(聖王国王都城)
本来なら静かな夜であるはずの時刻に、
聖王国の空に異変が起きた。
暗いはずの夜空が、突如として眩い光に包まれたのだ。
人々(ひとびと)が空を見上げると、
驚くべき光景が広がっていた――
天空には、十個の太陽が並んで浮かんでいたのである!
それらの太陽は炎のように天を焼き、
通常よりも遥かに強烈な光を放ち、
まるで天空全体を橙紅色に染め上げていた。
言葉では言い表せぬほどの力が、
聖王国王都の上空を覆い、
人々(ひとびと)の息を奪っていく。
十の太陽から放たれるその力は、
明らかに聖王国の神々(かみがみ)の予想を超えていた。
圧倒的な魔力が少しずつ一点に集まり、
まるで聖王国そのものを呑み込もうとするかのようだった。
その出現と共に、
聖王国全土の気温は急激に上昇し、
街路には熱気が立ち込め、
一歩を踏み出すごとに、
まるで果てしない煉獄へ足を踏み入れるようであった。
そして、この異常な現象は、
決して一般の民だけに影響を及ぼしているわけではなかった。
聖王国は建国以来、
四方を守護する神獣――
青龍、白虎、朱雀、そして玄武を擁してきた。
彼らは聖王国の四大支柱であり、
それぞれが王国の四方位を護り、
国の安定と平和を維持してきた存在である。
だが、その聖王国を長年守り続けてきた守護獣たちが、
今や異様なほどに落ち着かず、
自らの領域を彷徨い続けていた。
その様はまるで、抗うことのできぬ脅威を感じ取ったかのように、
暴れ狂い、不安に満ちていた。
東方を守護する青龍は、
本来ならば優雅で威厳に満ちた姿を誇っていた。
だが今は異常なほどに苛立ち、
その双眸には焦燥の光が閃いている。
尾を激しく地面に叩きつけるたびに、
強烈な衝撃波が周囲を襲い、
周りの樹木までもが吹き飛ばされそうに揺れた。
北方を護る白虎は、
誇り高く冷厳な存在として知られていたが、
今はその威容を捨て、
自らの領域を駆け巡っていた。
その咆哮は夜空を切り裂き、
まるで何か恐ろしい存在が降臨しようとしているかのようだった。
南方を司る朱雀は、
炎の中に生きる存在であるにもかかわらず、
今は天から降り注ぐ異常な高温に怯えていた。
そして西方の玄武は、
巨大な甲羅を盾にして身を隠し、
その四肢を重く鳴らしていた。
その姿は、逃れられぬ不吉な力に追いつめられたかのようだった。
本来なら恐怖を知らぬはずの守護獣たちが、
今や天より降る圧迫感の前に、
無力に身を震わせていた。
さらに恐ろしいことに、
この異様な力は、十の太陽の灼熱だけに由来するものではなかった。
眩い光輝の中には、
通常の陽光とは異なる、
奇妙な光が混じり込んでいた。
その光は、まるで特別な魔力を宿しているかのようで、
地上を照らすたびに、周囲の空間を歪め、
見る者の意識を狂わせていった。
その光芒は強烈な感覚の混乱を引き起こす性質を持ち、
人間であれ、他なる生物であれ、
皆その影響を逃れられず、
激しい眩暈と錯覚に襲われた。
まるで深淵の渦に呑み込まれるように、
理性は引きずり込まれ、抜け出すこともできなかった。
その異様な光の影響は、
聖王国の強大なる守護獣でさえも免れなかった。
青龍の双眸からは焦点が失われ、
白虎の動きは徐々(じょじょ)に鈍くなり、
朱雀と玄武もまた、首を垂れ、
その身を光の圧に屈していった。
四方の守護獣に現れた混乱と暴走は、
すべての始まりに過ぎなかった。
十の太陽が天空を覆うと同時に、
聖王国の運命は静かに、しかし確実に、
揺らぎ始めたのである。
やがて空の太陽たちは次第に光を失い、
まるで何か得体の知れぬ力に呑み込まれていくかのように、
その輝きは闇に沈んでいった。
そして、空気の底には、
確かに“影”が――
静かに、しかし確実に迫り来ていた。
その瞬間、天空に浮かぶ十の太陽が、
天地を震わせるほどの轟音を放った。
直後、巨大なエネルギーの波動が
四方八方へと奔り出し、
その熱は聖王国の空気そのものを
濃い炎のように変え、
大気を引き裂きながら押し寄せた。
聖王国の民たちは次々(つぎつぎ)に建物の中へ逃げ込み、
中には立ち上がることもできず、地面に崩れ落ちる者もいた。
天空を覆う奇怪な光が王都全土を照らす中、
その中心部だけは、
伏羲、女媧、そして神農氏の三柱の神明が協力して展開した結界魔法――「月光帷幕」により守られていた。
その結界は王都の中心を完全に包み、
外界からの異常な光を遮断し、
民たちを混乱と灼熱から護っていた。
まるで見えぬ壁のように、
外の狂気を隔て、
この小さな空間だけが静寂を保っていた。
だが、その保護範囲は決して広くはない。
一歩でもこの結界の外へ出れば、
誰であろうとすぐにあの異様な光芒の影響を受け、
精神を支配され、
意識も行動も奪われてしまう。
幸いなことに、
その奇しき光芒は長く続かなかった。
一定時間が経過すると、
空を覆っていた異様な光は
ゆっくりと姿を消していった。
しかし――
精神を支配された者たちの状態は
依然として変わらず、
その支配は解除されることなく続いていた。
そして、その強大な魔力の影響の下、四方の神獣たちは完全に狂暴化した。
理性を失った彼らの力はもはや制御不能で、
咆哮と共に聖王国の防衛線へと突進し始めた。
その頃、王都の防衛を任されていた亞拉斯は、
騎士団を指揮しながら、
四方から迫り来る守護獣たちの猛攻に
必死に備えていた。
「遊俠の職業を持つ亞拉斯なら、
守護獣を抑えること自体は問題ないだろう。
だが……問題は上空にあるあれだ。」
神農氏は深い沈思を滲ませる声でそう言い、
その眼には形にできぬ憂いの光が宿っていた。
彼は神殿の高台に立ち、
遠方で渦巻く雲層と、
異常な太陽たちを見据えながら、
険しい表情を浮かべていた。
伏羲もその言葉に頷き、
同じく重苦しい面持ちで応える。
「確かに、守護獣たちはまだ制御可能な範囲にある。
だが、今の問題の核心は――
天空に浮かぶ十の太陽だ。
あの力の背後にあるものは、
我々(われわれ)の予想を遥かに超えている。」
女媧は短い沈黙ののち、
低い声で言った。
「まさか、これほど早く現れるとは……
しかも、その力は先の魔神・蚩尤をも凌ぐとは。」
彼女は分析するように言葉を続けた。
「奴の再生能力は尋常ではない。
早く対処しなければ、何度でも蘇るだろう。
これこそが……古代の力というものか。」
伏羲はその言葉を聞きながら目を細め、
静かに探査を行う。
「確かに……感じ取れる。
十の太陽に宿るのは、尋常ならざる力――
想像を絶するほどの、強大なエネルギーだ。」
神農氏の顔色はますます重く沈み、言葉の端には焦りが滲んでいた。
「もしこの力を早く消し去ることができなければ、聖王国全体が滅びの災いに呑み込まれてしまうだろう。」
その時、伏羲もまた困ったように肩を落とした。
「どうしよう~今、あの二人も一緒にいてくれたらよかったのに。」
盤古は厳しい面持ちで答えた。
「いや、今は我々(われわれ)だけがあの者に対抗できる。あの使者の言葉を忘れるな!
私たちは待つことも、誰かに頼り過ぎることも許されない。
この戦いは、自らの力で乗り越えねばならぬ――それこそが、神としての意志なのだ。」
数日前、聖王国の城門には、黒い外套を身にまとう仮面の女使者が姿を現した。
その使者の訪れには、何ひとつ前兆がなかった。
聖王国の皇宮にも、神殿にも、他の五つの大国からの正式な通達は届いていなかったのだ。
当初、亞拉斯はこの女を重要な人物とは見なさず、むしろ城門から追い返そうとさえ考えていた。
しかし、彼女が口を開き、神明たちしか知り得ぬ秘事を語った瞬間、亞拉斯の顔色は一変し、慌てたように表情を崩した。
彼はほとんど反射的に、その報せを神明たちへと伝えたのである。
使者の言葉はまるで重爆弾のように亞拉斯の冷静を打ち砕いた。
その秘事は、他の五国の神明ですら知らぬ聖王国の最高機密であった。
それなのに、なぜこの使者がそれを知っているのか――その謎が亞拉斯の心を激しく乱し、彼はもはや平静を保つことができなかった。
幾人の神明たちは、亞拉斯の報告を聞くや否や、急いで指示を下し、黒い外套を纏う神秘的な使者と対面した。
その女の顔には黒猫の仮面が掛けられており、素顔は完全に隠されていた。
ただ、黒衣の隙間からは、わずかに光沢が滲み出ているのが見えるのみであった。
彼女の放つ気迫は場にいる者全員の息を呑ませた。
神明たちがいかに強大な力を持とうとも、目の前の存在には、言葉では言い表せぬ圧迫感があった。
伏羲は神殿の中央に立ち、その深く澄んだ眼差しで来訪者を見据えていた。
まるで、彼女の身体に宿る秘密を読み取ろうとしているかのように。
やがて、伏羲は礼儀正しく口を開いた。
「お尋ねいたします。そなたは、どなたの使者であらせられるのか……」
だが、その言葉が終わる前に、黒衣の使者は静かに右腕を上げた。
その瞬間、全員は彼女の手に小さな鈴が握られていることに気づく。
彼女はただ、そっとその鈴を揺らした。
澄んだ音が神殿に響き渡る。
その鈴音は清らかでありながら深い余韻を残し、神明たちの心に直接触れるようであった。
神殿そのものさえも、鈴音と共鳴して震えた。
その瞬間、神明たちは悟った――この使者が何者であるのかを。
「使者閣下、いかなる御指示を賜れますでしょうか。」
神農氏が最初に口を開いた。
その声には、敬意と同時に、かすかな緊張の色が滲んでいた。
使者は手に持っていた鈴を静かに下ろし、低い声で言った。
「聖王国は、まもなく巨大な試練に直面する――そう伝え聞いております。」
すでにその兆候を察していたとはいえ、使者の口から発せられた言葉は、一振りの鋭い刃のように神明たちの胸を貫き、場を重苦しい沈黙へと包み込んだ。
「使者閣下は、すでにそのことをご存じなのですか?」
女媧は驚きを隠せず、思わず声を上げた。
この情報は、まだ他の誰にも伝えていないはずだったからだ。
彼女は悟った――この使者の知る事柄は、聖王国のいかなる者からも得られるものではない。
この女は、明らかに彼らの手の届かぬ領域に通じている。
「魔神・蚩尤はすでに死した。」
使者はなおも冷静に言葉を紡ぐ。
その声音には、感情の揺らぎなど微塵もなかった。
「だが、我が主は知っている。それがあなた方の手によるものではなく、異界の者によって成されたことを。」
その瞬間、神殿に居た神明たちの顔色が一斉に変わった。
魔神・蚩尤の死は彼らすべてが知る事実だった。
だがそれは、神明たちの手によるものではない。
その死は――布雷克と狄蓮娜、二人の混沌級冒険者が共に打ち倒した結果であった。
「その通りだ……だが、我々(われわれ)とて、他に道はなかったのだ。」
伏羲は隠し立てすることなく答えたが、その声には沈んだ響きがあった。
彼は否定できなかった――彼らは自らの力で蚩尤を討ち倒したわけではない。
それゆえに、伏羲の胸には異界の者たちへの深い感謝が宿り、同時に、これからの未来への漠然たる不安が広がっていった。
神位を授かって以来、彼らは己を誇りに思い、故郷を守る責務を担う覚悟でいた。
しかし、現実はその理想を容赦なく打ち砕いた。
真の脅威を前にした時、(かみ)であるはずの彼らは――
神明としての責任を果たすことができなかったのである。
だが、使者の言葉は、そこで終わらなかった。
彼女は静かに頭を上げ、黒い外套の奥から、微かに光が揺らめく瞳をのぞかせた。
「魔神・蚩尤の死と共に――より強大な魔神が、この世に降臨しようとしている。」
その声は波風ひとつ立たぬほどに平坦であった。
「我が主は、聖王国を見捨てるつもりはない。
だが、この程度の敵に対してすら、もし聖王国が自らの力を尽くさず、異界の者に頼るばかりであるならば――
真の災厄が訪れる時、その結末を受け止めることはできぬだろう。」
その言葉は、まるで警鐘のごとく、神殿に響き渡り、聞く者の胸を深く打った。
神明たちは息を呑み、沈黙に包まれた。
迫り来る災厄への不安は、いっそう強く彼らの心を締め付ける。
もし使者の言葉が真実であるなら――
聖王国の未来は、もはや彼ら自身の手ではなく、異界の力に委ねられることになる。
「それでは……我々(われわれ)は、どうすればよいのだ?」
神農氏が再び口を開いた。
その声は迷いと決意の狭間に揺れていたが――
彼の胸には、すでに答えが宿っていた。
この状況を、もはや避けることはできない。
彼らは応えねばならないのだ――
あの時、彼らに力を与えた存在に。
使者はわずかに頭を垂れ、短い沈黙の後、静かに口を開いた。
「もし、そなたたちが全力で抗うのなら――
あるいは、勝利の曙光を目にすることもできよう。」
その言葉は淡々(たんたん)としていた。
だが、その静けさの奥には、計り知れぬ圧力と深い意図が潜んでいた。
「……」
神明たちは誰も言葉を発せなかった。
その返答はあまりにも抽象で、同時に絶望を孕んでいたからだ。
聖王国の運命は――
やがて訪れる最も過酷な試練を、避けることができぬものとして定められているようだった。
「最後に、この場で交わされた言葉は、あの二人の異界の者には決して洩らしてはならぬ。」
使者は突如、声を強め、厳かな響きを帯びた。
その最後の言葉が空気を震わせた直後、彼女はゆるやかに目を閉じた。
次の瞬間、その身は淡い靄のように揺らめき、輪郭が溶けるように消えていった。
黒き外套は空気に吸い込まれるようにして、やがて完全に闇へと融け込んだ。
神殿の中には、ただ黒霧の残り香だけが漂っていた。
神明たちは互いに目を合わせ、言葉を失ったまま立ち尽くす。
――危機は、まだ始まったばかりだった。
そして聖王国の未来は、あの黒霧のように――
無数の不確定な影を孕み、深い闇の中へと揺らめいていた。