八月二十五日 花火
栂下町の町祭りで打ち上げられる花火には、カップルで見ると願いが叶うっていう噂があるけれど、実はそんなにシンプルではなく、細かいルールがある。まず、いつまで見ていればいいのか。最初から最後まで見なければならないのか。答えは違う。見るのは青い花火だけでいい。町祭りの花火は毎年打ち上げる数が異なるんだけど、一発だけ真っ青な花火が必ず上がる。それは空に雲がかかっていると見づらくて不発だったのかなと勘違いしてしまうぐらいのダークブルーなのだが、晴れた夜空で開花するそれは静寂と厳粛を俺達の胸に灯す。他の華やかで明るい花火達とは一線を画し、祭りの時間が止まる。星々も瞬きをやめるという。とにかくその花火だ。願いを叶えたいならその花火だけを見ればいい。他はスルーしても問題ない。で、次にどうやって願い事を主張するかなんだけれど、花火が開いている間に心の中で十回唱えればいい。九回ではダメだし、十一回以上でもダメ。そして『開いている間』とは、打ち上げられた花火が空に広がり、ドン!と音が聞こえてから消えるまでの間だ。音が聞こえるまで唱え始めてはならない。それさえ失敗しなければ、消えるまでに十回唱えるのは難しくないだろう。それから、最後のルール。願い事を唱える間、カップルは両手を握り合いながら唇同士でキスをしていなければならない。以上だ。厳密にツッコませてもらえるなら『カップルで花火を見ると願いが叶う』と言っておきながら青い花火の最中はキスしていなくちゃいけないわけだから花火なんて見てないじゃんって感じなのだが、まあそういうことなのだ。言葉の綾だ。
栂下町の森には大きな池がある。湖なのかな? いや、ボウトン池と呼ばれているから池なんだろう。どんな字を書くかは知らないし、実際に字で紹介されているところも見たことがないので、ただの渾名、本当の名前が別にあったりするのかもしれない。ともあれ、メチャクチャ大きな池があり、そこが花火の打ち上げ場所だ。火が森に落ちたら大火事になるんじゃないのか?と心配になるが、俺も一度見に行ったことがあるんだけれど、池は本当に巨大だし、そこの畔から打ち上げるわけだからまあ危険はないんだろう。
町祭り当日の午前中。皆瀬和沙がウチに来て俺のベッドでうつ伏せになり漫画を読んでいる。俺も床にあぐらを掻いて同じく漫画を読んでいる。町祭りは午後からが本番だ。午前中に出ていってむざむざ体力を消費することもない。昼過ぎまでは自宅で待機だ。最近は俺が和沙の家へ行くと皆瀬家の両親が嫌な顔をするので、和沙と会うときはこっそりウチってことになる。別に変なことはしていない。俺と和沙は幼馴染みの友達だ。話すようになったのは中学に入ってからだが。
姿勢を変えずに和沙が話しかけてくる。
「ねえ、祭りんとこ行ったらどうする?」
俺も漫画に目を落としたまま「適当」と答える。目的などはなく、適当にぶらぶらする。
「あたし、笠原とかと合流するわ」
「おう、いってらー」俺は笠原とかは興味ないので行かない。「そういや佐藤はどうするん? 祭り来るんか?」
「由姫も笠原らといっしょに来るよー」
「え、あいつなんかデートに誘われとらんだ?」
桶崎勇心と待ち合わせするとかなんとか聞いた気がする。
「知らん。行かんのやろ」
「えー、最悪。可哀想」待ってるんじゃねえの?
「そんな、喋ったことない男子と二人では行けんやろ」
「まあなあ。俺も喋ったことない女子とは行けんなあ」
「あんたは行きそうや」
「行かんて」
でも、それにしても桶崎は悲惨だ。佐藤が来てくれることを信じて、祈って、今ももしかしたらどこかで待ちぼうけしているのかもしれない。来るか来ないか本人にはわからないってところがおぞましいな。俺だったら絶対に確定させておくね、事前に。けど、来るか来ないかわからない状態で来てくれたら脳汁メッチャ出そう。桶崎はそれを狙って敢えて不確定な立場で挑んだのかもしれない。だとしたらすごい変態だ。そして俺は来ないということをもう知ってしまった……。
少し時間を置いてから和沙が言う。
「夕方まで笠原らといっしょにおって、花火はあんたと見たい」
え? ふうん。「いいよ」
「いいよって、そんだけ?」
「何が?」
「花火いっしょに見たいって、どういう意味かわかっとるん?」
特別な意味だとはわかっているがとりあえず泳がせてみたのだ。
「俺のこと好きなん?」
「違うわ」と和沙が笑っている。
違うのかよ。俺は漫画を置く。
「何がしてえんじゃ」
「あれやって。願い事」
和沙も体を起こして俺を見ている。「カップルで花火を見たら願いが叶うヤツ。あたしあれやりたい」
「あれやりたいっつって、カップルじゃねえと叶わんぞ」
「やからカップルになろうさ」
「なろうさって、俺のこと好きなんか?」
「わからん」
「わからんだらカップルになれんやろが」
「塔矢はあたしのこと好き?」
「え、わからん」
好きは好きだけど、恋愛感情なのかはわからない。でもやらせてくれるならやりたいとは思う。
「まあ好きかわからんでもカップルにはなれるやろ。そんなカップルいっぱいおるやん」
「でもそんなカップルって、カップル判定してもらえるんか?」
「カップル判定って、誰がするん?」
「そりゃ神様やろ。願い叶えるのは神様やろうからな」
愛情度が足りなかったら他の条件を満たしても失格になってしまうかもしれない。
「いや、ほんならあたし塔矢のこと好きやわ。好き好き、好きやわ」
「嘘くさあ」
「いやホントに」
「じゃあ俺も和沙のこと好きやわ」
「やったー、両思い、カップル成立やん」
「ふん」
でもあんな噂、和沙は本当に信じているんだろうか。ルールが具体的で細かいから一見信憑性がありそうに感じるけど、そこまで難易度が高いってほどじゃない。普通に頑張れば達成できてしまう。だけど俺はこれまで生きてきて、願いを叶えましたという奴を見たことがない。それともあれか? 面倒臭くて誰もチャレンジしてないとか? チャレンジしようと意気込んで花火を見上げるけど、見ている間にどうでもよくなってきてそのまま見終わってしまったりしてるんだろうか? お祭り気分に当てられてぼんやりしているとついチャレンジを忘れてしまう? あるいは、ルールを整理して臨んでも、いざ本番となるとテンパってしまって意外と達成困難だったりするんだろうか? わからない。
「なあ、でもわかっとるんやろな。青い花火んときにキスしながら十回唱えないかんのやぞ?願い事」
「ええ? うん……」
「両手を繋いだ状態でキスしたまま、頭ん中で十回願い事を唱える。これを青い花火がドン!って鳴ってから消えるまでの間にやるんや」
「ややこし。わからんわ。とりあえずそのときになったらもっかい教えてや」
「いや、そのときに解説しとったら間に合わんて。事前に頭に叩き込んどかな」
「えー、できるかな」
俺は和沙を眺めながら信じられないって気持ちでいっぱいだ。でもなるほど。和沙みたいな奴ばかりなら、たしかに達成はなかなかに困難かもしれない。それなら今までに誰も願いを叶えられていないって事実にも納得がいく。
「練習しとくか」
「え、嫌やわ気持ち悪いなあ」
「気持ち悪いって、てめえ」
なんなんだよ。願い事を叶えたいのか叶えたくないのか。正直、願い事なんてどうでもよくて、こいつ、俺と付き合いたいだけだろ、むふふと最初は思ったが、違うな。なんだよ気持ち悪いって。
「……予習しとかな絶対成功せんぞ。だってお前、ルール全然頭に入っとらんやろ」
「キスしながら十回願い事言うんやろ?」
「花火が鳴る前に唱えてもうたら終了やからな」
「ええ……花火が鳴ってから言うん?」
「そうやって言っとるやん。青い花火やぞ、ちなみに。真っ青なヤツ。他の色が混ざっとる花火じゃねえさけな」
「むず。メッチャ複雑やん。間違えそう」
「まああきらめるんならそんでいいけど」
「嫌や。やりたい」
「……そういや願い事ってなんなん?」
「え、秘密や」
「いや、俺もおんなじヤツ十回唱えないかんのやぞ? 共有できんだら叶えれんぞ」
「そうなん?」
「そうや。教えれや」
「えー……じゃあ、『億万長者』」
「ああ……」ものすごい現実的だ。でも億万長者はわかりやすい。俺もなりたい。「ほしたら『億万長者』って十回唱えるってことでいいな? 『億万長者になりたい』とか、違う言葉唱えるなや? お互いにおんなじ言葉を唱えないかんのやしな?」
「わかった」と言いながら和沙は笑っている。
「なんじゃいや」
「や、塔矢メッチャ真剣やから。おもろい」
「うっさいわ。やるんならちゃんとやろうさ。もしかしたら本当に億万長者になれるかもしれんのやし」
「わかったよ」
「ほしたら練習してみるぞ」
「ぷ。はいはい」
「気持ち悪くないさけな」
「ふふ。わかったわかった。気持ち悪くないい。なに傷ついとるんやって」
「傷ついてねえわ」
俺はちょっと苛立っているように見せ、それを推進力に和沙へと迫る。びくっと体を固くしている和沙の両手を取り、ベッドの上で向かい合う。和沙はばつが悪そうに、少し上目遣いに俺を見ている。友達として接しているときには何も思わないが、和沙の微妙に吊り上がっているけどクリッとした目が好きだ。肩甲骨とか鎖骨辺りにまでかかる長めの黒髪も、ゼラチンに覆われているみたいに艶々でつい触りたくなる。
「この状態で、青い花火が上がったらキスを始めて、音が聞こえてから『億万長者』って十回唱えるんや。素早くな」
「億万長者、億万長者、億万長者……」
「頭ん中で唱えるだけでいい」
「口に出してもいいんやろ? 頭ん中やとわからんくなりそうや」
「そんなことあるう? でも口には出せんぞ。だって、本番はキスしながらになるさけ」
「あ」和沙は反射的に人差し指で唇を押さえる。「マジかあ。そっか」
「頭ん中で唱える練習もしとけや」
「ムズすぎなんやけど」とぼやきながらも和沙は目を閉じ、頭の中でたぶん『億万長者』を唱えてる。
「簡単にはいかんそうやな」
今のままだと失敗しそう。まあそれならそれでいいんだけど。別に命を賭けているわけでもない。今年億万長者になれなかったら餓死するってわけじゃない。
集中している和沙を眺めていると、不意に目を開けられる。俺はさっと目を逸らす。
和沙が訊いてくる。「塔矢はキスしたことあるん?」
「あ? あるわ」
「誰と」
「……嘘や。ねえわ」
「どっちじゃ」
「ねえって。なんじゃいや」
「いや……ファーストキスがあたしでいいんか?」
「は。ファーストキスなんて意識しとらんわ」
笑い飛ばす。別にキスしたい相手がいるわけでもないし。誰かと絶対にキスしないといけないんだったら和沙でいい。言わないけど。だから今回のこのチャレンジ、俺的には一向に構わないのだった。
「和沙は?」
「お金の方が大事や」
「がめついなあ」
「ファーストキスを捧げて億万長者になれるんやったら安いもんやろ」
「まあ安いかもしれんけど。失敗しても泣くなや」
「泣かんん」
「ほんならいいけど。……ん? ファーストキスを捧げて億万長者になるってことは、キスの練習はせんってことなんやな? ぶっつけ本番?」
「キスはせんて。そんなん、練習なんかするもんじゃないやろ」
「まあ。お金のためにするもんでもないけどな」
けど、じゃあ今から本番に備えてキスしようかっつってたしかにいきなりするのは無理だよな。
「先に言っとくけど、願い事を唱えとる間に唇離したらいかんしな」
「はいはい。とにかく花火が鳴ったら、願い事を十回言い終えるまでは唇はぶちゅっとくっつけっぱなしでいいんやね?」
「青い花火のときな」
「わかっとる」
「うん」
「……唇と唇を合わせればいいんやね?」
「そうや。ほっぺとかはダメや」
「わかった」
さて、打ち合わせをしていると正午が近づいてきたので昼食を摂り、それからようやく、やんわりと俺達は町祭りの会場へ向かう。暑い。エアコンばんばんの自宅から真昼の屋外へ出てくると、気温差で息が詰まる。かき氷とかをずっと食べていないと死んでしまう。売っているだろうか? 町側が用意してくれているとタダでもらえるかもしれないが……。
確認しておく。「ほしたら夜、どこで待ち合わせる?」
「どっかそこら辺でいいんじゃない? ぶらぶらしとったら会えるやろ」と和沙は暢気だ。
「いや、でもキスするんやったら人目のないところの方がいいやろ」
「ああ、そっか……」
抜けてるんだよなあ。
和沙は目を泳がせたあと、「塔矢、探しといて」と思考放棄の人任せに走る。
まあいい。「わかったあ。よさげな場所見つけたら連絡するわ。スマホ持ってきとる?」
「うん」
「ちゃんとときどきチェックすれや」
「わかったあ。するする」
「よろしい」
神社の横の駐車スペースが今日は町祭りの会場になっているのだが、その中心部、櫓のところに派手な笠原美世達の姿を見つける。和沙はぼーっとしていて気がついていないふうだったので教えてやり、そこへ行かせる。手のかかる奴。で、俺は笠原達に目撃されないように、別に目撃されてもいいんだけどウザいので、人混みに紛れる。
あてどなく移動していると向出翔耀と出くわしたのでとりあえずいっしょにぼちぼち歩く。
「皆瀬は?」とまず訊かれる。
まあそうだろうなと思う。別に気にならない。
「笠原とかとおるよ」
「ふうん。あんま男女で遊びに来る奴らおらんな」
「そうやな」
これは栂下町の祭りなので、婿鵜中学校の生徒らが必ず訪れるとは限らない。わざわざ足を運ぶ奴もいるけれど、基本的に町人じゃない生徒にとっては無関係なイベントだ。カップルにとって必須のイベントってわけでもない。わざわざこんなところへ来て冷やかされるくらいならどちらかの家へ行って遊んでいた方が有意義だろう。
「祭りは誰と誰が付き合っとるかを知れる絶好の場なんやけどな」
「へえ」
なんて悲しいんだ。カップル調査のために祭りへ繰り出してくるなんて。誰と誰がってのはたしかに気になるけども、そんなことを調べるためにこんなところへは来たくない。俺なら和沙から聞くかな……。
夜に花火が控えていると思うと、気が気でない。和沙とキス。その和沙が傍にいる間はまだ平常心だったが、一人になるとなんだかだんだんそわそわしてきた。あ、それに人目を忍んで花火を見るためのスポットも探しておかなければいけないんだった。しかし、こんなに人がいて、そいつら全員の目を忍べる場所なんてあるか?
延々と歩き、何人かの同級生らと遭遇して、延々と喋っていると、陽が傾いてくる。空がオレンジ色に染まるけど、栂下町は日没時間が早いためすぐさま薄暗くなってしまうだろう。そうなると町祭りも夜の部。櫓を取り囲んでの輪踊りと、それから花火の時間がやって来る。気温が下がってきて肉体的には過ごしやすいが、精神がやばい。いや、肉体もやばいわ。精神と連動して浮かび上がりそうだ。
こんなに追い詰められるなら、やっぱりキスの予行練習もしておけばよかった。ファーストキスを願い事のために消費するって……いや、価値的なことはどうでもいいんだが冷静にこなせるかが不安すぎる。
そもそも俺は噂を信じているのか? 信じていると断言はできないけど、まったく信じていないとも言えない。試す機会があるなら試してみて真実かどうかを確かめたい。そういう気持ちはある。ただ、やっぱり何より、俺と和沙は神様からカップルだと認めてもらえるのかなあっていう前提的な不確定要素はある。この最初の段階で失格だったら、もうあとの工程をどんなに華麗に成功させても意味ないんだよな……。
本格的に暗くなってくる。伸びていた影が闇夜に吸い込まれる。だけど、それに合わせて明かりが灯され、いよいよ町祭りも最高潮という風情を帯びる。
どん!と人にぶつかられ、別に俺がぶつかったわけじゃないんだけど礼儀として「すんません」と振り返ると、和沙だった。呼ぶ代わりに体当たりしてきやがっただけだった。っていうか浴衣に着替えていた。持ってきてはいなかったし、一度帰って着てきたんだろうか。わざわざ? 邪魔臭そう……。和沙が自分の意思でそんなことをするとは思えないし、笠原とかに言われたのか、もしくは家の人に捕まって「せっかくの祭りなんやから浴衣着ねま!」って叱られたんだろうか? まあなんでもいいけど。
「可愛いやん」
「え、はあ……?」和沙は不愉快そうに顔をしかめる。
「え、なんじゃいや」
「は、何が……?」
「いや、俺の台詞なんやけど」なんで怒ってんだよ。「無理矢理着させられたんか?浴衣」
「え? あ、いや……別に」
「ふうん」
なんかはっきりしないね。よくわからないし面倒臭いのであまり触れないでおく。
「ほしたら移動するか」
「あ、あの」と和沙が俺のシャツの裾を掴んでくる。「浴衣、可愛い?」
「あ? 何よ」
「いや……」
「……大丈夫か? テンパりすぎて頭沸いとるんじゃねえんか?」
「別にテンパっとらんわ!」と和沙は声を上げるが、その声に自分で驚き、一度深呼吸、冷静になる。「違くて……褒めてくれてありがとう。そんな素直に褒めてくれると思わんくて、びっくりした」
「褒めたって? なんか褒めたっけ?」
「浴衣。可愛いって」
「え、俺そんなこと言うた?」
「はあ? 死ね」
「ええ……」
情緒不安定かよ。いや、俺が浴衣姿を褒めてくれたと思っていたら実際は褒めてなかったから機嫌を損ねたのか。え、俺、別に褒めてないよな? なんかコメントしたっけ? やべえ、してたとしたら無意識だ、怖ぇ……。でもまあ、いいんじゃないですか、浴衣姿。可愛い子が浴衣を着れば当たり前により可愛いし、和沙はまあ可愛い見た目をしているので浴衣もそれなりに似合う。
和沙がどこかへ歩いていく。
「どこ行くん?」
「帰る」
「は?」
え、今さっきの怒りってまだ続いてるの? 俺は戸惑う。そこまで根が深かったのか?今のやり取り。
「願い事は?」
「せん。冷めたわ」
「ちょう待ってや」メッチャ怒ってるじゃん。恐い。「すまんすまん。俺が悪かったわ」
「別に塔矢は悪くないよ。あたしが勝手に怒っとるだけやし」
そうだよなあ。その通りで、これすごい面倒臭いやつ……と思いながらも、このまま解散するのも後味が悪すぎるので俺は頑張る。
「いや、俺もしかしたら浴衣褒めたかもしれん。でも反射的に出た言葉やったし自分で言った自覚ないかもしれん」
「そんなことある? そんなのバカじゃん」
「たしかにな。いやでもお前、俺が褒めたの聞いたんやろ?」
「知らん。幻聴かもしれん。聞いとらんわ」
「ちゃう。待てって。このあとのキスのこと考えてぼーっとしとった。マジで無意識で褒めとった可能性はあるよ」
「もうキスせんから大丈夫やよ」
「待て待て。キスはいいけど、浴衣は可愛いってちゃんと思っとるよ」
「もういいから」
って冗談じゃなく帰ろうとしている和沙をなんとか引き止めようとしていると、ドン!と全身を震わせるような音が鳴り、最初の花火が上がってしまう。白っぽい花火。一発目は軽いヤツ。
「花火や、和沙」
気を引こうとするが、「うん、見ときねや」と和沙はにべもない。
「いっしょに見ようさ。せめて。な?」
「……嫌」と言いながらも、しかしなんとか立ち止まってくれる。
二発目。青! 青い花火だ! マジか!? もう来た? フェイントのつもりか? サプライズ? いや、サプライズとか意味不明だ。こんな早くに出してくるなよ。
「和沙、青! 青!」
「え? え、え……」
ドン!と盛大な音が鳴り、真っ青な炎が空に花開く。
イメトレを熱心にやっていたから体が勝手に動いてしまったんだろう、口では「しない」と言っておきながら、和沙は俺の肩に手を置き、ぐっと爪先立ちをして口付けしてくる。
や、でもこれ、ルール……「和沙、手、手」
手を握っていないと無効だ。焦る焦る焦る。俺は和沙の両手を肩から下ろさせ、改めて握る。青い花火はまだ消えていないはず。でもいちいち確認している時間もないので、そのままどちらからともなく唇を合わせる。急いでいるから勢いがすさまじい。和沙の唇が俺の唇をうにぃぃんと潰し、和沙自身の唇をもにゅゅゅんと潰す。唇。自分の体にも付いていて普段は存在感なんて何もないクセに、他人のものが触れてくるとどうしてこんなにも感触を強く主張してくるんだろう? 柔らかいし温かい。唇にしか意識が行かなくて、いま背後から包丁で刺されても俺は気付かないだろう。
和沙がゆっくりと唇を離し、それから両手もほどく。「……間に合った?」
「…………」俺は放心。
「なんや。キスせんて言っとったクセにすんなやってか?」
「や、違うて。願い事唱えた?」
「……唱えたよ」
「すまんけど俺は唱えれんだわ」
唱えることも忘れて、和沙の唇の感触に圧倒されてしまっていた。マジで。手を握るところまでは抜け目なく覚えていて和沙に声をかける余裕すらあったのに、キスした途端飛んだ。呑まれた。願い事なんてどうでもいいから和沙の唇に集中したいよ、と思うこともなく、でも、実際集中してしまっていた。
和沙から白い目を向けられる。「じゃあ何を唱えとったん?」
「特に何も……」
「ほしたら億万長者はナシってこと?」
「今年はナシやな」
まあ唱えきったところで、って感じもあるが。俺と和沙は険悪でカップルか怪しかったし、スタートが出遅れたから花火が消える前に十回唱えられていたかもグレーっぽかったし。
「あーあ、役に立たんなあ、塔矢」
「すまんな。二発目がもう青い花火やとは思わんかったわ」
もうちょっと最後の方にするとか、あるよな? まあ最後の方にされていたら和沙はとっくに帰っていたかもしれないんだけど。ん? じゃあ二発目でよかったのか。
「……もう帰る?」
「塔矢は?」
「もう帰る。たぶんみんなにキスしとるの見られたし。もういいわ」
あとからだんだんと恥ずかしさが込み上げてきそうだ。既にその兆候があり、体がぞわぞわする。早めに会場から立ち去りたい。
「そういえばそうやね」と言うが和沙は可笑しそうに笑っている。
「…………」
マジギレしたかと思えば、急に笑いやがって。俺はホッとしながらも、疲労感を覚える。こいつといっしょにいるのなら注意深さに磨きをかけないと、ホントにわけのわからないことでケンカになりそうだ……などと考えている俺は、これからも和沙といっしょにいるつもりらしく、自分で自分に、ふうんと思う。
「帰ろうさ。親帰ってくるまでウチにおる?」
「んー……浴衣やと疲れるしなあ」
「別に何もせんのやしいいやん。明るいところで浴衣姿見せてや。せっかくなんやし、もっとちゃんと可愛いとこ見せれや」
普段は絶対に言わないし、言いたくないような台詞を言っておく。さっきの謝意と、それから、この先和沙とどうなるかわからないけど、俺の方の素直な気持ちはチラリと見せておく。
「来年こそ億万長者にしてくれるんやったらいいよ」と和沙が言う。
来年か。俺が油断して和沙の機嫌を損なわせなければ大丈夫だろう。