29話「染み付く墨」
「アカシャ……じゃ、ない……ス……ミ……」
「……あーーー、そうか、最近アイツ俺の姿してんのか。まぁ、そんな事、今はどうでもいいんだがな。ちょっと心臓触るぞ……痛いだろうが、少し我慢しろよ?」
世界が黒く染め上げられる。
灰色の床が黒く染まり、黒い液体を重力に逆らって浮き上がらせていく。壊れた棚や台座に置かれた紅い箱も黒い箱も、ましてやアカシャの仔すらも全てを黒く染め上げる。
まるで逆流する黒の雨だ。
ただ世界の中で染まらないものが2つ。
魅神 命と言観 墨。
「……これ、は?」
「まぁ……見てろって」
黒の世界が溶けていく。
キャンバスに塗られた絵の具がドロリドロリ……と垂れ落ちて、その異様な世界が姿を現した。
何も壊れていない世界。
世界崩壊をまるで知らないかのように投影された400年前の世界の都会。1本の真っ直ぐな車道、その真中に立つ命。左右は高いビルが連なって、摩天楼がジロリと2人を見下ろしていた。
だが、異様なのは、その存在するはずの無い、崩壊を知らない世界の形じゃ無い。……色だ。
まるで漫画の中に入り込んだかのような白黒世界。更には、ビルの側面や本来はガラスの部分だろうが関係無しにひたすらに書かれた文字。床や空すらも言わずもがな。
「いらっしゃい、そして邪魔するぜ……ここはお前の世界だ」
「まっ……!俺の世界も若干混ざってる……か?」
「僕の世界……」
「あぁ……。あのまま話してたらお前を目覚めさせる前に、死んじまうからな。少し乱暴させてもらったよ。ほら、心臓に穴空いてないだろ?」
「おぉっ……!ほんとうだ……」
「さて、と……久々に稽古つけてやるか……!行くぜ……?」
ダンッ!!!
「あが……ガハッ……!」
「おいおい……構えないと死ぬぞ……?」
命の腹に突き刺さる墨の蹴り。路上を吹き飛んでいく命は2回、地面に強く当たって、力任せに勢いを殺した。
「……ちょ……ちょっと待って下さいっ!」
「ハッ……!そう言われて待ってくれる相手がいるかぁ〜〜?」
ダンッ!
一蹴り。たった一蹴りで、その車道の空間を詰める墨。対して命はしっかりと両腕を盾にした。
「ハッ……!自分の身を守ってるだけじゃ……意味ねぇぞ……!」
ドンッ!
「くぅ……ァガハッ!」
回し蹴りが命を顔から吹き飛ばす。
容赦の無い一撃。問答無用の一撃。
重い一撃が命を襲った。
ガラス割って店の中まで飛んでいく命を眺めながら、墨は頭を抱えた。
「……あーーー、なるほどなぁ。これは想像以上に捻れてんな。おい、大丈夫か、命?」
墨が割れたガラスを跨ぐ。奥の方に倒れた命を覗く。
ダンッ!
「でぇりぁぁぁ!!!」
迅速の攻撃。
倒れた状態から起き上がりながらに繰り出されたとは思えない正確な顔への裏拳。強い。強かった……が、墨はその体を後ろへ仰け反らせるだけで避けてみせる。
さらに、その勢いのままつま先で、命の顎を蹴る。
路上に戻された命と体勢を治すために右手を地面につけて上下逆さまの墨。
「……やるじゃねぇか、命ッ!」
「一撃も当たって無いくせに良く言いますね!墨さんッ!」
ニヤリ……と言う言葉が良く似合う顔で、両者は向かい合った。
軽く身を翻して、地に立つ墨は頭を掻きながらに口を開く。
「命……お前、紙魚の力で魔の手が使えなくなってはいるが、それ以前に自分の心が魔の手を封じてんの分かってるか……?」
「え……そんな……」
「またどうせ何か護れなかった……って自分の責任だと思い詰めてんだろ?」
「あっ……」
「図星だな……。そんな振れた心持ちで良く、私の力持ったアカシャの仔をあそこまでやれたもんだ……。良いか?命、魔の手に限らずどんな時だって大切な事は前を向くことだ。どんな辛い時だろうが、どんな苦しい時だろうが、前を向いてなきゃ応えてくれるものも応えてくれない。……お前は笑って良いんだよ。鬼だろうが、なんだろうが、お前は魅神 命だろ。今のお前のギラついた顔……惚れそうなぐらいかっこいいぞ」
「……墨さん。本気でいきますッ!」
「来いッ!!!……命ォッ!!!!!」
◆ ◇ ◆
腰を深く落とす。
体がゆるっと緊張していく。
鼓動が速くなる。体に血が巡る。
私の手に力が満ちていくのが分かる。
あぁ……。そうだ。この感覚。鮫のアカシャの仔を倒した時の多幸感にも似てる。
分かる。
凄く分かる。
めちゃくちゃ分かる。
私……今、凄く笑顔だ。
自分でも分かる程にとてつもなく笑顔だ。
体がひりつく……ドキドキする……。
あぁ……私って戦うの……好きだッ!!!
「ハァァァァッッッ!!!!!」
墨さん、ありがとう。
私、思い出せたよ。
魔の手の名前……それから、私との向き合い方。
だから……。
だからッ!
だからッッッ!!!!!
この一手に全てを込めて。
貴方に感謝を伝える……!
「墨サァァァンッッッ!!!!!」
「ハッ!最高だ……命ォォォッッッ!!!!!」
◆ ◇ ◆
「……ありがとう!」
「馬鹿野郎、ありがとうございます、だ。ハハッ……。もう心配ねぇ……化けて出てやる必要もねぇ……ほら、行けよ。まだ決着ついてないだろ。あんな化物倒して来い」
「うん……行ってますっ!……それから、さよなら」
溶けていく世界。
空も、ビルも、地面も、割れたガラスの欠片も。
私の体も。
黒い墨になって、どろりどろりと溶けていく。不思議だ。こんなにも気味の悪い光景なのに、まるで怖くない。
なぁ……手綱。
命はお前に良く似てるよ。
手綱みたいに頭が良いのに馬鹿で、世界を背負ってんのかってくらいに責任感が強くて……底無しに強い意志がある。
命ならきっとこんな壊れた世界、ぶっ壊してくれる。
あぁ……きっともう私が目覚めることも無いな。
もっと話したかったなぁ……。
もっと稽古つけてやりたかったなぁ……。
もっと……笑顔を見たかったなぁ……。
もっと……名前を呼んでやりたかったなぁ……。
「またな、命」