06_図書室にて。
教室はいつものように賑やかだった。
昼休みになると、席を離れて友達と集まり、おしゃべりに興じる生徒たちの声が飛び交う。
俺も、その喧騒の中で静かに弁当を広げていた。
特別親しい友人がいるわけでもなく、無理に誰かと話すつもりもない。
そうやっていつも通り過ごしていると、ふと視界の端に天崎さんの姿が入ってきた。
彼女はクラスの中でも注目される存在だ。
転校してきたばかりなのに、すぐに皆と打ち解けて、いつも笑顔で話しかけている。
それなのに、俺にはどこか無理をしているように見えた。
天崎さんは、今日も何人かの生徒に囲まれて楽しそうに話していた。
けれど、その笑顔の裏にはどこか張り詰めたようなものが感じられた。
クラスの輪の中にいるけれど、本当にその中に溶け込んでいるわけではない。
むしろ、彼女が無理に自分を押し込んでいるような、そんな印象を受けた。
*
「なあ、朝霧。お前、天崎さんのこと気になってるの?」
不意に隣から声をかけられて振り向くと、新田が笑いながら俺を見ていた。
「いや、別に。」
「嘘つけ。今結奈ちゃんのこと見てただろ。あんなに明るくて可愛い子、そうそういないぞ。ちょっと気になるだろ?」
新田の軽い調子に、俺は曖昧に笑ってみせた。
確かに天崎さんは誰に対してもフレンドリーで、自然と周囲に人が集まる魅力を持っている。
だけど、その明るさの裏にあるものに気づいているのは、俺だけなのかもしれない。
*
午後の授業が終わると、俺は早々に教室を出て図書室に向かった。
ここは静かで、放課後の喧騒から逃れるにはうってつけの場所だった。
図書室の窓から差し込む夕陽が、机に柔らかい影を落としていた。
俺は何の気なしに一冊の小説を手に取り、ゆっくりとページをめくった。
最近、らしくもないことばかりしていたせいで落ち着かなかったが、
久しぶりに本を読むと心が少しだけ落ち着いた。
そんな時だった。
「…朝霧くん。」
ふと、聞き慣れた声が背後から聞こえた。
振り返ると、天崎さんが立っていた。彼女は微笑みながら、ゆっくりと俺の方に歩いてきた。
「奇遇だね。朝霧くんも図書室にいたんだ。」
「まあ、ね。」
俺が返事をすると、天崎さんは何も言わずに俺の隣の席に座った。
どうやら、特に理由があって来たわけではなさそうだった。
俺は少しだけ戸惑いながらも、彼女が何をしに来たのかは尋ねなかった。
二人で無言のまま座り続ける時間が、図書室の静寂の中に流れていた。
天崎さんは、自分の鞄から小さなノートを取り出し、何かを書き込んでいるようだった。
時折、視線を窓の外に向けて、何かを考えるように遠くを見つめる。
その表情が、どこか寂しげに見えた。
「…ここ、好きなの?」
天崎さんが不意に口を開いた。
「まあ、静かでいい場所だから。」
「そうなんだ。私、図書室ってあんまり来たことなかったんだけど、こんなに落ち着く場所なんだね。」
「うん。」
とだけ返事して、俺は手元のページを進める。
「…ねえ、朝霧くん。私、ここにいてもいい?」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
思わず顔を上げると、天崎さんは俺を真っ直ぐに見ていた。
「別に、構わないよ。」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
その笑顔は、先ほどの作り笑いではなく、自然なものだった。
俺は彼女のその横顔をちらりと見て、また視線を本に戻した。
「あのさ、なんでいつも無理して笑ってるの?」
自分でも驚くくらい唐突な言葉が口をついて出た。
彼女が少し驚いたように目を見開くのが見えた。
しばらくの沈黙の後、天崎さんは静かに言葉を返した。
「…初めて私に質問してくれたね」
と少し困った笑顔を見せて続けた。
「私、無理してるように見えた?」
「少しだけ。」
「そっか。私、そんなに上手に笑えてないんだね。」
彼女はそう言って、肩を落とした。
彼女が一体何を抱えているのか、わかるはずもない。
ただ、俺の目の前で無理に明るく振る舞う彼女の姿に、少しだけ心が痛んだ。
「…私、今日ね、本当は朝霧くんを探してここに来たの。
だって、朝霧くんがいると、ちょっとだけ安心できるから。」
その言葉に、俺は戸惑った。
俺が彼女にとって、そんな存在だなんて思いもしなかったからだ。
「…なんで、俺なんだ?」
「朝霧くんはちょっと不器用だけど、ちゃんと"私"を見てくれてる気がするから。」
俺は何を言えばいいのか分からず、ただ視線を落とした。
図書室の静寂が、再び二人を包み込んだ。
お互いの存在を感じながら、ただ静かな時間が流れていく。
「ねえ、朝霧くん。私は、"私"でいてもいいのかな?」
彼女がどんな気持ちでそんなことを言ったのか、全てを理解できるわけじゃない。
でも、その声が少し震えているのははっきりとわかった。
彼女の顔を見上げると、瞳からはひとしずくの涙がこぼれ落ちていた。
「天崎さんが…天崎さんでいるのが、どういう意味なのかは、俺には分からないけど…」
少し言葉を選びながら、俺は続けた。
「無理して誰かになろうとしなくてもいいんじゃないか?
天崎さんが思う"私"っていうのが…たぶん、俺に見えてる天崎さんだと思うから。」
それを聞くと彼女はほっとしたような顔をした。
彼女は深く息を吸って、話始めた。
「昔から、周りと上手く関わろうと…意識してたんだ。
だけど、そんなふうにしてると、いつの間にか自分がどこにいるのか分からなくなっちゃう。だから…」
一瞬だけ彼女の声が途切れる。
彼女の視線が俺から外れ、図書室の窓の外へと漂っていく。
夕日が差し込んで、彼女の横顔を少し赤く染めていた。その光景が妙に美しくて、俺は思わず目を奪われた。
「だから、私は朝霧くんに聞きたかったの。…もし、朝霧くんが"私"を見てくれてるなら、それが私が”私”でいてもいいっていう証拠になるんじゃないかって。」
その不安をどうやって消してやればいいのか、俺には分からず何も言えなかった。
言い終わると、天崎さんは、ほんの少しだけ笑った。
それは、これまで見た中で一番自然な笑顔だった気がする。
彼女が小さく「ありがとう」と呟いたのが聞こえた時、
俺の心の中にあった重たい何かが、少しだけ軽くなった気がした。
赤い夕日が彼女の背中を照らして、まるで彼女のシルエットだけが浮かび上がっているように見えた。
「もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「別に構わないけど。」
図書室の静けさが、再び二人を包み込む。
天崎さんがそっと俺の隣に座り直し、何も言わずに本を開いた。
俺も何も言わずに、また本を読み始めた。
それだけで、今は十分な気がした。