07_呼び名
図書館で一緒に過ごしたあの日以降、天崎さんは弱い姿を見せていない。
相変わらず適度な距離感で日常を過ごしていた。
それが俺にとって心地よいのか、物足りないのか、答えが出ないまま。
◇◇◇
放課後、校舎の前を歩きながら一人で帰っていると、後ろから足音が聞こえてきた。
「ねえ、朝霧くん!」
振り返ると、天崎さんが少し息を切らせて走ってきていた。
笑顔を浮かべながら、俺に手を振っている。どうやら、俺を追いかけてきたらしい。
「一緒に帰ってもいい?」
「……ああ、別にいいけど。」
図書館で話して以降、どこか妙に落ち着かない。
彼女と話す度、胸の奥がざわつく感覚があった。
学校を出て、駅までの道を並んで歩いていると、ふと天崎さんが口を開いた。
「朝霧くんって、どうして私のこと ”天崎さん” って呼ぶの?」
急にそんなことを聞かれ、俺は少し驚いた。
これまで彼女を下の名前で呼ぶなんて考えたこともなかったからだ。
ただ、彼女に距離を置いて接していたいという無意識の表れだったのかもしれない。
「……あんまり考えたことなかった。なんとなく、呼びやすいし。」
「そっかぁ。でも、私は少し寂しいな。」
天崎さんが足を止めて、俺の顔をじっと見つめた。
「私ね、もっと朝霧くんと仲良くなりたいな。 '天崎さん' じゃなくて、名前で呼んでほしい。」
その言葉に俺は息をのんだ。
名前で呼ぶというのは、ハードルが高い。
下の名前で呼んでいたのは絵莉だけだった。
絵莉を失って以降、適度な距離で人付き合いをしてきた俺は、
相手を下の名前で呼ばないことで無意識に自分自身を守っているのかも知れない。
壁を作って、深入りしないようにしていた。そうすることで、自分が傷つくのを避けていた。
何も言えずに黙っていると彼女は続けた。
「私は……もっと朝霧くんとちゃんと話してみたい。けど、どうしても壁を感じちゃうんだ。
朝霧くんに ”天崎さん”って呼ばれると、あぁ、私ってただの友達以下のクラスメイトなんだなーって感じちゃって。」
「……でも、名前で呼ぶって、なんだか特別な感じがするだろ。簡単には……」
そう言いかけた俺に、天崎さんがゆっくりと首を振った。
「私は、朝霧くん……ううん、颯真くんにとって、もっと近い存在でいたい。
だから……お願い。私のこと、結奈って呼んで。」
その瞬間、俺の中で何かが動いた気がした。
「…ねぇ、良いでしょ?」
眉が少し下がり、不安そうな顔になりながら聞いてきた。
俺は彼女に根負けして言った。
「……わかったよ。結奈。」
そう口にした時、何かが吹っ切れた気がした。
誰かをまた失うのが怖くて、殻に閉じこもっていた自分。
距離を置くことで守ってきたものが、実は自分自身を不自由にしていたのかも知れないとも思った。
結奈が嬉しそうに目を大きく見開いた。
「ありがとう、颯真くん。」
結奈は、はっと息を呑んで、それからふっと微笑んだ。
その笑顔は、これまで見たどんな笑顔よりも柔らかかった。
俺も少し気恥ずかしさを隠すようにして、わざとらしく肩をすくめた。
「……俺の名前を下の名前で呼ぶのは、まだ許可してないけどな。」
そう言ってみせると、結奈は驚いたように目を見開き、すぐにくすっと笑い声を漏らした。
「そっか、それじゃあ ”結奈” って呼んでくれたお礼に、特別に『颯真くん』って呼んであげるね。」
彼女の軽い冗談に、俺もつられて少し笑った。
なんとなく、肩の力が抜けて、これまでよりも少しだけ自然体でいられる気がした。
少し前を歩く結奈の綺麗な茶色い髪が夕日に照らされて柔らかく揺れるたびに光を反射し、
まるでそこだけがほんのりと輝いているように見えた。