03_太陽を失った日
小学校に通っていた頃、俺はクラスの中でもどこか浮いていた存在だった。
俺の家は裕福ではなかったが、いじめが少ない学校が良いだろうという理由で
両親は少し無理をして地元では名のある私立小学校に入学させてくれた。
確かにいじめこそ無かったが、クラスには裕福な家庭の子どもたちが多かった。
物心ついた頃、共働きの家庭環境が他のみんなと違うことに気付いた俺は、周りのみんなが持っているようなゲームソフトや漫画を親にねだる気にはなれなかった。
そのせいもあって俺はクラスに馴染めずにいた。
そんなとき、俺に手を差し伸べてくれた物好きな奴が1人だけいた。
同じクラスの東雲絵莉という名前の女の子だった。
彼女とは席が隣だったので、たまに彼女が教科書や筆記用具を忘れた時に貸すことがあったのだが、
それをキッカケに次第に話しかけてくるようになった。
休み時間になると「そーくん、ドロケイしよ!」と いつも屈託のない笑顔で声をかけてくれた。
彼女だけが俺をあだ名で呼んでくれていた。
その特別感のある名前で呼ばれると、どこか恥ずかしくて少しそわそわした。
◇◇◇
風に揺れる若草色の芝生は光を反射してキラキラと輝き、
その間に緑化運動で生徒たちが育てたチューリップの花が色とりどりのアクセントを添えている。
白線が描かれたグラウンドでは、何人かの生徒たちがボールを追いかけて走り回っていて、そのユニフォームの青が目に鮮やかだったのを覚えている。
こんなにも青が綺麗に見えるようになったのはいつからだっただろう。
「そーくん、何考えてるの?」
柔らかな声が響き、ふと視線を向けると、絵莉の深く澄んだ黒い瞳がこちらを覗き込んでいた。
瞳には、驚いた俺の表情とその向こうに広がる青空がくっきりと映り込んでいる。
「……校庭って、こんなにカラフルだったんだなって。」
そう答えると、絵莉は「何それ、変なのー!」と言いながらくしゃっと笑った。
頬が柔らかに緩み、瞳が細くなって、まるで笑顔が一層輝きを増すようだった。
その瞬間、瞳に映っていた景色はふっと消え、彼女の屈託のない笑顔が目の前に広がった。
恥ずかしくなって思わず視線を逸らしてしまう。
それでも陽の光に照らされた彼女の笑顔は、一層眩しく輝いて見えた。
気づけば、空の青さも、風の心地よさも、すべてがその笑顔の中に溶け込んでいた。
*
そんな日々が続く中で、いつの間にか心に広がっていた重たい雲も、少しずつ晴れていった。
漫画やゲームを貸してほしいと、一言「貸して」と言えばよかっただけのこと。
周りに馴染めないと決めつけていたのは、実は自分だったんだと気づかされた。
絵莉がいたからこそ、他の人が見ている世界が自分の見える世界とは違うと知ることができた。
そして何より、その自由で明るい世界に、俺は心から憧れていた。
そんな世界はこれからも当たり前に広がっていくものだと思っていた。
◇◇◇
しかし、小学6年生の夏、あの日が訪れた。
その日は塾の面談が長引いてしまい、絵莉との約束の時間に遅れそうだった俺は、待ち合わせ場所に向かって走っていた。
心の中には、不安と期待が入り混じっていた。
最近の絵莉はどこか様子がおかしくて、今日は「大事な話がある」と告げられて呼び出されていたからだ。
待ち合わせ時間を15分も過ぎてしまい、 帰っていたらどうしよう と焦っていたが、
校門の前で大きく手を振る絵莉の姿が見えて、ほっと胸をなでおろした。
大事な話だっていうのに遅刻の説教からされるなんてツイてないな、と
バツの悪い気持ちを抱えながら手を振り返した。
風に揺れる、絵莉の黒い長い髪が目に映る。
いつもよりどこか儚げで、目を奪われた。
その時だった。
「そーくん!危ない!」と少女の叫び声が響き渡った。
それは本当に一瞬の出来事だった。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
目を開けると、澄んだ青空が視界に広がっていた。
そして次の瞬間、全身を襲う激しい痛みに、自分が信号無視した車に投げ飛ばされたことをようやく理解した。
青信号を見て、横断歩道を渡ったことまでは覚えている。
宙に浮く前に見た最後の景色は、俺に向かって何かを叫びながら、必死に走ってくる絵莉の姿だった。
自分が生きていることを理解した俺は、身体は動かせなかったがすぐに絵莉を探した。
遠くで横たわる彼女と、赤い血がゆっくりとアスファルトに染み渡っていくのが見え、
朦朧とする意識の中で彼女の名前を呼び続けた。
*
絵莉の両親が病院で泣き崩れる姿、救急車の音、警察の事情聴取。
すべてが混乱の中で過ぎ去っていった。
彼女の大切な記憶が宿るとされる脳も、衝撃で大きく損傷を受けており、
記憶の保存や移植は不可能と判断され、後日葬儀が行われることが決まった。
*
葬式で絵莉の母親が
「あの子ね、『今日の学校はどうだったの?』と聞くと、いつもあなたの話ばかりしていたのよ。
絵莉と仲良くしてくれて本当にありがとうね。」
と涙ぐんで伝えてくれた。
俺が遅刻していなければ。俺がちゃんと周りを見ていれば、俺なんかを庇っていなければ。
献花する手が震え、嗚咽が漏れた。
あの日絵莉が俺に伝えたかったことを知ることはできなかった。
絵莉が何を言おうとしていたのか、何を伝えたかったのかは、永遠にわからないままだった。
色鮮やかだと思った世界は、絵莉が照らしてくれた景色だったんだと気が付いた。
暗い部屋では物の色が鮮明に見えないのと同じように、
絵莉がいなくなってからは世界の色が分からなくなってしまった。
目を逸らさずに、君の笑顔をもっと見ておけば良かった。
◇◇◇
高校2年になった今でも、あの日の後悔を忘れることはできていない。
あの交差点に車が突っ込んでくる瞬間が、頭の中で何度もフラッシュバックする。
毎晩、彼女を奪った瞬間を思い返し、全てを終わりにしたくなる。
しかし朝になると、彼女の笑顔を思い出して、今日も生きてしまう。
死ぬ理由が見つからなくて生きているだけーーーそんな感覚だった。