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それでもそこに  作者: 秋月カナリア
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 気がつくと部屋は薄暗く、つけっぱなしだったテレビのちらちらとした光が壁で揺れていた。時間を確かめたかったが、壁掛けの時計は暗くて見えないし、手元に携帯電話はなかった。


 なにもかもが億劫だ。


 ソファから体を起こしてテーブルの上に置いてあるカップを手に取る。底に少しだけ残ったコーヒーを飲んだ。

 今日は何曜日だったか。着ているものを見るとスーツであるから、きっと今日は仕事だったのだと思う。明日も仕事だろうか。


 このまま寝てしまおう。幸い寒くはない。


 首元を緩めて、もう一度横になろうとした瞬間、背後で物音がした。


 床が軋む音のように聞こえた。

 背後には磨りガラスがはめられた扉があり、その向こうは廊下、そして玄関。


 鍵はかけただろうか。


 扉を振り返り、ゆっくりと立ち上がった。


 泥棒かもしれない。いや、こんな深夜に侵入してくるようなら、強盗だ。


 扉に注目したまま、息を殺して待った。

 誰かが扉の向こうにいるなら、磨りガラス越しに見えるはずだ。暗いけれどそれくらいわかるはず。

 立ったまま磨りガラスを見続けていたが、なにも変化はなかった。


 ただの家鳴りだったのかもしれない。


 それとも、


「チカ?」


 声が掠れた。


 何の音もしない。


 先ほどよりもさらに大きな疲労感を覚えた。

 チカに会いたかった。



 チカのことを話そう。


 チカと出会ったのは、高校生のときだった。

 入学式の次の日、私は授業が始まるまで、自分の席で本を読んでいた。


 中央の列の一番前。

 教卓の前が私の席だった。

 それまでの数ヶ月、読書の時間を削って勉強していた私は、久しぶりにゆっくり本が読めることが嬉しかった。次第に大きくなる室内のざわめきも、妙に心地よい。


 ふと顔を上げたとき、チカが私の前を通り過ぎた。

 進学校にしては珍しく、日に焼けた肌をしていたから目を引いた。背筋がすっと伸びていて、引き締まった身体であるのが、制服の上からでもわかった。茶色の髪が無造作に肩口まで伸びている。

 チカは窓際の席につくと、バッグを机の脇にかけた。


 チャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。私は正面を向き、読んでいた本に指を挟んだままだったので、慌ててしおりを挟み机の中にしまった。


 それからしばらく、特別なことはなかった。だが密かにチカのことを気にしていた。ただこれは、クラスの大半の生徒がそうだったように思う。チカは無口、クールという印象をみんなが持っていて、そういったタイプの生徒が珍しかったのだ。


 チカが誰かと喋っているところを、あまり見たことがなかった。話しかけられれば応えていたし、周囲を拒絶して孤立しているふうでもなかった。もちろん、いじめられていたり、無視されていたわけでもない。

 休み時間は勉強をしていて、昼休みになるとどこかへいなくなっていた。


 初めてチカと喋ったのは中間テストのときだった。

 部活動は禁止され、テストが終わればほとんどの生徒が帰宅させられた。

 私はみんなから遅れて学校を出た。自転車を押しながら、学校の裏手を歩いているところで、物音が聞こえて立ち止まった。ドンというかボンというか、何かがぶつかる音。


 頭の中でその音の正体を想像しながら、その音の方向へ足を向けた。

 学校の敷地はフェンスで囲まれているけれど、裏手にも出入り口はある。そこから校内に入った。


 音がしていたのは、第二グラウンドだった。授業では使われない場所で、サッカー部専用のグラウンドになっていた。私たちの高校は、田舎の進学校にしては珍しく男子も女子もサッカー部があったから、それなりにサッカーに力を入れていたのだろうが、目立った成績は残していなかったように記憶している。


 聞こえてくるのは、ボールを蹴る音だ。


 グラウンドは低木の向こうに隠れていて見えない。


 先生だろうか生徒だろうか。


 生徒は部活動が禁止されているから先生だろうと考えて、いや、テストの採点に忙しいであろう先生でもない、と思い直した。


 木陰からそっとグラウンドを覗くと、そこにはチカがいた。

 足許にボールを何個も置いて、それを順番にゴールへとキックしていく。すべて蹴り終わるとゴールへと走りより、ボールを集めて、今度は違う角度から。


 私はその姿をしばらく黙って眺めていた。


 単純に綺麗だと思った。


 ゴールへと送る鋭い視線だとか、汗を拭う仕草だとか、私の生活にいままで存在していなかった種類のものだった。

 そのとき初めて、異性に対して、綺麗だと感じたのだと思う。深い青空を見たときや、視界いっぱいに広がるひまわり畑を見たときとのような、清々しい美だった。


 そのうちに私のことが視界に入ったらしく、チカがこちらを見た。

 私はどうすれば良いかわからなくなり、軽く手を上げて挨拶の代わりにした。


「テスト勉強は?」


 チカがそう尋ねてきたので、私も「そっちこそ」と返す。

「許可はもらったから」とチカは答えた。


 あとから聞いた話によると、成績を落とさない代わりに、こうして練習させてもらえるように顧問に頼んだらしいのだ。

 まだ入学して間もない一年生だし、突っぱねられてもおかしくないのに、よく頼んだものだと驚いた。

 私はスポーツに縁のない生活を送ってきたため、チカのサッカーのうまさというものを、本当のところ理解できていなかったと思う。


 チカがサッカーをする姿を何度も見てきたが、他のチームメイトや他校の生徒と比べても、チカの技術が極めて高いことはわかった。

 そしてチカ一人がどんなにうまいプレイをしても、チームが勝利するとは限らないこともわかった。チーム戦なのだから当たり前だ。

 チームメイトだって練習し、努力しているのだろうが、それでもチカが孤軍奮闘しているように見えて、歯がゆく感じることもあった。

 本来ならサッカーの名門校に進学していても、おかしくはなかったはずだ。何か理由があるのだろう。興味はあるがプライベートすぎる内容だと思ったから、私からチカに聞くことはなかった。


 その練習の日を境に、私たちは教室でも会話をするようになった。私がチカに話しかけることに抵抗がなくなったのだ。

 学校生活を送っていると、孤高な存在でいるというのは難しい。なにかとペアやグループを組まされる。

 だからそういったタイミングになると、私とチカはよくペアを組むことになった。気づくと私たち二人だけが残っているのだ。私たちがよく会話をするようになったから、周囲も当然二人で組むだろうと思ったのだろう。

 だから余計に会話が増えた。すると自然にプライベートなことも話すようになった。

 チカは真剣に話してくれたし、私も真剣に聞いた。チカの考えは、私には少し潔癖ではないかと感じたけれど、好ましかった。

 私はそうやってチカを好きになった。

 


 よく晴れた秋の日だった。

 学校行事があって、授業は午前中で終わった。

 私はお弁当を食べて、図書室で本を読んでいた。


 窓から心地よい風が入ってきていた。気温はまだまだ高かったが、夏のような湿度はなく、爽やかな気候だった。運動部の掛け声と、吹奏楽部の楽器の音が聞こえていた。


 読んでいたのはミステリィだった。そして恋愛小説でもあった。

 読み終わった私はそわそわした気持ちのまま、図書室をあとにした。


 小説の中では、登場人物がただ無邪気に好きな人に想いを伝えていた。話のメインはミステリィだったけれど、読み終わってみれば、そこが一番印象に残った。他人を大切に想うということが素敵なことだと、素直に思わせてくれた。


 私は靴を履くとグラウンドへと出てみた。

 陽光が眩しくて、しばらく立ち止まり目を閉じる。頬に日が当たって刺すような暑さだが、風が冷たくて心地よい。

 目を開ける。まだ少し眩しかったがそのまま歩き出した。

 空の色が夏のころより淡く感じる。

 完璧な一日、というものがあるとしたら今日のような日ではないだろうか。


 遠くでチカを見つけた。


 他には誰もいない。


 私は校舎を振り返った。


 視界の範囲には誰もいなかった。


 遠くでトランペットの音がした。


 注意深く周囲を見渡す。


 まだ多くの学生が学校に残っているはずなのに、今、この瞬間、この場には私とチカしかいなかった。

 もう一度チカの方を向くと、大きな声でチカの名前を呼んだ。

 チカが気づかないものだから、私は何度も名前を呼びながら、チカに駆け寄った。


 その日から、チカと付き合うことになった。

 そのことに一番驚いているのは、もちろん私だった。チカへの想いを本人に伝えられれば良い、本人に知っていて欲しいという程度の考えで想いを告げていたのだ。

 高校生なのだから想いを伝えれば、付き合うか付き合わないかという話なるのだということを失念していた。チカは異性に興味がないだろうと勝手に思っていたのだ。


 チカは放課後も休日もサッカーの練習に明け暮れていたし、勉強も熱心だった。そこに他人が入り込む余地などありはしないとも思っていた。

 だから交際するということは、少なくとも私のために時間を割こうとチカは考えてくれたのだ。だとしたら、とても嬉しかった。

 実際、高校時代のチカと私は、交際しているといえるようなイベントは、ほぼなかった。


 どこかへ出かけることもなかったし、家が離れていたため、放課後一緒に帰るということもしなかった。そもそも、部活をしているチカと私は帰宅時間が異なっていた。

 それでも以前より親密になれた気がした。私はそれだけで満足だった。


 三年生になって志望校別にクラス分けがなされた。これでチカともクラスが離れてしまうだろうと思っていた。チカに私立大学のサッカー部から、推薦の話がきていることを知っていたからだ。校内でもその噂が密かに流れていた。

 受験勉強よりサッカーを優先しても良くなるのだ。チカは当然その誘いに乗るだろうと考えていた。

 ところがチカは私と同じく国立文系クラスを選んだ。


 チカは先のことを見ていたのだ。大学に入って、卒業して、もしサッカーでプロになれたとして、その先は? さらに先は?


 十年後や二十年後の自分がどうなっているかなんて、子供の頃に書かされた将来の夢以上のことは私には思い浮かばなかった。

 私はただ勉強をしてきただけだ。それでも熱心にとはいえず、そして特別将来のことを考えていたわけではない。

 学生の間は、ただ勉強だけきちんとしていれば、とりあえずは安心できる。そして就職したら、仕事だけはきちんとしていれば、とりあえずは安心できるだろうと、曖昧に想像していた。


 大学は別々へ進んだ。

 チカが悩んだ末に、推薦の話を受けたことが、私は自分の合格よりも嬉しかった。

 何か心境の変化があったのだろう。私はただ側にいただけなので、詳しいことは知らない。


 私は東京に引っ越して、伯母の家にお世話になった。一人暮らしの方が気を使わなくて良いのだが、できるだけお金を貯めたかった。チカに会いに行くために。

 大学の四年間は月に一回、顔を合わせられれば良い方だった。

 チカはサッカーの練習と勉強と、忙しそうだったが、それは高校時代と変わらないことだった。


 私は寂しかっただろうか。周囲の恋人たちは毎日のように会い、頻繁に連絡を取り合っていた。

 思い返して、その時代が辛かったとは思わない。当時は当時で楽しかったのだ。でも、たとえばもう一度やり直せるとしたら、チカと一緒にいられる時間が長い方を選びたい。


 卒業と同時にチカと結婚することになった。

 プロポーズをされたのだ。

 これは、そう、告白を受け入れられた以来の驚きだった。

 私は結婚するならチカ以外に考えられなかったし、チカも望んでくれるなら、いずれはしたいと思っていた。それにしても、プロポーズは当然私からだと思っていた。


 サッカー中心の生活は大学までとチカは言って、その言葉通り就職してしまった。

 大学でのサッカーの活躍を見ていたので、もしかしたら実業団やプロへの道もあったのではないかと想像するが、チカは話さなかったし、私も聞くことはなかった。


 私は小さな会社に事務職で採用された。

 仕事に慣れた頃に、一緒に住み始めた。結婚式はせず、お互いの家族と食事をするだけで済ませた。


 それから十年ほど、穏やかな日々が続いた。

 子供はいなかったけれど、特別大きな悪いことも起きなかった。

 高校時代から五年間も交際していたにもかかわらず、結婚するまでチカと長い時間一緒にいることがなかった。そのため、家に帰ればチカがいる、という生活に初めは戸惑いがあった。

 だらしのない自分を見て、チカが失望するのが怖かった。だが一緒に暮らすとなると、ずっと猫をかぶっていることが難しくなる。しばらくして出始めた私のボロは、チカにとっては特別気になるようなことでもなかったようだ。


 そうして暮らしていくうちに、私にとって実家よりも二人の住まいのほうが、安心できる場に変わった。これが、結婚するということなのかもしれない。

 私は勉強が仕事に変わったくらいで、相変わらず趣味は読書だけだった。


 チカは生活の大部分を占めていたサッカーをやめ、手持ち無沙汰な時期があったが、しばらくして大学時代の後輩の誘いでフットサルチームに入った。

 チームメイトは社会人が多く、定期的に集まって練習はできないようだったが、フットサル場に行けば即席でチームを組んでプレイすることもできるそうだった。


 私は結婚して少し太ったが、チカは学生時代のままの体型だった。



 チカの病気が発覚したのは、あれは、いつの頃だっただろうか。


 あまり覚えていない。でも、会社の健康診断でわかったのだから、春だったのだろう。


 健康診断を実施した病院から連絡があり、翌日には入院となった。入院する日の朝、チカの代わりに私が病院まで紹介状を取りに行った。


 私が事態を飲み込む前に、次々と物事が押し寄せてきた。


 チカは自分の病気のことを聞いたその日のうちに、職場へ休職する旨を伝え、職場に置いてあった自分の荷物を引き取り、入院に必要なものを買いそろえ、実家へと連絡した。


 私が聞いたのは仕事を定時であがり、家に帰り着いた後だった。


 お義父さんもすぐにこちらへきた。仕事があるため、とりあえず一週間の滞在予定だった。私たちの家へ泊まるように強くすすめたのだが、すぐに病院へと行ける駅前のホテルのほうが良いと断られた。

 確かに、家から通うには少し不便であった。私も同じホテルをとろうとして、チカにとめられた。


 治療は長く続くのだから、毎日お見舞いにこなくても大丈夫だと。それよりも私のほうが倒れてしまわないように、チカは気遣ってくれた。


 そうは言われたが、私は毎日仕事終わりにチカの病室へ寄り、洗濯物を受け取り、新しいものを届け、必要なものはすぐに買いに行き、そして、なにもなくても、ただ話すために通った。


 お義父さんは予定通り一週間で一度実家へ戻っていった。

 私の両親もお見舞いに来てくれた。母は私のために、保存のきく料理を冷蔵庫いっぱいに作って帰って行った。


 一時帰宅の日のことだ。

 私は何日も前から部屋を掃除して、チカが快適に過ごせるように準備していた。仕事も有給をとった。


 病院までチカを迎えに行き、タクシーで自宅まで戻った。タクシーを降り、チカを支えエレベーターで三階へ。玄関前、鍵を開けるためにチカからほんの一瞬手を放した瞬間に、チカが倒れた。

 自宅へ入る間もなく病院へ運ばれ、そして生きて戻ることはなかった。


 それから……それから、私の記憶は、しばらく点滅を繰り返す。だからこれは、後から聞いた話だ。


 チカの死後、私は傍から見れば立派に喪主を務めたようだ。

 私もチカも友人らしい友人はいないため、葬儀は仕事関係の数人と、連絡が取れたチカの大学時代のチームメイトがきてくれた。その対応も、私はちゃんとできていたらしい。

 葬儀も終わり、私は仕事に復帰することになった。


 両親は、いたって平気そうな様子を見て、逆に不審がり、実家へと帰ってくるように言ってくれたようなのだが、私にも仕事があるからと頑として断ったようだ。

 二週間ほどは両親も自宅にいてくれた。両親が実家に戻ってから、しばらくの間は、一人で生活できていたのだと思う。


 朝起きて朝食をとり、出勤し、仕事をし、帰宅し、夕食を食べ、入浴し、就寝。休日には洗濯も、掃除も。

 そんな生活も、うまく回っていたのは二、三ヶ月くらいだった。


 ぽつりぽつりと無断欠勤する日が出てきたようだ。衣服にも皺が目立っていた。上司は私の異常にいち早く気づき、私の知らぬ間に両親に連絡を取ってくれたらしい。

 

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