第一卷 第五章 千年の追尋-3
あの日、それが――
私たちが実際に会った、
たった一度きりの出来事だった。
その後、仕事の都合で、
緹雅は日本を離れることになった。
私は何度も自分に言い聞かせた。
――いつか、必ず彼女に会いに行こう。
そのためにお金を貯めよう、と。
けれど現実は、いつも静かに、
しかし容赦なく私の前に立ちはだかった。
研究の生活は忙しく、
長い休暇を取ることもできない。
そうして、私たちの唯一の繋がりは、
ゲームの中だけになっていった。
無数の夜、
私たちは仮想の世界で肩を並べ、
同じ戦場に立ち、
それが唯一現実に触れられる時間だった。
今思い返せば――
彼女は言葉にこそ出さなかったが、
その行動の一つ一つに、
静かな優しさと気遣いがあった。
その無言の思いやりは、
まるで夜の灯りのように、
私を包み込み、
心の奥に温かい余韻を残していった。
本当は、私が彼女の気持ちに気づかないはずがない。
もし「感じなかった」と言うなら、
それこそ本当の愚か者だろう。
いつだって彼女は、
私が迷い、立ち止まりそうになる時に、
何気なく、けれど確かに、支えとなってくれた。
その優しさは、まるで夜明け前の光のように、
静かに、私の背中を押してくれていた。
それなのに――
どうして私は、この想いに正面から向き合うことができなかったのだろう。
きっと私は、答えを聞くのが怖かったのだ。
もしもこの感情が、
ただ私の一方通行にすぎなかったとしたら――
その瞬間、この温もりが崩れ落ちてしまう気がした。
そう思うたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
まるで、今まで見てきた夢が、
真実という言葉ひとつで儚く砕けてしまうような――
そんな予感に怯えていた。
けれど今、こうして彼女の前に立っていると――
私は思った。
もう、そろそろ自分の心に正直になるべき時なのかもしれない、と。
長い年月、心の奥で繰り返してきた葛藤は、
もうこれ以上続けられない。
私は伝えたかった。
もう隠さないで、
この胸の中の想いを――
今度こそ、勇気を出して。
「緹雅。」
その名を呼んだ声は、
自分でもわかるほど小さく震えていた。
鼓動が早まり、
言葉を発するたびに、胸の奥が熱くなる。
彼女はゆっくりと振り返り、
いつものように、あのやさしい瞳で私を見つめた。
「……うん?」
その声は静かで、
少しだけ首をかしげた表情には、
疑問と、そして確かな温もりがあった。
「ずっと……君に言えなかったことがあるんだ。」
言葉が喉の奥で重く絡まり、
それでも私は、どうにか声を絞り出した。
「……なに?」
緹雅はそっと身を乗り出し、
まっすぐに私を見つめた。
その仕草は穏やかで、
けれど確かに、心の奥に何かを期待するような響きを含んでいた。
胸の鼓動が、いっそう強く鳴り始める。
今の私は、
まるで崖の縁に立たされているような気分だった。
一歩を踏み出せば、何かが変わる。
けれど、その先に待つものが何なのか――
私はまだ、知らなかった。
私は俯きながら、
なんとか頭の中を整理しようとした。
「……僕の、本当の名前を。」
「え? 凝里じゃないの?」
緹雅は少し首をかしげながら、
まるで何も特別なことではないように言った。
そのあまりにも自然な態度に、
私の緊張は逆に高まっていく。
「いや、その……本名のことだよ!」
思わず声が上がり、
自分でもわかるほど慌てた。
緹雅は肩をすくめて、
いたずらっぽく笑った。
「知ってるよ~。」
「えっ……いつから!?」
その言葉を聞いた瞬間、
頭の中が真っ白になった。
「最初からだよ。
亞米が話してくれたんだもん。
でもね、私は“凝里”って呼ぶ方が好き(すき)だから、
ずっとそう呼んでたの。」
「……そう、なんだ。」
その瞬間、
胸の奥で何かがふっと解けるような気がした。
驚きと、安堵と、少しの恥ずかしさが混ざり合い、
どこか妙に心地よい。
……亞米のやつ….裏切り者だな!
緹雅の言葉で、私ははっと我に返った。
彼女はまだ、私の返事を待っているようだった。
「でも……こんなに長く一緒にゲームをしてきたのに、
僕、まだ君の本当の名前を知らないんだ。」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥に小さな痛みが走った。
思えば、これまで何度も一緒に冒険し、
笑い合い、困難を乗り越えてきた。
けれど私は、彼女のことを本当の意味で知ろうとしてこなかったのかもしれない。
その事実が、静かに胸を締めつける。
彼女に向けた言葉は、
どこか自分への懺悔のようにも聞こえた。
知らず知らずのうちに、私は彼女という存在に支えられ、
それに甘えてばかりいたのだ――
そのことに気づいた時、
心の底にほのかな罪悪感が沈んでいった。
緹雅は顔を上げて、
いたずらっぽく微笑みながら言った。
「私の名前? 凝里、君はもう知ってるよ。」
「……え?」
思わず声を詰まらせる。
何を言っているんだ?
どうしてそんなことを――?
緹雅は私の表情を見て、
すべてを見透かしたように笑った。
「緹雅――それが、私の名前だよ。」
その瞬間、私は思わず吹き出した。
「ははは……そういうことか!」
胸の中にあった小さな靄が、
一気に晴れていく。
肩の力が抜けて、
自然と笑いがこぼれた。
彼女もつられるように笑い、
その笑顔は、夜の灯りのように柔らかく心を照らしていた。
「凝里、君が言いたかったことって……それだけ?」
緹雅の声は、どこか挑むようで、
私の心をやさしく突つくようだった。
私はうつむき、言葉を探す。
落ち着いていたはずの鼓動が、
再び速まりはじめ、
指先がかすかに震えた。
――まただ。
まるで、もうひとつの崖の縁に立たされたような感覚。
今度こそ、踏み出さなければならない。
逃げ続けてきた想いに、
ようやく向き合う時が来たのだ。
「……いや、まだある。もっと大事なことが。」
ようやく絞り出した声は、
かすかに震えていた。
深く息を吸い込み、
それから、言葉が続かないまま黙り込む。
鼓動はなおも落ち着かず、
手のひらに滲む汗が、
自分の緊張をありありと伝えていた。
――準備はできているはずだった。
そう思っていたのに、
いざこの瞬間を迎えると、
心はまた不意に迷い、
言葉の先が見えなくなった。
「ちょっと、なんで急に黙っちゃうの!」
緹雅の声が静寂を破った。
彼女はすっと私のそばに寄り、
いたずらっぽくも、どこか待ちきれないような眼差しを向けてくる。
その瞬間、
見えない圧力が胸にのしかかる。
まるで、彼女はずっと待っていたのに、
私だけがまだ踏み出せずにいるかのようだった。
彼女の瞳には、
ほんの少し焦りと、
それ以上に深い期待が宿っていた。
私はその視線を正面から受け止め、
胸の奥で不安と緊張が波のように押し寄せるのを感じていた。
胸の奥が締めつけられるように緊張していた。
けれど、もう逃げるわけにはいかない。
今この瞬間――
自分の気持ちと、
緹雅と、
そして長い間心の奥に隠してきた想いに、
ちゃんと向き合わなければならない。
私は深く息を吸い込み、
震えそうな声を抑えながら口を開いた。
「緹雅、その……話したいことがあるんだ。」
彼女は一瞬だけ目を瞬かせ、
少し首をかしげて私を見た。
その瞳には、驚きと、
それ以上に柔らかな好奇心が宿っている。
私は視線をそらし、
小さく笑ってしまった。
それは、長くためらってきた自分への、
少し照れくさい苦笑だった。
「……実はね、ずっと――
緹雅がそばにいてくれる、その時間がとても大切だったんだ。
君はいつも自然に優しくしてくれて、
だから……時々(ときどき)、つい深く考えてしまう。」
そこで一度言葉を切り、
私はゆっくりと顔を上げた。
「どう言えばいいのか分からないけれど……
君への気持ちは、もう“友達”だけのものじゃない。」
息をひとつ吐く。
それは、胸の奥に長く溜めていた思いを
ようやく外に出せたような、そんな感覚だった。
「心のどこかで、ずっと期待してたんだ。
もし――いつか君も同じ気持ちを抱いてくれたなら、
その時は、ただ“出会えてよかった”って伝えたい。
どう思われているかは分からないけれど、
僕の気持ちは、ずっと真剣なんだ。」
言葉を言い終えてから、
私はもう何も付け足さなかった。
ただ、彼女の息の音を待ち、
その瞳の揺らぎを見つめていた。
緹雅の表情がわずかに変わり、
そっと一歩近づく。
そして、私の手を静かに包み込んだ。
何も言わず、ただ微笑む。
その笑顔は、世界のすべての音を溶かしてしまうように、
静かで、温かかった。
顔を上げると、
緹雅がそっと頭を下げ、
私の肩に頬を寄せた。
その仕草は、慰めを求めているようでもあり、
同時に、私を支えるための力のようでもあった。
彼女の吐息が耳元をくすぐる。
あたたかな息の流れが頬をかすめ、
その奥から、彼女の心臓の音が微かに響いてきた。
静かで、揺るぎないその鼓動は、
まるで「もう迷わなくていい」と告げているようだった。
「……私もね、本気だよ。ずっと。」
緹雅の声は柔らかく、けれど確かな強さを帯びていた。
その響きは、
私の胸の奥にやさしく染み込んでいく。
彼女の掌から伝わる微かな温もり。
きっとさっきまで、自分の手を強く握っていたのだろう。
その熱はまだ消えず、
まるで「ここにいる」と告げるように、
私の手の中で静かに脈打っていた。
ようやく、勇気を出して言葉にした。
「……ねぇ、ティア。
僕ね、ずっと――君のことを、もっと知りたいって思ってたんだ。」
その言葉が口をついた瞬間、
胸の奥で何かがほどける音がした。
きっと、この気持ちはずっと前からあったのだ。
「ただの仲間としてじゃなくて、
一緒に戦ってきた相棒としてでもなく、
本当の君を――
どんなことで笑って、どんなことで泣いて、
どうしてどんな困難の前でも笑顔でいられるのか、
その君を知りたいんだ。」
声は震えず、静かに落ち着いていた。
それは勢いではなく、
積み重ねた日々(ひび)の想いが、ようやく形になった瞬間だった。
「もし、できるなら――
僕は君のそばにいたい。
君の好きなものも、過去も、
そして、言葉にならなかった想いも……
ぜんぶ、知りたいんだ。」
緹雅はすぐには答えなかった。
ただ、そっと手を伸ばし、
私の手の上に自分の手を重ねた。
その温もりは、春の雪が静かに解けていくようで――
胸の中に残っていた不安やためらいを、
ひとつずつ溶かしていった。
彼女は顔を上げ、
澄んだ青の瞳で私を見つめた。
その瞳の中には、
今の私がまるで鏡のように映っている。
口元がやわらかく緩み、
いつものように明るい笑顔が咲いた。
「私もね……もっと、君のことを知りたい。
ううん……君の世界に、入ってみたいんだ。」
その声は、夜の風のように静かで、
やさしく心を撫でていく。
「だから――ゆっくりでいいよ。
君が知りたい“私”を、少しずつ話していくね。
もし君が面倒じゃなければ、
私も君にたくさん伝えたいことがあるの。
きっと君が思っているより、
私は君を知りたがってるんだから。」
そう言ってティアは、ふっと笑った。
その笑顔は、ようやく伝わった想いの証のように、
静かに夜の空気へと溶けていった。
彼女の言葉を聞いた瞬間、
私は思わず息を呑んだ。
たったひと言――
それだけなのに、
胸の奥のいちばん柔らかい場所を
そっと撫でられたような気がした。
その瞬間、
心の奥からあらゆる感情が溢れ出した。
ときめき、喜び、そして言葉にできない少しの切なさ――
それらがいっせいに胸を押し寄せてくる。
どうしていいか分からないまま、
私は咄嗟に口を開いた。
「ち、違うよ……! 君が言うほどじゃない。
僕のほうこそ……君を、
君が思っているよりずっと知りたいんだ。
君の世界に、僕が入りたいんだよ!」
言い終えてから、
自分が何を言ったのかに気づく。
――まるで、告白をやり返したみたいだ。
その自覚が胸に広がった瞬間、
私は固まってしまった。
耳の奥が熱くなり、
心臓が暴れ出す。
顔を上げることもできず、
ただ、どうしようもなく早い鼓動だけが、
自分の中で響き続いていた。
緹雅が突然、声を上げて笑い出した。
その笑い声は澄みきっていて、
私の耳の奥にやさしく響く。
笑いながら、彼女の目尻にはうっすらと涙が滲んでいた。
きっと、あまりにも笑いすぎて流れてしまったのだろう。
それでも、その表情はどこまでも輝いていた。
心からの喜びと安堵が混ざり合い、
まるで空気そのものが柔らかくなっていくようだった。
「はははははっ!」
彼女は自然に、何も飾らず笑っていた。
その笑顔は、この瞬間に溜め込んでいた
すべての想いを解き放つかのようだった。
「ど、どうしたの?」
私は思わず尋ねた。
けれど彼女は答えず、
笑いながら指先でそっと涙を拭い、
そしてもう一度、私の肩に顔を寄せた。
「ううん……なんでもないの。
ただ……こうしていられることが、
なんだか、本当……本当によかったなって思って。」
その声は先程よりも静かで、
どこか切なさを含んでいた。
けれど、そこにあったのは涙ではなく、
確かな幸福の輝きだった。
その時、緹雅の瞳は静かだった。
ただ、窓の外を見つめながら、
小さく呟いた。
「まったく……どれくらい待ったんだろうね。」
「え? 今、なんて言った?」
私は思わず聞き返した。
緹雅はすぐに首を振り、
少し笑いながら答えた。
「ううん、なんでもないよ。
ただね――もしこれがプロポーズだったら、もっと完璧だったのになって。
前のあなたはね、もっと真っすぐだったのよ。」
「な、なに言ってるんだよ!」
私は思わず吹き出した。
不意に放たれた冗談に、
どう反応していいか分からない。
緹雅は肩をすくめ、
いたずらっぽく笑った。
「そんなに照れなくてもいいのに~。
ほら、顔、真っ赤だよ?」
「そ、そんなことないってば!」
慌てて否定したけれど、
自分の頬が熱くなっていくのが分かる。
胸の鼓動は早まり、
照れくささと嬉しさが一緒に押し寄せてきた。
「……凝里。」
緹雅が突然呼びかけた。
その声に振り向いた瞬間、
彼女はすでに目の前にいた。
両手がそっと私の頬に触れ、
そのまま、彼女の顔が近づいてくる。
柔らかな唇が、
静かに私の唇に触れた。
――時が止まった。
世界の音が遠のき、
すべてが淡い光の中に溶けていく。
残ったのは、彼女の息の温もりと、
ふたりの鼓動だけ。
私は彼女の腰に手を回し、
彼女は私の肩にそっと手を置く。
ふたりの体は寄り添い、
呼吸がひとつに混じり合う。
その口吻に、技巧なんてなかった。
あるのは、ただ真っすぐな想いだけ。
彼女の心臓の音が、
私の胸に伝わる。
それは、まるで世界そのものが
ふたりの鼓動に合わせて息づいているかのようだった。
その時、ふと――
風に乗って、
垂柳の花の香りが、部屋の中に流れ込んだ。
その香りは、彼女と私の想いに溶け合い、
まるでこの瞬間を祝うように、
静かに世界を包み込んでいった。
翌朝、私は早く目を覚まし、
緹雅と妲己たちのために朝食の準備を始めた。
これは、ずっと私が続けてきた習慣でもある。
以前は時々(ときどき)食堂で手伝い、
自分や他の仲間たちのために簡単な料理を作ることもあった。
だが、こうして本気で彼女たちのために朝食を用意するのは、今回が初めてだった。
妲己と三姉妹は戦闘能力が非常に高いが、
それでも肉体は休息と栄養補給を必要としている。
そのため、彼女たちは交代制を取り、
どんな任務であっても体力を維持できるようにしていた。
私はいつも彼女たちに言っている。
「無理はしないこと。健康な体こそが何より大事だ」と。
それが、私からの唯一の忠告であり、
この過酷な環境で彼女たちが守るべき最も基本的な原則でもあった。
私は昔から、決められた献立に縛られるのが苦手で、
いつも自分の気分次第で何を食べるかを決めている。
けれど昨日のうちに、今日は少し洋風の朝食を作ろうと決めていた。
普段とは違う料理に挑戦して、
少し特別な一皿を用意したかったのだ。
料理の準備を始める前には、
いつも必要な食材の一覧を食堂へ送ることにしている。
昨夜、すでに克諾羅に頼んでおいた。
今日使う材料を、すべて揃えておいてほしいと。
食堂のスタッフたちは本当に仕事が早く、
私が何かを頼むたびに、驚くほど手際よく用意してくれる。
その働きぶりには、いつも感心せずにはいられない。
私は冷蔵庫から数個の卵を取り出し、
軽く叩いて殻を割り、卵液を碗の中に流し入れた。
卵白は透き通るように清く、卵黄は丸く張りがあり、
生臭さのないその香りが、新鮮さを物語っている。
次に、私はバターを一片取り出し、
包丁でそっと小さく切って鍋に落とした。
火にかけると、バターは静かに溶けていき、
卵液と混じり合うにつれ、
甘く芳しい香りが部屋中に広がっていく。
私はゆっくりと木杓子を動かした。
三十秒ごとに火から離し、
余熱だけで卵をじっくりと熟させる。
そうすることで、卵は滑らかで綿密な食感を保つ。
その動作を三分間ほど繰り返した。
鍋の中の卵は、
私の手の動きに合わせて少しずつとろみを増していく。
この火加減の見極めこそが、
この料理で最も大切な技なのだ。
理想の柔らかさになったところで、
私は塩をひとつまみ加え、
さらに新鮮な牛乳を少し垂らし、再びゆっくりと混ぜた。
出来上がった炒り卵は、
淡いクリーム色を帯び、
舌に触れるたびにとろけるような滑らかさを残す。
やさしい塩味がバターの香りと溶け合い、
一口ごとに幸福の余韻を広げていった。
同時に、私は酥皮吐司を焼くためにオーブンの準備を始めた。
トーストを中に入れると、部屋の空気がふわりと甘く香ばしい匂いに包まれていく。
オーブンの中では、パンの表面が少しずつ金色に変わり、
隙間から漂う香りが、私の胸をくすぐった。
この匂いを吸い込むたびに、
小さな儀式のように心が落ち着き、
新しい一日の始まりが、どこか特別なものに思えてくる。
それだけではない。私は火腿と香菇も用意した。
薄く切った火腿と香菇をフライパンに並べ、
少量のオリーブ油を垂らして、両面を軽く焼き上げる。
火腿の脂が鍋の上でじゅうっと音を立て、
香ばしい煙が熱気と共に立ち上る。
香菇は油を吸いながら柔らかくなり、
その芳醇な香りが広がっていく。
それらの香りと音が混じり合うたびに、
朝の空気は温もりを帯び、
台所全体がどこか幸福な空間に変わっていく。
さらに、私は新鮮な野菜も準備した。
萵苣の葉は瑞々(みずみず)しい緑を放ち、
まな板の上で包丁を入れると、
ぱりん、と清んだ音が響く。
小黄瓜は深い緑の皮を持ち、
割ると中は白く、果汁がきらりと光る。
牛番茄は薄く切られ、
赤い果肉から自然な甘い香りがほのかに立ち上った。
切り分けた野菜を皿の端に並べながら、
私はその色彩を見て、
今ここに流れる朝の穏やかさを感じていた。
準備の過程は少し忙しかったが、
その忙しさの中にも、不思議と幸福があった。
手を動かすたびに、
胸の奥に小さな充実感が広がっていく。
こうして一日の始まりを迎えることが、
どこか特別な意味を持っているように思えた。
そして、ついにすべての準備が整った。
炒蛋、火腿、香菇、
新鮮な野菜、そして香ばしく焼き上がった酥皮吐司。
それらが一枚の木製のテーブルに並んだとき、
私はしばらくの間、その光景を見つめていた。
色、香り、そして温もりが一体となったその朝食は、
ただの食事ではなく、
私の心を満たしてくれる静かな幸せの証だった。
ちょうどその時、緹雅が部屋から出てきた。
まだ眠たげな瞳をしていて、その寝起きの姿はなんとも愛らしい。
けれど、よく見ると彼女の目は少し赤く腫れていた。
どうやら、あまりよく眠れなかったらしい。
実は私も昨夜、彼女のことを考えているうちに
気づけば深夜まで起きてしまっていた。
だから今の私も少し疲れてはいるけれど、
胸の奥にはそれ以上に、あたたかい何かが灯っていた。
緹雅は私を見つけると、
いつものあの優しい笑顔を浮かべて、
「おはよう~」と、柔らかく声をかけてきた。
その時、緹雅の頬がほんのりと赤く染まった。
朝の光を受けたその紅は、
まるで薄い花弁がそっと色づいたように見えた。
その光景を目の当たりにした瞬間、
私の胸がかすかに震え、
自分の頬までもがじんわりと熱くなっていくのを感じた。
言葉にできない空気が、
ふたりの間に静かに流れ、
淡い鼓動だけがその沈黙を彩っていた。
「緹雅! おはよう~ 早く朝食を食べよう!
今日は特別に、私が君のために作ったんだ!」
私はわざと軽い調子で笑いながら言った。
その声の奥には、少し誇らしげな気持ちと、
言葉にできない期待が混じっていた。
緹雅はその言葉にふっと微笑み、
軽やかな足取りでテーブルの方へ向かった。
席についた彼女は、しばらく食卓の上を見つめ、
やがて小さな声で言った。
「凝里。」
「ん? どうした?」
私は手を止め、彼女の方を見る。
「……お疲れさま。」
その声は驚くほど優しく、
朝の光のように静かであたたかかった。
ただそれだけの一言なのに、
胸の奥がそっと震え、
幸福という名の日差しが心の中に差し込んだ気がした。
「ありがとう。」
私は少し照れくさそうに顔をそらした。
そんな何気ないやり取り(とり)さえも、
気づけばふたりの距離を静かに近づけていた。
緹雅は俯き加減に朝食を食べていた。
その表情からは、今日の料理にとても満足していることが、
一目でわかった。
その姿を見ているだけで、
私の胸にも静かな満足感が広がっていった。
「そういえば、妲己と三姉妹は?」
ふと気づいて私は顔を上げ、緹雅の方を見た。
彼女たちの姿は、まだ現れていない。
緹雅はその問い(とい)に、口の中の食べ物を飲み込みながら、
ゆるやかに目を閉じて言った。
「たぶん……夜更かししたのね。」
「え? どうして?」
私は思わず聞き返す。
本来なら、彼女たちの誰か一人は
見張りに立っているはずなのに。
緹雅はスプーンを軽く動かしながら、
どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「昨日はね、少し手伝ってもらってたの。
ちょっと……夜が長くなっちゃっただけ。」
「……まさか、また何か企んでたんじゃ?」
そう言うと、彼女はわざと知らん顔をして、
再びパンを口に運んだ。
「誒……」
私は小さくため息をつきながらも。




