28話「紙魚憑く墨」
守都 四方画は驚いていた。命が魂の象徴とも言える魔の手の名前を忘れた事自体にではない。
アカシャの仔の力、ひいては玄札の凶悪なまでの力に……だ。
「あり得ない……これ程までとは……」
そう。あり得ないのだ。
普通の玄札ならまだしも、命同様に言観 霊架の玄札もまた少し異常である。
玄札の力の強さは中に封じ込められた魂の強さに比例している。……と言っても、まず持って強い魂が無くてはアカシャの力に適合する事が出来ない為、微弱な力の玄札など存在しないのだが。
問題は、この言観 霊架の持つ玄札は、完全に墨の魂全てを封じている訳では無いという所である。
(この玄札に封じ込む事の出来た魂は半分にも満たないッ!それはつまり、墨の魂……そのほとんどを喰らった、アカシャの秘める力の強大さの証明ッ!……分かっていたつもりだけど、改めてその事実を突きつけられてこんなにも心が乱れるなんて、最低だ)
「グゥ゙ァ゙ッ!!!」
「いや、今はそんな事よりも……」
ギィンッ!
武器とも呼べない矮小な刀が、真っ直ぐに伸びる黒刀を受け止める。今にも砕けておかしくないその刀が、今、刃を交えて砕けないのは、間違いなく彼女・守都 四方画の技術によるもの。流石である。
そんな彼女の背後にその化物は姿を見せた。
命を貫いた魚の様な虫の様な怪物。
怪物は四方画を狙い真っ直ぐに、その身を飛ばす。
「……面倒くさいねぇ。ワタシが君に当たると皆に怒られちゃうや」
刃を流し、その身をその場から動かす事無く小さく跳んで、空を翻す。柔らかい体を力一杯に伸ばし、間一髪、自分の上を泳ぐ黒い塊……紙魚を、四方画は見つめた。
「はぁッ……!」
そのまま脚をアカシャの仔に振り下ろす。
速い。重い。
相当な威力の一撃……だったが、アカシャの仔はまるで動じていない。当たる直前のその細く美しい白の豪脚を黒い触手が絡め取る。
「……まっず、い!」
四方画は、そのまま通路の奥の方へ放り投げられてしまった。まるでゴミ箱にティッシュを投げ込むかの様に。
闇に投げ込まれた四方画は、台座に置かれた2つの箱の内、命が手に取ろうとしなかった紅い箱を掴むアカシャの仔を、ただ観ることしか出来なかった。
アカシャの仔に殴りかかる魅神 命に全てを委ねて。
「……その手、退けろ」
「グゥゥヴゥ゙ッ!?」
ドンッ!
ドロドロと溶けた顔が弾け飛ぶ。
倒れる体が手放した紅い箱を、命は白い手でしっかりと掴んだ。
「悪いが、これは、貴方が手にとって良いような代物じゃない。返してもらいますね」
「……ッ!……ッ!」
アカシャの仔の足元に現れる黒の水溜り。何度も見た光景。それは鮫のアカシャの仔と対峙した際に何度も見た光景だった。
身体流れる冷たさ。
立った鳥肌は彼に危険を伝えていた。
ドブン……と沈んだアカシャの仔。
ベチャ……ベタ……とそこから浮き上がってくるその姿は徐々に輪郭を作り出す。
頭から伸びる2本の触角、背中から生えた6本の足、先程までの不定形の顔と力強い肉体はそのままに、それを包み込んで身に纒った外殻。
人型のアカシャの仔が黒い紙魚の怪物を取り込んだその姿は、正しく、紙魚のアカシャの仔と言うべき異形だった。
恐怖感と狂気的な圧を纒った殺意が命の前に姿を現した。
悍ましい変化を見せたアカシャの仔。されど、命は猛く拳を握ってみせた。
「……ハコ、ワタ……セ」
「……ッ!喋るのか!?……悪いが、渡せないッ!これは、私の相棒のものだッ!」
「ナラ、キル……」
6本の甲虫の足、2本の腕、その先端が黒く鋭く伸びる。計8振りの黒刀。そのどれもが、殺意を剥き出しに命1人に向けられた。
「ハンド、ツカエナイ……ヨワイ……」
「ハハッ……!ちょっと見た目が変わったと思ったら随分と知性的になりましたね!ついでです。覚えておくと良いですよ……!魔の手は確かに強力な切り札ですが、あくまでも手札の1枚……という事をッ!」
(正直……精神的な疲労度と肉体への負荷、霊気の燃費の悪さから余りやりたくは無いんだけど、やるしか無いか……な?)
「[過剰霊気留]……」
「キエ……ロ゙ッ!」
伸びる6振り。
刹那に命を取り囲み、突き刺した。
……地面を。
既にその場に命は立っていなかった。
「ドコ、ニィ……?」
まるで瞬間移動でもしたかのように触手の輪の中、紙魚の目前に姿を見せた命。
「ヌゥ゙ッ!!!」
戸惑いなく、右手から伸びる黒刀が一の字に流れる。だがそれもまた意味がなかった。
命が床スレスレまで腰を深く落としていたからだ。
今度は左手で、命を貫こうと狙う紙魚。
だが……。
(……遅いッ!)
「[自壊的な一撃]ォォォッ!!!!!」
バァァァンッッッ!!!
声を出す間もなく、左手の刀で刺す間もなく、周囲に黒い粘液を撒き散らし、紙魚の上半身は弾け飛んだ。
「あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!」
命は右手を掴んで、雄叫びを上げた。
当たり前だ。
その身に留めた膨大なエネルギーが一気に衝撃として解放される。威力を犠牲に、適切な霊気量に調整した[破壊的な一撃]、その約2倍の霊気量を使った[自壊的な一撃]。
その分の手痛い反動があるのも仕方ない事である。
……が、ひとしきり痛みが引いた数秒後の彼の表情は、苦痛への怒りでも、霊気消耗による疲れでもなく、歯を見せたギラついた笑みだった。
紙魚のアカシャの仔。その胸元があったであろう場所に残る黒い長方形……玄札がそこにあった。
「ふっ……!」
そのアカシャの力に取り憑かれた玄札に命は手を伸ばす。後は、この札を引き剥がすだけである。自信を犠牲に作り出したこのチャンスにしっかりと命は手を伸ばす。
心臓を黒い刃が貫いた。
「……は?」
ガハッ……と喉から紅い色が吹き出した。
伸ばした腕がダラン……!と力無く下がる。
「まァ……じ、です……か……」
ドサン。
力無く床に両膝をつけた命。
灰色の床に附着した紅いソレが……自分から出たものだと理解して、彼は分かった。
(あー……これ、死んだ……)
「何言ってんだ。まだ、これから世界を救うって使命を携えた主人公様が、こんな所で死ぬなんて、どんな三文小説だよ……そりゃあ」
1本の触手が伸びた、今だ2つの足でしっかりと立ったままの紙魚のアカシャの仔。
その無くなった上半身から顔を覗かせる男。
紛れもない。
疑う余地もない。
間違いない。
その男は……。
「……ぁ」
「……大丈夫か、命。心配で、化けて出てきてしまった……なんて、な」