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そのゲームは、切り離すことのできない序曲に過ぎない  作者: 珂珂


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13/35

第一卷 第五章 千年の追尋-3

あの、それが――

わたしたちが実際じっさいった、

たった一度いちどきりの出来事できごとだった。

そののち仕事しごと都合つごうで、

緹雅ティア日本にほんはなれることになった。

私は何度なんど自分じぶんかせた。

――いつか、かなら彼女かのじょいにこう。

そのためにおかねめよう、と。

けれど現実げんじつは、いつもしずかに、

しかし容赦ようしゃなくわたしまえちはだかった。

研究けんきゅう生活せいかついそがしく、

なが休暇きゅうかることもできない。

そうして、わたしたちの唯一ゆいいつつながりは、

ゲームのなかだけになっていった。

無数むすうよる

わたしたちは仮想かそう世界せかいかたならべ、

おな戦場せんじょうち、

それが唯一ゆいいつ現実げんじつれられる時間じかんだった。

いまおもかえせば――

彼女かのじょ言葉ことばにこそさなかったが、

その行動こうどうの一つ一つに、

しずかなやさしさと気遣きづかいがあった。

その無言むごんおもいやりは、

まるでよるあかりのように、

わたしつつみ、

こころおくあたたかい余韻よいんのこしていった。


本当ほんとうは、わたし彼女かのじょ気持きもちにづかないはずがない。

もし「かんじなかった」とうなら、

それこそ本当ほんとうおろものだろう。

いつだって彼女かのじょは、

わたしまよい、まりそうになるときに、

何気なにげなく、けれどたしかに、ささえとなってくれた。

そのやさしさは、まるで夜明よあまえひかりのように、

しずかに、わたし背中せなかしてくれていた。

それなのに――

どうして私は、このおもいに正面しょうめんからうことができなかったのだろう。

きっと私は、こたえをくのがこわかったのだ。

もしもこの感情かんじょうが、

ただわたし一方通行いっぽうつうこうにすぎなかったとしたら――

その瞬間しゅんかん、このぬくもりがくずちてしまうがした。

そうおもうたびに、むねおくがきゅっとめつけられる。

まるで、いままでてきたゆめが、

真実しんじつという言葉ことばひとつではかなくだけてしまうような――

そんな予感よかんおびえていた。


けれどいま、こうして彼女かのじょまえっていると――

私はおもった。

もう、そろそろ自分じぶんこころ正直しょうじきになるべきときなのかもしれない、と。

なが年月ねんげつこころおくかえしてきた葛藤かっとうは、

もうこれ以上いじょうつづけられない。

私はつたえたかった。

もうかくさないで、

このむねなかおもいを――

今度こんどこそ、勇気ゆうきして。

緹雅ティア。」

そのんだこえは、

自分じぶんでもわかるほどちいさくふるえていた。

鼓動こどうはやまり、

言葉ことばはつするたびに、むねおくあつくなる。

彼女かのじょはゆっくりとかえり、

いつものように、あのやさしいひとみわたしつめた。

「……うん?」

そのこえしずかで、

すこしだけくびをかしげた表情ひょうじょうには、

疑問ぎもんと、そしてたしかなぬくもりがあった。

「ずっと……きみえなかったことがあるんだ。」

言葉ことばのどおくおもからまり、

それでも私は、どうにかこえしぼした。

「……なに?」

緹雅ティアはそっとし、

まっすぐにわたしつめた。

その仕草しぐさおだやかで、

けれどたしかに、こころおくなにかを期待きたいするようなひびきをふくんでいた。

むね鼓動こどうが、いっそうつよはじめる。

いまの私は、

まるでがけふちたされているような気分きぶんだった。

一歩いっぽせば、なにかがわる。

けれど、そのさきつものがなになのか――

私はまだ、知らなかった。


私はうつむきながら、

なんとかあたまなか整理せいりしようとした。

「……ぼくの、本当ほんとう名前なまえを。」

「え? 凝里ギョウリじゃないの?」

緹雅(ティア)すこくびをかしげながら、

まるでなに特別とくべつなことではないようにった。

そのあまりにも自然しぜん態度たいどに、

わたし緊張きんちょうぎゃくたかまっていく。

「いや、その……本名ほんみょうのことだよ!」

おもわずこえがり、

自分じぶんでもわかるほどあわてた。

緹雅(ティア)かたをすくめて、

いたずらっぽくわらった。

ってるよ~。」

「えっ……いつから!?」

その言葉ことばいた瞬間しゅんかん

あたまなかしろになった。

最初さいしょからだよ。

亞米アミはなしてくれたんだもん。

でもね、私は“凝里ギョウリ”ってほうが好き(すき)だから、

ずっとそうんでたの。」

「……そう、なんだ。」

その瞬間しゅんかん

むねおくなにかがふっとけるようながした。

おどろきと、安堵あんどと、すこしのずかしさがざりい、

どこかみょう心地ここちよい。

……亞米アミのやつ….裏切うらぎものだな!



緹雅(ティア)言葉ことばで、私ははっとわれかえった。

彼女かのじょはまだ、わたし返事へんじっているようだった。

「でも……こんなになが一緒いっしょにゲームをしてきたのに、

ぼく、まだきみ本当ほんとう名前なまえを知らないんだ。」

その言葉ことばくちにした瞬間しゅんかん

むねおくちいさないたみがはしった。

おもえば、これまで何度なんど一緒いっしょ冒険ぼうけんし、

わらい、困難こんなんえてきた。

けれど私は、彼女かのじょのことを本当ほんとう意味いみろうとしてこなかったのかもしれない。

その事実じじつが、しずかにむねめつける。

彼女かのじょけた言葉ことばは、

どこか自分じぶんへの懺悔ざんげのようにもこえた。

知らず知らずのうちに、私は彼女かのじょという存在そんざいささえられ、

それにあまえてばかりいたのだ――

そのことにづいたとき

こころそこにほのかな罪悪感ざいあくかんしずんでいった。


緹雅(ティア)かおげて、

いたずらっぽく微笑ほほえみながらった。

わたし名前なまえ? 凝里ギョウリきみはもうってるよ。」

「……え?」

おもわずこえまらせる。

なにっているんだ?

どうしてそんなことを――?

緹雅(ティア)わたし表情ひょうじょうて、

すべてを見透みすかしたようにわらった。

緹雅(ティア)――それが、わたし名前なまえだよ。」

その瞬間しゅんかんわたしおもわずした。

「ははは……そういうことか!」

むねなかにあったちいさなもやが、

一気いっきれていく。

かたちからけて、

自然しぜんわらいがこぼれた。

彼女かのじょもつられるようにわらい、

その笑顔えがおは、よるあかりのようにやわらかくこころらしていた。


凝里ギョウリきみいたかったことって……それだけ?」

緹雅(ティア)こえは、どこかいどむようで、

わたしこころをやさしくつくようだった。

私はうつむき、言葉ことばさがす。

いていたはずの鼓動こどうが、

ふたたはやまりはじめ、

指先ゆびさきがかすかにふるえた。

――まただ。

まるで、もうひとつのがけふちたされたような感覚かんかく

今度こんどこそ、さなければならない。

つづけてきたおもいに、

ようやくときたのだ。

「……いや、まだある。もっと大事だいじなことが。」

ようやくしぼしたこえは、

かすかにふるえていた。

ふかいきい込み、

それから、言葉ことばつづかないままだまむ。

鼓動こどうはなおもかず、

のひらににじあせが、

自分じぶん緊張きんちょうをありありとつたえていた。

――準備じゅんびはできているはずだった。

そうおもっていたのに、

いざこの瞬間しゅんかんむかえると、

こころはまた不意ふいまよい、

言葉ことばさきえなくなった。


「ちょっと、なんできゅうだまっちゃうの!」

緹雅(ティア)こえ静寂せいじゃくやぶった。

彼女かのじょはすっとわたしのそばにり、

いたずらっぽくも、どこかちきれないような眼差まなざしをけてくる。

その瞬間しゅんかん

えない圧力あつりょくむねにのしかかる。

まるで、彼女かのじょはずっとっていたのに、

わたしだけがまだせずにいるかのようだった。

彼女かのじょひとみには、

ほんのすこあせりと、

それ以上いじょうふか期待きたい宿やどっていた。

私はその視線しせん正面しょうめんからめ、

むねおく不安ふあん緊張きんちょうなみのようにせるのを感じていた。


むねおくめつけられるように緊張きんちょうしていた。

けれど、もうげるわけにはいかない。

いまこの瞬間しゅんかん――

自分じぶん気持きもちと、

緹雅(ティア)と、

そしてながあいだこころおくかくしてきたおもいに、

ちゃんとわなければならない。

私はふかいきい込み、

ふるえそうなこえおさえながらくちひらいた。

緹雅(ティア)、その……はなしたいことがあるんだ。」

彼女かのじょ一瞬いっしゅんだけまたたかせ、

すこくびをかしげてわたした。

そのひとみには、おどろきと、

それ以上いじょうやわらかな好奇心こうきしん宿やどっている。

私は視線しせんをそらし、

ちいさくわらってしまった。

それは、ながくためらってきた自分じぶんへの、

すこれくさい苦笑くしょうだった。


「……じつはね、ずっと――

緹雅(ティア)がそばにいてくれる、その時間じかんがとても大切たいせつだったんだ。

きみはいつも自然しぜんやさしくしてくれて、

だから……時々(ときどき)、ついふかかんがえてしまう。」

そこで一度いちど言葉ことばり、

私はゆっくりとかおげた。

「どうえばいいのかからないけれど……

きみへの気持きもちは、もう“友達ともだち”だけのものじゃない。」

いきをひとつく。

それは、むねおくながめていたおもいを

ようやくそとせたような、そんな感覚かんかくだった。

こころのどこかで、ずっと期待きたいしてたんだ。

もし――いつかきみおな気持きもちをいだいてくれたなら、

そのときは、ただ“出会であえてよかった”ってつたえたい。

どうおもわれているかはからないけれど、

ぼく気持きもちは、ずっと真剣しんけんなんだ。」

言葉ことばえてから、

私はもうなにさなかった。

ただ、彼女かのじょいきおとち、

そのひとみらぎをつめていた。

緹雅(ティア)表情ひょうじょうがわずかにわり、

そっと一歩いっぽちかづく。

そして、わたししずかにつつんだ。

なにわず、ただ微笑ほほえむ。

その笑顔えがおは、世界せかいのすべてのおとかしてしまうように、

しずかで、あたたかかった。


かおげると、

緹雅(ティア)がそっとあたまげ、

わたしかたほほせた。

その仕草しぐさは、なぐさめをもとめているようでもあり、

同時どうじに、わたしささえるためのちからのようでもあった。

彼女かのじょ吐息といき耳元みみもとをくすぐる。

あたたかないきながれがほほをかすめ、

そのおくから、彼女かのじょ心臓しんぞうおとかすかにひびいてきた。

しずかで、るぎないその鼓動こどうは、

まるで「もうまよわなくていい」とげているようだった。

「……わたしもね、本気ほんきだよ。ずっと。」

緹雅(ティア)こえやわらかく、けれどたしかなつよさをびていた。

そのひびきは、

わたしむねおくにやさしくんでいく。

彼女かのじょてのひらからつたわるかすかなぬくもり。

きっとさっきまで、自分じぶんつよにぎっていたのだろう。

そのねつはまだえず、

まるで「ここにいる」とげるように、

わたしなかしずかに脈打みゃくうっていた。


ようやく、勇気ゆうきして言葉ことばにした。

「……ねぇ、ティア。

ぼくね、ずっと――きみのことを、もっとりたいっておもってたんだ。」

その言葉ことばくちをついた瞬間しゅんかん

むねおくなにかがほどけるおとがした。

きっと、この気持きもちはずっとまえからあったのだ。

「ただの仲間なかまとしてじゃなくて、

一緒いっしょたたかってきた相棒あいぼうとしてでもなく、

本当ほんとうきみを――

どんなことでわらって、どんなことでいて、

どうしてどんな困難こんなんまえでも笑顔えがおでいられるのか、

そのきみりたいんだ。」

こえふるえず、しずかにいていた。

それはいきおいではなく、

かさねた日々(ひび)のおもいが、ようやくかたちになった瞬間しゅんかんだった。

「もし、できるなら――

ぼくきみのそばにいたい。

きみきなものも、過去かこも、

そして、言葉ことばにならなかったおもいも……

ぜんぶ、りたいんだ。」


緹雅(ティア)はすぐにはこたえなかった。

ただ、そっとばし、

わたしうえ自分じぶんかさねた。

そのぬくもりは、はるゆきしずかにけていくようで――

むねなかのこっていた不安ふあんやためらいを、

ひとつずつかしていった。

彼女かのじょかおげ、

んだあおひとみわたしつめた。

そのひとみなかには、

いまわたしがまるでかがみのようにうつっている。

口元くちもとがやわらかくゆるみ、

いつものようにあかるい笑顔えがおいた。

わたしもね……もっと、きみのことをりたい。

ううん……きみ世界せかいに、はいってみたいんだ。」

そのこえは、よるかぜのようにしずかで、

やさしくこころでていく。

「だから――ゆっくりでいいよ。

きみりたい“わたし”を、すこしずつはなしていくね。

もしきみ面倒めんどうじゃなければ、

わたしきみにたくさんつたえたいことがあるの。

きっときみおもっているより、

私はきみりたがってるんだから。」

そうってティアは、ふっとわらった。

その笑顔えがおは、ようやくつたわったおもいのあかしのように、

しずかによる空気くうきへとけていった。


彼女かのじょ言葉ことばいた瞬間しゅんかん

私はおもわずいきんだ。

たったひとひとこと――

それだけなのに、

むねおくのいちばんやわらかい場所ばしょ

そっとでられたようながした。

その瞬間しゅんかん

こころおくからあらゆる感情かんじょうあふした。

ときめき、よろこび、そして言葉ことばにできないすこしのせつなさ――

それらがいっせいにむねせてくる。

どうしていいかからないまま、

私は咄嗟とっさくちひらいた。

「ち、ちがうよ……! きみうほどじゃない。

ぼくのほうこそ……きみを、

きみおもっているよりずっとりたいんだ。

きみ世界せかいに、ぼくはいりたいんだよ!」

えてから、

自分じぶんなにったのかにづく。

――まるで、告白こくはくをやりかえしたみたいだ。

その自覚じかくむねひろがった瞬間しゅんかん

私はかたまってしまった。

みみおくあつくなり、

心臓しんぞうあばす。

かおげることもできず、

ただ、どうしようもなくはや鼓動こどうだけが、

自分じぶんなかひびつづいていた。


緹雅(ティア)突然とつぜんこえげてわらした。

そのわらごえみきっていて、

わたしみみおくにやさしくひびく。

わらいながら、彼女かのじょ目尻めじりにはうっすらとなみだにじんでいた。

きっと、あまりにもわらいすぎてながれてしまったのだろう。

それでも、その表情ひょうじょうはどこまでもかがやいていた。

こころからのよろこびと安堵あんどざりい、

まるで空気くうきそのものがやわらかくなっていくようだった。

「はははははっ!」

彼女かのじょ自然しぜんに、なにかざらずわらっていた。

その笑顔えがおは、この瞬間しゅんかんんでいた

すべてのおもいをはなつかのようだった。

「ど、どうしたの?」

私はおもわずたずねた。

けれど彼女かのじょこたえず、

わらいながら指先ゆびさきでそっとなみだぬぐい、

そしてもう一度いちどわたしかたかおせた。

「ううん……なんでもないの。

ただ……こうしていられることが、

なんだか、本当ほんとう……本当ほんとうによかったなっておもって。」

そのこえ先程さきほどよりもしずかで、

どこかせつなさをふくんでいた。

けれど、そこにあったのはなみだではなく、

たしかな幸福しあわせかがやきだった。


そのとき緹雅(ティア)ひとみしずかだった。

ただ、まどそとつめながら、

ちいさくつぶやいた。

「まったく……どれくらいったんだろうね。」

「え? いま、なんてった?」

私はおもわずかえした。

緹雅(ティア)はすぐにくびり、

すこわらいながらこたえた。

「ううん、なんでもないよ。

ただね――もしこれがプロポーズだったら、もっと完璧かんぺきだったのになって。

まえのあなたはね、もっとっすぐだったのよ。」

「な、なにってるんだよ!」

私はおもわずした。

不意ふいはなたれた冗談じょうだんに、

どう反応はんのうしていいかからない。

緹雅(ティア)かたをすくめ、

いたずらっぽくわらった。

「そんなにれなくてもいいのに~。

ほら、かおあかだよ?」

「そ、そんなことないってば!」

あわてて否定ひていしたけれど、

自分じぶんほおあつくなっていくのがかる。

むね鼓動こどうはやまり、

れくささとうれしさが一緒いっしょせてきた。


「……凝里ギョウリ。」

緹雅(ティア)突然とつぜんびかけた。

そのこえいた瞬間しゅんかん

彼女かのじょはすでにまえにいた。

両手りょうてがそっとわたしほほれ、

そのまま、彼女かのじょかおちかづいてくる。

やわらかなくちびるが、

しずかにわたしくちびるれた。

――ときまった。


世界せかいおととおのき、

すべてがあわひかりなかけていく。

のこったのは、彼女かのじょいきぬくもりと、

ふたりの鼓動こどうだけ。

私は彼女かのじょこしまわし、

彼女かのじょわたしかたにそっとく。

ふたりのからだい、

呼吸こきゅうがひとつにじりう。

その口吻くちづけに、技巧ぎこうなんてなかった。

あるのは、ただっすぐなおもいだけ。

彼女かのじょ心臓しんぞうおとが、

わたしむねつたわる。

それは、まるで世界せかいそのものが

ふたりの鼓動こどうに合わせていきづいているかのようだった。


そのとき、ふと――

かぜって、

垂柳すいりゅうはなかおりが、部屋へやなかながんだ。

そのかおりは、彼女かのじょわたしおもいにい、

まるでこの瞬間しゅんかんいわうように、

しずかに世界せかいつつんでいった。




翌朝よくあさわたしはやまし、

緹雅ティア妲己ダッキたちのために朝食ちょうしょく準備じゅんびはじめた。

これは、ずっとわたしつづけてきた習慣しゅうかんでもある。

以前いぜんは時々(ときどき)食堂しょくどう手伝てつだい、

自分じぶんほか仲間なかまたちのために簡単かんたん料理りょうりつくることもあった。

だが、こうして本気ほんき彼女かのじょたちのために朝食ちょうしょく用意よういするのは、今回こんかいはじめてだった。

妲己ダッキ三姉妹さんしまい戦闘せんとう能力のうりょく非常ひじょうたかいが、

それでも肉体にくたい休息きゅうそく栄養補給えいようほきゅう必要ひつようとしている。

そのため、彼女かのじょたちは交代制こうたいせいり、

どんな任務にんむであっても体力たいりょく維持いじできるようにしていた。

私はいつも彼女かのじょたちにっている。

無理むりはしないこと。健康けんこうからだこそがなにより大事だいじだ」と。

それが、わたしからの唯一ゆいいつ忠告ちゅうこくであり、

この過酷かこく環境かんきょう彼女かのじょたちがまもるべきもっと基本的きほんてき原則げんそくでもあった。



私はむかしから、められた献立こんだてしばられるのが苦手にがてで、

いつも自分じぶん気分きぶん次第しだいなにべるかをめている。

けれど昨日きのうのうちに、今日きょうすこ洋風ようふう朝食ちょうしょくつくろうとめていた。

普段ふだんとはちが料理りょうり挑戦ちょうせんして、

すこ特別とくべつ一皿ひとさら用意よういしたかったのだ。

料理りょうり準備じゅんびはじめるまえには、

いつも必要ひつよう食材しょくざい一覧いちらん食堂しょくどうおくることにしている。

昨夜さくや、すでに克諾羅クノロたのんでおいた。

今日きょう使つか材料ざいりょうを、すべてそろえておいてほしいと。

食堂しょくどうのスタッフたちは本当ほんとう仕事しごとはやく、

わたしなにかをたのむたびに、おどろくほど手際てぎわよく用意よういしてくれる。

そのはたらきぶりには、いつも感心かんしんせずにはいられない。


私は冷蔵庫れいぞうこから数個すうこたまごし、

かるたたいてからり、卵液らんえきわんなかながれた。

卵白らんぱくとおるようにきよく、卵黄らんおうまるりがあり、

生臭なまぐささのないそのかおりが、新鮮しんせんさを物語ものがたっている。

つぎに、私はバターを一片いっぺんし、

包丁ほうちょうでそっとちいさくってなべとした。

にかけると、バターはしずかにけていき、

卵液らんえきじりうにつれ、

あまかんばしいかおりが部屋中へやじゅうひろがっていく。

私はゆっくりと木杓子きじゃくしうごかした。

三十秒さんじゅっびょうごとにからはなし、

余熱よねつだけでたまごをじっくりとじゅくさせる。

そうすることで、たまごなめらかで綿密めんみつ食感しょっかんたもつ。

その動作どうさ三分間さんぷんかんほどかえした。

なべなかたまごは、

わたしうごきに合わせてすこしずつとろみをしていく。

この火加減ひかげん見極みきわめこそが、

この料理りょうりもっと大切たいせつわざなのだ。

理想りそうやわらかさになったところで、

私はしおをひとつまみくわえ、

さらに新鮮しんせん牛乳ぎゅうにゅうすこらし、ふたたびゆっくりとぜた。

出来上できあがったたまごは、

あわいクリームいろび、

したれるたびにとろけるようななめらかさをのこす。

やさしい塩味しおあじがバターのかおりとい、

一口ひとくちごとに幸福こうふく余韻よいんひろげていった。


同時どうじに、私は酥皮吐司トーストくためにオーブンの準備じゅんびはじめた。

トーストをなかれると、部屋へや空気くうきがふわりとあまかおばしいにおいにつつまれていく。

オーブンのなかでは、パンの表面ひょうめんすこしずつ金色きんいろわり、

隙間すきまからただよかおりが、わたしむねをくすぐった。

このにおいをむたびに、

ちいさな儀式ぎしきのようにこころき、

あらしい一日いちにちはじまりが、どこか特別とくべつなものにおもえてくる。

それだけではない。私は火腿ハム香菇しいたけ用意よういした。

うすった火腿ハム香菇しいたけをフライパンにならべ、

少量しょうりょうのオリーブらして、両面りょうめんかるげる。

火腿ハムあぶらなべうえでじゅうっとおとて、

かおばしいけむり熱気ねっきとものぼる。

香菇しいたけあぶらいながらやわらかくなり、

その芳醇ほうじゅんかおりがひろがっていく。

それらのかおりとおとじりうたびに、

あさ空気くうきぬくもりをび、

台所だいどころ全体ぜんたいがどこか幸福こうふく空間くうかんわっていく。

さらに、私は新鮮しんせん野菜やさい準備じゅんびした。

萵苣レタスは瑞々(みずみず)しいみどりはなち、

まないたうえ包丁ほうちょうれると、

ぱりん、とんだおとひびく。

小黄瓜きゅうりふかみどりかわち、

るとなかしろく、果汁かじゅうがきらりとひかる。

牛番茄トマトうすられ、

あか果肉かにくから自然しぜんあまかおりがほのかにのぼった。

けた野菜やさいさらはしならべながら、

私はその色彩しきさいて、

いまここにながれるあさおだやかさを感じていた。


準備じゅんび過程かていすこいそがしかったが、

そのいそがしさのなかにも、不思議ふしぎ幸福こうふくがあった。

うごかすたびに、

むねおくちいさな充実感じゅうじつかんひろがっていく。

こうして一日いちにちはじまりをむかえることが、

どこか特別とくべつ意味いみっているようにおもえた。

そして、ついにすべての準備じゅんびととのった。

炒蛋スクランブルエッグ火腿ハム香菇しいたけ

新鮮しんせん野菜やさい、そしてかんばしくがった酥皮吐司トースト

それらが一枚いちまい木製もくせいのテーブルにならんだとき、

私はしばらくのあいだ、その光景こうけいつめていた。

いろかおり、そしてぬくもりが一体いったいとなったその朝食ちょうしょくは、

ただの食事しょくじではなく、

わたしこころたしてくれるしずかなしあわせのあかしだった。


ちょうどそのとき緹雅ティア部屋へやからてきた。

まだねむたげなひとみをしていて、その寝起ねおきの姿すがたはなんともいとらしい。

けれど、よく見ると彼女かのじょすこあかれていた。

どうやら、あまりよくねむれなかったらしい。

じつわたし昨夜さくや彼女かのじょのことをかんがえているうちに

づけば深夜しんやまできてしまっていた。

だからいまわたしすこつかれてはいるけれど、

むねおくにはそれ以上いじょうに、あたたかいなにかがともっていた。

緹雅ティアわたしつけると、

いつものあのやさしい笑顔えがおかべて、

「おはよう~」と、やわらかくこえをかけてきた。


そのとき緹雅ティアほおがほんのりとあかまった。

あさひかりけたそのべには、

まるでうす花弁はなびらがそっといろづいたようにえた。

その光景こうけいたりにした瞬間しゅんかん

わたしむねがかすかにふるえ、

自分じぶんほおまでもがじんわりとあつくなっていくのをかんじた。

言葉ことばにできない空気くうきが、

ふたりのあいだしずかにながれ、

あわ鼓動こどうだけがその沈黙ちんもくいろどっていた。


緹雅ティア! おはよう~ はや朝食ちょうしょくべよう!

今日は特別とくべつに、わたしきみのためにつくったんだ!」

私はわざとかる調子ちょうしわらいながらった。

そのこえおくには、すこほこらしげな気持きもちと、

ことばにできない期待きたいじっていた。

緹雅ティアはその言葉ことばにふっと微笑ほほえみ、

かるやかな足取あしどりでテーブルのほうかった。

せきについた彼女かのじょは、しばらく食卓しょくたくうえつめ、

やがてちいさなこえった。

凝里ギョウリ。」

「ん? どうした?」

私はめ、彼女かのじょほうる。

「……おつかれさま。」

そのこえおどろくほどやさしく、

あさひかりのようにしずかであたたかかった。

ただそれだけの一言ひとことなのに、

むねおくがそっとふるえ、

幸福こうふくという日差ひざしがこころなかんだがした。

「ありがとう。」

私はすこれくさそうにかおをそらした。

そんな何気なにげないやり取り(とり)さえも、

づけばふたりの距離きょりしずかにちかづけていた。


緹雅ティアうつむ加減かげん朝食ちょうしょくべていた。

その表情ひょうじょうからは、今日きょう料理りょうりにとても満足まんぞくしていることが、

一目ひとめでわかった。

その姿すがたているだけで、

わたしむねにもしずかな満足感まんぞくかんひろがっていった。

「そういえば、妲己ダッキ三姉妹さんしまいは?」

ふとづいて私はかおげ、緹雅ティアほうた。

彼女かのじょたちの姿すがたは、まだあらわれていない。

緹雅ティアはその問い(とい)に、くちなかものみ込みながら、

ゆるやかにじてった。

「たぶん……夜更よふかししたのね。」

「え? どうして?」

私はおもわずかえす。

本来ほんらいなら、彼女かのじょたちのだれ一人ひとり

見張みはりにっているはずなのに。

緹雅ティアはスプーンをかるうごかしながら、

どこかいたずらっぽいみをかべた。

昨日きのうはね、すこ手伝てつだってもらってたの。

ちょっと……よるながくなっちゃっただけ。」

「……まさか、またなにたくらんでたんじゃ?」

そううと、彼女かのじょはわざと知らんがおをして、

ふたたびパンをくちはこんだ。

「誒……」

私はちいさくためいきをつきながらも。



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