1話:ジャックス
喧騒――。
埃と排気ガスの臭いで淀んだ空気の中を、人々は澱みなく歩み行く。まるでそれが当たり前かのように。明日も明後日も、それが続くと信じて止まない表情で。
『――政府への抗議デモは依然省庁前にて開かれており、現在も治安維持部隊による鎮静活動が行われています。また、集会による感染拡大も懸念されておりーー』
街角に流れるラジオからは連日決してご機嫌でもない内容のニュースが流れる。どこもかしこもデモ、デモ、デモーー。それで何かが変わる訳でもないなんて、わかりきっているはずだろうに。
ヒトはどうも、何かをしていなくては気がおかしくなってしまうらしい。それが例え無意味なものだったとしても。「何か」をしているということ自体が、最早生きる縁と成り果ててしまっているのだろうか。
世界が病に侵され、経済も滞り、止むことのない争い。戦争経済なんて謳ってはいるが、それももう怪しさを見せている。
「ウロビスの9mm。」
「あいよ、890エストだ。」
「…また値段上がってねーか?」
「お前さんこんなご時世で贅沢しときながら、甘えたこと言ってんじゃねーよ。こっちだって生活かかってんだからよ。」
「ケッ、それが客にする態度かよ。まァいいや。どーも。」
仮にも商売人が笑顔を忘れているようでは世も末だ。気持ちよく煙草すら吸えやしない。最近ではその煙草も質が悪くなっているという話を聞く。お国はどうやら娯楽物にクオリティを割く余裕すら無いらしい。別段煙草に味を求めている訳ではないため、それ程悲観的にはならないが、ただそういった些細な擦れが日々の彩りを奪ってゆく。
「まァ元々ロクな色しちゃいねーけどな。」
肺に煙を落としながら呟く。ズンと重くのしかかるニコチンとタールが幾分か気分を晴らす。吐き出した煙は煙草のものなのか低体温を示す白い息なのか、はたまた淀んだ排気ガスなのか。街角に消える煙に特に感慨も抱かず、ジャックスは視線を腕時計に向ける。
「15分遅れ…まるで失格だアイツ…」
「ジャーックス!待たせた!」
草臥れた街に似合わない快活な声が響く。視線を源に向けると大手を降って駆け寄る男の姿が見えた。
「15分だ、アレクシー。自覚が足んねェんじゃねーのか。」
「悪い悪い。どうも鉄道が遅れちまっててなあ。」
アレクシー・オーレンス。ジャックスとは対照的に綺麗に身なりを整えたこの大男は、言葉通りに悪びれる様子も無くヘラヘラと笑う。ただ急いで来たのは本当らしく、冬だというのに額には汗が滲んでいる。
「早めの行動を取れってんだよ。遅れましたじゃ済まねェことがあったらどーすんだ。」
「そんときはそんときだろ、全く細けえなあ。女できねーぞ。」
「関係ねェだろ、大体なあ……、まァいいや。さっさと行くぞ。お前のせいで予定が押してんだ。」
アレクシーのマイペース癖は過去何度注意しても終ぞ治ることはなかった。今更咎めた所で何も変わるまい。そんなことよりも優先すべき事がある。そもそもそのためにわざわざこんな街中まで赴いたのだ。でなくては普段ジャックスはこういった人混みには出てこない。
「機嫌直せよー、今度良い女の子紹介してやっからさあ。」
「色恋猿が、相変わらず随分めでたい脳みそしてやがる。」
早足で歩みを進めるジャックスの背中に気だるそうにアレクシーが話す。どうして遅れた側がこうも脳天気なのか。やはりこの男とは反りが合わないと再認識する。
(全く何をどう判断してコイツと組ませたんだ。俺の身にもなってくれ。)
煙草を吸うペースが自然と上がる。本当はもう少しゆっくり吸いたいものだが時間の都合上そうもいかない。また、単純にジャックスの神経質な部分を逆撫でされていることも無関係ではない。
アレクシーとは別段長い関わりではない。旧来の友人という訳でも、心の通じあった仲間という訳でもない。ただただ、同じ組織で、行動を共にするグループになっただけの男だ。団体行動行う上で協調性は最低限持っていて欲しいと切に願う。
(こんな気苦労をするためにココに入った訳じゃねえんだけどな…)
まだ幾分か残っている煙草を踏み潰し、表通りから路地へ入る。名残惜しくはあったが今は時間が最優先だ。
ジャックスは、ボスベニア企業国連邦の反政府組織に加入している。現状、反政府組織なんてものはどの国にも溢れかえっている。しかしこのボスベニアではそれがやたらと多い。それ程、国の現状への不満が募っているのだろう。
税率の上昇、貧富格差、溢れかえる失業者、そして拡大し続けるマルド病――。国が直面している問題を、しかして政府は未だ改善できていない。正確には、内政を整えている余裕がない、と言った方が正しい。
約16年も続いた戦争。それは国を疲弊させるには充分すぎるものであった。人材は戦場へ。産業は軍需化し、泥沼化して行く過程で一般産業の優先度は下がってしまった。その代わりに軍事技術の革新やら魔工技術の革新やらがあり、どうやら政府はそちらに躍起になっているらしい。
まだ戦争は、停戦状態でしかないのだからーー。
そんな現状にメスを入れようとしているのがジャックスが加入した反政府組織「バリスタ」である。
理念としては政府軍法機関の排除。これに終始する。現在ボスベニア政府を動かしているのは実質軍法機関である。長く戦争を続けたせいで膨れ上がった軍事権力が、国政にまで関与するようになってしまっている。
バリスタは、その膨れ上がった「癌」を取り除くことを目的とした組織である。
因みに、名前の由来は自らを「癌」に突き立てる一本の矢と表現してのことらしい。正直センスが良いとは思っていない。
そんなバリスタにジャックスが加入したのは3年前のことである。不況極まる時代でなんとか学校を卒業し、日々を食いつなぐため過酷な労働に二束三文の駄賃で従事していた。しかし、不況を理由にその働き口すら失い、路頭に迷っていた所を組織の人間に拾われた、といった経緯である。
バリスタに集まる人間は、往々にしてそんな人間ばかりなのである。たまに顔を合わせれば口々に政府への愚痴や過去の苦労話が飛び交う。反政府意識持つ兵隊としては、充分な素質なのだろう。
「ジャックス、今日リーダー来るかな。」
「さぁ、多分来ねェだろう。あと声がでけェ。」
後ろを歩くアレクシーが気の抜けた声でスマンスマンと平謝りする。外では無闇に勘繰られるような発言をしないというのは、鉄則だろうに。
リーダー。アレクシーが言うその人物は、有象無象を集めたバリスタを取りまとめる絶対的なリーダーであり、名を「キール」と名乗っている。
リーダーと言うが、ジャックスもその目で見たことは無い。ジャックスどころか、他のメンバー達も見たことが無いと言う。キールという名も、恐らくは偽名であろう。
寄せ集めの人材に顔の見えないリーダー。しかし組織はその脆弱性とは裏腹に成果を挙げている。バリスタは表に名前を出すことは無い。主に政府の情報入手。要人排除などが作戦のメインである。幸いにも国中に反政府組織が乱立しているため、これまでマークされることはなかった。
そういった確かな積み重ねが、リーダーへの信頼、そして組織への信頼に繋がっているのだろう。仲介人に仲介人を重ねて秘密裏に開かれる集会で情報を共有し、計画を周知する。メンバー間ではグループを作り、いつでも互いにコンタクトを取れるようにしておく。これには離反者やスパイ等を監視する役割もあるらしいがーー。
「あぁーねっみ…昨日は遊びすぎたなぁ…」
この能天気男とて例外ではない。表面を見た所で、水面下の思惑など伺うことはできない。そんな相手でも、作戦時は信用しなくては失敗に繋がる。薄氷の様なこの信頼関係は、薄いようで何よりも厚い必要がある。そんな緊張感が、実の所組織が維持できている根幹であるのかもしれない。
「なあ、ジャックス。ちょっと…」
「何だ、女にゃ別に飢えてねーぞ。」
「違う、そうじゃない。ジャックス。」
普段軽口ばかり出てくるアレクシーの声色が変わる。その違和感に気づくと同時に、自分の不甲斐なさも自覚した。こんなつまらないことで集中力が切れていたのか。
(追っ手に気づけなかったとは、あぁ、しくじった!)
「とりあえず喫茶店でも行くか?」
「まあ、たまにはいいかァ。」
今いる路地裏は正直部が悪い。複雑なようだが一本道で、人を撒くには適していない。できればこのまま自分達を見失ってくれるのがベストなのだが、そうもいかない様子。
かと言って迎撃も褒められた手段ではない。油断していたとは言え、簡単に気取られているようでは相手は大した使い手ではないようだが、そんな人間を寄越しているということは恐らく使い捨て。ここで迎え打つということは、この先に何かあるということを伝えることと同義だ。
「アレクシー、お前昨日何人と遊んでたんだ?」
「1人だよ。俺は存外、一途な男なんだぜ。」
ジャックスは、アレクシーの索敵能力だけは買っている。組んでからそこまで時間は経っていないが、この男は周りの気配を察知することに関しては卓越したものを持っていた。
一度理由を聞いてみたが、なんとなく、とのことだった。なんとも参考にならない話である。
(1人か、探知機でも付けられてるんだろうが、厄介だな。)
ここで始末しても、反応が止まった段階で怪しまれる。結局は相手側に答え合わせをさせてしまう八方塞がり。全く面倒な状況になった。そもそも、いつ面が割れたのか。これまで表立って動いたことなんて無かったはず。
これまで政府も認知していなかったバリスタだが、ここ最近、何かが嗅ぎ回っているという情報が入った。政府を直接狙っているのだから、いずれは勘づかれると想定していたのだろう。今回のような集会は滅多に開かれることは無くなった。その代わりに、各メンバーには何らかの形で情報共有が行われるようになっていた。しかしーー。
(こうもピンポイントで、俺らを見つけるってことはーー。)
離反者。またはスパイか。
どこかのグループの誰かが情報を流したか、それともこちらのーー、そもそも、このアレクシーという男がーー。
そう、ふと思いアレクシーに目をやる。
そこには、派手に脳漿を吹き出して倒れんとするアレクシーの姿があった。
瞬間の銃声。
ほぼ反射的に身を遮蔽物に隠す。幸いにもここは路地裏。身を隠す場所など幾らでもある。しかしーー。
(どこから!なんで、目的は!?クソっ!)
次の手が浮かばない。アレクシーを殺したのは追っ手ではない。追っ手が動いた気配は無かった。どこからか、狙撃手がいたのだ。追っ手と狙撃手は仲間か?だとしたらもう詰められる。追っ手は何とかなるか?何とかしてどうする。狙撃手の精密性は?着弾後の銃声からかなり射程があったはず。動けば避けられる?わからない。
処理しきれない情報が頭を巡る。その刹那すら惜しい状況で、ジャックスは止まる。
(あぁクソッタレ!動け!!考えろ!)
でなければ死ぬ。そこで哀れにも横たわっているアレクシーのように。結局あの男が離反者やスパイであったかは誰にもわからなくなったが、今更そんなことはどうでも良い。
追っ手がいた。そして、直接命を狙う狙撃手もいた。こうなればもうジャックスが組織の人間であることはあちらにとって確定しているはず。その上で泳がすのではなく、始末しに来た。あちらにとってのメリットがわからないがーー。
「逆に、好機か!」
ジャックスは駆ける。どの位置から狙われているかまではわからないため、かなりの博打であったが、留まっていても詰みの状況だった。
同時に、追っ手が動く。馬鹿正直に着いてくる所見ると、本当にそこまでの使い手ではないことがわかる。
路地を曲がり、曲がり、曲がりーー。ジャックスはパイプを軸にゴミ箱に駆け上がり、宙に跳んだ。
曲がってきた追っ手は一瞬ジャックス見失った。喉を掻っ切るには、充分な一瞬だった。
「悪いな、余裕無ェもんで。」
泡のように溢れる血を手で抑え、乱れた呼吸を繰り返す男。当然ながら見覚えはない。探知機の類いや持ち物を確認したい所ではあるがーー。
「どこにいやがる、くそっ、あぁ厄介だ!」
問題の狙撃手の居所がまだ掴めない。動き出した時狙撃はされなかったが、とても撒いたとは思えない。狙撃ポイントを変えているのだろうか、未だに銃声は聞こえない。
(どちらにせよ、ここで始末しなきゃ詰みだ。方向さえ特定できりゃあ…)
今いる場所がいつ射線に入るかわからない。そうなる前に場所を特定しなくては。そのためにはーー。
「一か八かだ!神がいるってんならどうか当たるなよ!!!」
勢い良く飛び出す。作戦も何もない。相手に撃たせて、方向を特定する。ただそれだけである。全くお粗末甚だしい。
路地裏を宛もなく走り回る。遮蔽物が多ければ一度身を隠し、息を整えてまた走る。視線を絶え間なく動かし続け、ルートを探す。忘れてはならないのがいずれ飛んでくる銃弾の射線。それすら観測出来れば万々歳。狙撃手の姿が見えれば大金星。そんな無茶を自分に要求することになろうとは。
(クソみてぇな労働してた頃の方がマシと思えるとはな!あァ忌々しい!ボスベニアに不幸あれ!)
心中で慟哭するもまた虚し。国政さえ良ければこんな状況に身を落とすこともなかっただろうに。半ば八つ当たりをしながら走るが、不自然なことに未だに銃弾が飛んでこない。余程慎重派のスナイパーと見える。ただ逃げる場合においては嬉しいかもしれないが、現状においては不都合だ。こちらとしては、一刻も早く狙撃手を見つけたい所。
(路地裏じゃ仕留められねえってか。ならこっちから出向くしかないか…?いや、リスクがデカすぎる。わざわざ向こうの狩場に入るようなモンだ。)
建物の屋上に出れば狙撃手を見つけ出すのは容易だろう。この辺りの建物はどこも高層という訳ではなく、尚且つ互いにひしめき合うように連なっている。屋上伝いに駆け抜けることは可能だ。しかし、圧倒的に見晴らしが良い場所に自分から出ていくのは、自殺行為以外の何物でもない。
(今もどうせ俺の場所は分かってんだろう。撃たねえだけだ。向こうもそのリスクは理解してる。だがこのままじゃ埒が明かねェ…)
いい加減、こちらの体力も限界が近い。草食動物のように長時間走り続けられるほど、ジャックスは人間を辞めていない。
銃声――。
ジャックスは全身全霊を以て回避行動を行った。走る方向とは全く違う方向への跳躍。その刹那、頭部を守るために上げた腕に何かが掠る感覚がした。
体正面より約2時の方向。丁度、高台が見える。
直後、鋭い激痛と共に血が吹き出すが、厭わず駆ける。恐らく肉まで抉られているのだろうが、構わない。せっかく掴んだ好機を、逃す手はない。
(間抜けが!痺れを切らしやがった!)
路地裏を風のように駆け抜ける。当たりをつけた高台はそう遠くない。闇雲に走っている間にかなり接近していたらしい。それが相手の焦りを生んだのかどうかまではわからない。ただその判断が、ジャックスに千載一遇のチャンスを与えた。
路地裏にはいくらでも屋上に登るとっかかりがある。身軽さに関しては誰よりも優れているとジャックスは自負している。それ違わず建物裏のパイプやハシゴ、くぼみなどをあてにスルスルと屋上へ向かう。
登りきった所で迎え撃たれる可能性もあるため、一度呼吸を整える。直上にはどうやら陣取ってはいないらしい。そもそも、標的に当たらなかった時点でポイント移動を始めていたかもしれない。
念の為、目的の建物の隣の屋上に登る。
「ジャーックス。中々やるなあ。」
気の抜けた声が聞こえた。ただそれは、もう聞こえるはずのない声だった。
体が硬直する。そんなはずはない。先程脳漿ぶちまけてぶっ倒れていたじゃないか。
「……アレクシー?」
「接敵したらすぐ殺しに動けよ、軟弱者。」
直後、空気が膨張する感覚と共に、肌にベタりと張り付くような感触がした。
そしてその刹那、激しい閃光が、ジャックスの足元を包む。
それが爆弾によるものだとは、到底気づくことなどできない。
爆音―。轟音―。衝撃―。
一気に押し寄せるそれは、ジャックスごと建物を崩壊させた。
崩れていく世界で、ジャックスは目を見開く。
世界が白く見えた。
どこまでも、まっしろにーー。
ーーーー
ーー
ー
『回収完了』
『了解』