第一卷 第五章 千年の追尋-5
王城は大きくはないが、その建築は極めて精緻で、独特な雰囲気を放っていた。
城門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのは壮麗なる皇宮だった。宮殿の外観は金碧輝煌としており、彫刻や瑠璃瓦の一つ一つまでもが黄金の光を放ち、聖王国の威光と尊厳を誇示しているかのようであった。
宮殿の内部には数え切れぬほどの守衛が駐屯しており、彼らは整然とした足取りで巡回し、磨き上げられた甲冑を身にまとっていた。その姿は城全体に一層の威厳を与えていた。
しかし、ここは王国の真の心臓部ではなかった。皇宮の背後には、その壮麗さとはまったく異なる気配を放つ神殿が静かに隠されていた。
その神殿は結界によって囲まれた区画に位置し、外から見る限りでは、それほど目立つ存在ではない。皇宮のような華美さもなく、威光を誇るような装飾も施されていなかった。
私たちが弗瑟勒斯で見た神殿と比べれば、ここは実に質素で、静謐な印象すら与える。
石造の壁には長い年月の痕跡が刻まれ、苔や風蝕の跡がその歴史を物語っていた。この神殿は少なくとも三千年の歳月を経ており、六島之國が建国された当初から今日に至るまで、聖王国の変遷を共に見届けてきたのだ。
神殿に近づくと、そこには俗世から切り離されたような静寂の気配が満ちていた。周囲の空気は外界の喧騒を拒むかのように澄みわたり、古木たちは天を覆うほど高く伸び、枝葉は繁り合いながら、この神聖なる地を黙して守っているかのようであった。
木々(きぎ)の影は地面に斑な光を落とし、光と影が交錯する中、時の流れは緩やかになり、一秒ごとに歴史の深みに沈んでいくように感じられた。
その小さな林を抜け、私たちはようやく神殿の大広間の前に辿り着いた。
神殿の正門は二本の巨大な石柱によって支えられ、門枠には複雑な符文と神聖な印が刻まれていた。
扉は重く、その開かれるとき、低く響く轟音が大気を震わせた。その音は魂までも貫くようで、人の心に言葉では表せぬ畏敬を抱かせた。
亞拉斯は先ず中へ入り、神明たちへの報告を行った。
神殿の外に漂う空気は、他のどんな場所とも異なっていた。静寂で、穏やかでありながら、すべての細部が神聖な光輝を放っているようだった。そこへ向かう途上、私は知らず知らずのうちに歩みを緩めていた。
建築物そのものも、そして満ちる空気の雰囲気も、人に深い敬意と畏怖を抱かせる。まるでこの場所こそが、王国全体の信仰と希望を宿しているかのようだった。
神殿の大広間の入口には、左右にそれぞれ五人ずつの衛兵が駐どまり、見張りを務めていた。彼らは簡素ながら堅牢な甲冑を身にまとい、長槍を手に、鋭い眼差しで周囲を警戒している。
鑑定の結果から見れば、彼らの実力はおおよそ五級程度で、特別強いわけではなかった。
この防備は明らかに、外部からの侵入者を阻むためのものではないようだった。
私と緹雅は神殿の門口に立っていた。周囲を包む静寂は心を落ち着かせ、まるで時間までもがここではゆっくりと流れているかのようだった。
私たちがしばし門前に立ち尽くしていると、やがて亞拉斯が神殿の内陣から歩み出てきた。
「神明さまが、君たちに会うとおっしゃっている。」
彼は穏やかな笑みを浮かべていたが、その表情の奥には微かな疲労の色が滲んでいた。
私と緹雅は神殿の中へと足を踏み入れた。
中央には高くそびえる祭壇があり、その上には純白の布幕が掛けられていた。布には金色の神聖な符紋が刺繍されており、それはまるで何かの魔法か戦技の術式を象っているかのようだった。
周囲の壁には古びた絵画が掛けられ、そこには聖王国の歴史と神明たちの事績が描かれていた。絵の色彩は長年の歳月と共に褪せていたが、その荘厳さは失われていなかった。
神殿の両側に並ぶ石柱には、龍の形をした神像が一列に刻まれている。その彫刻は驚くほど精巧で、今にも石の中から命を得て動き出しそうであった。
龍像たちの眼差しは深く鋭く、まるで神殿に訪れるすべての者を見透かすかのように、静かに、そして圧倒的な威圧感を放っていた。
祭壇の背後には、三柱の神明が座していた。彼らの放つ気配は深淵のように静かでありながら、荘厳な重みを持っていた。室内の質素な装飾とは対照的に、神々(かみがみ)は華麗な神袍を身にまとい、端正な顔立ちからは言葉に尽くせぬ神聖さが漂っていた。
三柱の神明たちの体格は人間と大きな差もなく、想像していたような巨大な存在ではなかった。しかし、彼らの背後を見やると、さらに一柱の神明が座しているのが見えた。
その神明は他の三柱よりも明らかに大柄で、同じく神袍をまとうものの、その身はより堂々(どうどう)としていた。それでもなお、彼の体躯は人間の枠をわずかに超える程度であり、威圧ではなく、静謐そのもののような存在感を放っていた。
彼の瞳は深く、底知れぬ光を宿しながらも、そこにはかすかな冷淡さがあった。その眼差しはあらゆる真理を見通し、同時にこの世のすべての栄華を、ただの過客の幻のように見ているようだった。
私と緹雅は、ただ軽く腰を折り、両手を胸の前で組んで神明たちに挨拶をした。
しかし、その慎ましい仕草は明らかに亞拉斯の不満を買った。彼の目には不快な色が宿り、声には苛立ちが滲んでいた。
「おい!神明さまの御前で、その態度はあまりにも無礼だろう!」
亞拉斯は怒りを隠さず、私たちを鋭く咎めた。
だが、その言葉が終わるより早く、一柱の神明が静かに手を上げ、彼を制した。
「気にするな、亞拉斯。」
その柔らかな声には、絶対の威厳があった。亞拉斯は小さく息を吐き、言いたげに口を開いたが、その前に神明の視線に制され、言葉を呑み込んだ。
その静寂の中、もう一柱の神明が微笑みを浮かべた。瞳にはどこか愉快そうな光が宿る。
「ははは、なるほどな。もし自分の目で見なければ信じられんところだ。君たち、亞拉斯と同じ力を持っているどころか──いや、むしろそれ以上かもしれんな。」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥に微かな驚きが走った。
亞拉斯もまた、その神明の発言に強い衝撃を受けたようだった。彼はまさか、私たちの力が自分の想定を超えるとは思っていなかったのだ。
亞拉斯は先日の試合の光景を思い返そうとしていた。彼はあの時もなお、自らが優勢だと信じていたに違いない。だが今、神明たちの評価を耳にし、彼の心は大きく揺らいでいた。
「な、なんだと……? 俺より上の力? そんなもの……俺ですら見抜けなかったのか?」
その言葉には困惑と焦りが滲んでいた。
私は一歩踏み出し、わざと緊張した声で尋ねた。
「あなたたちは……いったい何を見たんですか?」
その時、一柱の神明が座していた玉座から軽やかに跳び降りた。彼の動作は力強く、堂々(どうどう)としていたが、どこか粗野な印象もあった。
だがすぐに彼は姿勢を正し、礼儀正しい態度で口を開いた。
「まずは自己紹介をしよう。我々(われわれ)は聖王国の神明だ。私が授かった神位は伏羲、種族はドワーフ族だ。」
次に、一人の神明が優雅に一歩進み出た。その姿勢は気品に満ち、声は低く響き渡った。
「私の神位は神農氏。人族とエルフ族の混血だ。」
その声音には不思議な重厚さと、周囲を包む神秘の気配が宿っていた。
そして最後に、柔らかな声が静かに響いた。
「私は蛇妖族と人族の混血。神位は女媧よ。」
先程、私たちが用いた道具を見抜いた神明が、穏やかに名乗った。
その声は流れる水のように澄み、落ち着いた響きを持っていた。
だが、その蛇のような瞳は鋭く、静かな洞察の光が宿っていた。
女媧は私たちを見つめながら言った。
「私の権能は、あなたたちの内に潜む力を見抜くことができる。どんなに偽装しようとしても、無駄よ。──私はすべてを知っているの。」
その口調には感情がなく、ただ事実を告げるのみだった。
彼女の視線が私たちを静かに横切る。
「あなたたちの左手にある腕輪──それは、周囲の者にあなたたちの力を悟らせないようにするものね?」
神明たちは、やはり我々(われわれ)が使っている偽装道具を容易に見抜く力を持っていた。
つまり、最初に私たちの能力を見抜いたのは亞拉斯ではなく、女媧が背後でその目を通して助けていたということになる。
女媧の持つ権能は「蛇の眼」──それは、相手のあらゆる偽装や幻惑を完全に見破る能力だった。
「私たちの偽装を見抜くなんて……さすが、と言うべきかな。」
私はわざと緊張した口調でそう答えた。
しかし、心の奥では少しも動揺していなかった。
神明の力では、私が張っている虚偽情報魔法──つまり、認識を歪める高位の魔法までは看破できなかったのだ。
それは、私の魔法が少なくとも神明の感知を超える領域にあることを意味していた。
この事実だけで十分だった──少なくとも、我々(われわれ)の真実の情報が容易には暴かれない、という確信が得られたのだから。
「だがな、これくらいの力ではまだ足りぬ。あの男は、我々(われわれ)三柱が力を合わせても倒すのは難しいのだ。」
神農氏が静かに言い放った。
「その“あの男”というのは……誰のことですか?」
緹雅が眉をひそめ、疑わしげに尋ねる。
「上古の魔神──蚩尤だ。」
神農氏はまるで日常の一言のように淡々(たんたん)とその名を口にした。
「ほう?」
「おや? その名を聞いても動じないとは……さすがは君たちだな。」
神農氏は少し愉快そうに笑い、我々(われわれ)の冷静さに感嘆した。
私は心の中でつぶやいた。──やはり蚩尤か。
だが、その姿は、かつて私がゲームで見たものとは少し違うようだ。
「そいつ、本当にそんなに強いの?」
緹雅は肩をすくめ、興味なさそうに言った。
「なんという無礼な!神明さまが“手に余る”とおっしゃるお方だぞ! 貴様たちごときが何を──!」
亞拉斯は怒りを爆ぜさせ、声を荒げた。
しかし、伏羲がすぐに右手を上げて制した。
「もうよい、亞拉斯。──下がれ。」
「……はっ、御意。」
亞拉斯は歯を食いしばりながらも頭を垂れ、静かにその場を退いた。
「すまない、彼の無礼を許してほしい。」
伏羲は穏やかな声で言い、深く頭を下げた。その態度には、神明でありながらも礼節を重んじる誠実さがあった。
私は肩をすくめ、軽く笑いながら答えた。
「別に構いませんよ。──それより、その魔神って、そんなに強いんですか?」
「ふふ、案外……この者たちは思っていた以上に手強いかもしれないわね。」
女媧は口元に愉快な笑みを浮かべ、楽しげに言った。その瞳は蛇のように細く光り、まるで私たちの心の奥まで見透かしているかのようだった。
「ふむ……随分と自信に満ちているな。」
伏羲は再びこちらへと向き直り、静かに問いかけた。
「君たちは、本当にそれほどの確信があるのか?」
私は伏羲の目をまっすぐに見返し、落ち着いた声で答えた。
「神明さまの御前で──隠すことなど、ありませんよ。」
その瞬間、空気はわずかに張りつめ、神殿の奥に流れる静寂が、より深く、重くなった。
空気は一瞬にして静まり返った。
誰も言葉を発せず、ただ沈黙の中でそれぞれが思考を巡らせているようだった。
その静寂を破ったのは、重く響く威厳ある声だった。
「いや──たとえお前たちの内心を探ろうとしても、我が力では見通せぬ。お前たちの魔法は、あまりにも強大だ。」
その声の主は、最高神・盤古であった。
私たちはその時、初めて彼の姿をはっきりと見た。
彼は山脈のごとく高く、堂々(どうどう)とした体格を誇っていた。
筋肉は鋼のように隆起し、その存在そのものが大地の力を体現しているかのようだった。
風が吹くたびに、銀白の長髪と髭が揺れ動き、彼の双眸には計り知れぬ叡智と威圧的な力が宿っていた。
私は無意識に息を呑み、ふと心の中で思う。
──もしも不破とこの盤古が、純粋な肉体戦で拳を交えたなら……果たして勝つのはどちらなのだろうか。
「すまぬな、まだ自己紹介をしていなかった。」
盤古はゆっくりとした口調で言いながら、重みのある視線を私たちの方へと向けた。
その目は焦ることもなく、しかし確実に心の奥まで射抜くようだった。
「我は巨人族と人族の混血──神位は盤古。」
その声は静かで落ち着いていたが、同時に場の空気全体を圧するほどの威圧感を伴っていた。
「人の心を見透かす能力……それが、最高神の権能というわけ?」
緹雅の一言が静寂を破り、その場にいたすべての神明たちの視線が一斉に私たちへと注がれた。
その瞬間、空気は一変する。
神明たちは誰もが予想していなかったのだ──私たちの魔法が盤古の洞察をも遮るとは。
盤古の瞳に、一瞬だけ驚きの色が走った。
だが、すぐに彼は表情を引き締め、その声を低く落とす。
「……お前たち、一体どの国の神明から遣わされた?」
私は微笑みを浮かべ、直ぐには答えず、目の視線で緹雅に、これ以上情報を漏らさないよう暗示した。
「いいえ……私達は何処の国にも属していません。ただ、目立たない小さな場所から来たに過ぎないのです。」
私は故意に身分を暈しながら、同時に緹雅へ注意を促した。
盤古の眼差しが一層鋭くなり、少し身体を前に傾けた。その反応は、私達の答えに満足していないことを物語っていた。
「この世界で、他の国神の加護を受けぬまま、私の権能に耐え得る者など、殆ど居ない。お前達は一体、どうやってこれほどの力を得た?」
「言わないほうがいいと思うよ。だって……私、プライバシーを大切にするタイプだからね!」
緹雅は戯けたように言い、唇に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……」
「もし君たちが話したくないのなら、それでも構わない。」
盤古は微笑みを浮かべ、心の中では無奈を感じながらも、完全に理かいできないわけではなかった。
「だが、君たちが既に此処に現れたということは――すなわ(即)ち、あの魔神を打倒する力を持っている、ということだろう?」
私達は自分たちの素性を神に明らかにする気はなかったが、それでも盤古は敵意を見せることなく、話題を今回の委託任務へと移した。
神々(かみがみ)の態度は、私に少し驚きを与えた。てっきり圧力を加えてくるものと思っていたが、今の彼等はむし(寧)ろ私達の助力を求めているようだった。
「君の言う“あの魔神蚩尤”のことか?――ああ、そうだ。俺たちはそいつを倒すためにここへ来たんだ。」
「君達は知っているのか? あの者の力が、どれほど強大なのかを。」
神農氏の厳粛な表情は、他の神々(かみがみ)を少し驚かせた。
どうやら彼は、我々(われわれ)が敵を甘く見ていると感じたらしい。
「滅多にあんたがそんな顔を見せることはないものね……。無理もないわ、あの件は今でも心に残っているのでしょう。」
女媧は神農氏をなだ(宥)めるように言った。
「その件……あなた達が言っているのは、二十五年前の出来事のことですか?」
「そうだ……。」
盤古は静かにうなず(頷)き、そして二十五年前に起こった出来事について、我々(われわれ)に語り始めた。
二十五年前、前代の神明たちが相次いで世を去り、彼等は「神明候補」として、いわゆる交接儀式を執り行っていた。
その交接儀式とは、神位の譲渡と権能の継承を意味し、すべて神殿の祭壇において、かつての九位の大人たちが設けた儀式魔法によって行われるものだった。
不運にも、前代の神明たちが世を去ったその時、聖王国の西方辺境に突如として強大な魔物――「猰貐」が出現した。
それは長年にわたって生存してきた古き魔物で、常に気配を消しながら聖王国の国境を荒らしては、人々(ひとびと)に恐怖をもたらしていた。
当時、その「猰貐」は金光級の冒険者さえいれば容易に退けられる程度の存在と思われていた。
だが、黒鑽級の冒険者でさえ重傷を負ったと聞いた瞬間、人々(ひとびと)はようや(漸)く事態の深刻さに気付いたのだ。
惨禍を避けるため、聖王国は大規模な騎士団を派遣し討伐に向かわせ、王都には炎虎騎士団だけを残して守らせた。
――しかし、その時誰も知らなかった。すべては、緻密に仕組まれた陰謀であったことを。
炎虎騎士団は、十二大騎士団の中でも実力第二位に位置する精鋭の部隊であった。
それだけでなく、王国は混沌級の冒険者一組を特別に委託し、彼等を王都の守護につか(就)かせていた。ゆえに、誰もが「王都は安泰だ」と信じて疑わなかったのである。
交接儀式は三日間にわたって行われ、その間、炎虎騎士団は配下の各階級兵団を率い、防衛任務にあたっていた。
――だが、事件はあまりにも突然に起こった。
神明たちが交接の最終日の夜、儀式の準備を終えようとしていたその時、魔神蚩尤が突如王城に姿を現したのだ。
奴は、神明たちが設けた防御結界をいか(如何)にしてか突破し、まるで時機を計ったかのように、たった一人で王都へと襲いかかった。
王城は瞬く間に地獄絵図と化し、炎虎騎士団と混沌級の冒険者たちは、その静寂の夜の中で惨烈な虐殺に倒れた。
もし神明たちが儀式を終えた直後に駆けつけていなかったならば、聖王国は間違いなく滅亡していたであろう。
神明と蚩尤との戦いは夜明けまで続き、ついに魔神蚩尤を撃退することに成功した。
――だが、その代償として、神明たちは皆、深手を負うこととなったのである。
ここまで聞いて、私もようや(漸)く理解した。
聖王国が今、いか(如何)なる危機に直面しているのか――狡猾な敵は闇の中に潜み、機会を窺っているのだ。
「今回の任務だが、当初われわれは黒鑽級以上の冒険者を集め、小隊を編成し、魔神蚩尤を聖王国の王城近辺まで誘き寄せ、その後われわれが討つ――そのような計画を立てていた。」
伏羲は落ち着いた口調で、当初の計画を私達に説き明かした。
「だが、冒険者ギルドの方では長らく人手が足りず、思うように隊を編成できなかった。そこで、我々(われわれ)は協力者を募る形で人員を補おうと考えたのだ。」
この種の委託任務は、必ずしも受けなければならないというものではなかった。
だが、国の安全に関わる重要な依頼である以上、普通の者にとっては簡単に決断できることではない。
――しかし、我々(われわれ)はそんなことなど少しも気に留めてはいなかった。
「その蚩尤って、あなた達でも倒せないの?」
緹雅は素朴な疑問を口にした。
もし蚩尤が神明さえ脅かすほどの存在であるならば、すぐにでも攻撃を仕掛けるはず――そう考えるのが当然だった。
伏羲はしばらく沈黙し、それから静かに口を開いた。
「奴はもともと、各地で暴れ回るだけの魔物に過ぎなかった。その力も決して強いものではなかった。――だが、二十五年前になって、奴の力は突如として飛躍的に増大したのだ。」
「我々(われわれ)は協力して奴を重傷を負わせることに成功したが、その代償は小さくなかった。今に至るまで、我々(われわれ)は完全には回復していない。」
伏羲の声にはわず(僅)かに重みが宿り、その言葉の奥には、二十五年前の戦いに刻まれた痛みと記憶が今なお消えずに残っていることが感じ(かん)られた。
女媧は続けて補充し、言った。「しかし、あの奴は今や奇跡的に回復しており、しかも利波草原で聖王国の兵士を殺しているのです。見る(み)からに、奴の力は以前よりも一層増しており、我々(われわれ)の予期を遥かに超えているように感じ(かん)られます。」
「では、なぜ奴は聖王国を攻撃し続けないのですか?」私は続けて尋ねた。
神農氏は答えた。「それは今、奴が負傷しているからだ。おそらく利波草原での戦闘で大きな被害を受けたのだろう。どのようにしてそうなったのかは我々(われわれ)にも明確には分からないが、少なくとも我々(われわれ)に時間を得る機会を与えてくれたのは確かだ。」
神農氏の説明を聞き終えた緹雅は、考え込んだように頷いた。「なるほど。つまり、あなた達は我々(われわれ)に奴を聖王の近くまで誘い出してから討伐してほしい、ということですか?」
盤古は僅かに頷き、「その通りだ。正直に言えば、このような願いをするのは恐縮だが、それでも君達の助力が必要なのだ。これ(こ)れは我々(われわれ)にとって決定的に重要な事なのだ。」と述べた。
「いいえ。」
私は断固として彼等の要請を拒否した。
私の拒否を聞いた神明たちの表情は、幾分寂しげになった。
この時、私は言った。「我々(われわれ)は奴を此処へ誘い出したりはしない。私たちは直ちに奴を打倒する。」
私の宣言を聞いて、神明たちは信じ難い表情を露にした。
「君は我々(われわれ)が先刻申したことを聞いていないのか? 混沌級の冒険者でさえ奴の相手にはならない。『神の権能』を有する者だけが彼と一戦を交わせ得るのだ。自信を持つのは良いことだが、君達はまだ若いのだ、そんなに急がしく命を投げ出すことはない。」
「我々(われわれ)はあの奴を打倒する。君たちは只、打倒した後に我々(われわれ)に支払う報酬がどのようなものかを教えてくれればいいのだ?」
私がそのような決断を下した主な理由は、何よりもまず、我々(われわれ)と蚩尤との戦闘の過程を誰にも見られたくなかったからである。たとえ多少は我々(われわれ)の実力が露見することになったとしても、それを避けたいという思いが優先したのだ。
私のその揺がぬ態度を見て、神明たちは何と応えるべきか戸惑っているようであった。盤古もまた阻止することを諦めた様子で、やが(徐)に口を開いた。
「それならば、それに応えて、報酬として望むことは何でも教えよう。どうだ、これで良いか?」
私は少し考えた末、盤古の要請を受け入れることに決めた。「それなら、引き受けます!」
結局、私は元来からあの不快な奴を先に片づけるつもりであった。ゆえに、これは非常に得な取引である。単に聖王國の眼前の危機を解決する助けになるだけでなく、ついでに少し人情を売っておくこともできる。さらに重要なのは、我々(われわれ)がそこから大量の情報を得る可能性があるという点である。
「では、君達はあの奴が今どこに居るかという消息を持っているのか?」
緹雅は再び問い、目は既に期待に満ちていた。
盤古は顔色を僅かに曇らせて言った。「我々(われわれ)は先に推測した。奴は現在、西北方の『毒沼之窟』か、東北方の『天殞坑』の何ちらかに潜んでいる可能性が高い。だが、もしより可能性が高い場所を挙げるなら、『毒沼之窟』の側だろう。そこは四大禁区の一つであり、凡米勒の隊が被害に遭った後、あの奴の気息はその方角へ流れていったが、追跡されることを察してか、その気息はすぐに各所へと消散してしまったのだ。」
「もし具体的な位置を推測しているのなら、なぜそこで攻撃を試みなかったのですか?」と私は問ねた。
盤古は答えた。「『毒沼之窟』は聖王国から距離があり、その地域は非常に広く、地勢が錯綜している。極めて危険な場所なのだ。加えて、環境に満ちた毒気は人体に与える害が想像を超え、我々(われわれ)が付与できる加護も限られている。」
「さらに、王都を離れると我々(われわれ)は権能の全き力を発揮することが出来なくなるため、容易に踏み込めなかった。先には探索部隊を派遣して調査を行ったが、結局手掛りは得られなかったのだ。」
盤古の言葉を聞いて、私と緹雅は「毒沼之窟」へ赴いて確かめることに決めた。
(我々(われわれ)が去った後――)
女媧は嘆息まじりに言った。
「今の若者たちは、あまりにも衝動的ね。どうして我々(われわれ)の忠告を聞いてくれないのかしら。」
伏羲が盤古に問う。
「盤古さま、なぜお止めにならなかったのです? 彼等は我々(われわれ)の加護魔法さえ拒絶したのですよ。」
盤古は静かに目を閉じ、低い声で答えた。
「彼等の力は、既に私の想像を超えている……。」
神農氏が息を呑み、問い返す。
「まさか……あなたの言うことは……彼等が――?」
伏羲は眉をひそめ、信じられぬように首を振った。
「……あり得ません。」
盤古はわず(僅)かに眼差しを上げ、遠い空を見つめながら静かに言った。
「私もそう思いたい。だが、あのような状況で、あれほどの冷静さを保てる者は――この世界に、あの者達しかいないのだ。」
(我々(われわれ)が拠点の小屋へ戻り、準備を整える――)
安全を確保するため、今回も私は全身を武装することに決めた。
だが、緹雅はいつもの愛用の武器を持って行こうとはしなかった。その様子に、私は少し驚かされた。
「おやおや? もしかして今回の相手は、緹雅ちゃんが本気を出すに値しないってこと?」
「ふん! 九階の光元素使を重傷にしたような奴に、本気で挑む価値なんてあるわけないでしょ? ……でも、少しくらいは本気を出せる相手だと嬉しいけどね。」
「じゃあ、そん時は頼んだよ!」
「任せて! あなたはただ、戦いが終わった後に私の晩御飯に何を作ってくれるか考えておけばいいの。」
緹雅は期待に満ちた瞳で私を見つめた。




