな鳴き声を発しては、この焦黒の大地に眠る亡魂へ囁きかけているかのようであった。
城壁は半ば崩れ、屋根瓦は砕け散り、見る影もない荒れ果てた姿。
かつて栄華を誇った聖王国の王都は、今やほとんど廃墟と化していた。
煙塵は未だ晴れず、しかし周囲は異様な静寂に包まれていた。
喧騒の果てに残されたのは、死のような沈黙のみである。
地上には無数の屍体が横たわっていた。騎士である者も、平民である者も、その姿は血と灰燼に塗れ、惨烈なる戦場の景を描き出していた。
かつて栄光と秩序の象徴であった王城も、すでに往時の繁栄を失い果てていた。
唯一王城中央の神殿のみが巍然として動かず、混乱と炎の中にあっても揺るぎなく聳え立っていた。
高く聳える神殿の外壁は淡い金色の輝きを放っていた。それは神の庇護の結界であった。
城壁が崩れ落ちようとも、神殿は磐石のごとく王城の核心を護り続け、その威容は無言のまま、この災厄の異常さを訴えていた。
崩れ落ちた塔楼の下、一人の兵士が満身創痍の姿で瓦礫の山から必死に這い出てきた。
顔には灰塵と鮮血がこびりつき、右脚は折れているようで、身をずりずりと引きずりながら前へと進むしかなかった。
立ち上がろうと試みても力は入らず、結局は半ば崩れた石壁に身を凭せかけ、荒い息を吐き続けた。
兵士の視線が四方を彷徨えば、目に映るのは砕けた街道、崩壊した建築、そして血に塗れた屍体の山。
込み上がる吐き気を必死に堪えていたが、壁際にて幼子が母親の亡骸を抱きしめ、小さく震えている姿を目の当たりにした瞬間、兵士は堪え切れず、身を折って激しく嘔吐を催した。
彼が今にも力尽きそうになったその時、背後から叫び声が響いた。
「ここにまだ生存者がいる!」
彼は必死に首を巡らせ、そこに白銀の軽鎧を纏った騎士団の後備救援部隊が駆け寄ってくるのを見た。
先頭に立つのは一人の女性士官で、その顔には焦りと決意が浮かんでいた。
彼女はすぐに膝をつき、兵士の傷を確かめる。
「失血がひどい……意識がもうろうとしている!」
「急げ、担架に乗せろ!」
別の救援員が駆け寄り、二人は慎重に彼の体を横たえ、固定してから担ぎ上げた。
彼らは最前線の戦闘員ではない。
だが、この救援隊員や医療班もまた戦場の影の中に身を置いている。
屍体を踏み越えて進む足取り(あしどり)は恐怖と無力感に震えていたが、それでも一歩も止まることはなかった。
「……悪鬼だ。これは間違いなく悪鬼の仕業だ……。」
若い医療兵が呟いた。
震える両手は止まらず、声には怯えが滲んでいた。
彼にとって戦場は初めてではない。
しかし、人間性のかけらも感じられぬ虐殺の痕跡を目の当たりにするのは、これが初めてであった。
その時、後方から重々(おもおも)しい足音が響き、砕けた石片を踏みしめるごとに鈍く力強い音を立てた。
医療班員たちは思わず振り返る。そこには全身を黒曜の鎧甲に包まれた長身の男が、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
その者は金と紅の羽冠で飾られた兜帽式の仮面を戴き、胸甲の中央には**聖王国**から授けられた紋章――光龍之剣が刻まれていた。それは王国の力の象徴であった。
二人の医療班員は慌てて姿勢を正し、声を揃えて叫ぶ。
「おお……騎士団団長様!」
鎧甲の男は歩みを止め、遠方にそびえる神殿の方角へと視線を上げる。
そして低く響く声で言った。
「どうやら……すべては、周到な策謀だったようだな。」
その口調は冷たく鋭かったが、抑え込められた怒りの色が滲んでいた。
仮面がその素顔を隠していたにもかかわらず、その場に居た者すべてが、彼の体内から燃え上がる戦意と悲憤をはっきりと感じ取ることができた。
(25年後)
目の前に広がる村落の名は、尤加爾村である。
名目上は聖王国の支配下に属しているが、実際は地図の片隅に記されるに過ぎない目立たぬ小さな村であった。
村人たちの多くは農業に従事し、自給自足の暮らしを送っていた。
時折、通りがかる商隊が魔物を避けるために立ち寄り、一時の休息をとる。
それが、この村と外界とを結ぶ唯一の交流の手段であった。
聖王国は現在の世界における六大強国の一つであり、それと並び称される国々(くにぐに)は以下の通りである。
――群島に位置し、強大な航海技術と魔法知識を誇る六島之國。
――聖山に流光瀑布が映じ、輪廻が俗世を巡り、宝石と魔法鉱物が燦然と輝く荒漠之國。
――烈日に焼かれる砂漠、古代遺跡が点在する遺跡之國。
――光影が神殿を貫き、強烈な信仰と荘厳な儀式に彩られる神話之國。
――火山と氷河が交錯し、永夜と霜雪が大地を覆い、雷鳴が氷結峡谷に轟く黄昏之國。
しかし、この六大国の間は、表面上のように互いに助け合っているわけでもなく、また伝説に語られるように剣を交える寸前の緊張状態にあるわけでもなかった。
実際のところ、各国の間には微妙な均衡と平和が保たれていた。
三千年前、世人に詳しく語られることのない大災厄が大陸を襲った。
その後、六大国は《誓約》を結ぶに至った。
この誓約は強制力を持つものではなかったが、各国が容易に戦端を開けぬ底線となった。
以来、国境を巡る小規模な衝突や交易上の摩擦は幾度も起きたが、全面戦争に発展することは一度もなかった。
誰もが知っていた――あの底線が破られれば、歴史の深淵に眠る災厄が呼び覚まされることを。
これらの情報は、すべて一人の商人から聞いたものである。
彼は六島之國の出身で、名を深作と言い、長年にわたり諸国を渡り歩き、その見聞は広かった。
そして、さらに重要な情報は、我々(われわれ)が弗瑟勒斯を離れて以来、道中で見聞したすべてが、この世界が人間の領域だけに限られていないことを証明していたという事実である。
旅路の中で我々(われわれ)は多種多様な種族に出会った。
傲慢にして誇り高き獣人族、天空を翔ける龍人族、そして魔法に長けた精霊族にも遭遇した。
この世界において人口が最も多い五大種族は、人族、天使族、悪魔族、精霊族、そして龍族である。
それぞれの種族は独自の魔力構造と文化体系を持ちながらも、この世界では互いに協力し、種族間の壁による分裂は見られない。
そして我々(われわれ)にこの情報を伝えてくれた深作は、悪魔族と人族の混血であった。
私にとって、このすべては決して見知らぬものではなかった。
というのも、元の世界――あの《DARKNESSFLOW》と呼ばれる仮想現実ゲームにおいて、このような世界観はすでに深く記憶の中に刻まれていたからだ。
さらには、この世界の時間体系でさえ、かつて私が生きていた世界のものと驚くほど似通っていた。
今年は神暦3000年。
それは六大国が建国してから、ちょうど三千年の節目に当たり、多くの都市で記念儀式や典礼が執り行われていた。
だが驚くべきは、三千年の時が経たにもかかわらず、この世界が依然として私の知る中世に近い文明段階に留まっていたことである。
高層建築はなく、飛空艇も存在せず、火器でさえ極めて稀少だった。
代わりに、この世界を支えているのは魔法と魔力結晶を用いた機構施設や転送陣であった。
これは技術的後退ではなく、文明の発展方向が、私の認識するものとは根本的に異なっていたにすぎない。
そして、この相違は否応なく私に疑念を抱かせた。
――私が今身を置くこの世界は、《DARKNESSFLOW》と、私が想像する以上に深い繋がりを持っているのではないか、と。
私と緹雅は、緩やかに蛇行する山道を辿りながら村へと向かっていた。
ただの静かで人里離れた小村に過ぎないと思っていたが、村口近くに差しかかった瞬間、目の前に広がる光景に、私たちは思わず足を止めた。
数十名の聖王国の兵士たちが武装を整え、村への出入りの主要な道という道に配置されていた。
各交差点には簡易の防御施設や臨時検問所が築かれ、ある者は警戒を怠らず周囲を巡回し、またある者は通行人を厳しく検べていた。
兵士たちの眼差しは鋭く、場の空気は張り詰めていた。まるで何か重大な標的を捜しているかのようだった。
思い返せば、先に道を尋ねた商人がこう言っていた。
――尤加爾村は辺鄙な地にあり、普段は村人と時折行き来する旅人くらいしか訪れず、ましてや王城の兵士が駐屯することなどあり得ない、と。
にもかかわらず、この異常な厳戒態勢は、明らかに常識の範疇を逸していた。
さらに悪いことに、この世界では種族が混じり合って暮らすのは当たり前であっても、今の私と緹雅には身分を証明できる手形も何もなかった。
この状況で不用意に近寄れば、無用な疑念や厄介を招くのは必至だった。
緹雅が私の肘をそっと突き、小声で囁いた。
「どうする? 迂回する? それとも……紛れて通ってみる?」
私は一瞬考え、村口を巡回する兵士たちを視線で追ったあと、肩を竦めて答えた。
「試してみよう。もしかしたら上手く紛れ込めるかもしれない。」
そう言って村口の道へ足を向けたが、数歩も進まぬうちに、すぐさま二人の衛兵に見つかり、行く手を遮られた。
二人は左右から立ち塞がり、私たちの前に立ちはだかる。
そのうちの一人は体格が大きく逞しく、鎧が動くたびに低く鈍い金属音を響かせていた。顔には深い皺が刻まれ、歴戦の老兵であることが一目でわかる。
もう一人はずっと若く、痩せ型の体に鋭い眼差しを宿していたが、その声色には落ち着きがなく、どこか苛立ちを帯びていた。
「おいおいおい! お前ら、どこから来たんだ?」
痩せた兵士がいきなり声を荒げ、不機嫌さを隠そうともしなかった。
私は即座に、事前に商人から聞き出しておいた情報どおりに答えた。
「南方の戈斯堤村から来ました。ですが……私たちの村は先日、竜巻に襲われて壊滅してしまったんです。だから北へ逃げるしかなくて……」
大柄の兵士はそれを聞くと、わずかに頷き、眼差しを少し和らげて低く言った。
「戈斯堤村……あそこは荒漠之國との国境近くだな。確かにどこの国の管理下にもない地域だ……なるほど、お前たちはあの辺りの難民か……」
しかし痩せた兵士は眉をひそめ、手を振って言はなった。
「おい、今は外の人間を受け入れてる場合じゃない。この村は閉鎖中だ。さっさと立ち去れ、邪魔だ!」
緹雅は目を瞬かせ、小声で呟いた。
「何が起きてるの……? どうしてこんなに兵士が警戒してるの?」
痩せた兵士は「余計なことを聞くな」と言い返そうとしたが、隣の老兵がそっと肩に手を置いた。
老兵は何も言わず、前方の哨所から伝わった緊急の合図を処理するようにと、静かに頷いて示した。
その大柄の男はわずかに眉をひそめ、振り返って低くも落ち着いた声で私たちに告げた。
「お前たちが知らなくても無理はない。これは数日前、第二十八代の国王陛下から直々(じきじき)に下された命令だ。王国全土の通路、大小を問わず全面封鎖し、同時に外来勢力の排査と駆逐を展開せよ、と。」
その言葉は、まるで足下に重い石を投げ込まれたかのように響いた。
私と緹雅は思わず目を合わせ、心の中で一気に警戒を強めた。だが表情だけは絶妙な驚愕を装い、無知を演じるしかなかった。
「な、なに……?」
私はわざと声にためらいを滲ませた。
「私たちの村は世間から隔絶されていて、外の情報なんて何も届かないんです……いったい何が起きたんですか?」
私と緹雅が戸惑いを隠せない様子で見つめ返すと、その大柄の男は一瞬、意外そうな表情を浮かべた。だが同時に、私たちの言葉に少し警戒心を解いたようでもあった。
疑う素振りを見せるどころか、彼の声はわずかに和らぎ――
「お前たち、本当にそれも知らないのか……。まあ、それは随分昔の話になるんだ。」
そう言って彼は頭を掻き、困ったように苦笑した。
「でもな、話せば長いし……俺はもうすぐ交代の時間なんだ。」
彼は手を上げ、遠くの方を指し示す。
「とりあえず、あそこの小さな小屋のそばで休んでいろ。仕事が一段落したら、後でちゃんと話してやる。」
立ち去る前、凡米勒はふと思い出したように言葉を添えた。
「そうだ、俺は凡米勒って言う。さっきの奴は阿迪斯だ。口は悪いが根は悪くない。あまり気にしないでやってくれ。」
私は微笑み、手を差し出して頷いた。
「私は布雷克、こちらは妹の狄蓮娜です。」
簡単な挨拶のあと、凡米勒は腰の剣の柄を軽く叩き、踵を返して阿迪斯のいる村口の反対側へ追って行った。
――その瞬間、背後から言い表せない圧迫感が迫ってきた。
まるで何者かの視線が空気を突き抜け、冷たく私を見据えているかのようだった。
この世界について何も知らない私と緹雅は、まず弗瑟勒斯に最も近い村落から手を付け、地方の情勢を観察してから方針を立てることにした。
ところが、村に到着した途端、すぐに異変に気が付いた。本来なら顧みられることのない小さな村落に、思いのほか多くの聖王國の兵士が駐在していたのだ。
私たちは天災によって村を追われた流民のふりをし、南部の村から逃げて来たと偽り、この村落に紛れ込もうとした。幸運なことに、村口の守衛は疑いを抱かず、おそらく彼ら自身も「こんな場所に兵士を置く必要はない」と思っていたのだろう。
こうして私たちは、村内の一軒の古びてはいるが温かみのある小さな宿屋に臨時で身を寄せることになった。
「遠慮するなって! せっかくここまで辿り着いたんだ、ほかのことは今は気にせず休めばいいさ。」
凡米勒は朗らかに笑い、その声音には温かさが滲んでいた。
彼の厚意に、私の胸の奥には言い知れぬ罪悪感が広がった。実際、私たちは本当の災害難民ではないのに、彼は心から私たちのために奔走してくれている。
「まったく……お前ってやつは……」
向かいに座って酒をあおっていた阿迪斯が眉をひそめ、不満げに呟いた。
「上の連中に、お前が勝手に部外者を匿ってるってバレたらどうするんだ? そのときは俺は責任を取らんぞ。」
私と緹雅は視線を交わし合い、彼らの好意に対しては、ただ気まずそうに苦笑いを返すしかなかった。
そして、どこか後ろめたさを抱えながら、黙って卓上の料理を口に運んだ。
「わあっ!これ……めちゃくちゃ美味しい!」
緹雅は箸を置いたかと思うと、思わず声を上げ、瞳を輝かせた。
「へへっ~。これはな、俺みたいな常連しか知らない裏メニューなんだぜ。」
凡米勒は胸を張り、得意満面で紹介した。
「岩菊花の香りに深海の石斑魚を合わせて、店主特製の秘伝ダレを塗り、火山石の窯でじっくり焼き上げた一品。名を『炙り岩菊魚腹』っていうんだ。外側はカリッと香ばしく、中の身はとろけるほど柔らかい。口の中に香りが数分間は残るぞ!」
私たち四人は素朴な木の卓を囲み、揺らめく灯火の下、漂う香りに包まれていた。
そのひとときだけは、旅路の疲れも、胸の奥に潜む危険さえも、すべて忘れてしまうようだった。
凡米勒と阿迪斯は、王国からここに駐屯を命じられた兵士。偶然の巡り合わせから、彼らは私たちがこの世界に来て最初に出会った人々(ひとびと)となった。
「実はな……俺は元々(もともと)この村の出なんだ。十五年前に召集されて、王国軍に入ったんだよ。」
凡米勒は杯を掲げて一口飲み、どこか懐かしげで、同時に滄桑とした響きを帯びて語った。
「おじさん、やっぱりこの村の人だったんだ! だから村の路地裏とか、どの店の料理が一番美味しいかとか、何でも知ってるんだね!」
緹雅は皿の魚肉をほぐしながら、にこにこと笑って言った。
凡米勒は淡い笑みを浮かべ、酒杯を静かに置くと、声の調子を改めて語り出した。
「だが……この話は、二十五年前のあの大災厄から始めなければならないな。当時、聖王國を治めていたのは第二十七代の王だった。国は安定していた時期だったが――ある深夜、王都城が突如襲撃され、一夜にして焦土と化したんだ。」
私は眉をひそめ、彼の言葉に耳を傾けた。
「その夜の王城は、まるで煉獄だったと伝えられている。城内に生存者はおらず、第二十七代の王はその場で斃された。残骸や報告から判断するに、逃げる隙さえなかったらしい。」
「そ、そんな馬鹿な……一体誰がそんなことを?」
私は険しい顔で問い返した。
凡米勒は首を横に振り、声を重くした。
「誰にも分からん。この件は、おそらく王国の最上層部のみが知る機密だ。」
「当時、王国の十二支騎士団のうち、十一の団は任務で外に出ていて、城に残っていたのは炎虎騎士団だけだった。だが……彼らは全滅し、ほとんど遺体すら残らなかったという。」
「遺体が見つからなかった……それなら、まだ生きている可能性もあるんじゃない?」
緹雅はわずかな希望を込めて言った。
凡米勒は静かに首を振り、声を落とした。
「……頭だけで、生きられると思うか?」
その瞬間、部屋の空気はぴんと張りつめ、私も緹雅も息を呑んだ。
「伝えられるところによれば、見つかったのは数個の黒焦げの首級だけだった……身体は魔焔に焼かれ、跡形も残っていなかったそうだ。」
凡米勒は記憶の影を滲ませながら補足した。
「その後、外出していた騎士団の団長たちが急いで王城に戻り、目の前の屍の山に怒り狂った。だが幸運にも、その場には第二十八代の王も同行していて、前王と同じ運命を辿らずに済んだんだ。」
「じゃあ……その犯人は一体誰なんです?」
私は抑えきれず問い詰めた。
凡米勒は深く息を吸い込み、複雑な表情で答えた。
「今でも誰にも分からない。あの厳重な王城の警備の中で、あの虐殺を成し遂げた存在……常識では考えられん。」
「しかし――」
凡米勒の声はさらに低くなり、その調子には重苦しさが滲んでいた。
「最近、王都からの報せによれば……あの夜の犯人が、再び姿を現すかもしれん、というのだ。そのために、第二十八代の王は王国全土の出入口を徹底的に封鎖し、悲劇の再来を防ごうとしている。」
その言葉が放たれた瞬間、空気は数秒間凍りついたように沈黙した。
私の胸の奥には得体の知れぬ寒気が走り、脳裏にはあの王城の大虐殺の光景が浮かび上がった。
実際に見たわけではないのに、それは悪夢のような圧迫感として確かに迫ってきた。
一方、緹雅は終始表情を崩さず、平然としていた。
「おいおい、凡米勒! そんな深刻そうに言うなって。ほら、この兄妹、もう怯えてるじゃないか……ははは!」
阿迪ス(アディス)は大げさに腿を叩き、軽く笑い飛ばした。その顔は一見明るく余裕そうに見えたが、私には彼が無理に平静を装い、内心の不安を冗談で覆い隠しているように思えた。
一方、凡米勒は小さく首を振り、深いため息を漏らした。
「今じゃ王都の規則も変わってしまった。王国の居留証を持つ市民か、審査を経た特別な者以外、立入りは一切禁止だ。本来なら冒険者ギルドに頼ることもできるんだが……非常時ゆえに、それも難しい。本当に済まないが、俺たちにできることは限られている。」
「冒険者ギルド?」
私は目を見開き、思わず身を乗り出して尋ねた。
「それは……何ですか?」
私の反応に、凡米勒は少し驚いた表情を見せたが、すぐに穏和な笑みを浮かべた。
「お前たちの村は、本当に世間から離れすぎてるんだな。冒険者ギルドってのは、各国に拠点を置く中立組織で、様々(さまざま)な依頼を受け付けて、冒険者に仲介しているんだ。魔物退治、財宝探索、護衛、調査、時には王国への協力までな。」
「つまり、強ければ強いほど、依頼をこなして報酬を得られるし、各国からの通行許可や信用も得られるってわけだ。ただし最初は誰もが下級から始まって、名声と功績を積み重ねることで、より高位のランクに昇格できる。そして最終的には――混沌級冒険者にまで至る者もいるんだ。」
「じゃあ、その混沌級冒険者って?」
緹雅は口元をつり上げ、興味津々(きょうみしんしん)に尋ねた。
今度は阿迪斯が口を開いた。この話題には関心があるらしく、目つきもいくらか真剣なものになる。
「混沌級冒険者ってのは、簡単に言えば冒険者の中の最強だ。実力は十二大騎士団長すら凌駕し、一人で数個の軍隊に匹敵するとも言われている。もちろん、必ずしも単独で戦うわけじゃねえ。大半の混沌級冒険者は仲間と組み、それぞれの長所や戦術を活かすことで、あの領域に到達してるんだ。」
「だがな、維持するのはそう簡単じゃない。」
凡米勒が補足する。
「混沌級冒険者は、一定期間ごとに特別な審査を受けなきゃならん。それを通過できなければ、資格は剥奪、即ち降格だ。実力が落ちた者がいつまでも高い権限を持ち続けるのを防ぐためにな。」
「聞けば聞くほど……簡単じゃなさそうだな。」
私は呟いたが、心の中ではすでに思考が巡っていた。
――もっと自由に動き、情報と通行権限を得るためには……もしかすると、この道こそが突破口になるのかもしれない。
「もしお前たちに十分な実力があるなら、試してみるのも悪くないぞ。」
凡米勒は笑みを浮かべながら言った。
「そんな話、俺たちの村じゃ聞いたこともなかったけど……」
私は探るように返した。
「それも無理はねえ。」
阿迪斯は肩をすくめて言う。
「王国の辺境の村ってのは大抵情報が遅れてる。多くの連中は一生村を出ることもなく終えるんだ。だから、こんなことを知らなくても不思議じゃない。ましてや、もっと辺鄙な村ならなおさらだろう。」
ここまでで、私はすでに少なからぬ情報を得ていた。
だが――まだ、この先どの道を進むべきかは定めきれずにいた。
「ところで、なぜ聖王國の王は、こんなに長い時が経ってから、このような命令を下したのだろうか?」
私はわざと疑わしげに尋ね、ほかに何か手掛かりがないか探ろうとした。
「こんなに長い間、まさか犯人の行方の手掛かりさえ掴めなかったのか?」
凡米勒はこの言葉を聞いて少し沈黙し、その後、ゆっくりと首を振った。
「この件は少し複雑でして……名目上は第二十八代の王の命令ですが、実際には、この封鎖命令を本当に下したのは、我々(われわれ)聖王國の神明さまなのです。」
「神明さま?」
私の目がわずかに輝き、すぐさま問い詰めた。
「いわゆる神明とは何なのだ? 聖王國の神とは、一体どのような存在なのだ?」
この話題に私たちが興味を示すと、凡米勒は少し驚いたような表情を見せたが、それでも快く説明した。
「おや? 知らなくても無理はありません。王都の平民でさえ、この部分はよく分かっていませんからね。聖王國は王が国政を統治しているものの、実際に最も高い権力を持っているのは、神位を有する神明さまなのです。」
彼は一旦言葉を切り、その態度も敬意と慎重さを帯びていった。
「聖王國の最も高き神の名は盤古、そのほかに三柱の神が彼を輔佐しています。伏羲、女媧、そして神農氏。伝えによれば、彼らはそれぞれ異なる権能を司り、この王國の真の守護者であるのです。」
私と緹雅は、そっと視線を交わした。
その名を耳にした瞬間、胸の奥に言葉では言い表せない懐かしさが湧き上がってきたのだ。
「では、王の体制はどうなの? さっき、一人だけではないと言っていたわよね?」
緹雅が続けて尋ねる。
「その通りです。」
凡米勒はうなずいた。
「歴代の最も高き王は『皇帝』と尊ばれています。
さらに四人の王がこれを輔佐し、それぞれ顓頊、堯、嚳、舜と呼ばれ、軍事、法令、経済、民生といった大事を分担しています。
しかし、どの王であろうとも、結局は神明の旨意に従って行動せねばなりません。
皇帝は俗世の頂点に立つ尊き存在ではありますが、実際のところは、神明の意志を執行する者にすぎないのです。」
そう言うと、彼は杯を掲げて酒をひと口含み、さらに魚の腹身を箸で摘んで口に運び、しばし咀嚼してから続けた。
「普段、神明さまが政事に直接干渉されることはありません。せいぜい神使を通じて言葉を伝える程度です。
ですが、もし災厄が迫るとなれば、神明は姿を現し、直々(じきじき)に指令を下されるのです。今回の王國の封鎖令も、神明さまが直接下されたものだと伝えられています。」
「さっき、神明は神位を得た者が担うと言っていたよな……つまり、神明もかつては凡人だったということか?」
私は思わず問い掛けた。
「そう言えなくもありませんが、それは普通の人間が到達できる領域ではありません。」
凡米勒は厳粛な口調で答えた。
「伝えによれば、数多くの試練を乗り越え、己の意志、智慧、そして力を証明した者のみが、神霊に選ばれ、神位を継ぐ資格を得るのだそうです。」
「では、その神位はどのように決まるの? また、どうやって交替するの?」
緹雅が核心を突くように問い掛けた。
凡米勒は首を横に振り、どこか無念そうに言った。
「それは、我々(われわれ)王國の兵士ですら分からないのです。神位の交替は、外界が干渉できるものではありません。
聞くところによれば、ごく限られた特別に優れた人物のみが、神明さまに拝謁する資格を持つとされます。たとえば、十二大騎士團の団長、一部の高位祭司、あるいは冒険者ギルドに属する——混沌級冒険者です。」
「わあ……本当にすごいんだね!」
緹雅は思わず感嘆の声を漏らした。
「混沌級冒険者は、ときに『神殿』へ招かれることもあります。——そこは皇宮でさえ触れることのできない場所なのです。」
阿迪斯が突然口を挟み、その声には羨望と崇敬がにじんでいた。
私の表情は平静を保ちながらも、心の中で密かにこれらの細部を記憶していた。
この世界の頂点に立つもの——それは軍権や王権ではなく、神秘なる「神位」であるらしい。
「ははは、坊や、まさか神明さまに直接頼もうとしてるんじゃないだろうな?」
凡米勒は笑いながら茶化し、私の胸の内を見抜いたかのようだった。
私は気楽そうに首を振り、装って答える。
「とんでもない、とんでもない。ただ、今まで聞いたこともない話だったから、一瞬新鮮に思っただけですよ。」
だが、実際のところ、これらの情報は彼らの想像をはるかに超えて重要な意味を持っていた。
これ以上神明について尋ね続ければ、疑われかねない——そう思った私は、少し思案したのち、用心深く話題を切り替え、より安全な方向へと導くことにした。
「ところでさ、西南の方角に聳え立つ、あの雲を突くような山脈、あれは何という名なのだろう? ここへ来る途中、いろいろな呼び名を耳にしたけれど、皆あの場所に触れるときは特に慎重で、危険だとも言っていた。」
凡米勒はその言葉を聞いて、わずかに眉をひそめた。
「確かに地域によって呼び名は異なりますが、剩王國の者たちは皆、あの山脈を『龍霧山』と呼んでいます。」
彼は低い声でそう言った。
「あそこは山勢が険しく、年中雪に覆われています。それに厚い濃霧が絶えず立ち込めており、天候は変りやすく、鳥獣すら滅多に姿を見せないのです。」
阿迪斯が付け加えた。
「最も奇妙なのは、あそこにはどうやら……何か尋常ならざる存在が棲んでいるらしいということです。」
私の目が鋭く細まり、探るように尋ねた。
「……怪物ということか?」
「うむ……私自身は見たことがありません。ですが村の年寄りたちはよく言います。かつて忠告を無視して龍霧山に踏み入った者が、そのまま二度と戻らなかったと。中には屍体すら発見されなかった者もいるのです。」
凡米勒の声は一層慎重さを帯びていた。
「それは普通の人間に限った話ではありません。有名な冒険者でさえ、あの山域で消息を絶ったことがあるのです。」
その言葉を聞き、私の心にはかすかな不安の波紋が広がっていった。
「さらに重要なのは——」
凡米勒は突然声を潜めた。
「三千年前、六大國が建国された際に結ばれた誓約の中で、龍霧山は明確に『絶対に侵犯してはならぬ領域』の一つとして記されているのです。」
「三千年前の誓約……?」
私はその言葉を低く繰り返した。
「その通りです。」
阿迪斯がうなずいた。
「それは六大國が建てられた当初、当時の神明たちが共に署名した神聖なる条約なのです。」
「もっとも、その誓約は今でも各國の法典に記されていますが……ご存じのとおり、普通の平民があの細かくびっしり書かれた条文を読むことはまずありません。」
凡米勒は苦笑しながら首を振った。
「条文は長く古く、今となっては多くの人々(ひとびと)が禁忌の大枠しか知らず、詳しい内容を覚えている者はいません。」
「しかし、忘れたからといって、破ってよいという意味ではありません。」
阿迪斯は厳粛な声で言った。
「誓約を破った先に何が起こるのか、誰も試そうとはしません。我らの王國ですら、あの山脈の麓に前哨や拠点を設けたことは一度もないのです。」
「おじさん、その誓約の内容って、主にどんなことが含まれているんですか?」
私はわざと好奇心を装って尋ねた。
内心では、すでにこの『誓約』と呼ばれる古き契約を、何か潜在的な鍵と見なしていたのだが。
凡米勒は酒杯を置き、椅子の背にもたれて少し思案した。
「正直なところ……誓約の条文はあまりにも多く、しかも難解で、我々(われわれ)のような普通の兵士には到底覚えきれません。
私が記憶しているのは、ほんの数条の最重要なものだけです。
たとえば、六大國は互いに先んじて戦争を仕掛けてはならないこと、真の災厄に直面したときは必ず手を携えて協力すること、そしていくつかの明確に禁忌と定められた地域に立ち入ってはならないこと……龍霧山もその一つに数えられます。」
「では——もし誓約を破ったら? 何が起こるのでしょうか?」
緹雅が今度は自ら問い掛けた。
淡々(たんたん)とした声色の中に、わずかな探りを含ませながら。
凡米勒は一瞬きょとんとしたが、やがて小さく笑った。
「ふふふ……実を言えば、誓約違反がまったくなかったわけではありません。
たとえば国境の小競り合いや、貿易の封鎖、あるいは禁地の探査といった行動など……。
ですが、正面からの衝突を引き起こさない限り、いわゆる『神罰』や破滅的な災厄が降ったという話は聞いたことがありません。
そのため、今では多くの者が、この誓約は単なる象徴的な条項にすぎず、実際の効力はほとんどないと考えているのです。」
「だが、もし……本当にどこかの国が公然と戦争を仕掛けてきたら?」
私はさらに追い問うた。
今度は凡米勒の表情が厳しくなり、声も一段と低くなった。
「それは別です。伝説によれば、もし誓約が真に破られれば、天界と冥土の狭間に眠る審判者が呼び覚まされるといいます。それは神すら凌駕する力であり、災厄を引き起こした国を徹底的に滅ぼすのです。大地から文明に至るまで、その記憶すらも抹消し、荒れ果てた土と静寂だけを残し、新たな秩序の再建を待つのだと。」
「聞けば聞くほど……本当に恐ろしいですね。」
緹雅は何か思うように、小さな声でつぶやいた。
「ですから、たとえ各國の間で多少の摩擦があったとしても、表立っては皆あの絶対に破ってはならぬ核心の誓約を守るのです。
それが底線であり、この世界が均衡を保っていられる根源なのです。」
そう言い終えるや否や、凡米勒の傍らから突如、耳をつんざくような大いびきが響いた。
私たちが一斉に視線を向けると、阿迪斯はすでに酔い潰れて意識もなく、椅子の上にぐったりと身を投げ出していた。口は半ば開き、手には酒杯を握ったまま、今にも落ちそうに揺れていた。
凡米勒はその様子を見て、思わず声を上げて笑った。
「まったく、この男ときたら……また飲み過ぎて、やっぱり持たなかったか。」
そう言うと、彼は立ち上がり、阿迪斯を半ば肩に担ぎ上げた。
「さて、そろそろ休むとしよう。夜も更けたし、君たちも早めに休むんだ。明日は巡邏の任務の引継ぎがあるからな。」
「本日はご招待ありがとうございました。それに、これほど多くのことを教えていただいて……感謝します。」
私は誠実に頭を下げた。
「気にするな。」
凡米勒は笑ってうなずいた。
「君たちには、どこか言い表せぬ感覚がある……。まあ、この時代は妙なことなど珍しくもないさ。——おやすみ、坊や、嬢ちゃん。」
私たちは、呼び掛けの声を背に受けながら、凡米勒がぐっすり眠る阿迪斯を支えて宿の扉を出ていく姿を、静かに見送った。