09_夏の記憶
「颯真くん、同じ班だし今日からよろしくね!」
夏合宿初日。行きのバスに乗り込もうとした時、結奈が嬉しそうに声をかけてきた。
「ああ、そうだな」
「新田くんも一緒だし、きっと楽しいよ!」
彼女の明るい声に、どう反応していいか分からず曖昧に頷く。
班分けの結果を見た時から、何故か穏やかではいられなかった。
バスの中で俺は窓際の席に座り、外を眺めていた。
結奈は通路を挟んで隣の列、新田の隣の席に座っている。二人の楽しげな会話が、時折耳に入ってくる。
「へぇ、新田くんって意外とゲーム好きなんだ」
「まあね。結奈ちゃんは?」
「私は下手くそだから、あんまり……」
結奈が恥ずかしそうに笑う声。その声に、思わず目を閉じた。
「お、颯真!寝るの?」
新田が声をかけてきた。
「ああ、ちょっと」
「そっか。着いたら起こすよ」
親切な気遣いなのに、なぜか素直に受け取れない自分がいる。
目を閉じたまま、走り去る景色の気配を感じていると、結奈と新田の会話が次第に遠くなっていった。
*
「颯真くん、起きて。もうすぐ着くよ」
目を開けると、結奈が俺の肩を優しく揺すっていた。
「あ、ありがとう」
「ずっと寝てたね。大丈夫? 疲れてた?」
「いや、大丈夫」
バスが宿舎に到着し、みんなが荷物を持って降りていく。
俺も立ち上がろうとした時、
「颯真くん、なんだか今日は元気ないみたい」
と結奈は困った顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
合宿所に着いて早速夕飯のバーベキューの準備をする班員たちの中で、
結奈と新田が笑い合う姿が目に入る。
二人が仲良く食材の買い出しリストを作っているのを横目で見ながら、
俺は黙々と炭に火をつける作業を続けていた。
「颯真くん、お手伝いしましょうか?」
結奈が冗談っぽく他人行儀に声をかけてきた。彼女の声には、いつもの明るさがあった。
「大丈夫。俺一人でできるから」
「もう! 颯真くんはいつも一人でやろうとするんだから。」
結奈は頬を膨らませて、それでも俺の隣にしゃがみ込んだ。
「新田と作業してた下ごしらえはもう終わったの?」
「うん。新田くんすっごく要領いいんだよ。あっという間に終わっちゃった」
俺は今どんな表情をしてるんだろう。
自分を客観視するのが怖かった。
そんな気まずさを遮るように新田が声をかけてきた。
「結奈ちゃん!飯盒取りに行くー?」
「あ、ごめんね。今、颯真くんの手伝いしてて!」
「いいよ、行っておいで」
俺は結奈の返事を遮るように言った。
「でも……」
「大丈夫だって。行ってきて。」
結奈は少し躊躇したように見えたが、結局新田についていった。
二人の後ろ姿を見送りながらパチパチと音を立てる火を眺めていた。
涼しい夜風が、バーベキュー広場に漂う炭火の香りを運んでいく。
宿舎の庭に設置された大きなテーブルを囲んで、クラスメイトたちの賑やかな声が響いていた。
「颯真くん、これ焼けたよ!」
結奈が俺の紙皿に焼きたての肉を載せてくれた。
周りには他の班の声も混ざり、夏合宿特有の騒がしさに包まれている。
「ありがとう」
「颯真、野菜も食べろよ!結奈ちゃんが丁寧に洗って切ってくれたんだぜ!」
新田が野菜盛り合わせを差し出してくる。
「もう、新田くんったら、言わなくていいのに」
結奈は照れたように頬を染めた。
みんなで輪になって座り、談笑しながら食事を楽しむ。
標高の高い場所だからか、夕方になると急に冷えてきた。
先生が「上着を着るように」と声をかけて回っている。
「結奈ちゃん、上着持ってきた?」
新田が気遣うように声をかける。
「大丈夫だよ。カーディガン持ってるから」
夕暮れが近づき、片付けの時間になった。新田は他の男子と一緒に炭の処理を任された。
女子たちは食器洗いの担当で、結奈も他の女子たちと一緒に宿舎の流しに向かった。
*
片付けを終え、夜の事務連絡のためのクラス集会までは自由時間だった。
俺は宿舎の前のウッドデッキで、深まっていく夕暮れを眺めていた。
高原の空気が肌に心地いい。他の生徒たちは既に部屋に戻り始めていて、辺りは静かだった。
「あ、颯真くんだ」
振り返ると、結奈が立っていた。彼女も片付けを終えたところのようだった。
「休憩?」
「ああ」
結奈も俺の隣のベンチに座る。
山の方から吹いてくる風が、彼女の髪を揺らしていく。
辺りはすっかり夕暮れの色に染まり始めていた。
宿舎の明かりが、二人の影を長く伸ばしている。
「颯真くん、今日、楽しかったね!」
「そうだな」
「でも、なんだか寂しそうに見えたよ」
結奈の言葉に、思わず目を見開いた。
「そんなことないよ」
「嘘。颯真くんね、楽しそうに見えて、どこか遠くを見てるような目をしてた」
風が吹き、結奈の髪が揺れる。
夕陽に照らされた彼女の横顔が、どこか切なそうだった。
「……俺さ、昔、大切な人を失ったんだ」
言葉が、自然と溢れ出た。
絵莉のことを誰かに話すのはこれが初めてだった。
「え?」
結奈が驚いてこちらを見た。
「小学生の時。絵莉って友達がいたんだ。……その子が…ある日、事故に遭って、俺の目の前で亡くなった。」
結奈は息を呑んだように静かになった。
「私、聞いてもいいの?」
その問いかけに、少し考えてから頷いた。
「絵莉は、すごく明るい子だった。クラスの人気者で、誰とでも仲良くできる子だった。
でも、俺みたいなクラスの隅に居る大人しい奴のことも気にかけてくれて。」
懐かしい記憶が、まるで古いフィルムのように次々と蘇ってくる。
「そーくん って、いつも元気に声をかけてくれて……」
言葉が詰まった。結奈が静かに手を伸ばし、俺の肩に優しく触れた。
「颯真くん、本当は優しいもんね。でも、その優しさで自分を縛りつけちゃダメだよ」
結奈の言葉に、胸が締め付けられる感覚があった。
「颯真くんは誰かと仲良くなることを怖がってる。絵莉ちゃんのことがあったからだったんだね。」
その言葉に、思わず目を瞑った。
「俺は、その時何もできなかったんだ。彼女を助けることも、守ることも、ただ見ているしかなかったんだ。…それ以来、誰かと深く関わるのを辞めたんだ。自分には幸せな人生を歩む資格なんてないんだ。
…俺さ、何度も夢に見るんだ。絵莉が、笑って俺に『また会おうね』って言うんだ。でも、あの時俺は…」
結奈が静かに頷き、俺の言葉を受け止める。
「私ね、颯真くんにもっと笑ってほしいの。
──絵莉ちゃんだって、きっとそう思ってるんじゃないかな。」
結奈の言葉は、まるで真夏の太陽のように、まっすぐで、眩しかった。
心の奥に長い間押し込めていた何かが、不意に揺さぶられる。
絵莉の名前を結奈の口から聞くたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、
喉の奥に固い塊ができるようだった。言葉を返そうとするが、うまく声にならない。
夕陽が沈み、空がゆっくりと赤から紫に色を変えていく。
その光景が、何か終わりを告げるようで、不安と寂しさを同時に感じさせた。
こんなふうに誰かに話したことは一度もなかった。
ずっと一人で抱えていた絵莉の思い出。
それを初めて結奈に打ち明けたことで、少しだけ心が軽くなった気がする。
けれど、それ以上に、心の中にぽっかりと開いた穴が露わになるような痛みも感じていた。
「……ごめん。こんな重い話。」
ようやく絞り出すように口にしたその言葉が、どこか自分でも情けなく聞こえた。
結奈にこんな重荷を背負わせるつもりはなかったのに、彼女の優しさに甘えてしまっているのではないか。
「ううん。私、颯真くんのこと知れて嬉しいよ。」
彼女の言葉は、俺の心に染み込んで、少しずつその冷たさを溶かしていく。
顔を上げると、結奈が柔らかく微笑んでいた。けれど、その笑顔はどこか切なく、寂しげでもあった。
彼女の笑顔を見ると、なぜか絵莉を思い出してしまう。
結奈の明るさの中に、かつての絵莉の姿が重なって見える。
それは触れようとすれば消えてしまう幻だった。
その笑顔に絵莉を重ねてしまう自分に罪悪感を覚えた。
それでも、今はその笑顔が救いでもあった。
「あのさ…」
再び言葉を探しながら、俺は彼女に向き直る。
しかし、何を言えばいいのか分からなかった。結奈は黙って俺を見つめている。
彼女の目の奥には、俺を理解しようとしてくれている温かさがあった。
なのに、俺はその優しさが苦しかった。
結奈の存在が、俺を少しずつ変えていこうとしているのは分かっている。
でも、それを受け入れるにはまだ時間が必要だった。
夕陽が完全に沈み、空は紫色に染まっていく。
闇は深くなり、星が一つ、また一つと輝き始めた。
今にも消えてしまいそうな、か弱い光だけれど、確かにそこにある。
今、彼女に伝えたい言葉がある。
「ありがとう。」
彼女に向かって、少しだけ笑ってみた。
夏の終わりの風が、俺たちの間を静かに吹き抜けていった。