毒沼之窟の内部は、異常なほど温度が高く、空気には濃密な毒気が立ち込め、呼吸すら困難であった。
至る所に毒煙を噴き上げる沼池が点在し、地面や壁面には奇妙な黒色の岩石が敷き詰められており、鼻を刺すような刺激臭を放っていた。
この世と隔絶された禁忌の地の奥深く――
魔神蚩尤は、毒気に満ちた沼の中で静かに身を沈め、治癒に専念していた。
沼の水面は厚い紫色の毒霧に覆われ、霧は絶えず渦を巻き、視界を完全に遮っていた。
蚩尤の巨体はほとん(殆)ど沼の中に没し、僅かに見えるのは血紅に染まった双眼のみ。その眼差しはまるで地獄の狩人のように鋭く、いつでも全てを喰らい尽くす覚悟を秘めていた。
その身に負った傷は深かったが、この地に満ちる毒気は蚩尤にとって極めて有利であり、傷口の癒合を加速させていた。
この毒気は常人にとっては致命的な猛毒であり、命を奪う恐れすらある。だが、魔神たる蚩尤にとっては、それこそが最良の治癒薬であった。
蚩尤の傍らには、聖王國の兵士たちの死体が無惨に散乱していた。
血肉は奴の鋭い爪によって一片ずつ引き裂かれ、その断片は満足げに喉の奥へと呑み込まれていく。
これらの兵士たちの血液と肉体は、蚩尤にとって単なる食糧ではなかった。それは失われた力を取り戻すための養分そのものだった。
しかし――
この深淵の洞窟の中に在っても、蚩尤は決して完全に安堵することができなかった。
奴の胸中には沈鬱な翳が差し、怒りの感情は、まるでこの毒気に撫でられるように鎮まりながらも、同時に内側から静かに膨張していった。
突如、蚩尤は腹部に手を当て、傷口を押さえた。
対手の魔法によって負ったその傷は、いまだ完治しておらず、体内に残る異質な力が皮膚を焼き焦がし続けていた。
蚩尤は低く唸るような咆哮を洩らし、やが(徐)に口を開いた。
「忌々(いまいま)しい……次々(つぎつぎ)と奇怪な出来事が起こりおって。――この我という至高無上の存在に匹敵しようとは、愚かにもほどがある。」
蚩尤は目を閉じ、不意に思い出す。
つい先程の戦闘の記憶――それは、聖王國の軍勢との遭遇であった。
本来、目の前に立ちはだかる兵士どもなど、蚩尤にとって取るに足らぬ存在であり、手を煩わせる価値すらなかった。
指先ひとつ動かすだけで容易に殲滅できる程度のもの――それは二十五年前と何ひとつ変わらず、聖王國の兵どもは微塵も成長してはいなかった。
しかし――あの戦闘は、蚩尤にとって意外な苦戦となった。
聖王國の兵士たちを虐殺し尽くそうとしたその刹那、一人の老人が蚩尤の前に姿を現したのだ。
「……あの怪物は、いったい何者だったのだ?」
蚩尤の胸中には、得体の知れぬ疑念が湧き上がった。
あの光景が脳裏に蘇る。
瀕死の老人が最後の瞬間に水晶球を打ち砕くと、その中から眩い光輝を放つ一人の元素使が現れた。
光元素使の出現は、蚩尤を戦慄させるに足るものであった。
その力は蚩尤の予想を遥かに超え、瞬間のうちに奴を絶望の淵へと追い詰めたのである。
「もしあの時、秘められた武器を即座に使っていなければ、私はとうにあの場で死んでいたであろう。」
蚩尤はその瞬間を思い出しながら、わず(僅)かに身を震わせた。
その言葉の端々(はしばし)から、蚩尤の内心に残る不満と、かすかな恐怖が感じ(かん)られた。
あの元素使の力は圧倒的で、蚩尤ですら即座に反応することができなかった。
もし自分が持つ特別な手段がなかったならば、確実にあの戦闘で命を落としていたに違いない。
「認めねばなるまい……あの者は本当に強かった。」
蚩尤の声には、もはや以前のような自信や傲慢はなく、代わりに深い沈思が滲んでいた。
蚩尤は再び血肉の一片を呑み込み、その喉の奥で怒りと屈辱を噛み砕くように押し殺した。
その胸中で燃え盛る怨念は、次に訪れる報復への誓いへと変わっていく。
――必ず報いてやる。
聖王國であろうと、その他の愚かな存在であろうと、我に刃向かうすべての力は、完全なる滅絶を迎えることになる。
自らの傷が癒え、力が整いし時――
この屈辱も、痛みも、すべては過眼雲煙となる。
最終的に、この世界において立ち続ける資格を持つのは、我のような魔神ただ一つのみ。
蚩尤がなおも沈思に沈んでいたその時――
突如、洞窟の濃密な静寂を切り裂くように、一条の冷たい声が響いた。
「ほう? その傷、やはり光元素使によって刻まれたものか。」
蚩尤は瞬間、驚愕に目を見開いた。
烈しい圧迫感が全身にのしかかり、思わず身を震わせる。反射的に手を伸ばし、傍らにあった戦斧を掴み取ると、全方位に視線を走らせ、警戒を強めた。
心臓は激しく鼓動し、脳内では無数の警報音が鳴り響いていた。
あり得ない――。
どうして誰かが、自分の張った結界を完全に破り、しかも気配すら感じさせずにここまで侵入できるというのか?
それだけではない。
この者は結界を突破しただけでなく、外に配した守衛たちを打ち倒し、その上で一切の音を立てずに自分の傍に現れたのだ。
「誰だ! どこに居る!」
蚩尤の声は怒りと恐れの入り混じった唸り声に変わり、洞窟中に反響した。
しかし、返ってくるのは虚しい反響音のみ。
蚩尤は血走った目で四方を見渡し、わず(僅)かな気配すらも逃すまいと集中した。
「ふん、たかがこの程度のことも見抜けぬとはな。――どうやら貴様、言うほど大した存在ではないようだな。」
その声は再び洞窟の闇の中から響き渡り、嘲笑と軽蔑の色を帯びていた。
まるで蚩尤の無知と無力を愉快げにあざ笑うかのように、その声は静寂を何度も突き刺した。
蚩尤の胸は一瞬強く脈打ち、思考が鋭く巡り始めた。
――まさか、己の力がまだ完全には戻っていないというのか?
否、そんなはずはない。確かに今なおわず(僅)かな疲労は残っているが、感覚は研ぎ澄まされている。
真の脅威が近づけば、必ずそれを察知できるはず――そう、蚩尤は確信していた。
だが、今この瞬間の出来事は、その確信を根底から覆す。
何が起こっているのか、まるで理に合わぬ現象が、眼前に静かに広がっていた。
その瞬間――
突如、蚩尤の背後から一条の斬撃が閃光のごとく走り抜けた。
それは雷鳴の如く鋭く、同時に凄まじい衝撃を伴っていた。
蚩尤は反射的に身を翻し、戦斧を横に振り抜いてその一撃を受け止めた。
だが、斬撃に宿る圧力は凄絶を極め、その巨体を容赦なく吹き飛ばした。
蚩尤の身体は洞窟の壁面に激突し、岩石の奥にまで深く叩き込まれた。
続いて、重力に引かれるように崩れ落ち、硬い地面に叩きつけられる。
口からは鮮血が奔り、赤い滴が毒霧に混じって揺らめいた。
「まあ? この一撃を防ぐなんて、やるじゃない。」
洞窟に響いたのは、緹雅の柔らかな笑声だった。
その声音には嬉々(きき)とした興奮が滲み、まるで目の前の強敵が、彼女にとっては新しい玩具ででもあるかのようだった。
「ふふっ……けっこう面白いじゃない。」
緹雅は微笑みながら、手に纏った光の残滓を払い落とす。
その瞳は好奇心と狩人の残酷な輝きを宿していた。
蚩尤の鼓動はさらに速まり、脳内は混乱と警戒の信号で満たされていた。
しかし、すぐに奴は己を強いて冷静を取り戻す。歯を食いしばり、怒りの奔流が胸の奥で爆ぜる寸前まで高まっていた。
全身に走る痛みを必死に堪え、蚩尤は岩に手を突きながらゆっくりと立ち上がる。
その双眼には、先程よりもさらに強烈な怒火が燃え上がっていた。
「貴様たちは何者だ? この地で、どうして無傷でいられる?」
蚩尤は表情を無理に落ち着かせ、両手で戦斧を大きく振り抜いた。
その一閃が空気を切り裂き、洞窟の毒霧を激しく揺らした。
蚩尤の質問に対して、私の語気はむしろ一層軽蔑に満ちていた。
「我々(われわれ)? 我々(われわれ)は――お前を討伐しに来た者だ。」
その言葉は明らかに挑発を含み、嘲笑めいた響きを帯びていた。
「この地の瘴気など、我々(われわれ)には何の影響もない。」
蚩尤の眼が鋭く細まる。
「……まさか、盤古のあの老いぼれが、お前たちを差し向けたというのか?」
だが、すぐに奴は首を振り、低い声で呟いた。
「いや……それはあり得ぬ。この地は盤古でさえ踏み越えられぬはず……。
お前たち――いったい、どうやってここに潜み入った?」
私はその言葉を聞くと、鼻で笑うように小さく息を洩らし、やが(徐)て不遜な笑声を上げた。
「どうやって潜り込んだ……だと? ――はははっ!」
その笑い声は洞窟に反響し、蚩尤の困惑をさらに深めた。
蚩尤は眉間に皺を寄せ、抑えきれぬ苛立ちを滲ませながら問い返した。
「何が可笑しい?」
――自らが聖王國すら滅ぼす偉大なる存在であるというのに、目の前の人間どもは、なぜこうも軽蔑的な笑みを浮かべられるのか。蚩尤は理解できずにいた。
私はその嘲笑をわず(僅)かに引き、唇に薄い笑みを残したまま言った。
「……まだ目が覚めてないのかしら?」
軽く肩を竦め、まるで他愛ない雑談のように続ける。
「それとも――身体が弱りすぎて、結界すら維持できてないんじゃない? ねえ、知ってる? この地面の下、結界防御なんて全く存在してないのよ?」
蚩尤はその言葉を聞いて初めて思い至った。
自分はこれまで洞窟の上層ばかりに注意を払い、下層は毒気が濃厚すぎて、いかなる生命体も近づけぬと高を括っていた。
そのため、結界の範囲をわざわざ下層まで覆う必要はないと判断し、力を節約していたのだ。
胸の奥がわず(僅)かに沈み、自らの油断を悟る。
だが同時に、目の前の二人が本当に自分の結界を破れる存在とは到底思えなかった。
「ふん! つまり――貴様らは、毒気に対する耐性を持っているだけで、我が結界を越えたわけではないということか?」
蚩尤はわず(僅)かに口角を吊り上げ、先程の狼狽を恥じるように鼻で笑った。
その胸中には、愚かな動揺を見抜かれた屈辱と、それを塗り消そうとする傲慢が渦を巻いていた。
「ははっ――ならば貴様ら、実に愚かだな!」
蚩尤は冷笑し、まるで全ての脅威が霧散したかのように肩の力を抜いた。
緊張の糸が切れたように、洞窟の空気に再び嘲りの響きが広がる。
だが、その言葉を聞いた瞬間、緹雅は思わず吹き出すように笑ってしまった。
「おや? 随分と大きな口を叩くじゃない。」
その不遜で嘲るような声音は、蚩尤の誇り高い自尊心を正面から殴りつけるようだった。
緹雅の一言は、鋭い匕首のように蚩尤の胸奥に突き刺さり、その内側で煮え立つ怒りを一気に掻き立てた。
「この結界は、我が許さぬ限り、誰も通ることなどできぬ。」
蚩尤は自信に満ちた声で言い放つ。
「すなわち――貴様らは、もう逃げられぬということだ。」
その瞳には激しい怒火が燃え、洞窟の空気さえ震わせるような殺気が滲み出ていた。
蚩尤は、まるで自らに言い聞かせるように――この場こそが我の支配する領域だと、再び確信しようとしていた。
「ははは――逃げるだと? 我々(われわれ)はそんなこと一片も考えてなどいない。」
私は突然冷笑を洩らし、語調は陰沈と変じた。
「それよりも――私にはお前に清算してもらうべき帳があるのだ!」
私の言葉からは、蚩尤にまで届くほどの激しい憤怒が迸った。
蚩尤は僅かに眉間を皺寄せ、思わず再び問うた。
「……ん? 何を言っているのだ?」
「先日のことだ――お前が利波草原で、聖王國の兵士どもを惨んに殺したのだろう?」
私の視線は一層鋭くなり、内には抑え難い怒火が燃え盛っていた。発する一語一語はまるで炎に炙られたかのように焼け付き、深い怨念を伴っていた。
蚩尤はその時になって漸く察しを得、不耐を含んだ表情を浮かべた。奴は嘲るように鼻で笑い、軽んじた声で言った。
「ほう? それがどうした? その中にお前たちの知る者がいたのか? ははは! 残念だが、俺は既に皆喰らってしまったぞ。さあ、復讐したければしてみるがいい。」
蚩尤の返答を聞て、私は冷笑を漏らしつつ応えた。
「否、否、否。」
その言葉に、蚩尤は更に訝しげな表情を浮かべ、問い返した。
「では一体何の為なんだ?」
私は一拍置いてから、胸中に澱んでいた不満を一気に吐き出した。
「あの者達は本来、私が多くの重要な事象を調査するために用意されたのだ。だというのに、結果としてお前という奴に妨害されるとは――度胸だけは立派だな。たとえ無知であったとしても、それは許されぬことだ!」
私は言えば言うほど興奮し、語調は次第に高まり、その声は知ら(し)ぬ間に凄るべき威圧感を放ち始めていた。
その時、蚩尤は目を見開き、額に微かに汗が滲み出た。
私から放たれる圧倒的な気配により、さきほどまでようやく鎮まっていた心が、再び不安に揺らぎ始めたのだ。
――この者、只者ではない。
目の前に立つ存在は、何か底知れぬ力を内に秘めている。
蚩尤はその瞬間、自らが目の前の敵を軽んじていたことを悟り、無意識のうちに喉を鳴らせた。
――どうやら、私はこの相手を甘く見すぎていた。
「まあまあ!あなた、そんなに怒らないで!」と、緹雅 は微笑みながら私の傍に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。柔らかな仕草は、まるで穏やかな風のように心を撫で、静かに落ち着かせてくれる。
「悪い、取り乱した。」
深く息を吸い込み、感情を押さえ込む。
緹雅 の言葉を聞いて、ようやく自分が先程どれほど感情を荒げていたかに気づく。こうして感情を思うままに吐き出すなど、普段の私らしくはなかった。
蚩尤 は、私たちがまるで自分を眼中に置かぬ様子に、怒りを極限まで募らせていた。
耳を劈くような咆哮と共に、そいつの身体が突如として爆発的な力を放つ。それは、八階の強化魔法――「魔力爆発」であった。
魔法の発動と同時に、蚩尤 の全身から猛烈な気流が吹き荒れ、周囲の空気は渦を巻きながら吸い寄せられていく。周囲の岩石は次々(つぎつぎ)と裂け、崩れ落ちた。
やがて、その筋肉は異常な速度で膨張し、姿は見る見るうちに巨大化していく。身長はほとんど天井に届くほどにまで達した。
肌は元の青藍色から徐々(じょじょ)に深紅へと変わり、まるで煉獄の炎が体内で燃え盛るかのようだった。その身体全体からは、圧倒的な威圧感が放たれている。
鋭い爪は異様なほど肥大し、牙は巨大な刃のように鋭く光る。薄暗い洞窟の中で、それらは冷たい輝きを放っていた。
一歩踏み出すたびに、大地は激しく震え、周囲のすべてがその圧倒的な威圧に呑み込まれそうになるのだった。
この時、私は「鑑定の眼」を用い、蚩尤 の能力値の変化を注視していた。
もともと、私はこれをただの「夢魘級」のBOSS程度だと考えていた。だが、表示された数値を見た瞬間、思わず息を呑む。
蚩尤 の各項能力値は突如として暴発的に上昇し、夢魘級から一瞬で「混沌級」へと跳び上がった。その異常な増幅に、私はただ驚嘆するしかなかった。
今の自分の状態に、蚩尤 はかつてない自信を抱いているようだった。双眼には邪悪な光が宿り、その笑い声は洞窟に響き渡る。
「この形態は、千年の修練を経てようやく到達した至高の境地――この世界と融け合うことで悟り得た技だ!」
その声には、誇りと圧倒的な優越感が滲んでいた。
「感じるぞ……お前たちは強い。私にこの形態をすぐに使わせるとはな……ふふ、幸運だと思え。」
蚩尤 の声は洞窟の奥に反響し、その音調は次第に高くなっていく。まるで世界に恐れるものなど何もないと信じているかのように。
「さあ――遺言はあるか?」
蚩尤 は冷酷な眼差しで私たちを見下ろし、この状態の自分に抗える者などいないと確信しているようだった。
蚩尤 の挑発に対して、私はまったく動じなかった。
むしろ、その顔が歪んで変形した様子に、わずかに身を引くほどの驚きを覚えた。
「まったく……気が利くじゃないか。」
そう軽く呟いたあと、私はゆっくりと身を翻し、後ろの 緹雅 に声をかける。
「緹雅、手伝おうか?」
その瞬間、緹雅 の表情が一変した。
陰が差したように暗くなり、その瞳は刃のように鋭く光る。
「……私を、からかってるの?」
冷たく突き放すような声。
その言葉の端に、微かに怒りが滲んでいた。
私は思わず苦笑して肩を竦める。
「はいはい、わかったよ。じゃあ、任せた。」
私たちの間に交わされた軽い冗談を見て、蚩尤 の怒りは再び爆発した。
その双眼は燃え盛る炎のように赤く輝き、怒声が洞窟の空気を震わせる。
「この私を侮るな! 世界の化身たる我に、逆らおうなど愚かだ!」
その咆哮はまるで雷鳴の奔る如く轟き、圧倒的な威圧を伴って押し寄せた。
「見せてやる――八階戦技《原斧斬》!」
叫びながら 蚩尤 は戦斧を振るう。
その一撃ごとに天地が軋むようで、常人の眼には到底追えぬ速度だった。血紅色の戦斧は空を裂き、閃光の軌跡を描きながら、圧倒的な威圧を伴って暴風のごとき衝撃波を生み出す。
その気流は、まるで全てを瞬時に切り裂くかのようだった。
巨大な斧頭を振りかざした 蚩尤 は、凄まじい勢いで 緹雅 に向かって突進する。
斧が振り下ろされる瞬間、空気は裂け、無比の力と速度を伴って、一直線に 緹雅 へと迫った。
だが、私を驚かせたのは、その次の瞬間だった。
緹雅 は、たった片手を軽く上げただけで、蚩尤 の一撃を真正面から受け止めたのだ。
その腕は微動だにせず、まるで岩石のように硬く揺るがない。
圧倒的な衝撃が空気を震わせる中、緹雅 は一歩も退かなかった。
どれほど 蚩尤 が力を込めても、彼女の身体は微塵も動かない。
その双眼は冷たく光り、まるで氷の刃のように鋭く 蚩尤 を射抜く。
そして、次の瞬間――緹雅 は静かに力を込め、鋭く押し返した。
「――轟ッ!」
鈍い衝撃音と共に、蚩尤 の巨体は弾き飛ばされ、後方へと吹き飛ぶ。
そのまま岩盤に叩きつけられ、地面は激しく揺れ、周囲の岩石が崩れ落ちた。
蚩尤 の表情は驚愕に染まる。
この圧倒的な形態で、まさか人間ごときに押し倒されるとは、夢にも思っていなかったのだ。
だが、緹雅 は追撃しなかった。
ただ静かにその場に立ち、冷たい視線で見下ろす。
「それだけ?」
彼女の声は淡々(たんたん)として、挑発でも怒りでもない。
まるで、蚩尤 の力など、取るに足らぬものだと言わんばかりに。
先程の一撃により、蚩尤 は明らかに動揺していた。
だが、その驚きはすぐに闘志へと変わり、彼は姿勢を正しながら、体内に渦巻く力をさらに高めていく。
数千年に及ぶ修練を経た魔神として、彼は理解していた。
――いま、この瞬間こそが全力を尽くす時だ。
さもなくば、この眼前の人間を打ち倒すことなど決してできぬ、と。
蚩尤 は手にしていた斧を荒々(あらあら)しく投げ捨て、両側に生えた四本の腕を大きく振りかざした。
瞬間、その肉体の四肢は異様な変化を遂げていく。
筋肉が隆起し、骨格が軋み、そしてそれぞれの腕の掌には異なる武器が現れた。
一本は鋭利な長槍、
一本は炎を纏う剣、
もう一本は刃のように尖った矛、
そして最後の一本には、狭長な戟が握られていた。
それらの武器はまるで彼の怒りと魔力を具現化したかのように、禍々(まがまが)しい光を放っていた。
四種の異なる武器は、蚩尤 の掌握のもと、まるで生き物のように同時に動き出した。
長槍は突き、炎剣は斬り裂き、矛は貫き、戟は薙ぎ払う。
それぞれが異なる角度から、完璧な連携をもって 緹雅 へと襲いかかった。
「これこそが――我の真の力だッ!」
怒号と共に 蚩尤 の表情は狂気に染まり、目には凶光が宿る。
四方から放たれる槍、剣、矛、戟の刃は閃光のように交錯し、
空気そのものを切り裂いて轟音を響かせた。
この一撃は、もはや先程までの攻撃とは比べものにならぬ。
蚩尤 はその全力、いや、存在そのものを込め、
自らの誇りと本能を賭けて、緹雅 に襲いかかった。
最初に動いたのは、槍を握る腕だった。
蚩尤 は猛然と一閃し、長槍は螺旋を描きながら急速に回転し、
圧倒的な破壊力を伴って 緹雅 へと突き出された。
その速度は目で追うことすら困難で、
槍尖は一直線に彼女の胸元を貫かんと迫る。
だが、それは単なる物理的な突きではなかった。
槍には強烈な風属性が宿り、
見えぬ風刃が空気を裂きながら螺旋と共に放たれていく。
その風刃は、まるで無数の刃が空間を舞うかのように、
あらゆるものを切り裂く鋭さを帯びていた。
――それこそ、蚩尤 の八階戦技《影風突》である。
緹雅 は素早く身を翻した。
その動きはまるで風に溶けるような滑らかさで、
ほとんど瞬間的に槍尖を回避していた。
だが、それでも完全には逃れきれなかった。
彼女の腕の衣端が、
見えぬ一条の風刃に掠め取られ、
わずかに裂け散った。
その時、蚩尤 は 緹雅 に一瞬の隙すら与えなかった。
彼女が槍撃をかわした刹那、
炎を纏う剣が上方から閃光と共に振り下ろされる。
その刃は灼熱の炎を噴き上げながら空気を裂き、
轟く熱風と共に 緹雅 を焼き尽くさんと迫った。
だが、緹雅 の反応は一瞬たりとも遅れなかった。
彼女は手を振り上げ、流れるような動作で魔力を解放する。
瞬間、その周囲の空間が波紋を描き、
渦を巻く巨大な水盾が出現した。
――八階魔法《水螺潮環》
その水盾は螺旋の如く回転しながら、
強靭な壁を成して 緹雅 を包み込む。
そして次の瞬間、炎剣の刃がその水盾に叩きつけられた。
「――ガァンッ!」
火焔と水流が激突し、眩い光と轟音が洞窟中に響き渡る。
水盾は揺れながらも崩れず、
燃え盛る炎剣の猛りを受け止めていた。
だが――両者の力が触れ合ったその瞬間、
蚩尤 の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「水で我の炎を鎮めようなど――愚かだな。」
まるで全てを見通していたかのような声音。
その言葉と共に、炎剣の刃が水盾に触れた瞬間、
緹雅 は異変に気づいた。
水盾の表面に、薄い霜が音もなく走り、
それは瞬く間に全体へと広がっていく。
透明な水流は凍りつき、
螺旋の動きを止め、
まるで巨大な氷塊の盾となって沈黙した。
「……これは、氷?」
緹雅 の瞳が驚きに揺れる。
たしかに、それは炎の剣だったはず。
だが、今その刃は冷気を放ち、
氷結の魔力が周囲の空気さえ凍らせていた。
それこそが、この剣の真の性質――幻象属性。
見る者を惑わせ、
覆われた魔力の真実を隠す。
表面上は火の魔法でありながら、
その実は氷の呪いを秘めた刃だった。
――蚩尤 がこの剣の幻象を操り放つ、
八階戦技《幻息斬》
氷の息が洞窟を満たし、
空気が凍り付くような静寂の中、
蚩尤 の冷笑だけが響き渡った。
「悪くないわね。」
緹雅 は淡い笑みを浮かべ、まるで些細な技巧を賞賛するかのように静かに言った。
その声音には焦りの色など微塵もなく、むしろ冷静な余裕が滲んでいた。
蚩尤 の剣が凍り付いた水盾を貫こうとしたその瞬間――
突如、盾の内側から逆方向に力が働き、
その刃を強く引き留めた。
「……なに?」
蚩尤 の眉間が僅かに歪む。
次の瞬間、彼は気づいた。
水盾の内部に、土の魔力が渦を巻いていることに。
そして、その中心から泥で形づくられた二本の触手が伸び出て、
まるで生き物のように剣の刃を絡め取り(と)っていた。
その触手はどこまでも粘り強く、
剣を深く泥中に沈めるかのように動きを封じていた。
――八階魔法《泥纏》
敵の武器を拘束し、力の流れを断つ拘束術。
それは水と土の属性を巧みに融合させた、緹雅 の得意とする防御魔法だった。
「ありえぬッ!」
蚩尤 は低く唸り声を上げ、
渾身の力で剣を引き抜こうとする。
だが、どれほど腕に力を込めても、
泥の触手は離れるどころか、さらに強く締め付けていった。
蚩尤は、この短暫の束縛に驚きを覚えたものの、決して慌てふためくことはなかった。
牠は緹雅が必ず対処してくることを理解していたため、たとえ即座に身動きが取れなくとも、瞬時に態勢を整えた。
牠のもう一方の手には長矛が握られ、その鋭い穂先が水盾の反対側へと猛しく突き出された。
矛頭は稲妻のように閃き、絶対的な破壊力を宿して、防御壁を貫こうとした。
蚩尤の行動は一見衝動的に見えたが、実際には非常に冷静で、瞬間的な困難に直面しても、決して動揺することはなかった。
同時に、牠の戟も緹雅へと振るわれ、二つの武器が異なる攻撃法を以って彼女を同時に追い詰めた。
八階戦技――「雷突」、八階戦技――「光崩」、二つの技が同時に発動された。
二つの武器が同時に攻撃する瞬間、蚩尤は自分の権能――「絶気」を発動した。
この権能は、相手がすでに発動した魔法を弱体化させ、その効果を五割減にする力を持つ。
その力が爆発した瞬間、緹雅の魔法は次第に弱まっていった。
蚩尤は戟と矛を巧みに操り、二つの武器の力を一点に集め、緹雅の束縛を打ち破って、ついに剣を引き抜くことに成功した。
蚩尤の一連の攻撃は、まるで行雲流水のごとく滑らかで、寸毫の無駄もなかった。
牠の四つの腕はそれぞれ異なる武器を強く握りしめ、その一挙手一投足に圧倒的な力が宿っていた。
再び武器を構えた蚩尤の表情は厳しく引き締まり、その心の奥底では、先程の戦闘で得た警戒が深く根を下ろしていた。
牠は目の前の敵が並の存在ではないことを痛感していた。
ゆえに、牠はすべての武器を一点に集中させ、両手に固く握りしめた。
瞬間、空気は張り詰め、重苦しい気配が戦場全体に広がっていった。
蚩尤の瞳は烈火のように燃え上がり、その身体全体からは強烈な元素の波動が溢れ出した。
牠は少しずつ元素の力を武器へと注ぎ込み、やがて圧倒的なエネルギーを形成していった。
エネルギーが増すにつれ、蚩尤の武器の表面には眩い閃光が走り、それはまるで夜空を切り裂く流星のようであった。
「よい! 久しく全力を出せる相手など現れなかったからな!」
蚩尤は豪快に笑い、その声には昂揚と興奮が滲んでいた。
「この技は本来、王国であの老いぼれどもを叩くために取っておいたが――」
牠は口角を吊り上げ、燃えるような眼光で前方を睨み据えた。
「どうやら、今こそお前たちにこの一撃を見せる時らしいな!」
言葉が終わるより早く、蚩尤の身体が突如として震え上がった。
瞬間、空間全体が裂けるかのように激しく揺れ動き、世界そのものが悲鳴を上げるかのごとき振動が走った。
蚩尤が怒号と共に咆哮を放つや否や、その掌から眩い光の砲撃が迸り出て、一直線に緹雅へと襲いかかった。
この技の名は「煌域炮」――
それは蚩尤が長年にわたる修練の果てに得た、元素の力を具現化した究極の一撃である。
光炮が爆発した瞬間、空気は耳を劈くような高周波の震動に満ち、世界そのものが同調するかのように激しく脈動を始めた。
しかし、蚩尤にとって全く予想外だったのは、緹雅がこの圧倒的な力に対して、まるで何ごともないかのように淡然としていたことであった。
彼女はただ静かに手にした武器を持ち上げ、軽く一振りしただけで、その攻撃を受け止めた。
刀刃と元素の衝突音は雷鳴のごとく轟き、その衝撃波は周囲の空気を引き裂くほどであった。
それでも、緹雅の姿は微動だにせず、髪の一本すら乱れなかった。
蚩尤は目を見開き、信じられぬ表情を浮かべた。
「お…お前、いったい何をしたんだ!」
牠は怒号と共に咆哮し、眼前の現実を受け入れられぬまま、拳を震わせた。
緹雅の表情は終始として冷静で、その唇の端がわずかに上がった。
彼女の声は、まるで春風が頬を撫でるように穏やかであった。
「別に……ただ、少しだけあなたの攻撃を防いだだけよ。」
幾度も攻撃が容易く防がれたことで、蚩尤の胸中には屈辱にも似た激しい感情が渦巻いた。
その双眼は次第に紅く染まり、理性の枷が一枚ずつ外れていくようであった。
やがて牠は手にした武器を乱れ振り回し、暴走する獣のごとく緹雅へ突進した。
その姿はまさに狂気そのもので、肉薄して血を浴びる覚悟すら感じさせた。
蚩尤の攻勢は刻一刻と苛烈さを増し、振り下ろす一撃ごとに暴風雨のような圧力が周囲を包み込んだ。
だが、その圧倒的な力は同時に牠自身から冷静さを奪い、戦場の主導権を少しずつ失わせていった。
蚩尤の動作は次第に混乱を極め、攻撃も型を失い、ただ怒りを撒き散らすかのように無秩序に振り回されていった。
戦場はもはや、牠の憤怒そのものが具現化した嵐の渦中であった。
いかに蚩尤が拳や脚を振るおうとも、緹雅の姿はまるで幻影のように軽やかで、牠の攻撃が迫る刹那には、いつもその場から掻き消えるように姿を消していた。
蚩尤の剣が鋭く振り下ろされる――だが、緹雅は身軽にそれを避けた。
長槍が突き出される――だが、彼女の元素盾がそれを完全に受け止めた。
毒気を帯びた刺撃すら、彼女の身に触れることは叶わなかった。
そのたびに蚩尤の怒火は燃え盛り、理性の炎は次第に怒りの炎に呑み込まれていった。
やがて、過度な力の奔出によって蚩尤の動きに一瞬の隙が生まれた。
緹雅はその微細な乱れを逃さず察知し、即座に身構えて攻撃の体勢を取った。
その瞳は静寂の中に鋭光を宿し、ついに蚩尤の防壁を打ち破らんとする決意が宿っていた。
緹雅が蚩尤の首を斬り落とさんと刃を振り下ろそうとしたその刹那、
蚩尤は突如、予想もしなかった防御魔法を発動した――八階魔法「黄金化」。
瞬間、蚩尤の四肢は急速に変化し、金剛石のごとき硬度を持つ黄金へと変わり果てた。
次いで全身が燦然たる輝きを放ち、戦場は一瞬にして眩い光に包まれた。
この防御魔法は極めて強力である一方、莫大な魔力を消耗する。
しかし、黄金化した肉体は、あらゆる物理攻撃を遮断する絶対防壁となるのだ。
緹雅の攻撃は、その黄金の鎧に弾かれ、轟音と共に激しい火花を散らした。
耳を劈く衝撃音が大気を震わせた刹那、
蚩尤は黄金化した手を伸ばし、緹雅の武器をがっちりと掴んだ。
二人の力が交わり合うその瞬間、空気は凍りつくように張り詰め、
戦場全体が彼女と彼の拮抗を映す静寂の檻へと変わった。
しかし、蚩尤はこの膠着を長く続けるつもりはなかった。
牠の表情には狡猾な笑みが浮かび、
次いの瞬間、背後から伸びた一つの腕が、渾身の力を込めて振り下ろされた。
その狙いは、緹雅の不意を突く奇襲の一撃であった。
緹雅は即座にその側面から迫る危機を察知し、
もう一方の手を掲げ、九階魔法――「白耀壁壘」を発動した。
瞬時に、まばゆい光の壁が展開し、
その輝きが戦場を照らす中、蚩尤の側面からの攻撃を完全に遮った。
だが、その刹那、蚩尤の口元に不敵な笑みが浮かんだ。
牠の唇の端が冷たく吊り上がり、
次いの瞬間、その背後から新たな腕が生え出た。
その手には、いつの間にか黒光りする弩が握られていた。
至近距離――逃れることさえ許されぬ距離で、蚩尤はためらいなく弦を引いた。
瞬間、矢は閃光のように空気を切り裂き、
音もなく緹雅の心臓めがけて一直線に飛び込んだ。
その速さは尋常ではなく、
緹雅でさえも防御の術式を展開する暇すらなかった。
驚愕の表情を浮かべた次いの瞬間――
鋭い矢は彼女の胸を貫き。