第一卷 第七章 未来に灯りをともす-1
(王家神殿の会議庁)
聖王国に入ってから、私と緹雅は次々(つぎつぎ)と様々(さまざま)な出来事に巻き込まれていった。
ほんの二月ほどの間だったが、積もり積もった疲労は、まるで自分が絞り切られた布人形になったかのようで、心身ともに消耗しきっていた。
たとえフセレスのような穏やかな環境に身を置いても、その疲れから完全に解放されることはなかった。
一方で、緹雅はというと、どこか余裕そうな表情を浮かべていた。――
いや、考えてみれば、彼女はこの世界に来てからずっと、そんな風に軽やかだった。
彼女はいつだって、どんな状況でも落ち着きを失わず、まるですべての困難が小さな遊戯に過ぎないかのように微笑んでいた。
「ふう~、本当に疲れた……。」
私は力なく椅子に身を投げ出し、疲労しきった額をそっと揉みながら、全身の細胞ひとつひとつが「休ませてくれ」と訴えているのを感じていた。
見た目こそこんな有様だが、実際の戦闘で主に動いていたのは緹雅で、その他の細かい事から大きな事まで、全部私が引き受けていたのだ。
「そんなこと言わないでよ! 少なくとも、悪くない成果は得られたじゃない? 全くの無駄ってわけでもないでしょ?」
緹雅は、まるで重圧など何も感じていないかのように、軽やかな声で言った。
彼女はくるりと振り向き、あの無邪気な笑顔を私に向ける。まるで「こんなこと、ただの通り雨みたいなものよ」とでも言いたげだった。
私は顔を上げ、その明るい瞳を見つめると、不意に笑みがこぼれた。
やっぱり――緹雅の笑顔は、どんな疲れた時でも、私の心に小さな安らぎをもたらしてくれる。
どんなに困難な時でも、彼女が傍にいる――それだけで、私はまた前を向けるのだ。
「そうだね、確かにその通りだ。」
私は深く息を吸い込み、気持ちを切り替えた。
この期間、私たちは確かに多くの成果を得た。特に聖王国での戦いでは、最終的に数多くの宝物を手に入れた。
それによって、フセレスの戦力は目に見えて向上したのだ。
「それに、あの装備たち……本当に驚かされたよ。」
私は続けて言った。その声には、まだ少しの驚きと信じられなさが混じっていた。
「やっぱり、この世界にも強大な武器や装備がたくさん存在するんだね。」
私は手を上げ、指の間でそっと艾拉卡と越位水晶を回した。
それは、扶桑との戦いの末に手に入れた神具――まさしく、私たちの努力の証だった。
「まさか……この世界に呼び寄せたのは、あのゲームなのか?」
私は思わず口走ってしまった。
自分でも何を言っているのか分からなかったが、この状況では、あの不思議な転移の瞬間を思い出さずにはいられなかった。
「ふふふふふ……」
緹雅は吹き出すように笑い、どこか気まずそうに肩をすくめた。
その目には、少しばかりの呆れと優しさが滲んでいた。
彼女は軽く伸びをすると、傍らの茶卓に手を伸ばし、湯を注いだ茶を私の前に差し出した。
「ほら、お茶でも飲んで、少し落ち着いて。」
緹雅の声音は穏やかで、私の思考をそっと宥めるようだった。
彼女にとっては、こうした日々(ひび)こそがすでに日常なのだろう。
だが、私はまだ――この世界の変化に翻弄されながらも、必死に順応しようとしていた。
私は差し出された茶杯を受け取り、そっと一口含んだ。
温かな流れが喉を通り抜け、胸の奥まで静かに染み渡っていく。
その香り立つ熱い茶は、ぼんやりとした意識を少しだけ覚まさせ、わずかではあるが焦りと疲労を和らげてくれた。
「少なくとも、この世界では私たちは決して弱くない。
現段階では、特に心配する必要はなさそうだ。」
私は茶杯を静かに卓に戻し、少し落ち着いた声でそう言った。
冷静に状況を見極める余裕が、ようやく戻ってきた気がした。
これまでの幾つかの戦闘を振り返る限り、少なくとも――私たちの力は、この世界で十分に通用すると言えるだろう。
「うん、確かに。」
緹雅は軽くうなずいた。
だが、その声には急に慎重な響きが混じる。
「でも忘れないで。
私たちは、いつまでも順風満帆でいられるわけじゃない。
危険は――いつだって、どこからでも顔を出すものよ。」
彼女は少し視線を落とし、低い声で続けた。
「それに……あなた、前は油断しすぎて――」
緹雅は一瞬言葉を切った。
何か思い出したように、唇をかすかに噛む。
「そうだな。
もし、この世界にも“あれ”が存在するなら……誰ひとり、安全ではいられない。」
私の言葉に、緹雅は小さく息を吐き、そしてまた穏やかに笑った。
「分かってるなら、それでいいの。」
そう言うと、彼女は再び茶器に手を伸ばし、湯を注ぎ始めた。
湯気がふわりと立ちのぼり、彼女の横顔を淡く包み込む。
私はしばらく黙り込み、胸の奥が少し重くなった。
今の私たちは表面上こそ穏やかに見えるが、どこか心の奥では、絶えず小さな不安が揺れている。
それに――何よりも、私たちはまだ仲間を一人も見つけられていない。
その時、緹雅は手にしていた茶壺を静かに置き、ふと柔らかく笑った。
「考えすぎないで、凝里。
未来がどんな形で訪れても――私たちは一緒に立ち向かえばいいの。」
その言葉は、不思議なほど心にすっと染み込んできた。
そうだ、彼女の言う通りだ。
未来がどう転ぼうとも、少なくとも今この瞬間――私たちは、共に在る。
その時、芙莉夏もまた会議廳へと姿を現した。
石板の床を踏みしめる軽やかな足音が、静かな空間に柔らかく響く。
黒い長袍は燭光を受けて微かに揺れ、
そのたびにどこか神聖な気配が漂った。
彼女は私の顔を一目見るなり、
すぐに、私がいまだ先の戦いの疲労から抜け出せていないことを察したようだった。
「一連の経過は、すでに老身が承知しておる。
汝ら、よう頑張ったのう。」
芙莉夏の声音は、まるで母が子を気遣うように柔らかく、
どこか懐かしい温もりを含んでいた。
「い、いえ……芙莉夏と比べたら、こんなの大したことありませんよ。」
私は思わず苦笑を漏らした。
今回の敵は、これまでこの世界で遭遇した中で最も強大だったが、
それでも手に負えないほどではなかった。
むしろ――芙莉夏が治める王家神殿においては、
その“扶桑”と呼ばれた存在すら、彼女の前では数百倍はるかに凌駕する力を持つ者ばかりだ。
それでもなお、彼女は微笑みながら全てを御し、
まるで風のように自在に立ち回ってみせる――
その姿に、私はただ深い敬意を覚えるばかりだった。
「お姉ちゃんもお疲れさま~! ほら、凝里が作ったクッキー、食べてみて!」
その時、緹雅が勢いよく飛び出してきた。
いつも通り、悩みなど一つもなさそうな、あの天真爛漫な笑顔で。
私がフセレスに戻ってきたばかりの時から、彼女はもう「お腹すいた~」と騒いでいたのだ。
緹雅はいつだって率直で、食べ物に対しては抗いがたい誘惑を感じているらしい。
夕食を食べたばかりなのに、もう「お腹すいた~」と訴えることも少なくない。
「お腹なんて空いてないよ」と言いながら、実際は誰よりもたくさん食べている――その様子に、私はつい笑ってしまう。
さすがに今から新たに料理を作る気力はなかったが、
緹雅の期待に満ちた目を見ると、どうしても無視できなかった。
仕方なく、私は机のそばに置いてある箱から、数日前に焼いたクッキーを取り出した。
クッキーを見た瞬間、緹雅は目を輝かせ、子供のように嬉しそうに笑った。
芙莉夏は一枚を手に取り、静かに一口かじる。
その口元がほんのわずかに緩んだ――普段ほとんど表情を崩さない彼女には、めずらしい微笑みだった。
「ふむ……酸っぱ甘い味がするな……恋の匂いでも混じってるのかしら?」
芙莉夏にそんなふうに言われて、私は思わず顔を赤らめた。
胸の奥がくすぐったくなるような、妙な気恥ずかしさが広がっていく。
「凝里!」
突然、芙莉夏の声が鋭く響いた。
その声音には、わずかに威圧感が混じっている。
「は、はいっ!」
私は反射的に立ち上がり、慌てて彼女を見た。
芙莉夏の眼差しは鋭く、まるで氷刃のように私の胸の奥に突き刺さる。
その瞬間、背筋を冷や汗が伝い、心臓が跳ねる。
「――汝、緹雅という娘を甘やかしすぎるでないぞ。
あの子、また以前のように戻ってしまうからな。」
その口調は確かに厳しかったが、
その奥にはどこか、温かいからかいと優しさが滲んでいた。
「……以前のように?」
私は小さく呟き、どう反応していいのか分からずに彼女を見つめた。
「もぉ~! なんで凝里をいじめるのさ!
凝里が私を甘やかしてくれたって、別にいいじゃない!」
その瞬間、緹雅が私のそばへと駆け寄り、
まるで子供のように無邪気な笑顔を浮かべながら、
私の袖口をちょこんと掴んだ。
その仕草は無意識なのか、それとも計算なのか――
どちらにせよ、私の頬から思わず笑みがこぼれそうになる。
緹雅のいたずらっぽい声と、甘えるような瞳に包まれて、
胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
その無邪気な笑顔を見ていると、
さっきまでの疲れも、どこかへ溶けて消えてしまいそうだった。
「……ごめんね、芙莉夏。」
心の中でそっと謝う。
だって――私は、この甘え上手な少女にどうしても敵わない。
彼女がそっと寄り添ってくるたびに、
その温もりと無邪気な微笑みが、
どんな困難さえも乗り越えられる気がしてしまうのだ。
しかし、その光景を目の当たりにして、
私はふと、昔ゲームで遊んでいた頃のことを思い出してしまった。
あの頃、私と緹雅は、
まだ仮想世界で出会ったばかりのプレイヤー同士だった。
それでも、何気ないやり取り(とり)が、いつも心を温めてくれた。
ただの冗談や、他愛もない騒がしさに過ぎなかったはずなのに、
なぜか胸の奥に懐かしい感覚が残っている。
あの頃も――
緹雅の太陽のような笑顔を見るだけで、
不思議と安心できたのだ。
そして今、
世界はもう単純ではなくなったけれど、
それでも、彼女たちと肩を並べて戦えるこの瞬間が、
私の心に確かな力を灯してくれる。
その時、芙莉夏は小さく首を振り、
口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ふん……まったく、救いようがないわね。
そんなに甘やかしていたら、緹雅の我儘がますます酷くなるわよ。」
そう言って嘆く彼女の声には、
どこか柔らかい冗談の色が混じっていた。
「分かった、分かったよ。」
私は笑いながら答える。
こうして、小さな騒がしさは、笑い声と共に静かに幕を下ろした。
やがて、和らいだ空気の中、
私たち三人は卓を囲み、
穏やかな時間を共に過ごした。
たとえそれが何でもない日常であっても、
この世界での生活においては、何よりも尊く感じられる。
見慣れない異国の地で、
彼女たちがそばにいる――
それだけで、どんな闇が近づこうとも、
この一瞬の静けさと温もりが、私の心を支えてくれるのだ。
「こほんっ……ところで、汝等。
少なくとも聖王国では、仲間の消息を掴んだのであろう?」
芙莉夏は軽く咳き込みながら、先程までの穏やかな声色を一転させ、真剣な口調へと変えた。
「うん。もし神農氏の情報が本当なら、
他の者たちは今、それぞれの国に散っているかもしれない。」
「ならば、フルセレス全体の兵を動かし、各国を調査させるべきでは?」
緹雅が提案する。
しかし私は即座に首を振った。
「いや、それは危険すぎる。」
緹雅の言葉は一理あるが、同時に大きなリスクを孕んでいる。
大規模の行動は、必ず敵の目を引く。
無闇に兵を動かせば、
思わぬ報復や不測の事態を招く恐れがある。
私は視線を緹雅に向け、
胸の奥で小さく息を吐いた。
――彼女を守りたい。
同時に、私たち全員を危険に晒すわけにはいかない。
「今は、慎重に動こう。」
私は再び口を開き、静かに続けた。
「まずは六島の国を順に調べ、
情報の真偽を確かめよう。
もし本当に仲間を見つけられたなら、
その時に探索範囲を広げればいい。」
緹雅はその言葉を聞いた瞬間、
わずかに眉をひそめた。
「でも……やっぱり心配だよ。」
小さな声で呟いたその響きには、
かすかな不安が滲んでいた。
彼女は仲間たちの安否を案じているのだ。
長い分断の果てに、
十分な食糧も、守る手段も持たないまま、
彼らがどんな苦境に置かれているのか――
それを思うと、
緹雅の胸は静かに痛んでいるようだった。
普段はどんな状況でも明るく笑っていられる彼女だが、
本当はいつだって誰かを気遣っている。
たとえ自分がどれほど疲れていようと、
他人の安否を思うその心は、決して揺るがない。
緹雅の不安は決して的外れではなかった。
私はそっと息を吐き、彼女の気持ちをなだめるように言った。
「分かっているよ。君が心配していることは。」
私は一瞬言葉を切り、続けた。
「だが、今はこういう方針を取るのが最も安全だ。まずは一つの拠点から始めて、着実に進めていくべきだろう。」
その言葉を聞いた緹雅は、ふと目を輝かせ、立ち上がると勢いよく桌を一たたきした。
「だったらこうしよう! 守護者たちを活用して、各国に地下の情報網を張ってもらえば、私たちの捜索範囲をぐっと絞れるよ!」
その発案に、私は頷いた。
確かに、大規模な展開が難しいならば、範囲を縮め、しかも闇に収集された情報を活かすのが最も賢い選択だろう。
「それは悪くない案だが――汝はどう実行するつもりだ?」
芙莉夏の低く落ち着いた声が、私の思考を断ち切った。
その視線は緹雅へと向けられる。
どうやら、彼女もこの提案を悪くは思っていないようだ。
だが、それでも計画は具体的でなければならない。
「う、うーん……ちょっと考えさせて……」
緹雅は頬を指で支え、困ったように眉を寄せた。
その姿を見た瞬間、私は思わず溜息を漏らす。
「だから、まだ何も考えてないんじゃないか!」
つい声を上げてしまい、苦笑しかける。
「ご、ごめんってば! ちゃんと考えるから!」
緹雅は頭をかきながら、いたずらっぽく笑った。
その表情はどこか子供じみていて、叱る気にもなれない。
「緹雅、ふざけすぎるな。」
芙莉夏の声が一瞬で空気を張りつめさせる。
その声音は静かだが、確かに威圧感があった。
「……はい。」
緹雅は姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。
しかし、芙莉夏の瞳の奥には、わずかな笑みが宿っていた。
それは叱責というよりも、
――「頼むから本気で考えなさい」
という姉のような優しい眼差しだった。
話題を元に戻そう。
実は最初の頃、私は守護者たちを直接出動させるのが最善の策だと考えていた。
その時の私は、強大な力を持つ彼らを動かせば、
仲間探しの効率は飛躍的に高まる――そう信じていたのだ。
けれども、この世界を知れば知るほど、
その考えは現実的ではなくなっていった。
不確定な要素があまりにも多すぎる。
軽々(かるがる)しく冒険するには、あまりに危険すぎた。
それに――彼らは私たちの戦力であると同時に、家族でもある。
忠実なNPCたちも、仲間も、皆私にとってかけがえのない存在だ。
私は、誰一人として失いたくはない。
無駄な危険に晒したくもない。
彼ら一人一人の安否が、私にとって何よりも重い意味を持っているのだ。
「仲間を探し出すことは確かに重要だ。
だが、その情報が本当かどうか、私たちはまだ確信できていない。
それに――全戦力を動かして各国へ赴けば、
各国や未知の勢力に目をつけられる危険もある。
戦力が分散すれば、それだけで致命的な隙を生むことにもなりかねない。」
私は冷静に状況を分析しながら、
胸の中に渦巻く迷いと不安を言葉にしていった。
心は常に矛盾している。
一刻も早く動きたい気持ちと、
誤った決断を下すことへの恐れ――その二つが、絶えず私を引き裂いていた。
自分の判断一つで、仲間や公会全体を危険に晒してしまうかもしれない。
その責任の重さが、息を詰まらせるほどに胸を圧した。
だからこそ、今は軽率に動くべきではない――そう自分に言い聞かせる。
だが同時に、刻々(こっこく)と過ぎていく時間が焦燥を煽り、
「このままでいいのか」と囁く声が、心の奥で響いていた。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていく。
浮かんでは消える無数の可能性が、私の思考を絡め取り、
まるで出口のない迷路に迷い込んだようだった。
「芙莉夏、妳も分かっているはずだろう。
これは軽々(かるがる)しく決めていいことじゃないんだ。」
私はそう言いながら顔を上げ、彼女を見つめた。
その声には、疲労と焦燥が滲んでいた。
芙莉夏は黙って私を見つめ、
両手で茶碗を包み込むように持っていた。
その瞳は静かで、感情の色を見せない。
まるで何かを深く思い巡らせているように、
彼女はしばらく言葉を発さなかった。
やがて、茶を一口ふくみ、静かに息を吐く。
その瞬間、湯気と共に淡い香りが部屋に広がった。
そして、ようやく彼女は顔を上げ、
穏やかながらもどこか懐かしげな声で口を開いた。
「……汝、本当に成長したな。
だが――変わらぬところも、まだ残っておるようじゃな。」
その言葉は、独り言のように静かで、
どこか優しい笑みが混じっていた。
それは叱責でも賛辞でもない。
ただ、過去を知る者としての、温もりを含んだ言葉だった。
その時、会議廳の空気は異様なほど重く沈んでいた。
石造りの壁は、まるで音を吸い込むかのように沈黙し、
空気の流れさえも止まってしまったかのようだった。
沈黙の中で、時は凍りついたように遅く、
胸の奥に重くのしかかる緊張が、呼吸さえ苦しくする。
その圧し掛かるような静寂に、
緹雅はどうやら耐えきれなくなったようだった。
彼女は静かに立ち上がり、
私たち二人をちらりと見やった後、
茶卓の方へ歩み寄り、
そこに置かれた紅茶壺を手に取った。
そして、何も言わず、黙々(もくもく)と新たに茶を淹れ始めた。
その小さな動作が、
凍えた空気をほんの少しだけ揺らし、
部屋の中にかすかな音と香りを取り戻した。
燭光に照らされた彼女の背中は、どこか寂しげで、
その横顔には、誰にも見せない葛藤が影を落としていた。
まるで彼女もまた、自分の中の思いと静かに戦っているかのようだった。
「凝里、これはあくまで老身の考えにすぎぬ。
だが――決定するのは、あくまで汝だ。」
芙莉夏はそう言いながら、
紅茶を淹れている緹雅に一たび視線を向けた。
だが、緹雅は何も言わず、
ただ静かに湯気の向こうで茶を注ぎ続けている。
その沈黙を確認すると、
芙莉夏は再び私に目を戻した。
深く透き通るようなその瞳は、
まるで私の心の底まで見透かしているかのようだった。
そして――彼女は、ためらうことなく言葉を紡いだ。
「老身はの、汝が恐れる必要はないと思うておる。」
その声音は穏やかでありながら、どこか強く、
長い年月の重みを宿していた。
予想外の言葉に、私は思わず目を見開く。
けれど、反射的に口を挟むことはせず、
ただ、彼女の次の言葉を待つように静かに耳を傾けた。
――なぜなら、私は知っていた。
芙莉夏はいちばん頼れる存在だと。
芙莉夏は深く息を吸い込み、少しの間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「老身は、この件がどれほど難しい決断であるか、よくわかっておる。
実を言えば、老身の最初の考えも緹雅と同じで、皆で追跡すべきだと思っておった。
だが、老身も恐れておるのだ。ある決断が、取り返しのつかぬ失敗を招くかもしれぬとな。」
「汝が案じていること、老身もかつて考えたことがある。」
そう言って芙莉夏は一度言葉を切り、そして再び穏やかに続けた。
「しかし、それは汝の肩に背負わせるにはあまりにも重すぎる。
だからこそ、吾等はすでに決めておるのだ。――汝と共に、その重荷を担うと。」
その言葉には、揺るぎない信頼と誓いが込められていた。
その瞬間、私の心はまるで目に見えぬ温かな力に包まれたようだった。
すべての不安が、芙莉夏の言葉によって静かに溶けていくのを感じた。
芙莉夏の言葉を聞いた瞬間、気づけば私は、頬を伝う涙を止められなかった。
「芙莉夏、いつ気づいたの?」
思わず、私はその言葉を口にしてしまった。
彼女は――私の心の奥にあるものを、とっくに見抜いていたのだ。
誰にも言えぬ痛みや葛藤を、すでに知っていたのだ。
芙莉夏はすぐには答えなかった。
彼女は相変わらず静かに茶杯を手にし、その視線を私からそっと外した。
その瞬間、私はすべてを悟った。
私はそっと顔を横に向け、緹雅の背中に目をやった。
彼女はまだこちらに背を向けたまま、何も言わず、ただ静かに茶を淹れていた。
だが――その肩がかすかに震えているのに気づいた瞬間、私は確信した。
今、緹雅は静かに涙を流しているのだ。
その涙は、彼女自身が必死に隠そうとしていた。
私に心配をかけまいとする、その優しさゆえに。
けれど、その小さな震えは、もはや彼女の心の痛みを覆い隠すことはできなかった。
「なるほど……。」
私は小さく息を吐いた。
「汝の計画は、緹雅のあの娘がすでに見抜いておる。
汝がすべてを一人で背負う必要はない。――そう言えば、汝にもわかるであろう?」
そうか……。
彼女たちは、すでに知っていたのだ。
私がどれほどの努力を重ね、どれほどの不安最初から、私は自分の力だけで仲間を救おうと決めていた。
誰も危険に巻き込みたくなかった。
だからこそ、守護者たちや他の者には、重大な任務をほとんど任せてこなかったのだ。
心の奥には、深い恐れがあった。
――もし失敗すれば、皆に背負わせるべきではない罪を背負わせてしまうのではないか。
だから私は、彼らを守るために、あえて一人で挑み続けてきた。
これまでの行動のすべては、万一失敗したときに、誰かが良心の呵責に苦しむことのないようにするためだった。
――もちろん、その中には私自身の小さな打算もあった。
私は、失敗が怖かった。
そして、取り返しのつかない結果を恐れていた。
そうした思いが、私をますます閉ざしていった。
周囲に対して、いつも警戒の殻をまとっていたのだ。
とくに弗瑟勒斯の皆には――
彼らがどうして、あれほどまでに無私に尽くし、私を信じてくれるのか、正直わからなかった。
そのまっすぐな信頼が、かえって私を怖がらせた。
彼らに、これ以上の危険を背負わせることなど、どうしてできようか――そう思った。
を胸に秘めてきたのかを――すべて。
私は――誰かを失うことが、何よりも怖かった。
それが、私の最も深い恐れであり、自らを限界まで追い込む理由でもあった。
たとえどんな重荷であっても、自分ひとりで背負えばいい。
皆を同じ危険に晒すくらいなら、孤独の方がましだと、そう思っていた。
けれど――その考えは、いつしか私を狭くしていた。
自分を追い込みながら、彼らの気持ちを見失っていた。
彼らが、私の痛みを共に背負いたいと願っていることさえも、見えていなかったのだ。
そして、それを最初に気づいたのが緹雅だった。
彼女の鋭い感性は、私の心の揺らぎを一瞬で見抜いていた。
だからこそ、彼女はいつもそうだったのだ。
私が助けを必要としているとき――何も言わずに、そっと傍に現れ、力をくれた。
緹雅はすべてをわかっていた。
私がどんな決断を下すか、その結果どんな苦しみを背負うかを――
そして、彼女はその覚悟の上で、私の痛みを分かち合う準備をしていたのだ。
「凝里のばか……ばか。」
緹雅は茶を淹れながら、目尻の涙を拭い、かすれた声でそう呟いた。
――そうか。
彼女にとっても、私の痛みや葛藤は決して他人事ではなかったのだ。
彼女はただの傍観者ではなく、同じ重さでその苦しみを感じていた。
「どうして……」
私は心の奥で問いかけた。
なぜ彼女たちは、わざわざ私と同じ痛みを分かち合おうとするのか。
そのとき、芙莉夏の声が再び響いた。
「汝は忘れておるのか? 汝もこの公会の一員だ。
命を賭してまで、吾等に罪悪感を背負わせるつもりか?」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく悟った。
――芙莉夏と緹雅が何を案じていたのかを。
もし私が孤独に戦い続けるなら、それは私一人の痛みで終わらない。
私を想うすべての人々に、重く苦しい十字架を背負わせてしまうのだ。
その言葉に、私は言葉を失った。
沈黙が、胸の奥に静かに降りていく。
そしてようやく、このときになって気づいたのだ。
私が恐れていたこと――それは、彼女たちが同じように恐れていたことでもあった。
自分の信念を貫くことが、いつの間にか他の者を遠ざける「わがまま」になっていたのだと。
私が彼らを失うことを恐れていたように、
芙莉夏も、緹雅も――同じように、私を失うことを恐れていた。
その不安は、決して理不尽なものではなかったのだ。
私は深く息を吸い込み、胸の奥に小さな罪悪感が広がっていくのを感じた。
私の固い意志――それは、彼らの痛みを少しでも減らしたいという想いから生まれたものだった。
けれどその過程で、私は大切なことを見落としていた。
彼らの想いを、そして私への愛と気遣いを。
「本当に……大丈夫なのか?
もし多くの人を動員しすぎたら、弗瑟勒斯の防衛システムが弱まってしまう。
そうなれば、むしろ君にとって大きな負担になるんじゃないか。」
心の恐れは少しずつ薄れていたが、それでも私はこの決断を完全には信じ切れなかった。
芙莉夏はその言葉を聞くと、突然朗らかに笑い出した。
「はははっ! 凝里、汝は老身を甘く見ておるのか?」
その笑いには、不思議なほどの軽やかさと安らぎがあった。
その瞬間、場の空気が一気に明るくなる。
彼女はきっと、私がこう言い出すことをあらかじめ分かっていたのだろう。
そのことに気づいて、私は思わず小さく笑みをこぼした。
「い、いや……そんなつもりはまったくない。」
私は慌てて首を横に振った。
芙莉夏の穏やかな笑顔が、まるでこう語りかけてくるようだった。
――心配するな、すべてはうまくいく。
「ならば、汝は安心しておれ。」
芙莉夏は自信に満ちた声でそう告げた。
その確かな信頼の響きに、私は心の底から力が抜けていくのを感じた。
「……ありがとう。
本当に、ありがとう。」
そう呟いた瞬間、頬を温かい涙が伝った。
それは感謝であり、感動だった。
この瞬間、私は心から理解したのだ――
彼女たちが私に注いでくれた、無償の愛と支援の深さを。
私は両目を軽くこすり、再び前を見据えた。
視界は、これまでになく澄み渡っていた。
芙莉夏の言葉があったからこそ、私は長く背負ってきた重圧から解き放たれ、心が一気に晴れた。
彼女の言葉はまるで一筋の光のように、私の進むべき道を照らしてくれた。
「――そうか。ならば、思い切ってやってみよう!」
ちょうどこのとき、妲己から通信が入った。
『凝里様、聖王国の神々(かみがみ)が、人を遣わせて何かをお届けになりました。』




