2話:覚醒
――臭い。
臭い、臭い、臭い。
ツンと鼻につく匂いだ。不快な、それでいてどこか馴染みのあるような、そんなーー。
ただ、なにもわからない。意識という意識が靄がかっているような、そんな感覚。
「……経…続……、……好で…………。」
「シーク………、…度を………試し……。」
遠い遠い意識の先で、微かに聞こえる声。遠すぎて、まともに頭に入ってこない。頭、という感覚すらわからない。
ここは、どこだ。ここはなんだ。俺は、俺はーー。
「……の……、……醒……。再度………。」
朧気ながら浮かび上がった意識が、また沈んで行く。不意に手を伸ばそうとするが、それも叶わない。何も動かせる気がしない。何の自由も効かない。ただただ、意識が遠のいて行く。
畜生、畜生――。
そうだ、この匂い。この匂いはそうだ、知っている。
鉄だ。クソッタレな世界で、嫌になるほど嗅いだ、錆鉄の匂いだ。忌々しい、忌々しい臭いだ。
確かに感じたその感覚も、程なく消える。ゆっくりと、ただ確かに。
ー
ーー
ーーーー
「あ………」
声が聞こえた。確かにはっきりと。
「あ………ぁ……、」
意味を解せないその声は、断続的に続いている。聞いていて気分の良いものではない。ただ先程よりは明確に聞こえてくるのだ。
先程――?
先程とはいつ頃なのだろうか。今よりも前、なにか感じた気がするが、はっきりとしない。
「ぁ…あぁ、…あ……。」
不快な声は尚も続く。何かに縋るようなその声は、酷く情けなく、哀れだった。ただ、どうだろう、この声は聞き覚えがある。
「ぁ……、ぉ……れ……。」
俺の、声じゃないか。情けない、この声は俺だ。酷く弱々しいじゃないか。どうしたと言うんだ。いつも高飛車ぶって高慢ちきに嫌味を散らすあの声はどうした。
自分の事とわかると、やや他の感覚にも意識が向くようになる。
視覚はーー、まだ効かない。目を開けようにも、上手く開けない。
嗅覚はーー、どうやらある。薬品のような匂いが微かにする。
手足はーー、わからない。動いてるような、動いていないような。
自分の身体なのに、こうもはっきりしない事が多いと苛立ちすら覚える。そもそも、どうしてこんなことになっているのか。
俺は、確か、確かーー。
「おや、もう目が覚めたのか、早いな。」
今度は確かに、意味のある言語が聞こえた。これは、俺の声ではない。
「ぁ……、だ………ぇ…。」
「おやおや、もう声も出るのか。驚きだね。話には聞いていたが、驚くべき生命力だ。一体何を起因としているのだろうね。精神力かな、体質かな、それともーー。」
はっきりとしない頭に叩き込まれる声は、現状苦痛でしかない。こちらは微かながら起きたばかりだと言うのに。
救いと言えば、その声が妖艶な、美しい声色だった事だろうか。顔を拝めない事が口惜しい。
「ドクター。完全に覚醒するまでは接触するなと、そう言ったのはドクターではありませんでしたか。」
また声が増えた。こちらはどうやら男のようだ。堅物そうな声だ。この世界じゃ生きやすかろう。
「………アー、いや失敬。どうも興味が湧いてね。申し訳ない。これは私の悪い癖だ。だがそもそも、こんな面白いモノを私に寄越した君らにも責任があるんじゃないか?私の事を知らなかった訳じゃないだろう、巷ではマッドだのなんだのと言われているがね。ただ純粋に研究をーー。」
「ドクター。」
「ハイハイ、悪かったよ。……という訳で被験者A君。少しの間サヨナラだ。まあ、そんなに待つこともないだろう。ゆっくり休みたまえよ。」
一方的に話が進む。正直内容の1割も頭に入ってこないが、どうやら俺は被験者らしい。馬鹿馬鹿しい。何が被験者だ。俺は実験に使われるような事はしてないし、そんな特殊な人間でもないだろう。
「ぅ……、ふ……ぁえ……ぅな………。」
悪態をつこうとしたが、言葉が紡げない。嗚呼、全く自由が効かないというのはこんなにも苛立たしいのか。
頭はようやく動き始めたと言うのに、身体が言うことを効かない。
「アーアー、無理をするんじゃないよ。仕方ないね。麻酔を。」
あ?待て待て。また寝なくちゃいけないのか。説明をしろ。俺は起きているぞ。わからなことだらけなんだ。本当に俺が被験者だと言うのなら、説明を受ける権利くらいあるだろう。
嗚呼、くそ。意識が遠のいてきた。薬を入れやがったな。くそっくそっ。
「気を急ぐなよ。まだ終わっていないんだ。大丈夫だ。次はきっと視えるようになるよ。だから安心したまえ。被験者A君。」
だから、その、被験者ってのを、やめろーー。
意識が沈む。再び、ゆっくり、ゆっくりとーー。
ー
ーー
ーーーー
「結果は?」
「良好だ。いや、素晴らしいよ。私のこれまでの中で一番の逸材だよ。いや、逸材料と言った所だろうか。おっと、人道的に不味かったかね、今のは。まあキミに人道を説かれる筋合いはないけどね。」
「話を脱線させないで頂きたい。それで、動くのか。彼は。」
「あぁ、動くとも。全てが上手くいったんだ。動くさ。動いてもらわないと困る。彼の失敗は、最早私の人生の失敗と同義だからね。決してそうはさせないよ。私が保証する。」
「…そうですか、それなら良い。それでは、彼が完全に覚醒したら、我々にーー。」
「いや、少し経過を診なくてはならない。覚醒したら彼はしばらく私が預かるよ。」
「何……?話が違いますが、ドクター。今は一刻を争う事態なんですよ。」
「そうカリカリしないでくれたまえよ。良好だと言ったが、それは現時点での話だ。言ったろう、失敗はさせないと。万全を期すのさ。それとも何か?キミはその一刻とやらの為に、今後数十年の膨大な犠牲を作ると言うのかね。」
「……あまり時間は作れませんよ。ドクター。何かがあれば、貴女の身も無事ではないとお思いください。」
「怖いねぇ。いやあ怖い怖い。大丈夫だよ。キミ達の期待には沿ってみせるさ。」
「ひと月後、また来ます。それまでには頼みますよ。」
ー
ーー
ーーーー
「……………。ふう、全く、理性ぶってはいるが、あれじゃあただの獣じゃないか。さてーー。」
「ほうら、起きたまえ。一刻の猶予も無いそうだぞ、被験者A君。」
「……き……ぅいてた…ぉか……。」
「勿論だとも。私はキミの第一人者だぞ?気付かない訳がないだろう。研究者は研究対象の些細な変化に常に気を配らなくてはならないんだ。キミが思っているよりはね。些細な変化の見逃しが、世紀の大発見の見逃しに繋がるのかもしれないのだよ?耐え難い、耐え難いよそれは。特にキミのような逸材はね。一分一秒、一コンマさえ無駄にしてはいけないのさ。分かるかい?分からないだろうね。人は自分の価値なんて自分では分からないのさ。例えばーー。」
「よく……、しゃ……ぇるんだな……」
「んん?ああ悪かったね。悪い癖だよ。とにかく、だ。ほら、目を開けたまえ。」
「……ぁにも、みえね………。」
「当たり前だろう。キミにはもう眼球が無いんだから。」
「………………は?」
何て言った?この女、今。俺の眼球が、無い?
「まあ無いっていうのは正確じゃないね。少し失礼するよ。」
ふと、首筋に人肌の感触が伝わる。この女のだろうか。近づかれて初めてわかったが、この女。異様に薬品臭い。研究者らしいが、全員が全員こんなに全身に薬品の匂いを漂わせている訳ではなかろうに。ズボラか、はたまたコイツがただ異常なだけか。
そんな事を考えていると、首筋からカチッという軽い音が鳴った。
それと同時に、全身の感覚が突如、覚醒した。
視覚、嗅覚、手足の感覚――。その全てが明瞭に脳に伝わる。これまでのように、いや、これまで以上に。
「な……んだ、こりゃ………ぁ。」
「驚きだろう?まるで生まれ変わった気分じゃないか?いや、実際キミは生まれ変わっているのだよ。死の淵から、それこそ、死体から復活したようなものさ。ほら鏡を見てご覧。」
視界の端でやたら長身の美女が踊り狂っているが、今はそれどころではない。自分の現状を確かめなくては。眼球の件も気になる。俺はこの女に何をされたんだ。と言うか、鏡はどこだ。それらしいものが見当たらない。
「ああ、申し訳ない。そういえばここに鏡なんて無かったよ。失敬。」
…こいつは俺をおちょくっているのか?言葉とは裏腹にずっとニタニタ笑いやがって。
「今持ってきてあげるよ。ああ、なに、立ち上がらなくても良い。今のキミは、何をするにも恐らく不自由だろうからね。」
そう言い残し、女は部屋を去っていった。
不自由――?何が不自由か。こんなにも感覚が冴えている。恐らく長い間眠っていたであろう意識が覚めたばかりだというのに、頭がすっきりしている。これまで生きてきた中で、こんなにも冴えていることがあっただろうか。あの女も言っていたが、まるで生まれ変わった気分だ。目も耳も何もかも、これまでの自分ではないみたいだ。
手もーーーー。
そう思い、右腕を上げる。
しかしそれは、自分の知っている腕ではなかった。
鉄。
鉄の塊だ。いや、これは鋼か?
いや、そんな事はどうでも良い。今自分の感覚で以て動かした腕が、変わり果てている。これは俺の腕か?そうなのだろう。それでは何か?これは義手か?つまり俺の腕はーー?
呼吸が荒くなる。目の前に広がる事実を飲み込みきれない。
縋るように左腕に視線を向ける。目は良くなったはずなのに、動きが遅い。事実に目を向ける事が怖い。そんな感覚――。
ただ、幸いなことに、そこには見知った左腕があった。痛々しい生傷が見えるが、これは正しく自分の腕だ。
しかし、そうなると、右腕はーー。
「どうやらその様子だと、自分の身体がどうなったか、ぼんやり分かって来ているようだね。関心。せっかく姿見を持ってきたが、取り越し苦労だったかな?まあその目も腕も脚も、私が手掛けたんだ。悪いものじゃないから、安心したまえよ。」
「…………脚…………?」
ベットに掛かっていた毛布を剥ぎ取る。
そこには右腕に見た、鋼の脚があった。
「ぁ………、俺の、脚は…。」
「吹っ飛んだよ。両方ともね。だから両脚ともその鋼の脚に取り替えたのさ。いやなに、良かったじゃないか。下半身ごと無くならなくて。それでキミのブツまで無くなっていたら男としての尊厳どころかヒト科のオスとしてーー。」
「ぁああああッ、うわあああぁぁああッ!!!!!」
耐え切れなくなった。現状が、自分で飲み込めるキャパシティを完全に超えてしまった。
腕が無い?脚が無い?義手義足になりました?いきなりそんな事実を突きつけられて、まともでいられるとでも?
「アーアー、五月蝿いね。折角ジョークで和ませてやろうと思ったのに。もう少し冷静な男かと思ったよ私は。それにほら、お披露目はこれだけじゃないんだ。鏡を見たまえ。腕や脚じゃないぞ、キミの目を見るんだ、ほら。」
頭を掴まれ、無理矢理鏡へ顔を向けさせられる。この女、見た目以上に力が強い。
そこに映っていたのは、見知った自分の顔と、見知らぬ瞳。青とも緑と言えないその双眸は、僅かながら光を帯びている。この色には見覚えがあるがーー。だがそれ以前にこれはーー。
「キミの両目は義眼だ。まあ本来摘出しなくてならなかったのは左目だけだったんだけどね。この際だから右目も義眼にしたのさ。その方が性能の向上に繋がったんだよ。許してくれとは言わないけどね。ただ感謝はして欲しいものだよ。キミのその身体は最早、私の持てる魔工技術の結晶と言っても良い。機械技術では賄えない部分を魔技術で補う。各神経を矛盾無く義体に繋げるに至ったこの魔工技術は神の与えし福音だね。まあ私は神なんて信じてはいないけどね。そもそも神学なんてものはーー。」
「俺はッ!!!」
「んん?」
「俺は、俺は………何の為に生かされた…?」
ニヤつく女の顔が、さらに妖艶に笑みを深める。
「おや、思っていた通り冷静で賢いじゃないか、被験者A君。」
「ジャックスだ。ジャックス・アルバート。被験者Aじゃねェ。」
「ああ、そうかい。ではジャックス君。どうやら混乱しているキミに懇切丁寧にこれまでの経緯とこれからの役割を説明してあげるとしよう。気の短い依頼人が痺れを切らす前に、キミには使い物になってもらわないと、どうやら私の首が危ないらしいのでね。」
ああ、どうせロクな内容じゃないんだろう。クソッタレな世界のクソッタレな国で、こんなクソッタレな目に遭って、これからどんなクソッタレが待っているのやら。
想像もしたくないーー。