12_天崎結奈の記憶【前編】
中学時代の記憶がフラッシュバックのように蘇るのが、私にとってはいつも憂鬱だった。
あの頃、私は毎日が暗闇の中をさまようような日々だった。
最初は、ただクラスの中で「目立たない」存在だっただけ。
それが、いつの間にか「気に入らない」と思われるようになったのだと思う。
私の何が引っかかったのかはわからない。
ある日突然いじめのターゲットにされた。
周りが私を見て、まるで異物でも見るような目をするようになってから、全てが変わった。
ある日を境に、教室の隅で誰かが私を指差し、ひそひそと笑うようになった。
無視されること、悪口を言われること、誰かの背中越しに笑われること。
そんなのは日常茶飯事だった。
下敷きは折られ、文具は水槽に入れられた。
それをただ「学校生活」だと思い込もうとしていた。
そう思えば、少しは楽になれる気がしたから。
けれど、ある日、教室に入った瞬間、いつもと違う異様な匂いが鼻を突いた。
自分の机に近づくと、中に詰め込まれていたのは、くしゃくしゃになったゴミの山だった。
食べかけのパンや、使い古したティッシュ、飲みかけの口の空いた飲み物…。
それを見た瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
もうこれ以上、学校に行く意味なんてない。そう思った。
糸がふっと切れたと言うより、
とっくに糸なんて切れていたのに何か自分を納得させて繋ごうとしていたんだと思う。
なぜ繋ごうとしていたのか、分からなくなってしまった感覚だった。
その日、家に帰って以降、私はもう学校に行かなくなった。
家の中でも、ずっと塞ぎ込んでいた。
ベッドの中に潜り込み、布団を頭から被って、
自分がどこか別の場所に消えてしまえたらと思っていた。
でも、消えなかった。
親は私に「無理しなくていい」と優しく言ってくれた。
その言葉はありがたかったけれど、同時に、どこか突き刺さるように痛かった。
私は何もできないんだ。
学校に行けない私は、何もできない無力な存在なんだと、
社会に必要とされていないと、そう思い知らされた気がして。
*
いじめによるストレスとPTSDの症状がひどくなり、結局私は精神病院に通院することになった。
最初は、親に連れられて、渋々診察を受けた。
診察室の白い壁、薬の匂い、窓から見える無機質な風景。
すべてが私をさらに追い詰めるように感じた。
病院のベッドで、何度も夜を過ごすうちに、自分が壊れていくような気がして、怖かった。
医師は私の状態を見て、記憶移植のサポートプログラムを提案してきた。
「補助的な記憶を取り入れることで、今の苦しみを軽減できるかもしれない」と言われた。
今の自分がいなくなるのなら、それで良かった。
どうせなら記憶なんて全部なくなってもよかった。
ある日、母親から「提供者の記憶を引き継ぐことになった」と告げられた。
医師からの説明もあった。詳細は伏せられていたが、大人の女性の記憶を移植し補助を受けるらしい。
10代同士だと不安定に干渉するから成熟した記憶を使用するのが一般的だった。
もう、自分がどうなってももうどうでも良かった。
不思議と手術の恐怖心も無かった。
*
記憶移植を受けた後、リハビリが始まった。
毎日、同じように薬を飲み、セラピーを受ける日々。
その中で、いつしか夢の中に知らない少年や少女が現れるようになった。
少女は快活そうで、沢山私に話しかけてくる。
隣にいる少年は、どこか優しい表情をしていて、私に微笑んでいた。
なぜ彼らが夢に出てくるのか、私にはわからなかった。
でも、彼らの顔を見ると、心が少しだけ落ち着く気がした。
*
ある日、リハビリ施設で目を覚ますと、ふと机の上に日記が置かれているのを見つけた。
表紙には、丁寧な文字で「しののめ えり」と書かれていた。
誰かの忘れ物だろうか?
隣の人へのお見舞いに来た人が間違えて置いて行ってしまったのかも知れない。
普段なら他人のものは勝手に触れないが、その時はなぜか、何かに引き寄せられるように、その日記を開いた。
そこには、知らない少女の日常が綴られていて、
彼女が心を寄せる「そーくん」という名前が何度も出てきた。
「…そーくん…」
私はその名前を、口に出していた。
夢の中で見た少年の顔が、頭の中に浮かぶ。
日記を読み進めるたびに、「えりちゃん」の記憶が私の中に流れ込んでくるのがわかった。
その感覚は、私を混乱させた。
私は誰なのか、どこまでが私なのか、わからなくなっていくようだった。
でも、その混乱の中で、次第に浮かび上がるように分かってきたことがあった。
まず、この記憶の提供者は、日記に書かれている「えり」という少女に深く関わる人物であるということ。
最近は夢に頻繁にこの少女らしき女の子が出てくるようになったから、
その彼女がこの日記の「えり」で、移植された記憶は彼女にちかしい人物のものなのかも知れないと思った。
それを確信させるかのように、日記を読むと自然と心が温かくなった。
そして、もう一つは、絵莉という少女がある男の子に恋をしていたということ。
夢の中で微笑んでいた少年——
それが、日記の中で頻繁に名前が挙げられる「そーくん」なのではないかと、胸が疼いた。
私には会ったことのないはずの彼らが、どうしてこんなにも心の中に鮮明に浮かぶのか。
その感覚が、ただ不思議でならなかった。
最後に、どうしても拭いきれない直感があった。
この日記は忘れ物ではない。
誰かが、私にこの記憶を鮮明に思い出させるために、この日記を敢えて目の前に置いたのだと。
まるで手引きをするように、「えり」に関する記憶が私の心の奥へと自然に馴染んでいく。
それを理解したとき、私はもう、この記憶を拒むことができなくなっていた。
普通なら他人の記憶に飲み込まれることに強い抵抗を感じてもおかしくなはい。
でも、この記憶の中に潜む何かが、私に心地よさすら感じさせていた。
それは、まるで遠い過去に忘れた何かが戻ってくるような感覚だった。
だからこそ、「えり」が何を想い、どうしていたのかをもっと知りたくなってしまった。
「えり」や「そーくん」が今どうしているのか、知りたいと思った。
彼女は、彼は、今も元気で過ごしているのだろうか。
もしかしたら、二人は今頃付き合っているのかもしれない。
一方で、私はこの「えり」に関する記憶に囚われるつもりはなかった。
この記憶に浸ることで、かえって自分自身を見失ってしまう気がしていたから。
そもそも日記を読んで温かい気持ちになることすら、
記憶提供者の感情に違いなく、そう思うと少しだけ不安になる気持ちもあった。
だからこそ、自分の意志で「そーくん」と「えり」に会いに行くことが、
私にとって唯一の答えのように感じられた。
そうすれば、この記憶が自分のものとして受け入れられるかもしれない。
見ず知らずの他人が夢に出てくるよりも、幸せな彼らをみて安心したい気持ちもあった。
そもそも日記を置くような接触自体、固く禁止されている。
記憶が鮮明になると提供された側が混濁してしまったり、自我が分からなくなってしまうから。
もし私が病院に申告したら、記憶提供者の人には何らかの罰則があるだろう。
それでも、”「記憶や感情を移植された」状態”も含めて今の自分だ。
自分のアイデンティティを明らかにしたいという気持ちには抗えなかった。
*
退院後、私は日記の中に書かれていた情報を必死に頼った。
ただ、それは簡単なことではなかった。
彼がどこにいるのかも分からないし、すぐに会いに行けるほどの手がかりもない。
「えり」と「そーくん」が一緒に行った公園や駄菓子屋さんの名前が記されていたから、
そこを手がかりに探してみることにした。
私は駄菓子屋に足を運び、少しずつ地元の人に話を聞いてみることにした。
「そーくん」の名前を出して話しかけると、年配の店員が
「ああ、あの子ね。昔はよくえりちゃんと一緒に来てたよ。ただね…色々あってね…今ではめっきり来なくなっちゃったね。今は市内の高校に通ってるみたいだよ。何度かあそこの制服を着てる姿は見かけたからね。」
と教えてくれた。
「えり」が日記に書いていた情景と一致する場所と、「そーくん」の姿が頭に浮かび、私は迷わずその学校を調べた。
やがて、転校の手続きを進めた。
入院明けで、いじめられた過去からも、元いた地区の高校には行きたくなかった。
どうせリスタートするなら、私の記憶に縁のある人に会いたいと思った。
そういう理由で、親族の家に預けられ、遠くの高校に転校する道を決めたのだ。
*
期待と不安を胸に、新しい学校の校門をくぐった。
見慣れない制服の自分が少しぎこちなく感じる。
それでも、心のどこかで希望を抱いていた。
日記に書かれていた、明るくて優しい笑顔の彼は今どうしているんだろう。
でも、私の目に入った彼の姿は、記憶とは程遠いものだった。
教室の片隅で、まるで誰にも話しかけられたくないとでも言うように俯いていた。
顔にかかる髪が表情を隠し、かつての笑顔の面影はどこにもなかった。
周囲の誰も、彼に話しかけようとする様子はない。
ただ、彼一人が周りの風景から浮いているように見えた。
胸が締めつけられる。
私は、会えた喜びよりも、違和感の方が大きかった。
絵莉の記憶に出てくる颯真と、目の前にいる彼はまるで別人のようだった──




