門出
男が一人、霊峰の頂に到達する。
腰には、今は亡き師より預かりし宝刀・日輪丸。
男の、千里を超える旅の目的は一つだった。
「もし、ここらに無敗の剣豪が座すると聞いた。」
「………」
黒雲は龍の如く空に渦巻き、五月雨にしては強過ぎる雨が叩きつける。
一本の曲がり畝った老松が立ち、木懐には、艶のある黒髪の少女が腰掛けていた。
はじめ、男はその少女が何かの罰を受けて居るのかと思ったが、すぐにその帯刀に気が付いた。
「そなたの事か?」
「………」
少女は酷く哀しんだ。
一人で居たい時に来る筈の場所が、いつからか剣豪の座する地になってしまっていたからだ。
数日前に、心の支えを失っていた今の少女にとっては尚更。
「拙者、黄風の国より参った、燐号と申す。」
「…蓮。杉舞 蓮…」
冷えた涙を雨で拭い、蓮はゆっくりと立ち上がる。
鞘を杖の様にするその姿は、はっきりとあどけなさが残っていた。
その姿に、男は少々の不安を覚えた。もしや何かのでまかせかも知れない…と。
“キイイィィィィィ”
次の瞬間、男は今までで耳にした中で一番長く、短く、軽く、重い抜刀を見た。
一瞬、雨が絶たれ刹那の静寂が訪れる。
その時に、男は確信した。
でまかせなどであるものか!今自分の視界には、最強の剣豪が写っている…と。
少女はおぼつかない足取りで剣を構えて、ゆっくりと男を睨む。
男は、早鐘の様に鳴り響く自らの鼓動を聴きながら、師匠との言葉を思い出した。
「いざ、尋常に!」
「………」
蓮の一刀が宙を横切ると、辺りには不自然な薄い霧が立ち込めた。
刀と雨の摩擦熱によって、雨は瞬く間に霧と化したのだ。
蓮は、これで男が怖気ずく事を願っていたが、現実はその逆であった。
もはや戦神の域に達している少女を前に、その闘志の焔は一層強まっていく。
霧が晴れると同時に先手を打ったのは、その男の方だった。
刀を天に振り上げ、男は上段から斬りかかる。
“キイン!”
蓮は刀で受け止めると、そのまま力を込めて男ごと刀を弾き返す。
男が後ろに数歩後退すると同時に、蓮はそのまま前に踏み込んだ。
“キンキンキンキンキン!”
ある種無機質なリズムを刻みながら、蓮の剣技が繰り出される。
否、それは剣技とは程遠い、ただ闇雲に振り回して居るだけだった。
男は違和感を覚えながら、その子供のチャンバラの様な剣技を片手間で受け止める。
そして、蓮の刀が男を捉えられず宙を切った時に、男はすかさずその刀を蓮の首に振り下ろした。
“キン!”
蓮の刀が、先程とは比べ物にならない速さで男の刀を受けた。
男の期待とは裏腹に、蓮は焦燥感に襲われていた。
この瞬間より、蓮の中に眠る軍神【剣術強化】が目覚めたのだ。
蓮は男の刀を弾くと、男の股下を抜けて背後から斬りかかる。
男は二本前進し受け流すが、一刀目が見えたかと思えば蓮は三刀目を繰り出していた。
“キキキキキン!”
上、下、右、上、左…目で追う事すら叶わない蓮の剣技に、男はただ身を守る事しか出来なかった。
そう、苦痛に歪む蓮の顔さえ捉えらなかった。
と、蓮の刀が不自然に前を向くと、男の刀のちょうど中心を思い切り突いた。
“ガキン!”
刹那、男の刀は砕け鉄屑と化す。
戦闘終了と判断した【剣術強化】は再び蓮の中に眠り、男は膝から崩れ落ちた。
蓮の身体は、【剣術強化】の要求に応えるだけで精一杯。小さな手は真っ赤に腫れあがり、骨は悲鳴をあげ、筋肉も多大な損傷を被っていた。
蓮は再び老松の下に腰掛け、熱を持つ身体を雨で冷ましていた。
男はゆっくりと、砕け散った師匠の形見に目を落とす。
相手が相手、殺せ…と懇願するわけにも行かず、途方に暮れていた。
妖の類とさえ思えるその剣術を前に、男はただ敗北するだけであった。
ふと、息を切らした一人の使用人が此処に到着する。
「雨だと言うのに、またこんな場所…」
次の瞬間、使用人はその光景を目にする。
老松の下で寝息を立てる元将軍家の三女と、砕けた刀を前にただ座り込む武人。
使用人も武士の端くれ、物静かな少女の刀の腕は理解していた。
魂の抜けた様になって居る武人は、いつかの噂に聞く大剣豪。
使用人は、しばしその場を後にする事にした。
ーー 蓮 ーー
目がさめると、私は懐かしい匂いがする背中に担がれていた。
「……杭牙……」
「姫さまが風邪を引いてしまわれれば、僕が悲しみますよ。姫様。」
「……ごめんね……ちょっと考えごとしたかったんだ……」
よく見ると、私の手には冷やした布が巻かれてた。
「……それに……もう姫様じゃ無いよ……」
「いいえ、貴女はずっと姫様で、僕が使用人です。少なくとも僕にとっては。さて、帰りましょうか。」
◇
「こんなぼろ家で申し訳ございません。生計が安定すれば、もう少し広い場所に移りましょうか。」
杭牙は此処に帰ると、いっつも同じ事を言う。
「……ううん。杭牙が居れば…どこだって素敵な我が家だよ。」
杭牙が台所に立って、トントントンって包丁の音がする。
岐暗戦争でお城が焼け落ちたんだけど、【剣術強化】で何とか切り抜けた私と、一緒に居た杭牙、偶然お出かけしてた詩殻だけが家族だった。
でも…詩殻も…
「詩殻の事は残念でしたが、彼女の性格を考えれば、貴女には元気で居てほしい筈です。」
「……うん……」
ちゃぶ台に木の器が二つ。
切ったネギが散ったあったかいうどんが入ってた。
「姫様達がアラハバキを討伐している間に、僕も少々護衛などの仕事が入りましてね。今冬はゆっくり出来ますよ。」
「……あのね杭牙、話があるの。」
「はい、いかがなされました?」
一呼吸ついて、私のわがままを杭牙に話す。
「……あのね、そろそろ自立しようと思うんだ…あっちこっち旅して回って、戦いもしなくて良い様に自由に生きてみたいの。」
「姫様、一体何を…」
「もう姫様じゃ無いよ。…杭牙の中の私は姫様かもしれないけれど、私の中の私はただの蓮。ううん、胸を張って誇れる立派な蓮なの。」
「…しかし姫様、まだ齢十も満たないじゃないでしょう…」
「杭牙、故郷に家族を残しているんでしょ?……杭牙も自由になるべきだよ。」
次の瞬間、こんな事で声を張り上げた自分が恥ずかしくなって…
「……本当によろしいのですか?」
「(コクリ…)」
「かしこまりました。姫様のご厚意、ご意志、共に尊重したいと思います。」
◇
二日後、私達二人は長屋を後にした。
杭牙は故郷に帰って、探題のお仕事を継いで娘さんの側に居るらしい。
…これから、少し前の私は考えもしなかった第二の人生が始まる。
かなりローペース投稿になりますが、失踪はしません。