プロローグ 歌月玲斗という人間
炎は熱く高く燃え上がっていた。森の木々はそれに照らされ、昼を錯覚させるような空間を作り出していた。
そんな中、誰かが俺の手を握った。その手は力強く俺の手を握ってはいるが、ひどく冷たい。その手の主、血塗れで力なく仰向けに寝ている老人は俺にこういった。
「お前なら…誰かを護ってやれる…
そんな人間に…きっと…なれ…る」
そう言い残した後、その老人はゆっくり目を閉じた。自分の中の何かがパチパチと音を立てて燃えている。俺は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。そして決意した。「じいちゃん…。俺は…俺は必ず!あんたの思い描いたような人になってみせる!」と…。
「来るな!近づいたらこいつをぶち殺すぞ!!」
静かな大都会の夜にけたたましい怒号が飛ぶ。鬼のような角を生やした大柄の男は札束がチラチラと垣間見えるバッグを左肩に掛けながらその身体に似合わない小さなナイフで少女を人質に取り、警察を脅していた。分かりやすい強盗である。ただ、人間ではないようだが。警官たちは少女の開放を必死に促すが聞く耳を持つはずもない。
ウィルソン警部補は向かいの高層マンションからその様子を伺っていた。「警部補、このままでは奴はあの女児の命を奪いかねません!人数にはこちらに利があります!どうか制圧許可を…」と一人の警官が言い終わる前に今度は違う声色の怒号が飛んだ。「馬鹿もん!下手にあの強盗を刺激してみろ!罪の無い一般市民を殺すことになるのかもしれんのだぞ!警察の顔に泥を塗るような真似をしてくれるなよ!」と、最もなことを言われて警官がいい淀んでいるとき、携帯電話が鳴った。バツが悪そうに渋々ウィルソン警部補は電話に出る。警官は警部補の顔が時間の経過に連れ、少しずついつもの落ち着いた調子に戻ってきたのに気がついていた。そして電話を切った後、満面の笑みを浮かべて「もうすぐ片付きそうだ。飲みに行くぞ。」と言った。「…へ?」警官は上司の職務怠慢を疑っていたようであった。
ーーー「繰り返す!これが最後の警告だ!ナイフを捨てて投降しろ!さもなくば躊躇なく発砲するぞ!」
「うるせぇ!やれるもんならやってみろよ!国家の犬どもがよぉ!」と男は警察を嘲るように大声で笑っていた。その時、屋上の重々しい鉄製のドアが勢い良くバンッと音を立てて開いた。そこにはアサルトライフルや魔法の杖を携えた5人の男女が立っていた。
「警察諸君!ここからは我々SMATが全作戦を引き継ぐ!直ちにこの場から離れろ!」そう言うと警察全員が即座に何かを察したかのように身を引いた。「全員撃て!」リーダーらしき軍人の合図で男に向かって銃撃と魔法攻撃が開始された。男はかろうじてそれらを避けながら「バカにすんなよ!雑魚どもがっ!」と叫んで手のひらに生成された火球を放った。しかしそれも即座に防御魔法で相殺され、男女は休む暇を与えないように続けざまに攻撃した。無理して魔法を使ったからなのか男の息が上がりはじめた、つい先程まで警察を煽っていた男の姿はそこにはなく、少しの余裕もなさそうに次に繰り出される攻撃に警戒している。男の意識がSMATに向き始めてから、部隊の一人の女隊員は観葉植物の影に身を潜めながら人質に近づいていた。そしてその娘を救出するために手を伸ばした。その刹那、女隊員の手に小さなナイフが貫通し、耐え難い激痛が彼女を襲った。「俺への攻撃は陽動だろ?バレバレなんだよ!アホが!」男はまた調子を取り戻したのか彼女の首を掴みながらSMATへそれを見せつけ、「なんだよ!?助けに来てこのザマか?国防の精鋭がこれじゃ世も末だな?なあ!?」とまた先程と同じように馬鹿にし始めた。隊員たちはたじろぎ、苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべた。その時だった、月明かりに輝らされた刀身が男の腹に一閃を食らわせた。男は白目を剥きながら重力に従って倒れ込んだ。「ったく、強盗なんかのペースに乗せられてんじゃねぇよ。」闇に溶け入りそうな黒い髪に、月夜に輝く紅い眼を持つ青年が剣を鞘にしまいながらそうぶっきらぼうに吐き捨てた。夜はまた深く静かな闇へと吸い込まれていった。
次の日、歌月玲斗はとある部屋へと重い足を運んでいた。オフィスは話し声や笑い声であんなに賑わっていたのに廊下を通ってそこから離れるにつれて心なしか空気が鉛のように重くなっているのを彼は感じていた。
実を言うと玲斗が到着した時、笑い声がどっと増した。ただそれは呆れと冷ややかな侮蔑を含んだ『嘲笑い』であった。彼がこの場所に呼ばれたのは今回だけではない。
妙に長い廊下を歩いて、やっととある部屋に辿り着いた。その部屋は他の部屋に比べてドア板の色も黒く、ドアの引く部分もやけに繊細な花の彫刻が施されている。
ヤマツツジであろうか。そして彼はドアを開きながら
その部屋の主に声をかけた。
「入るぞ。」その瞬間、室内の香水の匂いがぶわっと玲斗の鼻にまで押し寄せた。高い香水であることは確かではあるが、限度を超えている匂いであることはあまりお洒落に気を使わない玲斗でも分かる。そして『彼』は玲斗に話しかけた。
「それは入る前に言う言葉なんじゃないかしら?」僅かに怒りを含んだ声でそう発す。そこにはマゼンタカラーの髪に、白いコートを着た人間が背筋を伸ばして椅子に上品に腰掛けている姿があった。リスト·カンパネラ。それが『彼』の名前だ。口調は妙齢な女性ではあるが、リストは『彼』だ。「んで次はなんのことで俺にお説教かまそうってんだ、半分女。」からかうように玲斗は言う。「知らばっくれたって無駄よっ!あんたまたSMATの仕事を邪魔したそうじゃない!」玲斗はムッと眉をひそめた。SMATとは、「SuperMagicAndTechnique」の略称で、国防軍の中でもエリートの特殊部隊である。オフィスで彼を嘲笑う人間がいたのはこんなことを玲斗が何度も何度も繰り返してるからに他ならない。「あ?アイツらがカタツムリみてぇにチンタラしてんのが悪いんだろ?」「そういう問題じゃないのよ!公務員の仕事を邪魔したらダメなのよ!公務執行妨害よ!?あんた警察側の人間なのにそんなことも知らないのかしら!?」リストは続けざまに叱責する。今回で似たようなことを『彼』が言うのは23回目になる。玲斗はまたかと言わんばかりにため息をつき、下を向いた。リストは少し落ち着きを取り戻し、玲斗の目を見た。「おじいさんのこともあって、あなたが人を助けることに執着してるのは私だって知ってるわ。」椅子から立ち上がり、玲斗の右肩に手を置きながら言う。「あなたのやったことを咎めたいわけじゃないのよ。強盗になす術もなく怯えていた女の子が可哀想に思えたんでしょう?」玲斗は首肯する。
「人を助けるのは素晴らしいし素敵なことよ?私だって貴方の真っ直ぐな正義感には脱帽よ。」優しい口調がまた少し怒りを含んだ声に変わる。「でもね、もしあの時、強盗が女の子を殺していたとしたら、貴方が責任を取らなくちゃいけなかったのよ?」「けど実際、あの女隊員はしくじった!あのままじゃ部隊だって壊滅してたはずだ!だから俺は…」リストはその言葉を遮る。「かもしれないわね。でも駄目なものは駄目なのよ。それが法律よ。」玲斗はわなわなと手を震わせる。玲斗は他人のために命を懸けて動くことのできる今の時代では中々見ない種の人間だ。リストはそれを熟知しているが故に法律というルールによって彼の意思が、行動が制限されるのを非常に煩わしく、嘆かわしく思っていた。「やっぱりSMATに入らない?きっと貴方ならすぐに入れそうなものだけど?」玲斗はリストを睨みつけながら言う。「あんな軍の支持が無いと何もできねぇ犬に堕ちろってか?冗談きついぜ。」
そこでリストは満面の笑みを浮かべながらこういった。「そんな貴方に朗報よ。警察の新特殊部隊、ノンリエに入る気はないかしら?」刹那、なんとも言えない時間が流れる。「………は?」しばらくしてから玲斗はそんな素っ頓狂な声を漏らした。
リストは仕切り直すかのように大きく咳払いをした。
「SMATを含む国防組織は基本的に軍及び政府の指示が無いと動くことはできないわ。それは警察だって例外じゃない。だけど…」声の調子を真剣にしてリストは続けた。「そんなことでは救えるはずの命を捨てかねない。そんなこと政府や軍が許しても私が許してやらないわ。」なるほど。いつもはヘラヘラしているリストだが腐っても警察庁長官、今の国の在り方を潔しとしないらしい。玲斗は珍しく黙って聞き入っていた。
「この部隊はね、私が直々に管理する特殊部隊…言わば私が政府の国防組織よ。つまりわた…」「お前の指示で動かせる部隊ってことか?」リストは最後まで言い切らせてくれなかったことにもどかしさを感じたが取り乱しはしなかった。「ま、まぁそういうことよ。どう?その組織は貴方の望むことができるような組織よ?入りたいと思うわよね?ね?」「なんでそんなぐいぐいくるんだよ…」リストの様子が少しよそよそしい。歯切れもあまり良くないように感じる。だがそのルビーを彷彿とさせる輝きを持った眼はしっかりと玲斗を見据えている。「お願いよ!これ以上貴方に問題行動起こされると管理不行き届きで私クビになっちゃうのよ!だから貴方みたいな子たちのために作ったのよ!お願いだから入ってちょうだいよ!ね?」玲斗は少々逡巡した。会話からも分かるように玲斗はリストのことがあまり好きではない。冗長に話されるのが嫌いな玲斗は意味もなく長く会話するリストのことがどうも苦手らしい。そうではあるもののこれはめったにない機会だ。もしこの部隊に入ればあまり好きではない上司の傘下に入ることにはなるが、国からは何も口出しされずに思うように行動できるようになる。そう考えるだけで返答はただ一つに決まった。「分かった。お前の支配下に入るのは癪だが、お前がせっかく俺のことを考えて部隊をつくってくれたんだ。そのご厚意に甘えることにする。」「あら?警察に所属している限りいつでも貴方は私の部下なのよ♡」リストは口に手を当てて笑った。玲斗は目を逸らしながらチッと舌打ちした。こういう揚げ足を取るところも玲斗がリストを嫌う理由の一つだろう。するとリストは自分の席に戻って椅子に深く座りこみ、机上の端末でメールを確認した。「部隊は総員64名、一班4人の十六班で構成されるわ。そして貴方はN班に配属される。それじゃあ明後日の昼、ここに来て頂戴♡」そう言いながら説明会の案内のプリントを手渡した。もしかしなくとも、この男(?)は玲斗がこの部隊入ることを確信していたのだろう。プリントに赤色のペンでところどころ話しかけるように書かれたコメントがそれを物語っている。きっと大げさに見えた先の懇願は芝居だろう。「じゃあこれからよろしく頼むわね、特殊部隊ノンリエ隊員NO64、歌月玲斗ちゃん♡」
「なに格好つけてんだ、気持ちわりぃ。」まぁまぁいい感じだった雰囲気が台無しである。
玲斗は警官としての最後の仕事を終わらせた後、ゆっくりと帰路を辿っていた。その道中、彼は祖父のことを思い出していた。玲斗はいわゆる捨て子であった。物心つく前に両親は彼のもとを去り、彼を育て上げたのが祖父、歌月時政である。時政は元道場の師範であり、武術に長けていた。玲斗の戦闘スタイルのほとんどは彼に影響されていると言っても過言ではない。「なぁじいちゃん、あんたの望んだような人に俺はなれてんのかな。」帰り道、濁った川を見ながらそう言葉をこぼした。
玲斗は才能に恵まれているとはとても言えなかった。何をするにしても必ずはじめの方で躓いてしまう。誰もが当たり前と思うことにとことん理由を探して、自分から出口の無い迷路へと入ってしまう。彼はそれに思い悩みすぎて行動が出来なくなることがしばしばある。故に彼は何事にも挑戦できず、無能だと罵られた。そんな彼に祖父はこういった。
「疑問を持つのは当たり前を疑うことだ。でも、それはおかしいことではないんだよ。人は当たり前を当たり前だと勘違いする。納得ができるまで悩み抜いて、お前なりの答えを出せば良い。周りに合わせてやる必要なんてない。お前の思うように何事もやってみると良い。」これは劣等感に苛まれすぎて自己嫌悪に陥っていた少年玲斗を救った言葉である。それ以来、彼は挑戦しては挫折し、無知の知の自覚を得て、さらに上へ上へと自分に磨きをかけていった。そして挫折する度に助言をくれる祖父のように誰かを助けてあげられるような人になりたいと心の底から願った。もう、その祖父はこの世にはいない、他でもない悪魔族の男に殺された。何度も何度も刺され、炎に照らされて光る鮮血の雨を彼は今でも忘れられないでいる。その時の悲しみは今でも憎悪として彼の中で燃え続けている。
彼が人を助けるのに固執する理由は祖父の遺言だけではない。過去の自分への供養、何もできなかった自分が今や誰かの助けになってやれるようになったのだと過去の自分に言ってやりたいという気持ちも含まれているのだろう。詰まるところ、玲斗は自分のことを肯定する欲、自己肯定感が高いのである。
「ノンリエ…フランス語で『束縛不可能』…ふんっ、革命で自由を掴み取ったフランスとかけて命名してんだろ。くっだらねえ」この男、なかなかに察しが良いようである。嫌いだ何だ言いつつもきっと警察の中でリストを熟知しているのは玲斗だろう。ノンリエはリストの管轄であるためほぼ無許可であらゆる人命救助任務に取り組むことができる。それはまさに玲斗の利害と一致する。玲斗はまた一つ祖父に近づいたと一喜し、帰路を急いだ。日は沈んでいたものの、空は群青色に澄み渡っていた。




